落差の原理

 

辻 和人

 
 

遂に実物見ちゃいましたよ
何十年もの夢ですよ
うず、うず
うず潮
鳴門のうず潮
昔むかーしテレビで「鳴門秘帖」ってのをやっててね
話は忘れちゃったけど
オープニングのうず潮の映像がとにかくカッコいい
いつか見てやる、いつか見てやる
うず、うず、うず
心の底に何十年
それが遂に実物ですよ

金曜の夜に会社出てそのまま羽田空港へ
第1ターミナルと第2ダーミナル間違えてミヤミヤに叱られて
1泊してバスで1時間弱
喉乾いて「うず潮サイダー」
微かな塩味が喉元突き
うず、うず、うず
盛り上がっているうち
集まってきた、集まってきた
期待に胸を膨らませた皆さん
うず、うず、うず
強い陽差しに輝く「わんだーなると」の口に吸い込まれていく
さあ、ぼくたちも吸い込まれるぞ

船内の椅子に腰かけたものの1秒で無意味と悟り
子供たちの声が響き渡るデッキへ
家族連れが多いなあ
お、この御一行は中国からのお客さんかな
男の子女の子1人ずつ連れたご夫婦
2歳と3歳?
やっと歩けるって感じ
くたびれた時の備えとして2人用ベビーカーがスタンバってる
「わんだーなると」、泳ぎ出す
岸から離れるにつれ波が荒くなり

うず、うず、うず
わぁお、いきなりクライマックス
きゅるきゅるきゅる
海面から馬の頭みたいのが生え出る
にゅいーっと上体を起こしそうになる寸前
別の角度からの力にぶん殴られて
くぅるくぅるくぅるくぅるーっ
深い穴を開けながら沈んでいく
ほら次、ほら次
きゅるきゅるきゅる
と生え
くぅるくぅるくぅるくぅるーっ
と沈む
「わんだーなると」の周りだけ
騒々しい
でもって、この区画の外は平穏そのものなんだ
うず、うず、うず
すごいなあ、「鳴門秘帖」なんてメじゃないぞ
写真撮るのをやめてひたすら海面を覗き込むばかりのミヤミヤ
隣の中国人御一家も大はしゃぎ
特に子供たちが弾けてる
お父さんお母さんに抱っこされて
足バタバタ
「あーひゃー、あーひゃー」
良かったねえ、面白いもの見られて
うず、うず、うず

「すごかったねえ。聞きしに勝るとはこのことだね」
下船して満足そうなミヤミヤ
いやあ、ホント
何十年もの夢に実物があったなんて
顔にかかった飛沫はしょっぱい
生きて、動いて、回って
塩味までついてる
施設の説明によると
100メートル程の深さで高速度で流れる本流
浅瀬になっている両岸付近での低い速度の流れ
その速度の落差が海水の回転を生むのだそうだ
しゅーっと走り抜けようとする本流が
おっとりした両岸の流れにぶつかって
がたん、がくっ
跳ね返されては
うず、うず、うず
なるほど
世界の3大潮流の1つ
夫婦で地学の勉強もしちゃいましたよ

帰りのバス停に歩くと中国からの御一家にまた遭遇
力持ちのお父さんは荷物係
お母さんはベビーカーをゆっくり押して
微笑みあってる
お互い、珍しい景色見れて良かったですねえ
ボクちゃん、お嬢ちゃん、一緒のバスで帰ろうね
ところが、何と、何と
2人の子供たち、飛び降りて走り回ったかと思うと
ベビーカーをお母さんの手から奪い取った
バス停から少し低い位置にある道路へ
投げ落とす
がたん、がくっ
もういっちょ
がたん、がくっ
「あーひゃー、あーひゃー」
お母さん、慌てて止めに入る
「あーひゃー、あーひゃー」
うず、うず、うず

たまげた
落差だよ
うず潮生んだ落差だよ
海でもバス停でも
おんなじ落差の原理が
おんなじ歓声を発生させてる
実物ってのは違うねえ
何十年の夢よりすごいねえ
うず、うず、うず

 

 

 

朝の挨拶

 

辻 和人

 
 

頭やった?
頭やって!
そうそう、ウチには
「頭やる」って言葉がある

出勤前の慌ただしい時間
とんとんとん
かずとん、急げ
急げ、急げ
ネクタイ締めながら洗面所に入ると
洗濯機の上で待ってるのはミヤミヤが出してくれたドライヤー
鏡に映ったのは
寝ぐせ全開のぼくの姿
「頭やる」ぞ
指を水で濡らして髪の毛を
もしゃもしゃもしゃ
注意点は
「外からだけじゃなく、
髪の内側からも、まんべんなく、ね」
うねっていた髪は水分になだめられてしんなり
こんなもんか
今度はクルクルドライヤーで濡れた髪を整えながら乾かしていく
ゆっくりゆっくり
えーと、確か
「髪っていうのはね、水分と熱で形を作っていくんだから」
それから櫛の部分を左から右へ、そして右から左へ
「同じ方向ばかりでなく逆方向からもやらないと、
髪のクセは取れないよ」
最後にざっと全体に櫛を入れる
こんなもんかな

いつものようにミヤミヤの前に立ちますよ
ぐるっと回って
はい、裁定は?

「かずとん、ほんとにこれでいいと思ってるの?
左後のここ、まだ立ってるよ。
鏡ちゃんと見てない証拠。
あと、いつも言ってるけど、前髪少し散らさないとカッコ悪いから。
はい、まっすぐ立って。
背筋しゃんとする!」

ぼくより7センチ背が低いミヤミヤ
踵を微かに浮かし
腕いっぱい伸ばし
ぼくの髪を直していく
上目遣いにして上から目線
その尖がった先が
ぼくの頭をツンツン
7センチ下から突き上げる
「まあ、これでいいかな。
かずとん、この歳までよく社会人やってこれたね。
少しはカッコいいと思われたくないの?
もおぅー、あんまりひどいと私が恥ずかしいんだから。
ネクタイも曲がってるよ。
それじゃ、いってらっしゃい、気をつけてね」

これ、ずっと、毎朝
これがない日は落ち着かない
「頭やる」って
頭髪を整えることとは違うんだ
「頭やる」は
7センチ下から
上から目線
「いってらっしゃい」とセットの
朝の欠かせない挨拶
ここには
優位性ってものが働いてる
不平等ってものが働いてる
恥ずかしいから何とかしなきゃっていう
大義名分がしっかり支えてる
だから、ぼくも応えなきゃ
7センチ上から
下から目線
上と下から目と目がぶつかりあう
朝の大事な7センチ
「うん、いってきます。なるべく遅くならないように帰るから」

 

 

 

世界で一番美しい光景

 

辻 和人

 
 

2つの丸い目
最初きょとん
次にぐわって感じ

良かった、元気にしてた
帰りの小田急線は空いていて
真っ暗な窓の外は回想に耽るのにもってこい
実家へ様子を見に行ったんだ
大ケガして排尿・排便が困難になったレド
腰はおしめで巻かれてる
肛門の周辺の神経が麻痺してるからウンチを貯められない
作られたウンチはポロポロお尻の穴から零れて床に落ちちゃうから
おしめをすることに決めたんだ
おしめを嫌がったのはたった1日
早くも運命を受け入れた
白い異物が巻きついた新しい体を受け入れた
おしめの布を上手に避けて体を舐め舐め
それがずっと昔からのやり方であるように舐め舐め
取り替える時もじっとしていて
頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細める
細くしなる目尻が、今
電車の窓枠に置いたぼくの左手を
にゅくにゅく這って、消えた、よ

レドと言えば思い出す
2009年11月14日(土)
ちょっと寒い夜
2つの丸い目が光った

祐天寺のアパートでかまっていたノラ猫たちが次々いなくなった
レドもその一匹
猫嫌いの誰かが捕獲機を仕掛けたんだ
ファミは何とか助けて実家の家猫にしたけど
他の猫たちはみんないなくなってしまった
それが2009年の初夏
でね
あきらめきれなくてね
夜な夜な街を彷徨って猫路地を見つけては
いなくなった猫たちを探してた
秋に入る頃は半ば以上諦めてて
探すっていうより
「探す自分」の亡霊みたくなってた
亡霊になるって変な気分
歩いてるのに足の感覚なくって
道路をすーっと漂ってる
亡霊になりきってしまえば
目的喪失して移動だけ
すーっすーっ
そんな気楽さがあって
どうてもうういやって
ちょっと心地よかったな
それがだよ

2009年11月14日(土)
ちょっと寒い夜、駅近くのマンションの駐車場で
目的喪失したいつもの調子で停めてあった車の下を覗き込んだら
2つの丸い目が光った
きょとん
背を丸めて座ってた
きょとん
目が合った
イチ、ニィ、サン、シ、……
ぐわっ
目の光が強い閃光に変化して
ぼくもそいつも凍りついた

レド、レド
レド

閃光の中で
ウググゥー
ウググゥー
走り寄ってきた
強い力で膝にぶつかってきた
さっきまで亡霊だったぼくは
途端、亡霊でなくなった
膝に登ってきたものの頭を撫でて
うーん、人間のぼくの方がだな
衝動的に
うん、なんでかなー
レドの片耳を軽く噛んだんだな
うん、噛んじゃった
耳には三角形のカット
ぼくが受けさせた不妊手術の印だ
汚れた白い毛が舌に残ってぺっと吐き出した
膝に伸びた爪がぐいぐい食い込んで痛かったな
ウググゥー、唸りながら
ぼくの顎に何度も鼻先を強く突きつけてくるから痛かったな
痛いまま
閃光の中で抱き合っていた、な

それからさ
毎晩レドの好きなお刺身かなんかを持って
深夜のマンションの駐車場を訪ねたさ
この地域のエサやりさんの保護を受けていたらしく
レドはエサには困ってなくてむしろ丸々太ってた
エサを巡って他の猫とケンカしたんだろうね
レドの背中には小さな嚙み傷が幾つかあったさ
このままアパートに連れて帰るとまた同じことが起きるから
しばらくここで面倒をみようって思ったさ
だけどそうはいかなかったさ
ある日、帰ろうとするとどこまでもどこまでもついてきたさ
いつもは「帰れ」という怒ったみたいな仕草をするとビクついて駐車場に戻るのに
その日は何度「帰れ」をやってもついてきたさ
帰れ、帰れ
ビクッと立ち止まっても
少しするとトトトッとついてくる
仕方なくアパートに連れてきちゃったさ
そしたら大変さ
部屋に入れろっ部屋入れろって
ガラス戸に体をガンガンぶつけてきたさ
その音のうるさいことうるさいこと
実家にまた助けを求めたさ
「すいません、ファミの他にもう1匹家に置いて欲しい猫がいるんだけど」
そうして連れてきた猫レドが
はい、今は白いおしめ巻いて
人間の横でくつろいでるってさ

もうすぐ登戸だな
南武線に乗り換えだな
府中本町から武蔵野線で西国分寺、中央線に乗り換えて40分
ゴトンゴトン
小田急線はしんとしてて

だから
美しいってどういうことか?
なんてことゴトンゴトン考えてしまう
コンサートに行って名曲を聴いて
春になって桜が咲いて
「ああ、美しいなあ」って感じますよね
大抵の「美しいもの」は
準備がそれなりに整った上でそう感じる
だけど
その最中はどうってことなかったり
或いは無我夢中でわけがわからなかったりしても
後で「ああ、美しい」ってくることがある
いわゆる美化って奴
子供の頃の思い出なんかが代表格
想像力で増幅されるから最強

今、ぼくの頭の中で
ちょっと寒い夜
2つの丸い目が光ってる
最初きょとん
次にぐわって感じ
世界で一番美しい光景
ぼくにとっての
最強の
増幅されてく増幅されてく

 

 

 

令和、とかね

 

辻 和人

 
 

とかねとかね
令和
とかね
令和令和
天変地異とか戦争とかがきっかけで時代が変わるってことは
あるけど
無理矢理みたく変わるってことも
ないわけじゃない
朝からテレビは
令和令和
皇居の周りに押しかけたりとかね
万葉集の本が売れてるとかね
女性天皇の可能性とかね
令和おじさんとかね
令和饅頭とかね
とかねとかね

そんな
とかねの日の午後
行ってきますって電車に乗ったら
りゃりゃ
小雨
とかねとかね
傘忘れて失敗だあ
姉がアメリカ人と結婚して生まれた娘が大きくなって
日本大好きで日本の大学に語学留学とかね
でもって日本で仕事したいとかね
今伊勢原の、彼女から見ておじいちゃんおばあちゃんの家に来ている
よし、叔父として相談に乗ってやろう
とかねとかね

姪っ子の名前はAnju
漢字で杏珠って書く
「こんにちはー」
少々濡れ頭のぼくを笑顔で迎えてくれたAnju
絵本から抜け出たみたいなかわいいお嬢ちゃんだったけど
今はもうぼくと変わらない背丈の美人さん
ぱっと見白人っぽいけど
頬から顎にかけての柔らかなラインがアジア人
Anjuはもちろん日本語ペラペラ
さてさて話聞こうか

そしたら出るわ出るわ
「アメリカはさー、今、貧富の差がほんとにすごいんだよ」
とかね
「普通の人は就職しても家賃払ったら終わりくらいしかお給料貰えないんだよ」
とかね
「一部の大きな会社だけすごく儲かってるんだよ。小さい会社はどこも苦しいよ」
とかね
「医療保険がひどいから歯医者に行けなくて歯がボロボロになっている人がいっぱいいるよ」
とかね
「プエルトリコはハリケーンで被害受けて電気も使えなくなってるのに、
大統領は『すぐ他人に頼りたがる』って市長を非難するんだよ」
とかねとかね

さすがアメリカ、スケールが違う
昔は日本人がひと山当てようとアメリカに渡ったもんだが
まさかの逆パターン
日本もめいっぱい問題抱えてるのに
その日本に移民
とかね

「もう幾つか翻訳の会社とか探して申し込んでみたよ。いいトコあったよ」
スマホで見せてもらった会社の条件は確かにしっかりしてる
いろいろ骨折ってやろうと思ってたんだけど取り越し苦労だった
ママの姿が見えなくなるとグズッてたわがままお嬢ちゃんも
立派な大人になったもんだなあ
忠告もしとくか
「日本で仕事するには時期が良かったね。
今、日本は人手不足で外国人の力を借りようっていう気運が高まってるから。
日本人の上司とかお客さんには、とにかくお辞儀する癖をつけといた方がいい。
日本人ってのはお辞儀さえしてもらえればバカみたいに安心するからさ」
とかね

就職の話がひと段落
ぼくは缶ビール、Anjuは缶チューハイでもう少しお喋り
「日本はさ、平成から令和の世の中になったんだけど、そのことどう思う?」
「うーん、ちょっとわからない」
だろうね
ぼくもわかんないな
テレビの中は確かに令和令和だけど
お土産のケーキ買ったスーパーでも特に「令和セール」なんてやってなかったし
伊勢原駅前は平常運転で静かなもんだし
テレビに比べて現実は盛り上がりに欠けまくる
令和の令は命令の令だからけしからん
とかね
万葉集由来って言っても結局元を辿れば中国じゃん
とかね
まあ、批判がいろいろあるみたいだけど
それ以前に元号ってそんな使うかあ
勤めてる会社では書類の日付は西暦で統一
あってもなくてもどうでもいいから
令和
とかね
令和じゃない他の名称
とかね
どうでもいい
けど
今までずっとあったものがなくなると寂しいから何かしらあった方がいい
大半の人はそんな感じじゃないかな
アメリカ生まれのAnjuには尚更だろう

大学で人類学を専攻していたAnjuにとって
天皇が行う儀式の方が興味津々みたい
「あの三種の神器って奴、剣と勾玉と、あと何だったっけ?」
「鏡だよ。天照大御神のご神体だよ」
「良く知ってるな。そもそも天皇って不思議な存在だよね。
ヨーロッパの王家は教会の権力に対抗する民衆の代表という位置づけみたいだけど、
日本の天皇って神様と切れてないからやっかいなことが起こるよなあ」
「知ってるよ。天照大御神の子孫なんだよ」
得意そうに目を輝かせて喋るAnju
ああ、外から来た人にとって天皇って
ファンタジー
とかね
アニメ
とかね
楽しい妖精さんみたいな存在かも
天照大御神の子孫って
そんなわきゃないじゃん
架空だったり空想だったりすればいいものを
現実の世界で人間の肉体を持ったまま存在しなくちゃいけない
とかね
それはそれは大変
めちゃくちゃ大変
なことなんですよ
とかね

横から父が口を挟む
「天皇に直接責任はないにしても、
天皇の名の下で悲惨な戦争が行われたわけだから、
おじいちゃんの世代は天皇に複雑な想いを抱く人って多い。
おじいちゃん、子供の頃2年間ソウルにいたことがあるけど、
戦勝記念日ってのがあって、
朝鮮人は日の丸の旗を持って街道に並ばされて行進させられるわけ。
で、その中の1人が『こんな旗』って日の丸をくちゃくちゃにしちゃった。
すると憲兵が飛んできて殴ったり蹴ったりする。
すると朝鮮人の中のリーダー格の人が殴られている男をかばって
覆い被さって詫びるんだ。
日本の軍人はバカだねえ、そんなことすれば恨まれるに決まってる。
植民地支配するにしても日本は本当に統治が下手だったねえ」
おおっ、体験に即した貴重な発言
「日本と韓国では揉め事が多いけど、
そういう背景があること忘れちゃいけないかもしれない。
それでも国民同士は意外と仲がいいよね。
日本ではK―POPが大流行だし、
大勢の韓国人が日本に観光旅行に来るし」
と、Anjuが懐かしそうな目つきになって
「私が通ってた外語大にも韓国人の子がいっぱいいたよ。
みんな日本人の子と仲が良くていつも一緒に遊んでたよ」
何だよ、おい
令和令和
令和の精神じゃないか

しかしAnjuは明るいなあ
楽天的だなあ
今まで仕事らしい仕事なんてしたことないくせに
いきなり日本に来て何とかなるだろうって
ケロリとしている
令和とかね
天皇制とかね
アメリカとかね
そういうのスッと跨いで
何とかなってる
ぼくだってここへ来る前に少々雨にやられたけど
何とかなってる
「Anju、その100円の缶チューハイ、そんなにおいしいの?」
「うん、おいしいよ。
アメリカにはこういう甘いお酒がないんだよ。大好きだよ」
とかねとかね
とかね

 

 

 

パタタ

 

辻 和人

 
 

パタタだ
テーブルの上だ
パタタパタタ
逃げる逃げる
「かずとーん、ちょっと来てえ、大変大変」
ミヤミヤの切迫した声
駆けつける
職場の華道部のお稽古で使った花から黒っぽいモノが飛び出したっていうんだ
テーブルから椅子へ、椅子から床へ
飛び移ったパタタは
棚の下の暗がり目指して
パタタパタタ
奴か
殺虫剤を取りに行って無我夢中で
シューッシューッ
霧が晴れると
そこにはパタタじゃない
仰向けになった子供のゴキブリが
足を震わせていた
静かになった

ああ、前にもあったあった
会社から帰ってドアを開けた途端
暗い足元に黒い影
パタタパタタ
咄嗟に家は絶対きれいな状態を保ちたいというミヤミヤの言葉を思い出して
すぐさま殺虫剤をバラ撒いた
灯りを点けると
パタタじゃない
大きな脂ぎったゴキブリが足を震わせていた

「ゴキブリさん、ごめんなさい。でも、家はきれいに使いたいから。
かずとん、ティッシュに包んでゴミ箱に捨てておいて」
ミヤミヤがちょっと気の毒そうに言うので
無言で頷く

パタタが
パタタのままだったら良かったのにな
逃げるって恐怖の感情
足震わせるって苦痛の感覚
ああ、やだやだ
手を下すってやだな
パタタがずっとパタタのままで
殺虫剤も
いつか市販されるかもしれない家庭用ドローンからの散布とか
そんな感じならまだ良かったのにな

もう生きていない生き物を
ティッシュを何枚も重ねて
床から摘み取る
脆い胴体がティッシュの中でぐしゃっとなる
ゴミ箱に投げ捨てて
もう知らない、知らないよ
階段を昇って自室に引き上げる
でも、これで終わりじゃないだろう
パタタパタタ
ほーら、やっぱり
パタタが追っかけてくる

 

 

 

懐かしくて嫌なもの

 

辻 和人

 

微かなグレーの匂いが
ひょうんひょうん
上下しながら
歩いてる
ここ
喫煙が許された喫茶店
禁煙・分煙の風潮ものともせず
堂々
生き残ってる
備え付けの「ゴルゴ13」読みながら
おいしくもまずくもないブレンド啜ってるぼくは
煙草吸わない派の人間
大学生の時、勧められて1本に火をつけて
吸い込んだ途端、頭くらくらっ
もう煙草なんか吸うもんか
ところが
周りに煙草吸う人だんだんいなくなってきて
ぼくに勧めた奴も禁煙して
飲食店も煙草禁止になってきて
そしたらさ
ちょっと寂しい
煙は嫌いだけど
なくなったら寂しい
と思ってたらこの店見つけた
頭の薄いおじさんが入ってきましたよ
まだ肌寒い春先なのにサンダルつっかけて
入り口近くのどかっと座るなりポケットから四角い箱
カチッ、カチッ、ぷぅー
おじさん、目がうつろ
うっとり
そしてだらしなく開いた口元からグレーのあれが
ひょうんひょうん
歩き出す
歩き出したはいいけど
渦巻く元気はみるみる衰える
ひょ……うんと細い紐のようになって
もう紐の形態を取ることも難しいぞ
ひょ……うん……ひょうん
グレーの微かな匂いだけが
ここまでやっと届いてきました
お疲れ様
ひょうんひょうん、は
嫌いだけど
ちょっと懐かしい匂い
お、もう一人
目をキョロキョロさせて隅っこの席にちょこんと座った20歳過ぎくらいの女の子
花柄バッグを開けるや否や
取り出したのは何とおじさんと同じデザインの四角い箱だ
目細めて
うっとりうっとりうっとり
ひょうんひょうんひょうん
派手なピンクの口紅塗った口からグレーのあれが
元気に歩き出した
微妙に上下しながら
ぼくのところまで来るかな?
ひょ……うん
グレーの匂いの襞の襞みたいのがテーブルの端っこに絡みつきました
嫌いだけど
お疲れ様
嫌いだけど
よく頑張った
開いたページの中では
「俺は依頼主の感傷には興味がない。用件を話してくれ」と言い放ち
おもむろにゴルゴが煙草に火をつける
嫌な奴だけど
連載終わったら寂しい
懐かしくて嫌なものに囲まれてると
ちょっと感傷的になりますね
ひょうんひょうん

 

 

 

高いところへ

 

辻 和人

 
 

高い
高い
高いところだ
高いところは気持ちいい
見晴らしがいい
見下ろすことで偉くなった気分になれる
近づく者はそうそういないから安全安心
だから
高いところへ
高いところへ

レドがちょっと元気になってきたとの母の電話
週末、実家のドアを開ける
あれ、いない
ファミはあくびしながら近づいてくるけど
レドがいない
どうしちゃったの、聞こうとしたら
わ、あんなところに
「おかえり。レド、少し足に力がついてきてね。
今週の頭くらいから冷蔵庫の上に登るようになったよ。
びっくりだねえ」

真っ白に真っ黒斑点のレドが
顎を地につける格好で
高い
高い
冷蔵庫の上で寝そべってる
ありえない
つい先日まで
ピョコッ ピョコタッ と
足を引きずりながらやっと歩いていたのに
椅子を脚立代わりにして顔を近づけて挨拶
顎筋を撫でると
目を細めて
ゴロゴロゴロ
高い
高い
空気が震動する

お茶を飲みながら父から様子を聞く
排尿排便障害は相変わらずだけど
足腰は幾らか回復した
まだ足を引きずってるけれど
動きはすばしっこくなったという
やがて
そろりそろりと降りてきたレド
前足で前方を確かめながら
慎重に慎重に着地
ぴちゃぴちゃ水を飲んでいる
「そのうちまた冷蔵庫に登るから見てごらん。上手にジャンプして登るよ」

ピョコッ、ピョコタッ
怪我をしてから昼寝は床かソファーの上
それでも台所を横切る時は
冷蔵庫をちらっちらっ眺めていた
高齢の両親が買い物の回数が少なくて済むようにと買い替えた
大型の冷蔵庫だ
レドにとってそこは天上
天上の空気を吸って
昼寝する
最高だ
下界ではクールに擦れ違ったりするファミとも
天上ではべったりくっつきあって寝る
高い
高い
高いってすばらしい
そのことを忘れられないレドは
足を引きずりながら
高い
高い
を取り戻そうと
機会を伺ってたってこと

ノラ猫時代
高い
はそこらじゅうにあったな
木や塀をさささっと登って
屋根に飛び移って
更に別の家の屋根へ
ひょいひょい
同じ敷地でも活用できる空間の量が人間とはまるで違う
飛び移る時、体は
矢のように
光った
高いところが苦手なぼくは
空中を駆け上る猫たちを
口をあんぐり開けて眺めてた
人間の上昇志向には嫌悪感があるけど
猫の上昇志向はいいなあ
人間の目指す高さは比喩にしか過ぎないけど
猫はほんとの高さを目指すんだ

その時だ
ピョコーッッ
ピョコッタッッッ
台所をうろうろしていたレドが突然
冷蔵庫の横のテレビが置いてある棚に飛び乗った
第一関門突破
ここからが大変
体を半分冷蔵庫側にひねる
後ろ足、ぶるぶる
弱い弓のように震え
それでも
ピョコーッッ
真っ白に真っ黒斑点の体が矢になった
光った
ピョコッタッッッ
わぁ、立った、立っちゃった
誇らしげな黒目がまん丸丸だ
気持ちいい
見晴らしがいい
偉くなった気分
安全安心
そういうものさえ越えて
今悠々と毛づくろい
いいぞ、レド
高い
高い
高いなあ

 

 

 

じっとする力

 

辻 和人

 
 

じっとじっと
じっとしている
頭を伏せた姿のレドだ
大怪我で排尿障害になり病院で尿を取ってもらっていたレド
なんと
母から電話があって
数日前から自宅でカテーテルでの排尿ができるようになったという
今まで何度も失敗していたが
「拡大鏡のメガネをかけてみたら、すごいのよ、するっと入るようになったのよ」
すごい、すごいよ
ぼくもやってみたい
土曜日に実家にすっ飛んで
でもって今からやる
おかあさん、ご指導お願いします
テーブルの上を片付けてレドを座らせる
おとなしくうずくまるレド
目を半分くらい細くしてじっと真正面を見つめている
自分が何をされるか
悟りきった表情だ
排尿は2人がかり
まず念入りに両手を消毒
父が左手で首を押さえ右手でペニスの位置を探す
小さな小さな包皮をゆっくり剥いていくと
ちゅいっ
小さな小さなペニスが飛び出る
うわぁー、うまいなぁ
熟練工みたいだよ
87歳にして覚えた手技
「はい、それじゃ拡大鏡かけて、穴見えるでしょ?」
ほんとだ
きれいなピンク色だ
潤滑ゼリーを塗ったカテーテルを近づける
「怖がらないでそのまま落ち着いてきゅっと入れちゃって」
きゅっ
入った
一発で入ったよ
すごい、すごいよ
動物病院で何度やってもうまくいかなかったのに
レドはびくっと体をひねるような仕草をしたけどすぐに前を向き直る
じっと
じっとしている
「はい、入った。今度はゆっくりカテーテル押し込むの。
尿道はまっすぐじゃないから入らなくなったら一旦止めて、
少し引いてまた押し込んでいけば大丈夫。あせらないあせらない」
って言われてもねえ
2センチくらい押し込むとすぐ止まっちゃう
あせるよ
あせる、あせる
「少し引いてゼリー足して。まあ、だいたい15分くらいはかかるから気長にね」
お母さん
その気長ってのが難しいんだけど
レドが白い足を軽くバタバタ
すかさず父が白地に黒い斑の入った頭撫で撫で
レド
じっとなった
じっと
すごい、すごいよ
すごい力だ
じっとする力
レドはわかってる
何をされてるかわかってる
自分に必要なことだってわかってる
動きたくなるのにその動きを自ら止める
じっとじっと
動きに対する
更に大きい「反・動き」だ
レドが「反・動き」の力を必死で出してくれてるから
のろのろとではあるが作業が進む
じっとじっと
あ、入ったぞ
するするする
3.5センチくらい一気に入った
「はい、線のところまで入ったからもう大丈夫。
今度はゆっくり尿を抜いていくよ。結構力いるからね、ゆっくりね」
カテーテルに注射器を取り付けてゆっくりピストンを引いていく
黄色い液体がカテーテルをつたって流れ始めた
レドはもう微動だにしない
ピストンを引いてから尿が流れるまで少し時間がかかる
それまで引いたままの状態を維持しなければならない
ほんとだ、力がいる
じっとする力だ
レドもぼくも
じっとする力で頑張る
注射器がいっぱいになったら盥の中に流してもう1回
じっとする
じっとじっと、じっとじっと
腕が痺れてきた頃
あ、最後の一滴か
もうピストンを引いても尿は流れない
「はい、お疲れ様。39CC。
ちょっと少ないけど朝は45CC取れたから今日1日としては十分ね。
こういうの、朝晩毎日やってるのよ。
大変だけど少し慣れてきたかな」
ありがとう、ありがとう
お母さんの助言がなかったらお手上げだったところですよ
お父さんのペニスを飛び出させる手際も見事だった
高齢の父母がここまでやれるとは
ほんと、頭が下がります
でも
一番頑張ったのはやっぱりレド
じっとじっと
じっとして
「反・動き」を全開させてくれた
すごい、すごいよ
父から撫で撫でされた後
解放されたレドは自力でひょいとテーブルから降りて
ピョタッ、ピョコタ
ソファーに這い上がると何事もなかったかのように悠々毛づくろい
尿を取ってもらってスッキリしたろう
ファミも冷蔵庫の上から降りてきて
「大丈夫か」とでも言うかのようにレドに近づいて耳の匂いを嗅ぐ
じっとじっと
じっとする力
まじまじ見せてもらったよ
すごい、すごい力だよ

 

 

 

キッチンのオバケ

 

辻 和人

 
 

出た、出た
微かに首を垂れて垂直にすっと
薄暗い中
丸い小さな3つの光源にぼおっと照らされて
出た
早朝
トイレに行こうと階段を降りると
キッチンに佇む影
ミヤミヤに似た背丈
目玉焼きの乗った丸い皿を左手で支え
右手にトースト
傍にミルクの入ったカップ
口をもぐもぐ動かしながら
細い首がゆっくり回る
髪がばさっと揺れた
目玉焼きの目玉に捕まるぞ
「あら、起きちゃったの? あたし、今日いつもより早く出勤するから。
時間ないんで食器の片づけと戸締りよろしくね」
おおっ、ぼくがいない時は立って済ませるんだ
ぼくがいるからテーブルを明るくして食べながら話したり笑ったりするんだ
いつものミヤミヤなんだ
でもっていない時は
3つの光源にぼおっと照らされた
キッチンのオバケになるんだ
垂直にすっと
出た、出た

 

 

 

ケモノの道理

 

辻 和人

 
 

憎悪の顔だ
憎悪の声だ

シャーッ

吹っ飛ぶ
吹っ飛ぶ
熱いぞ

シャーッ

レドが3日間の検査入院から帰ってくるのでお迎えに行く
キャリーからそろーりそろーり這い出たレド
ピョタッ、ピョコタ、歩き出す
冷蔵庫の上で半身を起こしたファミ
するするっと降りてきた
再会の挨拶でもするかと思ったら
シャーッ
おおっ、何て怖い顔だ
憎悪
憎悪
おっきく開いた口から牙剥き出し
逆八の字の目は刺さってくる程鋭い

吹っ飛ぶ
吹っ飛ぶ
熱いぞ

あーあー
たった3日離れてただけなのに

目をシパシパさせたレド
そろーりそろーり後ずさりしながら方向転換
日陰の椅子の上にちょこん
頭を伏せ丸まった
かっと睨みつけたファミ
しかしそれ以上追いかけることはしない
タタタッと冷蔵庫の上に昇る
お昼寝の続きだ
ふぅー
ひとまず平和は戻ったよ

実はさ
レドが初めてこの家に来た時もファミは威嚇したんだよ
こんなもんじゃなかった
ファミは執拗にレドを追いかけ回した
どこまでもどこまでも
それ、壺の後ろ
シャーッ
それ、掛け軸の裏
シャーッ
それ、ピアノの上
ヒゲが針金みたいに伸びきって
真っ白な牙と真っ赤な舌が開ききって
鋭い爪が尖りきって
シャーッ
憎悪の顔
憎悪の顔
怯え切ったレド
さささっ
さささっ
背中をつぼめ、だけど手足をしならせて
次の逃げ場所
またその次の逃げ場所
それでもファミは決して許さない
とうとう玄関の床の狭ぁーい隙間に籠城してしまったよ
対面大失敗
仲良くさせるのをあきらめて
ファミを居間に移し
夜中になってようやく出てきたレドを2階の小部屋に住まわせて
2カ月かけて馴れさせたんだ
ふぅー

元々ファミとレドは兄弟
祐天寺のアパートでかまってた頃は毎日一緒に遊んでた
でもレドがこの家にやって来たのはファミの半年後
この家はすっかりファミのものになってて
毎日隅から隅までパトロール
でもって
レドのことはすっかり忘れ果てて
見知らぬ白い奴が縄張りに侵入してきたって
思ったんだろうね
2カ月の間にレドはファミの耳の後ろを舐め舐めして
ご機嫌を取ることを覚えた
まあ、居させてやってもいいか
但し私の方が上
先に来たんだから
時々、擦れ違いざまに鼻づらを猫パンチされても
レドは悲しそうに縮こまるだけで抵抗しない
かくして
ファミとレドは並んで日向ぼっこするほどにもなった
なのに、たった3日

憎悪の顔だ
憎悪の声だ

シャーッ

吹っ飛ぶ
吹っ飛ぶ
熱いぞ

シャーッ

ああ、ファミ
お前はやっぱりケモノなんだね
チクショウなんだね
怪我した仲間が帰ってきたっていうのに
自分の方が上、自分の方が先に来た、この家は自分のもの
侵入してきた奴は
シャーッ
憎悪の顔だ
憎悪の声だ
服従させなきゃ気が済まない
同情なんてどうでもいい
心配なんてどうでもいい
熱く、熱く
吹っ飛ばしてやる

それでも今日のレドは
怖そうな表情こそするけれど
かつてのように隙間に籠ったりはしない
椅子の上で次第にリラックス
毛づくろいしてノビをして
後足に頭を乗っけてうつらうつら
やっぱり家はいいねえ
病院とは違うねえ
知ってる椅子っていいねえ
飼い主さんがいるっていいねえ
ファミちゃんだって、気が立ってるけど
まあ、いいねえ、いいねえ
ファミも昔みたいに追い回すってことまではしない
自分の方がエラいんだっわかってくれたみたいだし
許してやるか
冷蔵庫の上で、時々細目を開けては
椅子の上のレドを見やって
また目をつむる

たった3日間
されど3日間

2匹の権力関係を確認するのに役立った
ファミは許した
レドは受け入れた
憎悪の顔、憎悪の声は
だんだん遠くなっていく
さあて、もうお昼だしそろそろご飯の準備でもするか
猫缶は2匹平等に盛ってやろう
まだ仲良くってところまでいかないかもしれないけど
とりあえず並んで食欲を満たそうよ
とりあえず互いの匂いを嗅ぎ合おうよ
ケモノって、チクショウって
難しいねえ