奴と俺っちとわからんっちゃ

 

鈴木志郎康

 
 

俺っち
いきなり、
奴に脚を引っ掛けられたっちゃ。
土手の草むらに
仰向けにすっ転んで、
奴を見ると、
奴は笑っているっちゃ。
その顔が
なんとも言えない、
いい顔だっちゃ。
こいつは、
俺っちの
友だちだっちゃ。
仲間だっちゃ。
ハハハ、
ハハハ。

俺っち
立ち上がって、
尻の枯れ草を手で払って、
奴に近寄って、
笑ってる顔に、
柔らかく、
拳の一撃をお返ししたっちゃ。
ハハハ、
ハハハ。

俺っちがやられたのは、
俺っちに
隙があったからだっちゃ。
その俺っちの隙に
奴は、
俺っちの仮想敵になって、
その敵意を、
サッと感じて、
試したっちゃ。
敵は常に隙を伺ってるっちゃ。
その予防だっちゃ。
ハハハ、
いい奴っちゃ。

友だちか、敵か、
厄介だっちゃ。
共に生きてるって、
涙流して手を取りあった友だちが、
ある時突然、
手の裏返したように、
敵になっちまうってこと、
現実にあるんだっちゃ。
その心底の、
自己防衛は、
わからないっちゃ。
いや、わかってるっちゃ。
ワッハッハッ、
ハハハ。
奴がいつ手を裏返すか、
わからんっちゃ。
ワッハッハッ、
ハハハ。

 

 

 

長尾高弘 詩集「長い夢」を読んで、若い人に会う。

 

さとう三千魚

 

 

長尾高弘さんの詩集「長い夢」を読んでみた。
1995年に出版されているが1983年以前に書かれた長尾さんが18歳から23歳の頃の作品なのだと「あとがき」にある。

わたしにも若い時はあったが、長尾高弘さんにも若い時はあったのだろう。
この詩集の詩は、いま長尾高弘さんが書かれている詩とは違って見えるが通底するところもあるのだろう。

「白いもの」という詩がある。

 

白いもの

私の
ゆらゆら揺れて
崩れて流れそうな風景の虚像は
噛めば噛むほど
白く
ぐにゃぐにゃと粘着してのび
顎骨を抱きこみ締めつけるが
噛むことは決してやめてはならない
それは口からはみ出して
まず両眼をつぶしにかかり
頬にも首にも乳首にもへばりつき
瞬く間に田虫のように全身にひろがって
大きく波うつ
そして白いのっぺらぼうの団子になった
私はじっとしていることは許されず
穴だらけの地面を
頼りなげによろよろ転がり
やがて鈍い音を残して
なくなる

 

世界は「崩れて流れそうな風景の虚像」として見える時があるだろう。
世界は「ぐにゃぐにゃ」に見えることがある。
この「白いもの」とは自己なのだろう。
自己は「大きく波うつ/そして白いのっぺらぼうの団子になった」のだ。

また、ひとつ「満月」という詩を読んでみる。

 

満月

ある日突然
抜け毛が気になり出し
またある日突然
止まった
頭の頂上に
直径5センチの丸い禿ができた
周囲の毛で
一生懸命隠したが
まるで薄野原の月見ね
と女が笑った

 

ここにも長尾高弘さんの自己への眼差しがある。
「まるで薄野原の月見ね」と女に笑わせている。
二十歳前後の若い長尾高弘さんが自己を突き放しつつ自己を肯定している。

最後に「長い夢」という詩を読んでみる。

 

長い夢

瞬きながら
私はそんな重荷に耐えられない
キラキラ光り
あなたの茂みから
あなたの溶岩のように
流れ出ている
あなたのえもいわれぬ匂い
私はその匂いが好きだ
あなたの赤い肌に
うぶ毛がぴったりと
はりついている
あなたの崩れた笑顔が
私の前で動かない
私は殆ど吐き気を感じている
父親の上に胡座をかいて
油を売っているあなた
隠したくなる場所もない
私は危ない道でつんのめった
あなたのたっぷりと余った身体を借りて
私は長い夢を見よう

 

「私」はやがて「あなた」に出会うのだろう。
「あなた」は「溶岩のように/流れ出ている」だろう。

「あなたのえもいわれぬ匂い/私はその匂いが好きだ/あなたの赤い肌に/うぶ毛がぴったりと/はりついている/あなたの崩れた笑顔が/私の前で動かない」

ここで私は他者に出会うのだ。
他者は私を受け止める「たっぷりと余った身体」を持っているのだ。

わたしは長尾高弘さんの詩集「長い夢」を読んで「若い人」に会えたと思えた。
「若い人」に会えて嬉しいと思った。
「若い人」は長尾高弘さんであり、わたしでもあったのだろうと思えた。

「若い人」は自己の先に他者に出会い世界に開かれる萌芽のような存在なのだろう。

 

 

 

大男がガッツイ手にシャベルを持って

 

鈴木志郎康

 

 

俺っち、
どうしていいか、
わからんちゃ。
いい加減な大きさの、
軽いボールだっちゃ。
コロコロ、コロコロ、
坂を転がって行くっちゃ。
コロコロ、コロコロ、コロコロ。
コロコロ、ガッ、
ガッツッ。
鉄のシャベルだっちゃ。
大男だっちゃ。
怒り肩の大男が現れたっちゃ。
大男はガッツイ手でシャベルを掴んで
地面に穴をけっぽじって、
ボールを埋めたっちゃ。
コロコロを、
忘れろっちゃ。

俺っち、
どうしたらいいか、
わからんっちゃ。
コロコロっちゃ。

 

 

 

長い柄のハンマーを空想してゾクゾク

 

鈴木志郎康

 

 

ハンマー、
ハンマー、
ハンマー、
柄の長いハンマー。
それで、
人の頭を、
前からでも後ろからでも、
力いっぱい、
ぶん殴れば、
人の頭蓋骨は破壊されて、
死ぬに決まってるっちゃ。
柄の長いハンマー、
思っただけで、
身がゾクゾク。

人を殺すっちゃってこと。
地球上じゃ、
毎時毎秒、
焦眉の至る所で、
人は殺されてるっちゃ。
昨日ロンドンでテロリストに、
四人の人が車で轢き殺されたっちゃ。
テロっちゃ、
戦争っちゃ、
処刑っちゃ、
殺人っちゃ、
人は殺されてるっちゃ。
愛知の用水路で、
全裸の女性の遺体が見つかったっちゃ。
俺っち、
殺されるのは、
やだね、やだ、やだ。
人を殺しちゃいけねっちゃ。

俺っち、
長い柄のハンマーを
持ったことないっちゃ。
俺っちんちにゃ、
柄の長いハンマーは
無いっちゃ、
無いっちゃ。
人を殺しちゃいけないっちゃ。
ハンマー、
ハンマー。
ゾクゾク。

俺っちのこの部屋は、
すっごく平穏無事。
三度の食事に、
アローゼン顆粒1g呑んで、
五回のうんこ。
詩も書いてるっちゃ。
ゾクゾク。

 

 

 

♪パパパ~横浜の県民ホールでモーツァルトの「魔笛」を視聴して

音楽の慰め 第14回

 

佐々木 眞

 

 

西暦2017年の3月19日、私は横浜の県民ホールで、モーツァルト最晩年のオペラ「魔笛」を鑑賞しました。

王子パミーノと夜の女王の娘パミーナ、鳥刺しのパパゲーノとその恋人パパゲーナが、魔法の笛と愛の力で数々の試練を乗り越えて結ばれる「夢幻秘教劇」で、その最大の聴きものは夜の女王の2つのアリア、それからパパゲーノとパパゲーナによって歌われる「パパパの二重唱」です。

前者の超絶技法も凄いけれど、後者のまるでこの世のものとも思えない純真無垢な歌声を耳にすると、薄命の天才が夢見た人類の楽園が、いまそこに花開いているような気がして、いい演奏に出会うと思わず涙があふれ出るのです。

その日も私はひそかに「パパパ」を楽しみに、横浜の山下公園のすぐ傍の会場までやって来ました。

私にとって生涯忘れがたい感動的なチェリビダッケと読響の一期一会のコンサートは、この県民ホールで行われたのですが、あれからおよそ半世紀の歳月が流れたのだと思うと感無量でした。

さて当日の演出・装置・照明・衣装は勅使河原三郎という人でしたが、全体的にはこのオペラの本質をわきまえない小賢しい仕事ぶりでがっかり。終演後にブーが出たのは当然といえましょう。

照明・衣装・装置はさすがに小奇麗でしたが、ドラマの狂言回しに伊東利穂子というバレリーナを起用し、主要な歌手を差し置いてほぼ出ずっぱりでオペラのあらすじを説明させたり、音楽に合わせてやたらくねくれと踊らせたりするのは、いったいどういう了見なのでしょう。鑑賞の妨げになること夥しいものがありました。

かつて亡きニコラス・アーノンクールとクラウス・グートのコンビが、2006年のバイロイトの「フィガロの結婚」で舞台にケルビーノの分身ケルビムを登場させた時にも感じたことですが、「魔笛」の主人公は、あくまでもモーツァルトの音楽なのです。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。下手に余計な演出をしないほうが観客の心に届くのです。

装置は天井から吊るされた大中小の金属製のリングが、舞台転換に合わせてさまざまに組み合わされるというスタイルでしたが、以前どこかのワーグナーの「ニーベリングの指輪」で見たような気がする既視感の強いもので、まあ可もなく不可もないというところでしょうか。

さて肝心の音楽ですが、初めて耳にした神奈川フィルのフルートの名演には唸らされました。以前同じこの舞台で演奏したオトマール・スイトナー指揮のベルリン国立オペラの室内楽なアンサンブルには及ばないものの、神奈川フィルは、N響のような官僚的なオーケストラと違って、やる気と適応力、そして管弦楽の高い技術と合奏能力を兼ね備えていたのはうれしい驚きでした。

問題は指揮者です。このオケの首席の川瀬賢太郎という1984年生まれの若手指揮者は、バロック時代の音楽、しかもオペラを、ロマン派の乗りで振っているようで面喰いました。
有名な「魔笛」の序曲を重苦しく響かせるのは構わないが、テンポがいかにも遅すぎるし、遅くしたからといって、クレンペラーのような秘儀的な壮重さが醸し出されていたわけでもない。第1幕全体がそんなペースですから、歌手はきっと歌いにくかったに違いありません。

ところが休憩をはさんだ2幕に入ると、なぜだかテンポが速くなりました。
もとより「疾走する悲しみ」と称される作曲家の音楽ですから、早いところで早くてもいっこうに構わないけれど、フリーメイソンの神聖な儀式の音楽を、まるでドボルザークのスラブ舞曲のすたすた坊主のように通り過ぎてもらっては困るのです。
現代詩と違って、古典音楽にはそれにふさわしい形式と表現方法があるということを、この人は誰からも教わらなかったのでしょう。

いま世界中のオーケストラが資金難に陥り、ギャラの高い中堅以上のベテランを敬遠して若手指揮者を抜擢しているのですが、同じ若手でも、ちゃんとした音楽的素養と伸びしろのある前途有為な人材を登用してもらいたい、と思ったことでした。

歌手については夜の女王を歌った高橋維選手が素晴らしかった。たった2曲でオペラ全体の出来栄えを左右する重要な役どころですが、立派に重責を果たしていました。
パミーナの幸田浩子は、やはり高音部で声を張り上げると斑があり、終始部で音程がふらつく癖がありますが、弁者&神官の小森輝彦という歌手よりは遥かにましでした。
ザラストラの清水那由太、タミーノの金山京介、パパゲーノの宮本益光、モノスタトスの青柳素晴、三人の侍女と童子は、二期会合唱団の面々ともども健闘していたと思います。

最近は主に東欧から二流三流の歌劇団がやって来て、かなり高額な料金で円をかっさらって行くけれど、あんなのに比べたらこちらのほうが遥かにレベルは高いと私はなんでも鑑定団いたした次第です。

とまあかなり辛口の感想になってしまいましたが、この「魔笛」の演奏はオペラの複雑な性格もあってなかなか難しい。私もこれまで国内外の公演を実演、録画録音を含めて数多く見たり聞いたりしてきましたが、これこそ最高というものにはまだお目にかかっていません。

強いて挙げればヴォルフガング・サバリッシュ指揮N響が1991年10月29日に上野の文化会館で公演した「魔笛」でしょうか。主要な歌手はクルト・モルなどの外国人、演出は江守徹、衣装はコシノ・ジュンコ、照明は吉井澄男などの日独共同制作でしたが。

私はサバリッシュもN響もあまり好きでもないし、高く評価もしていないのですが、この一期一会の名演、とりわけパパゲーノとパパゲーナの「パパパの二重唱」にはいたくいたく感動したことでした。

 

*「パパパの二重唱」
https://www.youtube.com/watch?v=FZkLDInGzEQ

*夜の女王のアリア「復讐の炎は」
https://www.youtube.com/watch?v=dpVV9jShEzU

 

 

 

夜中のつぶやき詩を書いてやるっちゃ

 

鈴木志郎康

 

 

俺っち、
息をしてるっちゃっ、って。
夜中に目が覚めちまってね。
変な夢っちゃ。
俺っち、
ごろんと小肥りの
体躯だっちゃ。
ほっ、
生きてるっちゃ。

部屋の薄明かりに、
あと何年生きるのかねえ。
今日また右太ももを痛めちゃってさ。
二本杖でも歩けないっちゃ。
八十一年と十ヶ月生きたなあ、
同じ思いっちゃ。
テーブルの上には
一つ灯りが点いてるっちゃ。
まだまだ、
小肥りで、
詩を書くっちゃ、ってね、
思って、また眠ったね。

夜が明けてみれば、
夜中の、
部屋の薄明かり、
なんて当てにならない。
小肥りっちゃ。
ウッヒョッヒョ、ヒィー、アハハ。
また、これ。
いや、それ。
これ、これ、それ、それ。