午後

 

萩原健次郎

 
 

 

ぼくはいつもぶらさがっているなにか、姿形が判然としないもの
を遠くから見つめている。眼の端に揺れている黒い塊。生き物な
のかそうでないのか。いや、実在していないものをそこにあるか
のように錯視して、気にしているのかもしれない。生きているも
のであれば、少しは身を動かすのだが、それは、ただ風を受けて
ぶらぶらしているだけなのだ。

近づいていく。惹かれているのでもない。黒い塊とぼくの引力と
か重力だとかの関心の間で、強いられて塊の真下まで歩いていく。

――なああんだ、
と思った瞬間に、ぼくは彼岸の人になっている。

ぼくの生などという代物は、だれかの対象なのであって、ぼくが
なにかを対象にしようなどと思うことはないのだ。

川岸を歩いて、すこし先になびいている桜の古木の下まで行き、
そこを通過していく。

無音。
――ぴーぴーぴー
鳴っている。

音があるのに、それもまた覚ることもなくぼくを通過していく。
鳥もまた、彼岸の生の懸命なのだろうから、ぼくの対象にはなら
ない。

すべての行いを不信に思ったとしても、もう埒外の懸命だろうが
と言いかけて誰にも語らない。

午後と決めた人はだれなのか。

真昼を過ぎたら、枯れていく。ぼくは対象として捨てられる。

――みんないっしょに

季節はずれの、狂院の盆踊り。
いつのまにか、終わっている。

 

空白空白空白空白*西東三鬼に
空白空白空白空白空白空白空狂院をめぐりて暗き盆踊  の句がある。

 

 

 

眠たい縄文

 

萩原健次郎

 
 

 

空白空白空白空白0ぽんぽこ。

どこかへ抜けていけるのかもしれない。
禅院の水鏡は、あらゆる雑な事物や景物を吸いこんでいる。

空白空白空白空白0君が代に。

バキュームの青空、蟻の手の、先の触指の受信装置など。
ワガワガと、翻る破声など。

濃緑は、零度の位置で誘っている天空のまっくろくろけの欲動を
つまんでは食べ、食べては吐いて、池水の嵩を増している。

猿たち、その毛は光に撫でられて
ゴールデンに輝いてらあ。

――あなたより知能が低い、あたしらわあ、

空白空白空白空白0巌(いわお)となって

――くどくよりも、それならば九毒でまいろう

と三味にあわせて、池水の舞台を歩いて行った。

抜けていった此の世は、ちょっとしたジンカンの地獄で
善意と悪意の貸借が、とんとんになって
参る人たちは、もうへとへとに鬱になって

――飛び込んでやる
――やく漬けになる
と可愛く叫んでやる。

空白空白空白空白0千代に八千代に

そのような国があったなどと、誰が信ずるものか。
日が出るとか。
狐が憑くとか。

遷宮するとか。

――喜劇のように死んでやる

空白空白空白空白0苔の生(む)すまで。

役者になる前に僧侶となり神主になり、宮大工になり、
ヒノキの板に乗り

飛び込む。

その前に、一度猿になりたい。
赤い尻。

白蛇に。
赤い舌。

空白空白空白空白0細(さざれ)石の。

逆しまに、池が空から降ってくる。

――ゴジラの国へ。

 

 

 

教諭

 

萩原健次郎

 
 

 

桜の不均衡は、
一木であることの寂しさを超えて、
強く見える。

雄か雌か、
木の性が傾いている。

景物の中では、あやうく
斜に浮いている。

強情で頑なで
まだ冷ややかな浅い春に
咳き込んでいる。

あるいは、吐息ならば激しく、
欲動している。

薄い空気に流れてくる
目刺を焼く煙。

目を刺すんだよ。
くりくりと刳り抜いた鰯の眼球に
藁ひもを通して火で焙る。

火のあたりに坐っているのは
女の私か
男の私か

生活を殺してはだめだよ。

とカラスが教える。

花を見て、うっとりしていると
おまえは、もう目刺の目だと
カアカア言う。

いい匂いの煙もあると
茶色くなった煙は、宙に溶ける。

ふりかえる身体という
枝が老いていく。

白米に、桜を植え
目刺をまぶして

なんとかどんぶりが
鉢ごと、川を流れていく。

 

 

 

ヴァイオリンとヴィオラのための。

 

萩原健次郎

 
 

 

幼齢の私の変態を待つ蛹の手前の蠕動のあるいは卵形の透明な滴のもっと前の成り立ちの生成の行為の場所の雌雄の触れる隠れ家の句紡ぐ片割れの帰路に流れる右岸と左岸の結ばれた橋上に見知らぬ親族が多く集まり逃亡してきた者らは命拾いしたとか誰某はもういつの間にか消えてしまったとか言いながらぬるい酒を飲み酩酊し潰れ揺すられて目を覚ましまた酒を飲み潰れいっぴきの芋虫は知っている筋脈伝書に書かれていること匂いの色いんきに筆を浸して這ってそこに血色に対比する水色の文字を書いた芋虫の変態の節の時間にふたつの性が交わったのだろうと夢の想像はもうサイレンの音が高鳴って消えていくまでに透かされて空になる芋虫の父母の微細な鱗に塵は挟まってもうそれよりも細いブラシでしかはらうことはできない葉は時とともに色を変え一年のすべての色を混ぜると暗黒の先の穴の先の闇の中の暗い絵の中の黒焦げの墨となり提唱する宗教のまるで穴の中の芋虫と同じ私と父母と同じ腐敗していく舞踏の席で国の家ではないかと怒鳴る異星の女がいて恋しく肩を抱いて昔の歌謡曲を唄ったりまた潰れ交わりまた透かされて五トンはある鉄の車に轢かれて弦二丁の弦楽合奏はまだ閉じないで檻の中では五色の芋虫だらけになりそれを一瞬で潰す親族がやってきて粉末味噌汁のフリーズドライの神話がぬるい湯で溶かされて模様となりああもうどんな清い細胞があっても元の姿に戻れないヴァイオリンとヴィオラの合奏なら焼け落ちてもいい

 

 

 

甘栗の窪み

 

萩原健次郎

 

 

空0泡吹くか。驚いた。眼前の幼い老女が泡吹いた。幼
いと書いたのは、正しい。まるで子どもだ。ニッキ水
が欲しいと泣き喚き、手足を両生類のようにばたつか
せた。それは赦せる。ひととき瞬時、逝っていたのだ
ろう。身の部分、半身が彼岸へと入神し、昇天し、半
身だけが、目に見えてぷよぷよし、あとの半身は、硬
直していた。
空0体内から滲み出た液体は、泡小僧となって、微小な
天使となり、飛び交っている。蝿だ。よろしい、蝿
だ。数ミリの体長だが、緑金のハレーションは、綺麗
やなあと、そのときかたわらの爺が呟いた。爺も昇天
していた。全身、昇っていた。

空0数世紀前のことが、水で書かれている。透明な文字
は見えない。柔らかな和紙の、筆が辿った後が皺にな
っている。皺の谷筋を追えば、文字は判読できる。

空0わたしは さびてしまった ありの いしゅだ
空0せいかくには、あしの なえた あしゅだ

空0はりつけだ ころがりおちたものは
空0くりだ

空0た(せ)かい とおい そらに きのみをなげろ

空0甘栗に群がる、蟻の亜種。彼(あ)の世のことだとして
も、蠱惑。亜種とはどんな形をしているのだろうか。
灰色の体躯。金属の尖端を鋭く磨き上げた、脚。
空0嫌だ嫌だと言う、蟻の亜種を岩の窪みにできた、雨

水溜りに捕獲しようとする。らららと言いながら。そ
こで泳いでいなさいと。匕首のような脚は、遊泳に適
さないだろうなどと思いながら、放つ。栗、空から還
ってきた。甘栗、溶ける。蝿の緑金溶ける。雨は、清
浄ではない。有害物質も混ざっている。寂々、降る。溜
まる。
空0文書の体裁を思い出す。

空0恋ふひとの死んだ半身甘辛く

空空空空空空空空空空神の艶書の水茎の皺

空0と付ける。

空0わたしも、幼稚園に通っていた。そのころの恋心を
眼中で反芻していた。
空0遠泳していた。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空連作「音の羽」のうち

 

 

 

空の一行

 

萩原健次郎

 
 

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あかがね、錆びている。湿った扇状地に、伏したあなた
のベルトの金具なのかなあと手ですくったらぼろぼろと
砕けて、粒状になって池塘に溶けた。砂糖のようでもあ
り、発酵させた飲料のようでもあり、白濁して、元の金
属の面影もない。元の身の、あなたの欠片のどの部分も
判別できない。怒った貌、嘆いた口元、諦めた胴、手の
ひらで招く仕草、唄う胸。書記の手。手から面に傷つけ
られた痕跡、文字、単語、何かを訴えている信号。愛玩
していた道具、いつもそばにいた動物。

書棚に並べられた誰かの全集の、途切れている巻が少し
ずつはっきりしてきて、その途切れにこの扇状地を歩き、
ぶつぶつと呟きながら、詩行を硬直させてただ凍らせた
だけだった。朝は零下の、その凍えた空気のまま、氷室
となった山の芯の底深く、蟻の巣状の道をひたすら遭難
しているだけだった。書簡集、小品一、小品二、俳句、
日記。それらは、紙であったことはなく、ただ、服を腰
にとどめるための器具として、ぼろぼろに粒となるあか
がねだった。

肌の思い出という巻があったはずだと、もう他界してか
らあなたはどこかの隠れ場所で回想している。金属の刃
で指先の面を裂いたこととか、知っている人の知ってい
る肌が、他人の指で撫でられたときに幽かに漏れてくる
音だとか。そういう記述であったようだと、像をさがそ
うとするが、像はどの点でも線でも結ばれず、ただの音
楽となって宙に消えていく。他界をしたら蒸発してしま
うのかなあなどと、それは暢気に考えていた。臨終の瞬
間に、あらゆる点も線も消えていく。肌の音も。

生きてもいない人の遭難している様子を眺めている人な
んていないだろうと思っていたら、どうやらいるようだ。
朝の鳥に化けている。群れとなって朝、山の池の巣に帰
る、その中の一羽の、その鳥の眼の中の、水晶玉。正し
くは、映っているだけなのだが、自動的に記録されてい
る。わたしの、かつてあったベルトのあかがねの、水に
溶ける寸前の、感嘆は、見えないだろう。だから無防備
な、鳥の眼の水晶体を攻撃する。朝陽のハレーション、
ぷしゅん。かすかなぷしゅんが、鳥の群れに網をかける。

この一帯の、湿潤した、あきらめの扇状は、かつて肌を
合わせた人の胸のひろがりだった。わたしはね。わたし
は今は、ぼろぼろのあかがねの粒だけど、わたしのね、
肉は、まだ湿潤していないよと、抜けた巻に文字を記し
て棚に戻した。音の羽の川は、水と土の境をあいまいに
して、肌の記憶をぴったりに重ねた。ふたりのひとがた
ではなく、ひとつのひとがたとなって、池塘は滅ばない
でいつも鳥の道標を奏でていた。どこまでが、抜けた巻
の詩行であったかは、もうわからない。

 
空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白連作「音の羽」のうち

 

 

 

音の羽

 

萩原健次郎

 
 

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湿ちゃんのこと

湿、潤。湿ちゃんと潤ちゃんの、潤ちゃんはわかるけど、湿ちゃんって、呼びにくい。湿ちゃんって何かの間違いで生まれてきて、谷を降りてきた。湿ちゃんの縊死。それはおかしな譚にからまれているけど、湿ちゃんの湿り気は、よく知っている。思い出す。扇状地だったね。出会ったのは、死ぬ前。板に張り付いていた、湿ちゃん。ずぼずぼと腰までつかって、人か何かわからなかった。衣服着ていたかなあ。Tシャツやったかなあ。破れてるし、泥だらけで、もう生きてないの。案山子。案山子状。標。人柱で、じっとしてたら、拝まれるぞー、って言ったら、拝めと湿ちゃんは言った。小さな声ではないよ。人の声の最も高い周波数の、喉裂ける嬌声で、オーガーメーって。でも笑っているのはどうしてかなあ。笑いよる。湿ちゃん。笑夜。ショウヤと読めと湿ちゃん。信号で伝えてきた。生きていくのが嫌だとは言わなかったよね。生きたことはないと。それから、言葉を失って、笑夜の毎日で。拝まれる日々が続いて、縊死。にたりとして気色悪い。胴の下、泥土かと思ったら、甘い練り物で、羊羹、ところ天、ゼリーで、その上、見えてる部分がつくりものの。ゼリー状、半液体の上に、朝陽の下に、案山子状なんだもの。植わっている湿ちゃん。言いにくい湿ちゃん。そこにいろ。

潤ちゃんのこと

潤ちゃんごめんね。潤ちゃんのこと忘れてた。潤ちゃんはいつもじゅくじゅくで、湿ちゃんのずぼずぼとはまったく違っていた。羊羹やゼリーを食べる人だった。唇だった。唇の形をした、人だった。気色悪い。転落死。べしゃ。湿潤がふたりとも、べしゃ。それがね。扇状地に広がっているのよ。音羽の川がだらしなく喉ちんこあたりまで切開されて、べろりと扇型にひろがってるのよ。内緒だけど。内緒というのは、真夜中しかその姿は見えないから。真夜中歩けと、湿ちゃんも潤ちゃんも言ってたね。舌。舌出してる。この町の恥だよって、それは僧侶か神さんの言いぐさで、こちら側の言葉ではない。こちら側は、いつも甘い練り物なんだから、へたすると風土に成り下がる。風ちゃん、土ちゃんなどと言いかけて神が、まあまあそこは私に免じて、ご勘弁をなどと言い出すし。潤ちゃんは、とにかく口唇関係の専門家だったから、口の中、石膏みたいなものでからからにかためとられた。うるんでいた時などもう想像もできない。潤ちゃんごめんね。湿ちゃんと一緒に頭下げる。こんなところに池がある。ああ、昔の死が溶けて埋められている。
昔の死って変だよ。昔の生などないもの。昔は、死者だらけ。ほっとけば山になってしまうから、みんな見えなくされてしまう。池に吸い込まれていくのよ。ね。

 

 

 

赤山

 

萩原健次郎

 
 

dsc04022

 

青い山を歩いている。
青い山は、翻って、逆さに屹立している。
青い山に、影がさしている。
黒々とした影に、光がさしている。

私の線路に、黒鋼の列車が走っていく。
私の線路の脇に、いい香りのするヨモギがそよいでいる。
私の線路に、誰か、首筋をのせて眠っている。
それが、影の中の光で、四角い隅が歪んでいる。

やわらかく無くなっていく。
やわらかな毛の生えた小さな動物が
やわらかく鳴いていた。
幼いころに、飼っていたごろごろする、誰か。

赤い山を歩いている。
手が焼けている。燃えている。灰になる。
足が、やわらかく萎えていく。ナマコ、軟体。
私は、拝む人になることもある。

拝む人は、私とは別の世で群れとなって
私の周囲を取り囲む。
別の世の、神も仏も信じられず
私は、カエルの真似をする。

カエルの膚の色が、わからない。見えない。
私は、拝む人たちに囲まれても、私の姿が見えない。
山の中で、コケの斜面で生きたことや、死んだことを
私は、私の帳面に記した。

拝む人たちの祭りであったと気づいて
私は、真水を飲んだ。
濁った水を吐いた。
それが澄んでいることを願ったのに。

黒い山を歩いている。
山が千切れていく。
隙間からさしてくるのは
別の光だった。

 

 

 

暗譜の谷

 

萩原健次郎

 
 

kusa

 

わたしに、実を産む力はない。
鳥も草花も、実を産む。

水が涸れる。

すこしは、水位はある。
もう、石粒が敷き詰められた平坦な川底に
見えて
納めているように
ゆがんで (かがんで
見ている。

鳥も草花も、
ぺらぺらと饒舌に、ひそかな声を並べて
均された石粒も、並び

景の棺
親しく

みおさめ、見納め
み、身の収容も、
み、

中空の、中の音 (ね、
ミ、ミ、ミ、
ミ、ミ、ミ、
ミ、
ミー。

わたしはいつかわたしとすれちがう
生滅の、身代わりを
そっくりわたしに譲る。

手渡されるのも
焦げた、み、で。

たがいに
ひとりは、坂の下へ
ひとりは、坂の上へ
駆けて行った。

川、ちょろちょろ
鳥と草、ざわざわ

実の詰まった棺、ころんころん

馬鹿にした、音楽だ。

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白(連作のうち)

 

 

 

ディヌのショパン

 

萩原健次郎

 
 

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ディヌ、眠ってないで、覚めて怒ってもいいのに
きょうの演奏も、やさしく逃げないで
あなたはまた、あなたの土の温もりの中でじっとしていた。

水の丘は、隠されている。
山の下から眺めた時に、そこに
散るように配置された池塘があるなんて
想像もできない。
水の丘の、腹の部分に横たわった物は、
生きた物であり、夜になると鼾のような
大きな吐息をひびかせている。

池塘のひとつひとつは、せせらぎで結ばれて
そこには、ワルツの粒が溶けている。
ワルツの粒は、水で溶解されれば
気体状に、空に散乱する。

あれっ、涎。
ショパンを弾きながら
ディヌがまた、呆けている。

おんなに叱られる。
と、言ったことがあったね。
おんなとは、母、姉、それとも恋人ですか。
ディヌ。
涎は、いいよ。
わるくない。
ワルツの詩(譜)が
蜻蛉に、空中で喰われている。

山の腹の、飛ぶ虫の腹の、ショパンの腹。
みんなの腹が踊っているよ。
涎まみれで
延々と、
おんなに叱られながらね。

ね、ディヌ。

 

 

空白空白空白空白空白空白空白空白注 ディヌは、ディヌ・リパッティ

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白(連作「暗譜の谷」のうち)