夢は第2の人生である 第42回

西暦2016年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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私が海に身を躍らせると、目の前に広がっているのは夥しい数の墓標だった。それは私が潜っても潜っても眼下にいつまでも広がっていて、墓標のピラミッドの周りには名も知らぬ青い魚が泳いでいるのだった。5/2

私は港の沖合の小島の木陰の小舟に乗って、様々な秘密情報や音楽を敵に占領された本土の人々に向かってFMで流していた。5/3

戦後復員兵士たちでぎゅうぎゅう詰めだった大阪支店だが、半数は別の建物に移動したのでだいぶ楽になったが、5階の窓から眺める風景は荒涼たる焼け野原だった。5/4

朝も10時を過ぎたのに、会社があるその駅では、電車に乗り切れない乗客が途中下車したり、線路に降りて長蛇の列を作って歩いているので、私はいまごろ息子たちはどうしているんだろうと心配になった。5/5

大船行きの電車がもしかしたら載せてくれるのでは、という期待に胸を膨らませた人々が一斉に駆け寄ったが、電車は速度を落とさず走り去り、線路の上には切断された両足を呆然と見詰める小太りの婦人だけが取り残された。5/6

知らない人からどんどんケータイが掛かって来るので、よく見たら機種は同じだが別のものだった。しかし、いつどこで私のものとすり変ったのかいくら考えても思い当たらないのだ。5/7

外出から帰って来て、外の様子を孝壽君に報告すると、彼はそれを几帳面に記録していた。彼はその後病気で、どこかの病院に入院しているというのだが、大丈夫なのだろうか。5/7

私はあらかじめ彼に、「過去の死刑に関する判例集を渡して研究しておくように」と命じておいたので、最難関の司法試験を最高の成績で突破したときいて、とてもうれしかった。無脳人間にもそこまでは出来るのである。5/8

関東大震災で倒壊した高層マンションの西棟を、東棟の最上階から見下ろしながら、私は殺到する負傷者の治療に忙殺されていた。あの西棟の10階の部屋にいた、私の愛する妻子はどうなってしまったのかと案じながら。5/9

「私は原子炉の前で素っ裸になって全身を晒した結果、不死身になったんだ!」と宣言すると、六つ子は蒼ざめて胸に手を当て、「イヤミはシェー!」と叫びながら逃げ出した。5/10

余りにも荷物が多すぎて鎌倉駅で降りられなかったので、次の逗子で降りようと懸命に準備していたのだが、そばにいた小僧が邪魔立てするので、バッグを振り回してぶっ飛ばすと、車体の障壁ごと線路の向こうにすっ飛んでいった。5/10

美しきエトワール、オーレリー・デュポンをガルニエ座から拉致した私は、彼女を後ろ手に縛り上げ、ナイフで脅かしながらフェラチオを強いたのだが、そのめくるめく快楽にたちまち気を遣ってしまった。5/11

3万円払ったが、おつりは30円しか返ってこなかった。5/12

いきなり声がした。「ここにABCと3つの世界がある。お前らは普段Bに住んでいるのだが、時にはAやBに行く時もある。しかしその場合、お前たちは姿形がすっかり変っていることにまったく気づいていないのだ。」5/13

お城で失われた珍品の数々を、元の持主に返す催しが開かれ、我われ業者は3日間待機していたが、誰も現われなかったので、それらを全部引き取って古買に付そうと楽しみにしていたが、ふと眼を離した隙に誰かが全部引っさらっていった。5/14

誰かが私のことを社会人と紹介したので、「そうではありません、私は大学5年生です」と訂正した。5/15

わが社の新製品であるコーヒーメーカーの色をなに色にするかを巡って、何週間も大論争が続いていたが、結局これまでと同様の無難な白にすることに決まった。5/16

わが社の全社員が大講堂に集まって社長の訓示を聞いている最中に、どういうわけか見知らぬ人々が通りかかって、興味津津の面持ちで耳を傾けているので、社長も我われも驚いた。5/16

皇室から作曲を依頼されたので、できるだけ馬鹿馬鹿しい漫画的な曲をつくったら、意外なことにおおうけして、「次もぜひお願いしたい」ということになった。5/18

功なり名遂げた私は母校に招かれたので、「何でも疑ってかかれ」とか「モザールを聞けばモー君が美味しいミルクを出すという与太話は迷信だ」とか「世界一丈夫で美しいパンティはまだ誕生していない」というような話で、お茶を濁した。5/20

写真一筋の余は、「自然や人世の化生を写し取る」をモットオに、今日もシャッターを切り続けていた。5/21

親戚大集合の催しに遅刻した私は、焦っていたのか前に座っているフジイ氏に熱い味噌汁をぶっかけてしまい、謝りながら慌ててハンケチで拭いたり、大童だったが、このフジイ氏とは何者なのか、いくら考えても思い出せなかった。5/22

政府がこれまでの規定を全部反故にしたので、我われの会社でも全員が居残って、この国に残留するか否かを熱烈に討論していたのだが、山口君だけは「今日はひどく疲れたので帰ります」というて、闇の中に消えた。5/23

腹立ち紛れに、つい暴言を吐いてしまったことを、いたく後悔したが、後の祭りだった。5/24

私は長年にわたって脳裏に浮かんだ思いつきを、そのつど手元のテープに録音していたのだが、何百何千もあったカセットテープはいつの間にかすべて姿を消してしまった。5/25

正月早々出勤した私だったが、上司から幹部会に出席するよう命じられていたことをすっかり忘れていた。会議は本社ビルの2階の大会議室で行われているので、急いで駆けつけたが、あいにくそのフロアだけエレベーターが止まらないようにしてあったので、大いに焦った。5/26

誰かが「裏口から入れるよ」というので、急いでいったんビルを出て、裏側に回ろうとしたが、生憎の大雪で、行けども行けどもなかなか辿りつかない。額に汗して歩き続けているうちに、かえってビルからどんどん離れていくので、私はますます焦った。5/26

背後から私を追って来る人のように、私の家を追ってくる家があった。私が人から逃げ惑うように、私の家も逃げ惑うのだった。5/27

TYOの木村君と話していた男が、突然高価なオーディオ製品をいじりはじめたので、木村君が「駄目駄目、それを勝手にいじると、スギヤマ・コウタロが怒りますよ」と注意したので、「そうか、あの大人しいスギヤマ・コウタロウも怒ったのか」と思って、私もその男を注意した。5/27

この街で行きかう人々の顔は、みなぽっかりと穴が開いた□の形をしていた。5/28

ウッチャンはファックス機の新品をあげる、「ただだよ」と来る人ごとに言うたが、誰一人下さいとはいわなかった。5/29

大阪支店の遠藤君が、私を見知らぬ飲み屋に連れて行った。そこには同じ支店の営業部の連中が、三々五々呑んだり食ったりしていたが、いつのまにかいなくなったので、真っ暗な道をよろめきながら歩いていたが、肝心の遠藤君も行方知れずになってしまった。5/30

さっき通りかかったガソリンスタンドでは、赤いミニドレスんのおねえちゃんが誘ったので、なにしたんだが、今度のガソリンスタンドでは、白いミニドレスのおねえちゃんが誘ったので、またなにしてしまった。5/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

西暦2014年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日払いマンションに住んでいた私。毎日会社から帰ると、お金を入り口に投入して扉を開き、2DKの部屋に入ると、奥の6畳間に居る女の処へ行って、朝まで抱いたり抱かれたりしているうちに、とうとう尻子玉を抜き取られてしまった。9/1

マンチェスターかリバプールの小さな村に、私たちは3人で住んでいたのだが、MORE OVERという歌が有名になると、「MORE OVERとつぶやくとすぐに有名になれる」という伝説が生まれて、世界中から大勢の人が押し寄せた。9/3

大部屋住まいの新米役者見習いの私は、大先輩の五味龍太郎氏の付き人として、信長に侍従する日吉丸のような謙恭な態度で、諸先輩の芸を盗みとろうとしていたが、いつまで経ってもなんの収穫もないのだった。9/4

テレビで宝くじの当選番号を放送していたので、私はそれを全部メモしてから宝くじ協会の倉庫に忍び込んで、当たりくじだけを拾って引き揚げた。これで当分生活できそうだ。9/5

久しぶりに地上に降りてきたら「テニスのなんとか選手を知ってるか」、「テング熱を知ってる蚊」などとブンブブンブとうるさいので、「んなもん知るか、要らんことを知るくらいなら、なんも知らんほうがよっぽど健康的じゃ」と答えると、そいつはアキレタボーイズになって黙ってしまった、9/5

私たちは、決死の覚悟でその城砦に立て篭もったのだが、指導者たちは、籠城の意思を固めたために、日が経つにつれて食糧が乏しくなった。これでは戦うためではなく、飢え死にするためにここへやってきたようなものだ。9/6

私の城の主はだんだん若返って、いまでは孫の代から曾孫、玄孫の代にまで及ぼうとしていた。9/7

1937年、帝国陸海軍の上海攻撃に井汲氏と参加することになったので、私らは緊張高まる日本海の荒波を乗り越えて、中国本土に到着した。9/9

私がモンブランの設計図を立体化した着ぐるみを身にまとっていると、吉田秀和翁がなぜか非常に興味を持って「とってもいいね」とほめたたえるので、私はいつのまにか大勢の人々に取り囲まれてしまった。9/10

李氏朝鮮時代に渡海した私は、素晴らしい馬を見つけたので、「これはいくら?」と尋ねたら、「5千ウオンだよ」というのだが、その時代にウオンなる通貨単位が存在しているか否かが不明だったので、さんざん迷った挙句に買わずに帰国した。9/11

最愛の耕君が、大阪道頓堀の名物カニ料理の前で行方不明になったので、旅行はそこで中止となり、警察が大捜索を開始した。9/11

イケダノブオが「佐々木さん、これからは耳たぶデザインの時代だと思うんです。それで耳たぶデザイナーの名前を考えてくれませんか」とせがむので、面倒くさくなった私は、「耳たぶデザイナーでいいじゃないか」と答えた。9/11

オバマ氏に招かれて、キッチンがついた6畳間だけの木賃アパートへ行った。煎餅布団が敷きっぱなしの狭い部屋は、ごみやがらくたでいっぱいだったが、孤独な大統領は「私が心からくつろげるのは、世界中でここだけなんですよ」と、涙目でぼそぼそと呟くのだった。9/12

スイスのチューリヒで開催されている国際ネーミング大会から招待されて、私は空港からタクシーで会場に直行したのだが、何千名も収容できる国際会議場には、人っ子ひとり、猫の子一匹いなかった。9/12

暮れなずむ巴里の街角のカフェで、西田佐知子が「♪オークレールドラリューン、メザミピエロ」と歌っていたが、「アカシアの雨に打たれて」とは勝手が違うので、ずいぶん音程が狂っていた。

インディアン、つまりアメリカ先住民の襲撃に備えて最前線で銃列を敷いていた私に、隣の男が「あんたの母校はどこだい?」と聞くので、「長岡先祖学校だよ」と答えると、「それははじめて聞く名前だな」と言うので、私もそう思った。9/13

茂原印刷が謹製した円、ドル、ユーロ、ポンドなどの紙幣の偽札は、みな溜息が出るような傑作ばかりだったが、特に素晴らしい出来栄えだったのは、キューリー夫妻やドビッシーの肖像が印刷されたフランの旧札であった。9/14

インド帰りの吉田君が「上野桜木の家に来て泊れ」というので、久しぶりに東京に出かけた。まだ旅館や下宿のある本郷西片町や母の生まれた谷中の坂道を辿っているうちに、急激に懐かしさがこみあげてきて、もう一度この地で青春を送りたいと思った。9/16

私の右の胸のあばら骨の下にいた武装兵が、私の左胸のあばら骨の下にいた無防備の人々に襲いかかって皆殺しにしたので、彼らが極右のテロリストと分かった。9/17

若い男女2人がシャドー・バスケットをはじめたので、中年男もそれに加わろうといたのだが、その動きについていけず、尻尾を巻いてすごすご逃げ出した。9/18

卒業生たちがお礼参りにやって来て、学校のすべての教室に大量のウンチをまき散らしていったので、私たち在校生は驚いたが、それがもしかすると黄金に変わるのではないかと思ってそのままにしておいた。9/20

こんなに狭い島なのに権力闘争は続けられ、細川宮はナチの応援を求めて接触しようとしていたが、荒川将軍は「そんなことは断じて許さん」と息巻いていた。9/20

宝くじが外れたというので、私は右腹を偽の息子に刺されたが、それでもなお豆腐を作る手をやめなかった。9/21

最近私のSNS友になった戸田という男が、朝から晩まで大量のメールを送りつけてくるので、私は夜も寝れずノイローゼになってしまった。9/22

大阪支店の支店長に、「「JALには商品を卸すけれど、ANAには卸さない」というのはどういう理屈かね」と、問いただしているうちに朝になった。9/22

必死に逃げ回ったけれど、ついに捕えられた私は、太陽神ラアのピラミッドのてっぺんで心臓をえぐり取られることになった。9/23

私のように才能のない醜い男が、ふぁっちょんデザイナーになれるなんて、思ってもいなかったのですが、どういう風の吹き回しか実際にそうなってしまうと、まだ子豚のように醜く肥る前の真木よう子似の美人が近寄って来て、「一夜を共にしたいわ」なぞと囁くのでした。9/25

明日から戦車隊の後部砲員に配属されることになったが、エコノミー症候群の私は、その密閉された狭い空間が恐怖で、今のうちに屋外に出て深呼吸をしておこうと思うのだが、それも出来ないのだった。9/25

その広告会社の本社兼社員用アパルトマンには、てんで仕事をせずにデスクの上で寝そべっている大勢のぐうたら社員がいたが、彼らの大方がクライアントのアホ馬鹿子息だったので、会社は首にするわけにもいかず、飼殺しにしているのだった。9/26

その会社の本社ビルジングの最上階は6畳くらいの狭い1室があって、そこには風采の上がらない無精ひげをはやした中年男がひとりで住んでいたのだが、朝な夕なに有名人やタレントたちが訪ねてきて、なにやら怪しい人世相談に乗ってやっているのだった。9/26

明田五郎の家は地下にあるというので、我われがどんどん階段を降りていくと、烏賊や蛸が切り刻まれている部屋や、血まみれの嬰児の死体が散乱している部屋が、まるで菊人形のようにあらわれたが、地底の奥底の部屋に五郎は座っていた。9/27

深夜まで残業したあとでタクシーで帰宅し、車から降りて我が家に向かっている。真っ暗な坂道を喘ぎながら登っていると、なにやら足元でもぞもぞ蠢くものがある。はじめはゲジゲジかムカデかと思ったが、良く見ると蠍の大群だった。1メートル近い巨大な奴が躍りあがって尻尾を振った。9/28

レリアンの今井社長が、「すぐにテレビCMを制作してもらってくれ」というので、市電に乗って電通の築地本社へ行き、某プランナーに依頼したのだが、「ったく、やんなっちゃうなあ、忙しくて3日も家に帰っていないんですよ」とブウブウ文句をいう。9/29

それをなだめすかして、「ともかく今晩中になんとかしてくれよ」と頼むと、彼は社内の自動販売機に1万円札を入れて「CM企画キット」を取り出し、私に向かって「ではオリエンをお願いします」という。9/29

つまり、このCMのターゲットは誰で、訴求する商品のセールスポイントはなにかを教えてくれ、と迫るのだが、私はまさかこんな展開になるとは思わなかったので、「ミ、ミ、ミッシーカジュアル」とつぶやいたまま、絶句した。9/29

 

西暦2014年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日本百名山に次々に挑戦していた私は、いよいよ富士山を征服しようと、いつものようにヘリに乗り込み、頂上から縄梯子を伝って降り立ったのだが、待てよこれは「登頂」ではなく「降臨」ではないかと思い当たり、すべてをやり直すことにした。10/1

その会社の経営者が幹部に示す月次方針は、いつものように絵と文字が複雑に入り組んでいるために、解読するのに骨が折れるのだが、今月のは文字がなく、パウル・クレーのような絵しか描かれていなかったので、経営会議は紛糾した。10/2

その村の入り口にひとりの老人が座っていたが、私に「ネットのことをわしに聞くな。auに電話して聞け」と告げると、また眠りこんでしまった。10/3

ラムパル峠のてっぺんまでやって来たので、私は「きみがここまでわざわざ送ってくれたから、僕はもう寂しくなんかない。寂しくなったら、きみのことを考えるさ。もう充分だから村に引き返しなさい」というと、彼女は「でも私はどうすればいいの」と呟いた。10/4

久しぶりに授業に出ようと思って大学にやって来たのだが、友人とお喋りしている間に時が経ってしまい、いつどこの教室でどんな講義があるのかも分からないので、焦った私は校舎のはずれの鉄塔の下の夏草に潜りこんで、いつまでもキリギリスの鳴き声を聴いていた。10/5

断崖絶壁に白い中古のフォルクスワーゲンを停めた男は、白い手袋を嵌めてハッチバックを開け、(私はこんなカブトムシを初めて見た)、大量のバイブルをその後部空間に並べて販売を始めると、いつのまにやら大勢の人々がやってきて、競うようにそれを買うのだった。10/6

全国シューズ学会における彼女の発言は、出席者から拍手喝さいで迎えられたが、それは彼女の赤裸々なプライベート・フィルムの上映に対して贈られたものだった。10/7

酔っぱらった吉村氏が、ナイフを振りかざして襲いかかって来たので、私はカスバの木賃宿を飛び出し、そこに止まっていた自転車に飛び乗って、大砂漠の底に通じる坂道を猛スピードで降りながら、もう二度とカスバの女王には会えないだろうと思って、紅い涙を流した。10/8

クグツのごとき風体の正体不明の3人組を見た瞬間、脅威を直感した私は、襲われる前にやれ、とばかりに彼らを馬から引きずりおろし、奪い取ったスコップでめった打ちにして、顔面を靴で蹴り上げたが、のたうち回っている彼らを見ながら、「待てよ、これは私よりも弱い無辜の民ではないか」という後悔が頭に擡げてきた。10/9

ネットを開くと、だいぶ時間が経ってから、鮫と人間の頭と石榴が出てきた。道理で時間がかかったわけだ。10/11

「雌鶏」を「面食い」と取り違え、「大事にしてください」を「お大事にされてください」などと言う教養のない男が、親のコネで理事長に就任したので、私たちは嫌気がさして仕事を怠けるようになった。10/12

しかもその新たな経営者は、「野球の試合でホームランを打った者には、おいらのカミサンを抱かせてやる」とおふれを出したのだが、彼女の写真を見た私たちは、一層やる気を失ったのだった。10/12

台風が来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るからと思っていると、台風が来るから早く寝ようと思っていると……10/14

台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば10/14

真っ暗闇の道を、オートバイのうしろに彼女を乗せて疾走している。左側から張り出している樹木を避けて右にハンドルを切り、また左に戻ろうとしたら、巨大な茶色のヒグマが両手をバンザイして立ちふさがっていたが、私はそのまま突っ走った。10/16

いまでは国家警察によって、我々のすべての私生活が動画に記録されるようになってしまったのだが、私は長年にわたって鋭意研究努力を続けた結果、彼奴らによってそれが再生されないようにする特殊技術を開発することに成功した。10/18

港町の安宿で呻吟していたら、橋本氏が「Tender is the Night だよ」と囁いたので、「ダーバンの港はほのぼの明け染めて今宵限りはデボラも優し」なるアフリカ短歌和歌が生まれたのだった。10/19

商社の巴里駐在員の私は、日本の某有名企業から物見遊山にやってきた3人の女性の接待を命じられた。初日はA子をアテンドして終日市内を観光し、晩飯の後で踊りに行ってホテルまで送っていったら、そのまま朝帰り。翌日はB子、その翌日はC子の繰り返しで、私は死んだ。10/20

夜中に妻が突然頭部への激痛を訴えたので、タクシーを呼んで湘南鎌倉病院へ行くと、救急外来には多くの患者が思い思いにソファーに寝そべっていて、ほんの2,3人しかいない新米医者から名前を呼ばれるのを待っているのだった。10/21

公金を横領して会社を首になり、起訴されて有罪判決を受けた情けない男の話が新聞に出ていたので、ケケケと嘲笑っていたら、なんとそれは私のことだった。10/22

いつものように大方の反対を強引に押し切り、大人向けの製品なのに、「ユベッ子」という商標を押しつけて裁断しようとするマエ・セイゾウを、私は面と向かって「いい加減にしろ、世界はお前を中心に回っているんじゃあないぞ!」と怒鳴りつけた。10/22

久しぶりに省線電車に乗ると左に井出君が座っていて、右側にチイチイパッパと群れている若手女子デザイナーのあれやこれやについて、くわしく伝授してくれた。

会社の中で大勢のスタッフが展示会の準備をしているのを見物しながら、あちこちうろついていると、いつの間にかどこかで見たことがあるような、しかし実際は初めて見る可愛らしい女の子が頬笑みかけ、私の右腕を取って暗がりに導く。

接吻をうながされたので唇を近付けると、彼女は「そうじゃなくて猫又キスよ」と言いながら、いきなり上半身を海老反らせて一物を含もうとするので、私は大いに慌てふためいて、進退に窮したのであったあ。10/23

その商業施設には「オールウエイズ・ハッピー」という標語を掲げた店が出店していたが、その真後ろには「トゥジュー・トラバイエ・ボクウ」と書かれたショップが向こうを張っていた。10/24

おひるごはんを立食べてから、みんなで立ち新井のの道を歩いていると、ドングリの実がたくさん落ちていた。すると妹は、「私はどうしてここにドングリの実が落ちているのかを説明する本を書いた。そしてどうしてドングリが姿を消すのかについて説明する本は私の友人が書いたのです」と云うた。10/25

短歌の五七五七七をデジタルではかる測定機が開発されたというので、大勢の歌人たちが、我も我もと自分の歌を積算しようとしていた。10/27

夜遅く書斎で仕事をしていると、家の外でなにやら物音がする。恐る恐る窓を開けると誰かが逃げ出したので、「こらああ!」と怒鳴ろうと思ったが、声が出ない。そいつを見ようとしたが眼が開かない。10/28

私が小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくっていると、だんんだん小さな石のような物になって、海の中に沈んでしまった。しばらくするとその石のような物が動き出して、私の分身のような者となり、またしても小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくるのだった。10/29

お萩を食べても食べても、新しいお萩が出てくる。10/30

私の治めている城に、和泉式部を名乗る女が「一夜の宿を借りたい」と申し出てきたので、泊めてやった。式部とともに城内を歩いていると、恋人との別れを辛がって泣く関野や、早く子供をおろせと女を責める桐野など、兵士の心中が手に取るように分かった。10/30

鈴木正文課長は、「今日から3日間特別教習を行う。徹底的に扱くからそのつもりでおれよ」と発破をかけたが、私は「またここから坂が下るのか。そいつを固く踏みしめねばならぬ」と思っていた。10/31

 

 

 

夢は第2の人生である 第41回

西暦2016年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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会社の事務の人が今日でお別れだというのにその課の人が誰も誘わないので、一緒に食事をした。始めてちょっと話をしただけだが、優秀な人だと思った。4/1

僕たち3人の山岳兵はファシスト政権軍と戦っていたが、そのうちの1人が負傷したのでひとたびは見捨てて立ち去ろうとしたが、思い直して2人で山奥の隠れ場に退避し、彼の傷が癒えてから再び前線に立ちもどった。4/2

酒池肉林の限りを尽くしたあとで、この世の別天地のような桜花爛漫の国についた私は、紅白の桃の花を咲かせる1本の木の下で夢のようなひとときを過ごした。4/5

私の城に遊びにやってきたパバロッティの前で、私が彼のライヴァルであったドミンゴとカレーラスのLDばかり映し出していると、次第に怒りをあらわにして額に青筋が立ってきた。4/5

社食で昼食をとろうとしたら、ランチメニューが品切れで困っていたら、他のメニューの惣菜をかき集めて急遽新ランチを作るので、あと10分待ってほしいとアナウンスがあった。4/6

カール・ヘルムのジーンズを身に付けた私は、リングの上で黒人にヘッドロックされ息も絶え絶えになっていたが、シンヤ君がいたので、「今度LAに行ったら、ジーンズを2本買ってきてくれないか?」と頼んだ。

シンヤ君が「いいすよ。ブランドはなににしますか?」と聞くので、私は「ちょっと待ってくれよ。いまこいつをやっつけながら考えてみるから」と返事すると、それまで黙って話を聞いていた黒人が「やっぱりカール・ヘルムがいいんじゃにすか」というた。4/6

何ヶ月振りかで登校して、シンジョウ教授の教室に入っていったら、いきなり仏文和訳を命じられたので、目を白黒させて脂汗を流していると「キミは予習をしてこなかったんだな。そおゆう不届きな者は私の授業に出る資格はない。とっとと出てゆけ!」と激怒せられた。

これは私が悪かった。仕方なく退室しようとしたら、怪しい男が可愛い女の子と一緒に教室に入ってきた。
鈍く光るナイフを突き付けられて蒼ざめているのは、なんと私の昔の恋人ヨイコではないか。私はいきなりヨイコの腕を摑んで、教室の外へ飛び出した。

すると男も、あわてて私らの後を追ってくる。
私らはキャンパスの坂道を転がるように駈け下りて全速力で走ったが、男に追い付かれそうになってしまった。
あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から財布を取り出し、ありったけのお金をばら撒くと、男は夢中になって拾い集め、それを自分のバッグに入れた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中からiPhoneを取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾った。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から六つ子おそ松君を取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になっておそ松君を追いかけ、やっと追い付くと自分のバッグに入れた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは持っていたバッグの中から一松君を取り出し、その場に抛り投げると、男は夢中になって彼らを追いかけ、拾い集めた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、ヨイコは着ていたジャケットを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていたセーターを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていた天使のブラを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は着ていたスカートを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男は夢中になってそれを拾い、自分の身につけた。

そのすきに私らは全速力で逃げ出したが、しばらくすると、またしてもその男に追い付かれそうになった。あわやというその瞬間、Y子は身につけていた黒いパンティを脱ぎ捨て、その場に抛り投げると、男が夢中になってそれを拾おうとしたので、私は思わずヨイコの手を離し、それを拾って素早く身につけたのだった。

ロンドンまで逃げた私たちだったが、執拗に追ってきたトランプ大統領の手下どもにとうとう捕まってしまった。古くて狭いパブに監禁されている私たちを助け出そうと大勢の支援者が駆けつけ、一緒に戦おうと言ってくれた。4/8

再び北海道への移住が許可され、私は12人の希望者のひとりとなった。別荘にはスウェーデン人の令嬢を同伴していったが、私は彼女に日夜精を吸いとられたために、ほとんど仕事にならなかった。

敵が放つ刺客の暗殺を恐れていた私は、いつも従者を私の身代わりにしていたのだが、或る日その従者が私の目の前で暗殺されてしまったので、世を儚んだ私は出家して仏門に帰依した。4/8

私はアイスクリーム店を経営して金儲けしようと、我が家の改装を業者に頼んだのだが、見積もりを大幅に値切ったせいか、カウンターがあまりにも高くて、お客さんの手が届かないために、せっかく店開きしても誰も買いに来なかった。4/10

せっかく田舎から上京してこの文藝本部を訪ねてくれたというのに、俳諧部の連中は全員銀行、いや吟行に出かけてしまったので、仕方なく私たち和歌部で対応したのだが、微妙なところで話がバルバロイになってお互いに消化不良に陥った。4/12

急に腹が痛くなって下痢しそうになった。急いでトイレに走ったが2人も先客が待っている。ようやく1人待ちになったが、こいつがなかなか出てこない。もう限界と思った時、ヒグマ君がボックスを揺すってそいつを抛り出してくれたので助かった。4/13

デスクに戻ると、黒板の左上に小さな字で「次期WHD担当は佐々木さんです」と白いチョークで書いてある。WHDっていったいなんだ? 私はなにをすればいいんだ? 誰かに尋ねようと思うのだが誰一人いない。4/14

2つの大都会の中間部の田舎の小さな町で、私は誰からも知られずにひっそりと暮らしていた。おそらくこのまま無名のままで地上から消え去っていくのだろう。4/14

なんとか教の宣教師は、その聖なる教えについて滔々と御託宣を並べ立てたのだが、私はその間じっと項垂れて、2筋に分かれて放水するオシッコをなんとか1本にまとめようと腐心していた。4/15

南太平洋の楽園に到着した私は、その島に上陸することになったが、旅の途中で荷物もバッグも財布も無くしてしまったので、この世の極楽と呼ばれるそのリゾートに着いてもてんで嬉しくなかった。4/17

すると落ち込んでいる私に同情したのか、1人の親切な島民が、南洋特産の極彩色の魚を呉れたが、その魚は「私を殺さないでください」とでもいうように、一度も目を閉じないで、じっと私を見つめているのだった。4/17

試写室を出ると知り合いのハーフの女の子がいたので、しばらく雑談した。十分に魅力的な容貌と肉体の持ち主だったが、無念にも私はあがってしまって、話の継穂が尽きたので「じゃあね、バイビー」と唐突に別れを告げた。4/18

それから私は、女と同棲していた高級アパルトマンの5階の部屋へ帰ろうとしたのだが、突然何年も帰っていない女房のことを、あの懐かしいみそ汁の味と共に思い出し、踵を返して元の古巣への道を辿っていった。4/18

その中国人は料理の達人で、空中からいきなり卵を取り出すと、美味しい卵焼きを即座に作ってみせた。4/19

会社で働いている私に、「電話ですよ」とギャルがいうので、受話器を取って「もしもし佐々木ですが」と喋るや否や、細かい穴から水が猛烈な勢いで流れ出し、オフィスはたちまち大洪水になってしまった。4/20

自称寛永生まれのオオサンショウウオお婆さんのピアノ・コンサートを聴いた。なんでもフジコ・ヘミングウェイというお婆さんの演奏があまりにも酷いので、それなら自分がちゃんと弾こうと思ったのだそうだ。4/20

思いもよらぬところで、偶然昔の恋人と再会した。聞けば離婚した後に再婚し、明日新しい亭主と外国へ旅立つという。私たちは恐らくもう2度と会えないだろうと思いながら軽く抱擁して別れた。4/21

「もしかするとあなたは「ここに1着のセーターがあります」という例のたとえ話を持ち出すんじゃないでしょうね」と彼女が言うので、私はまんまとその挑発に乗って「ここに1着のセーターがあります」で始まる、長い長いたとえ話を語り始めた。4/22

彼は昔は私と同じような貧乏人だったのに、最近どんどん金持ちになっていく。どうして?と尋ねたら「水道の蛇口からどんどん10円玉が出てくるので、それを貯めてお金持ちになったんだ」とその秘密を漏らした。4/23

CMは細く長く打つのがいいか、それとも資金のありったけを投じて一気に流すのがいいか大先輩のイマイさんに聞いたら、「そりゃ断然後者だよ」というので、私は朝から晩まで全局でCMを流し続けた。4/24

進駐軍に差し押さえてられていたオケが、ようやく解放された。指揮者がいないこのオケでコンサート・ミストレスを務める母は、久しぶりにコンサートができる嬉しさを全身で現しながら、上体と頭を激しくゆり動かしつつ音楽に没入していた。4/26

本日をもって競馬のジョッキーの世界から足を洗ったH氏は、心機一転料理学校に通うことにしたそうだ。4/27

バカ田大学の近所に住んでいた私が、朝早く駅に急いでいると、キャンパスに通学する無数の学生たちがワンサカワンサカ大河のように流れてくるので、私は身動きできなくなってしまった。4/29

長らく陰険な上等兵と2人で行動していた私だったが、ようやく上官から独立行動を許され、「アラン・ラッド似の謎の男を追跡せよ」という命令に従って、全国を流浪することになった。4/30

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

 

西暦2014年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

 

J.クルーの来秋冬シーズンのメンズのパンツのシルエットが、みんなサブリナパンツのように絞られいるので、驚いてデザイナーのエミリー・ウッズに修正するように頼むのだが、彼女はどうしても妥協しない。7/31

持っていた自転車の鍵を、東京駅の新幹線乗り場の改札口の機械に挿入したとたん、私は新大阪の駅に到着していた。7/30

水の上を浮遊する廃市を2日間流離っていた私は、なにも口にしていなかったので、そこで出された肉じゃが定食を、世界でいちばん美味しい料理として賛嘆しつつ頂戴したのであった。7/28

下水配管が集まっている場所に巨大なサッカー練習場があったので、ここでボールを蹴り合っていたら、四方八方から押し寄せる人々によって、私は王として戴冠された。7/28

素敵な小道をどんどん辿っていたら、愛らしい少女と出会ったので、私は彼女を家に連れ帰って寝た。

某重大事件の犯人を追う私は、2人の詩人の協力を得て知床半島のウトロの番屋までやってきたのだが、なんの手がかりもなかった。

政府の大号令で大舞踏会が開催され、老若男女が踊り狂ったが、それが終わると、「今後はいかなる歌舞音曲も慎むように」という命令が出されたのであった。7/26

最高級ホテルでのショーが真夜中に終わったので、私が北島君に帰ろうかと声をかけたが、「僕はもうちょっとここにいる」というので会場を眺めると、黒人のプロデューサーが、ショーに使われた衣装や小道具や高級車や時計などの小物を、全部お客に呉れてやっているのだった。7/25

私とある老人がSNSで好きなことを語り合っていると、今井さんが「そんな無駄話は即刻やめろ」と文句をいうので、「ここは死にゆく者のための空間なんですよ」と反論した。7/24

バラエティ番組に出ていた色っぽい女優が、「背中から尻尾が出ている友達をここへ呼んできてもいいかなあ」というので、プロデューサーの私は、「いいとも」と鷹揚に頷いた。7/23

車の運転は運転手にまかせ、後部座席で乳繰り合っていた私たちだったが、ふと前を見ると誰もいないので青ざめた。7/22

山澤君が操縦する蒸気機関車は、猛烈なスピードで展示会場に突入し、いろいろな障害物をなぎ倒しながら、壁に激突して、ようやく停止した。7/21

戦争が始まって徴兵されることになったので、まだ童貞で恋人もいなかった私は、いわゆる風俗へ行ったのだが、もはやその種のセックスショップは閉鎖されており、味気ない思いで営倉の門を潜ったのだった。7/19

古めかしい大劇場で、演劇を観ていた。はじめは全然詰まらなかったのだが、ようやく面白くなりかけてきたところに、突然大地震が発生、いまにも天井が崩れ落ちそうになったので逃げ出そうとするのだが、足がすくんで動けない。7/18

「「時は西方に流れる」という題名の映画の撮影に同行しませんか?」と誘われたので、私は妻と一緒に3ヶ月間全国を流浪する、ロングバケーションに旅立つことになった。7/17

その少女と関係するのかしないのかが、その場に居合わせた人々にとっての最大の関心事になってしまったようなので、私はおおいに戸惑っているのだった。7/16

激しく泣き叫ぶ声が聴こえたので、息せき切って駆けつけると、一頭の小象が、仰向けになってのたうち回っていた。7/15

足元にまとわりつくリトルピープルを蹴飛ばしても、蹴飛ばしても、まだくっついてくるので、私は疲労困憊してしまった。7/14

ぬばたまのお伝は、「お客さん、よってらっしゃい、みてらっしゃい、これはほんとに美味しいお酒ですよ」と巧みに客引きをしながら、じつはこえたごから汲んで来た汚ない水を売りつけているのだった。7/13

せっかく生まれ落ちても、この小さな蓮池では立ち泳ぎしていないとおぼれてしまうので、子供たちは、必死で手足を動かしているのでした。7/12

「空」派が勝つか「海」派が勝つか、という熾烈な社内闘争の結果、アトム衛星がC衛星を撃墜して後者が勝利を収めたので、私は初めて名刺を作ってもらえることができた。7/12

荒涼とした夜の街の広場で、息子はたった一人でなにか訳の分からない言葉を呟きながらうろついていたので、私は全速力で走り寄って、その太った体を両手で抱きしめた。7/10

私が撃った銃弾は6発であったが、あとで回収されたそれらは、条痕がくっきりと刻まれ、午後の陽ざしを浴びて、黄金色に輝いていた。7/10

戦闘中に気がつくと、心臓のすぐ傍を弾丸が貫通しており、夥しい血が流れ出しているので、私はいよいよ自分はこれで死んでしまうのだと初めて悟った。7/9

さる戦国大名の依頼を受けた私は、「ともかく兵に戦争を徹底的に楽しませ、てんでカッコよく死なせてやりませうヨ」と言って、濠の前面にお色気たっぷりのおっぱいの絵を描いたり、大砲の色をピンクにしたりしたので、次々に注文が舞い込んだ。7/8

恋人同伴でショウを見物に来たら、日隈君が「課長どういうつもりですか、このショウの準備は全部うちの課の担当なんですよ。それにもう1箇所イベントもあるし、一体どうするんですか」、とパニクッっている。7/7

「米国からばかりじゃなくて、英国からも借金しないと不公平じゃないか」と彼がいうので、私はまた新しい手土産を持って未踏の地雷原に分け入る羽目になった。7/6

私はナボホ族の女が呉れた旨そうな肉を口に含んだが、彼らが昨夜ヒュー族の男たちを虐殺するところを見ていたので、すぐに吐き出した。ところが仲間のペー公は私がいくら止めろといっても聞かずにムシャムシャ食べている。7/4

ナボホ族を征服させた私たちを歓待しようと、美女が美食を持ってきたが、私は前回の経験に懲りて、蒸しパンだけを口に入れたのだが、じつはそこにも殺されたヒュー族の男たちの肉が含まれていると分かったので、私は直ちに一族を皆殺しにした。7/4

「1500億円相当の秘伝の舞の奥儀を、特別に8000万円で教えてつかわす」というので、私がどうしようかと迷っていると、その名人は、「さあどうする、どうする」と、手に持った浄瑠璃人形を、私の顔にぐいぐい近づけるのだった。7/3

裏口から逃げだした私と彼女は、オートバイに乗った奴らに追いかけられたので、必死で逃げたのだが、とうとう追いつかれた。「ヤバイ、万事休す」と思われた瞬間、彼らは私を追い越して駆け抜けていった。7/1

 

 

 

西暦2014年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

ベートーヴェンの「第9」を演奏することになった。基本的にはベーレンライター版に依拠しつつ、ブライトコプフ旧版の良さも取り入れ、いうなれば柔道の受身のような自然体の良いとこ取りで臨んだわけであるが、演奏は、それはそれは酷いものだった。8/1

街のどこかにある家の地下室に横たわっていたら、突然スポットライトが当てられて、誰かが「歌を歌え」というのだが、私にはそんな器用なことはできないので、いつまでも固辞してうだうだ言っている。8/1

どこかで時計が鳴っているので目が覚めたが、よく聞いてみるとそれはすだく虫の音だった。あんな金属的な響きはいままで耳にしたことがないが、けっして不快な音ではなかった。8/1

夜の弾丸配送列車での運送を依頼した3社に対して、私はその委託を急遽キャンセルしようとした。2社はすでに出発していたので間に合わなかったが、さいわい残る1社の弾丸列車は、まだ発車していなかったので助かった。8/2

頭が2つで体が1つの人間と、頭が1つで体が2つの人間がいた。
前者の頭のうちの1つは私の頭であったが、見知らぬ別の頭の持ち主との折り合いがつかないので、困る。
また後者の頭の裏表は、別々の人物の顔になっていて、その1つは私なのだった。8/2

頭の中のノートにマーラーの全交響曲の全楽章を書き出しながら、頭の中でその音楽を鳴らそうとしたが、全然だめだった。
考えてみれば楽譜を読み書きできない私には、はなからそんな芸当ができるはずがない。8/3

グラグラ自転しながら公転する巨大なお皿の上で、人形のジェロームとフラッシャーがうごめいていたので、はズドンと1発で仕留めてやった。8/5

閻魔大王による審判が終わった。
お情けで今生の思い出に1曲だけ聴かせてやるというのでジュークボックスのバッハを押したのに、流れてきたのはなんと「千の風になって」であった。8/6

ようやくパリの地下鉄構内に入ったが、ここでいきなり投石を受けた私たちは、やむをえずその正体不明の集団に対抗して石やゴミや棒を投げ返したので、そこらじゅうに血まみれの負傷者が続出した。8/7

2年前のリストラを上回るリストラをやらねば会社がつぶれてしまう、と思い込んで、私は出張をキャンセルして、本社への道を急いだ。8/9

リストラのことで頭がいっぱいになっていた私は、毎朝新聞の全15段広告を代理店に発注するのをすっかり忘れていたので、夜の街を疾走した。8/9

カタログ撮影の3人のモデルが上京してきたので、次々にものにしてやろうと思い、まず最初の女に手をつけたのだが、次の日になると誰が誰だかわからなくなってしまったので、もう手を出すのをあきらめてしまった。8/10

大儲けを企んだ投資に失敗して一夜にして資産を失ったオブローモフを憐れんだ婦人ソーニャは、一文なしの初老の男を彼女が経営する旅籠に招いた。8/11

そして彼女は、来る朝ごとに彼の部屋の窓から見える白雪の前庭に、さまざまな意匠を施した世界中の珍しい風景や花鳥風月、珍奇な見世物を、みずからの手で色彩豊かに飾り付け、傷心の男オブローモフを慰めた。8/11

会社の製品を上代の半額で社員現売して、大量に外部に横流ししている社員がいるとわかり、突如監査が入ったので、私たちは「俺じゃないぞ、俺じゃないぞ」と大騒ぎしていた。8/12

海底からにょろにょろと立ち上がるヒドラの2本の足を、私は自分の足でキックしながら撃退していたのだが、ヒドラはその攻撃の手を休めずにだんだん肉薄してくるのだった。8/12

私の好きな尾道のおじさんは、舟遊びが大好きで、東京湾にボートを係留している。8/13

おじさんと2人で山本橋を散歩していたら、おじさんが「ほら見て御覧、ほらほらあそこ」と指さしながら、夕暮れの運河に落ちてしまった。おじさんは毛皮の首巻きのついたコートを着たまま、浮き沈みしている。

ようやく岸壁に辿りついた尾道のおじさんに「あれはわざとおっこちてみせたんでしょう?」と尋ねたら、「そうじゃない、ずるずる滑り落ちてしまったんだ」と笑いながら答えた。8/13

大地震で海に落ちた2人の女の子は、すぐに元気を取り戻して、それぞれ2人の男の子から声をかけられたが、2人ともてんでその気はないのだった。8/13

菊池は作曲家だったので、ジャノメミシンに向かってある少女への思いを作曲しようとしたのだが、それほど彼女を愛しているわけではないことが分かった。8/15

私がやむにやまれず意思表示をするやいなや、官憲は「秘密保持法違反のヒコクミンめ!」と怒鳴りつつ私を拘束した。8/15

こんなド田舎の茶店などいつ潰れてもおかしくないというのに、私はルリマツリの花で覆われた土蔵に名人を招いて、連日連夜の連歌三昧にうつつを抜かしていた。8/16

引っ越し用の荷物を積む込むトラックがやってきたので、運転手に「これは物集高見の荷物なんだがね」と言ったが、知らん顔をしていた。8/17

首の入ったずだ袋をたくさん並べて風入をしていたら、捨てたと勘違いしたのだろう、誰かが全部持ち去ってしまった。817

一晩中窓を開けたまま眠っていたので、上弦の月が、私の額をいつまでも照らしていた。8/19

その大分限者は、太平洋を見はるかす大邸宅の3階に住んでいたが、ときどき私たちが住んでいる2階まで降りてきて、キョロキョロと様子を窺うのであった。8/19

かの有名なる彫刻家に頼まれて、彼の膨大な作品の複製を製作をすることになったのだが、考えてみれば、それで一生食いっぱぐれこそしないものの、自分の作品は作れそうもないので、意を決して断った。8/20

半世紀ぶりにマージャンをやることになった私は、いきなりチンイツトイトイドラサンイッパツツモバンバンで上がったのだが、この「バンバン」こそが我が国の高度成長の原動力となり、バタイユの生きる歓びであり、ベルグソンのエラン・ヴィタールであったことが初めて分かった。8/21

「象の飼育に必要な毎月の経費100万円は、ここから出してください」と言われた。私は金川氏の預金通帳を預かっているのだが、いつも残額がすれすれなので、ハラハラドキドキさせられているのである。8/22

また電通の岡田君が出てきて、「この広告の掲載誌は何部お持ちしましょうか?」と尋ねる。
彼は三越の社長の御曹司であるという噂があるが、本当だろうか?親とは似ても似つかぬ顔立ちと性格の人なのだが。8/23

私は日本人が大好きなアメリカ人だったが、大川のほとりを散策していたら、おばあさんが私に興味を持ったのかいろいろ話しかけてきて、とどのつまりは旧芭蕉庵の近所に下宿することになってしまった。8/24

部下の男女がヴェルサイユ宮殿で挙式するので、仲人を頼まれた私(景山民夫になっていた)が仕事を終えて駆け付けると、待ってましたとばかりにスピーチを指名されたのだが、いくら考えても2人の名前すら出てこないので、頭の中が真っ白になり、滝のような汗を流していると、ミンミンゼミが大きな声で鳴いてくれたので助かった。8/25

祖父小太郎の展覧会を開催しているという連絡があったので、はるばる駆け付けてみたのだが、だだっ広い会場に人影はなく、展示物は祖父に何の関係もないものばかりなので、私は途方に暮れてたたずんでいた。8/27

「憲法」という文字をどう「読み解く」かでいろいろな意見が出たが、「ケムンパス」と読むのが正解だと、全評議員の意見が目出度く一致した。8/28

世田谷のノッポビルで撮影があるというのでやってきたが、指定場所には定時になっても1人の女性モデルしか姿を現さない。
仕方なく色々話し合っているうちにすっかり意気投合して屋上へ行って抱擁、接吻したのだが、それ以上は許そうとしないのだった。8/28

大恐慌に突入したために、私が関係している5つの会社からすぐに連絡するよう急を告げる電報が届いていたが、私は全部ごみ箱にほうりこんで山本大介と一緒に銀座に飲みに出かけた。8/28

江ノ電の中で短歌新聞を読みふけっている少年は、腰越に住んでいることを、なぜか私は知っていた。8/29

暖房のないシカゴの鋼鉄ビルの最上階で凍えていた私を温めてくれたのは、春の女神アフロディーテだった。私らはことのついでに何度も愛し合ったのだったが、2か月ほどで別れてしまった。8/29

11時にパリのIRCAMを出て、そのレストランを探した。それと思しきレストランは街道に面して建っていたが、私は車から飛び降りることができなかったので、そこへ行くことができなかった。8/29

4年生になった私たちの別れの時がやってきた。在学中に有名になったデザイナー黒田信夫が、「1年生の時に、俺はこの日のために君たちのために黒いスーツを作ってやったことを覚えているかい?」と聞くので、そういえば黒い奇妙な服をもらったような気がしはじめた。8/30

なかなか電車が動かないので、私たちは駅のホームに降りた。大勢の子供たちが乗車口を出たり入ったりしていると突然ドアが閉まり、電車が動き出したために、何人かの子供は線路に振り落とされ、回転する車輪が彼らの頭や手足を切断していくのがはっきり見えた。8/30

田中陽子がブラジル国王に選ばれた瞬間、彼女の心身が、私に転位してしまった。そして次の瞬間、私は押し寄せる群衆の渦に飲み込まれてしまった。8/31

 

 

 

夢は第2の人生である 第40回

西暦2016年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

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かつて友人だった男が脳こうそくで倒れたので、その代理に私が呼ばれて、彼が復帰するまで、「名前だけの社長」を務めることになった。3/1

海水浴を楽しんでいたら、大きな箱がプカプカ浮かんでいたので、その上にイスと机を置いてくつろいでいたら、各国の軍艦が見物にやってきた。3/2

A男とB子が、私を銀座の料亭で接待してくれるというので、喜んで出かけたのだが、酒や料理はそっちのけで、やおら販促物のパンフレットを持ちだして、これについてなにか意見を述べろ、と強要する。

その口調が変なので、よく見ると、彼等はもう存分にきこしめてぐでんぐでんに酔っぱらっているのだ。こんな連中と打ち合わせなんて、とんでもない。「想定外のコンコンチキだ!」と捨て台詞を吐いて料亭を飛び出したが、2人はどんどん後を追ってくる。

瞬く間に追い付いた男の顔をよく見ると、なんと前の会社にいた日隈君ではないか。彼は「佐々木さん、そんなに大急ぎで逃げ出さなくてもいいじゃありませんか。せっかくあなたの昔の恋人を連れてきたのに、一言も言わずにほおっておくんですか」という。

じぇじぇ、それではあの酔っ払い女がそうだったのか、と思わずその場で立ち止まると、「ほおら、急に態度が変った。それじゃあ僕たち先に東京タワーに行っていますから、あとから来てくださいな」といいざま姿を消した。3/5

地下道ですれ違おうとした男が、いきなり私の腰に腕をまわしてエイヤとぶん投げようとしたので、そうはさせじとこっちも彼奴の腰に腕をまわしてナンノナンノとこらえているといつのまにか周りに人だかりができた。3/6

すると男は急に力を抜いて「いやいやこれは失礼つかまつった。ほんの冗談、冗談。許されよ、許されよ。アラエッサッサア」と言いながら一礼し、すたこらさっさと立ち去った。3/6

「私Adogの田村ですが」という電話が掛かってきたので、いったい誰だろうと訝しく思ったが、すぐに先週名刺を交換した取引先の女性だと分かった。

「なにかご用ですか?」と尋ねると「送って頂いた企画書の件で直接お目にかかりたい」というのだが、私はそんな企画書を送った覚えはないので、はてどうしたものかと思い悩んだ。3/6

小高い丘の上で黄揚羽と戯れながら巨大な水色の蝶が飛びまわっている。翅の色はクスサンに酷似しているがこれはこれは新種の揚羽に違いないと確信した私は、薄絹の採集網を一閃してそれを捕獲し、部厚い胸部を一気に押して窒息させた。

まだ生温かいその大きな蝶を三角の硫酸紙に折りたたんでいたとき、私は突如急な便意に襲われたので、三角紙に包んだ蝶をその場にそっと置き、近くの草むらで用を足してすぐに戻ったが、それはどこにもない。いくらあちこち探しても、影も形も見当たらなかった。3/7

大阪のデザイナーたちは「東京のデザイナーなんか最低。なんとかしてください」とみんな声を揃えて新社長の私に言い付けるのだった。3/7

私は超多忙だった。まず所属するカルテットの演奏会が目前に迫っていたが、委嘱した新曲がまだ出来あがっていないから練習さえできないでいたのである。3/8

次に新雑誌の創刊号に64ぺージももらっていたのだが、その中身をどうするのか何ひとつ決まっていなかった。最後は自分が監修するふぁちょんブランドの次期シーズンのデザインがノーアイデアだった。

にもかかわらず月日は矢のように飛び去っていくので、私は仕方なく3つ目の仕事部屋全体を大きな布で覆って外から見えないようにしたので、まったく気にならなくなった。3/8

「只今から26種の植物の植え込みを行います」と宣言したサトウ君は、私の弁当箱の中に無秩序に散らばっていた多種多様な苗を、26の棚田のように整然と区画整理して綺麗に植えこんだので、みんな拍手喝采した。3/9

25歳の処女の大活躍の御蔭で、宿願の用水が切り開かれたのだが、不幸なことに彼女の過去の罪業が暴かれ、逮捕監禁されることになったが、「功罪相半ばする」と判定されたので、無罪放免されることになった。3/10

ふと周りを見渡すと、第1章に出てきたサーカスの親子と、第2章で登場したじいいさんばあさん、第3章でSMに耽っていた男女がいずれもこの巨大な木の下の青い草の上で憩うているのだった。3/11

彼が起きると朝の7時半で、女も起き上ったが、彼は「疲れただろうから、君はもっと寝ていなさい」と言い残してベッドを離れた。3/12

私たちが乗った世界一大きな風船が、熱帯夜の赤道上空に差し掛かったので、窓を開けると月の光と共にわずかばかりのそよ風が吹き、極彩色の鳥が舞い込んできた。3/13

どういう風の吹きまわしかアレがだんだん硬くなってきたので、「オオ、イイゾ、イイゾ」と驚いて様子をみているうちに、やっぱりみるみる凋んでいった。3/13

燃えるゴミ、燃えないゴミのほかに、燃えるか燃えないか分からないゴミがあるので、我が家では3番目のカテゴリーを新たに設定して、土曜日に出したのだが、市役所のゴミ車は引きとってはくれなかった。3/14

わが社が冷果会社を吸収合併した途端、トランプにそっくりの顔をした社長が、「すぐそこにオフィスを作って仕事をしろ」というので、氷と氷の間にブースを作って、イヌイットのような生活をしている。3/15

私はその大学の寄宿舎に住んでいたのだが、ある日同級生の山口君が「君の誕生日はいつだ」と聞くので「じつは今日なんだ」と答えると、「それは目出度い。実は私の映画俳優の伯父も今日が誕生日なんだ。今から連れてくるからここでお祝しよう」と行って出かけたきり、いつまで経っても帰ってこなかった。3/16

うちの事務所は新進気鋭の男女の作曲家を抱えているのだが、いくら新曲を書いても楽譜出版や演奏の見込みは皆目ないので、ここ10年間は演歌の編曲でなんとか食っていた。3/17

その時大きな幕がざっくりと切り開かれて蒼ざめた馬が嘶き、地は大きく震えたので、我われは「第7の封印」が解かれたことを知った。3/18

野球賭博をやったと噂されている巨人の生意気な若手選手が、バッターボックスに出て来たので、大きく振りかぶった私が、顔すれすれのビーンボールを投げると、彼奴はバットを投げ捨てて、ダッガウトへ逃げ出した。3/19

私は役満の「九連宝燈」をてんぱっていた。たぶん9面待ちだと思うのだが、もしかするとそうではないかもしれない。そう思うと額に脂汗が玉のように滲みだし、馴染みの雀荘に居たたまれずに逃げ出したくなるのだった。3/19

私が要塞に入って最初にしたことは、3.7インチ高射砲の砲身に右手で触ることだった。私は、手に入れたばかりの自分の武器を、自らの手で触れて確かめたかったのだ。3/19

夜になると7時間立哨せよと命じられたが、だんだん眠くなってきた。立ったまま眠っているとオオカミに喰われるので、私は皆と同じ寝袋に潜り込んで朝までぐっすり眠ってしまった。3/19

私は原子炉だが長い間使われていなかったので、技術者が恐る恐る「出力は30ぐらいでよろしいでしょうか」と聞くので、「大丈夫、とりあえず45までならいけそうだよ」と教えてやると、嬉しそうな顔をして「では、どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。3/20

本邦の代表的なテノール歌手は、先日の健康診断でガンの宣告を受けたにもかかわらず
昨日はモザール、今日はバッハ、明日はヴェルディを国立劇場で歌うことになっているというので、すぐに手術をするように勧めたが、ガンとして言うことを聞かない。舞台で歌いながら死にたいそうだ。3/22

5年前に会社を辞めた吉田君が突然やって来て、「ただ同然の値段で高級別荘地が手に入るから、いますぐ現地へ行きましょう」とせっつくので、「いまから会議があるんだ」と断ると、「この絶好のチャンスを逃したらもう二度と手に入りませんよ」となおも勧誘する。3/22

某国の宰相に良く似た男が暗い部屋の中にいたので、私は静かに背後に回って彼奴のそっ首をかいた。3/23

「戦争が始まったので、今日からネットの物販はできなくなる」と通達にやって来た役人が、たまたま昔の部下だったので、私はぎりぎりで「しきみ」の実を買うことができた。3/24

ジェームズ・ボンドの私は、新幹線が停車している高架線路の下にあるカフェでコーヒーを飲んでいたのだが、誘拐犯がドアを出て線路に降りた瞬間に立ちあがって、マグナム弾を連射すると、そいつはあとかたも無くなった。3/26

小泉首相は、閣議で立憲主義てふ言葉をこの国から追放しようと演説しただけではなくて、実行したのであった。3/27

せっかく寄席に行ったのに、誰一人客が来ていないので、私は万やむを得ず高座に上がって、自分自身のために一席伺う羽目になってしまった。3/28

いつまでも胸に秘めているのが心苦しくなってきたので、私はこの絶好の機会にむかしむかし黄色い花のような連中を殺してしまったことを告白した。3/28

さすが日本を代表する大手メーカーの大展示会だ。広大な空間をフルに生かした様々な物販ブースが何百と設営され人だかりができている。私たちもすぐに入場したいと思ったが、なんせ招待状を持っていないからどうしようもない。3/29

必死でもぐりこむ口実を考えていたら、O社の吉田氏が通りかかったので、これ幸いと大声で呼び止め「吉田さん、吉田さん、ちょっと中へ入れて下さいよ。生憎記者招待券を社に置いてきちゃたんで困ってるんですよ」と頼み込んだ。

すると吉田氏は「なんだ佐々木か。お前なんか、ウチの社にとってなんのメリットもないからなあ」と嫌みを言うので、「おや、そんなことないですよ。なんならおたくがいま喉から手が出るほど欲しいものを言ってみなさいよ。たちどころに希望を叶えてあげるから」と返した。

すると吉田氏は声をひそめて「じつは渋谷の専門店百貨店情報が入ってこないんで弱ってるんだ」というので、「なんだ、そんなこたあお安いご用ですよ。手元に渋谷流通協会の報告書が手元にあるんで、よろしければお貸ししますよ。リース代はお任せしますから、そちらで適当につけてもらえばいいですよ」というと、吉田氏はこちらへすっ飛んできて中へ入れてくれた。3/29

L社の宣伝部へ行き、次シーズンのテーマを尋ねたらアリゾナ州のイメージだという。アリゾナ州のどんなイメージなんですかとまた尋ねたが、ただ「アリゾナ、アリゾナ」とオウム返しに答えるだけで、具体的な内容がある訳ではないことが分かった。

「だいたいアリゾナ州ッってどこにあるんですか?」と聞いたが、それすら理解していないようなのであきれ果てた。「いったい誰がそんなテーマに決めたの?」と尋ねたら、カンという人物だという。

「カン氏はどこにいるの?」と聞いたら、「あそこです。あそこでふんぞり返っています」というので、見るとどこかの国の官房長官そっくりだったので、私はカン氏には会わずにL社を出た。

L社を出たら、そこはアリゾナ州だった。見渡す限り荒涼とした砂漠が広がり、風がヒューヒュー吹きすさんでいる。ふと見ると大勢のインデイアンの子供たちが私を取り囲むようにして迫ってくる。

怖くなった私は彼らから逃れてどんどん高い山に登っていくと、円陣を組んだリトル・インデイアンたちもどんどん私を追って高い山のてっぺんまで登ってくるので、困ったなあ、どうしようと立ち往生していると大正時代の着物をきたおばさんたちがやはり円陣を組んで、リトル・インデイアンたちの円陣にまともにぶつかっていくので、「嗚呼助かった」と喜んだ私は、その間に沖縄の亀甲墓のような建物の中に入り込んだ。ここならきっと安全だろう。3/30

ウイキで「第9」を検索すると、直ちにその男の猛烈に下手くそな「おお、フロイデ!の野太い一声がユーチューブの映像で出てくるのだが、その下手くそさが並外れているのであっという間に世界的な人気を博し、近々ベルリンフィルに呼ばれるそうだ。3/31

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

西暦2014年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

京の町を散歩していたら「はい、鉄板誕生400年記念日です」と言われて、誰かに写真を撮られてしいまったが、あれはいったいどういうことだったんだろう?5/31

ボーカルとギターの双方が、おのれが目立とう目立とうと競っていたので、私が謡と三味線と笛太鼓の演奏を聴かせると、2人とも黙り込んでしまった。5/30

「お客さん、どうせなら年増より初々しい少女のほうがよろしいでしょ」と、番頭は卑猥な笑いを押し殺しながら、珍客である私への人身御供を吟味しているのだった。5/29

いちおう胸の彫りものは終わったはずなのだが、私が「どうも龍のデザインがいまいちすっきりしないな」というと、彫師は「そうでやんすか。もう一度あっしが零からやり直しやしょう」と胸を叩くのだった。5/29

「東京を出て大阪に行かむとする者は神戸をめざすべく、仙台をめざす者は岩手をめざさざればついに大阪、仙台に到る日はあるまじ」と、或る者したり顔に語れり。5/28

私が小説の中で「「ドアンゴ」という名前の車は、漫画みたいなふざけた命名でよくない、むしろ安吾にすべきだ」と書いたら、その会社の社長から「よい案なので早速改名します」と電話があった。5/27

真夜中にバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が2回鳴ったので、いつもの無言電話かと思って放置していたら、3回目にまた鳴って、それは渡辺さんのご主人が、たったいま湘南鎌倉病院に救急車で運ばれた、という電話だった。5/26

水道の水で乾き切った喉を潤し、ようやく元気を取り戻したので、再び元の道を南に向かって進む。行けども行けども誰にも会わない。やがて陽が沈み、空がゆっくりと黄昏れると、道はふっつりと消え去り、深い暗闇の奥底に私は取り残された。5/25

自転車に乗ってどんどん進んでいく。どこまで行っても道路に車はない。道路も周囲も行けども行けども無人である。はらっぱの向こうに一軒屋がみえてきた。平屋の一間に入ると真ん中に囲炉裏の灰穴があったので、私はそこで用を足した。5/25

水辺の別荘のすがれた庭で、私たちはふぁっちょん広告の撮影をしていた。その別荘の持主の老人が、ノーメークでモデルとして出演したのだが、モノクロ写真がかえって人物と風景に深い陰影を与えていた。5/24

その顔をよく見ると、知り合いの大辻嬢だった。彼女は養父の暴力と抑圧をうけて念願の巴里留学の夢が絶たれようとしていたので、私は無償の留学制度があることを教え、身元保証人になってあげるから早く旅立て、と助言したのだった。5/23

私が講演代を半額に値切ったことをまだ覚えていたらしく、ぶつぶつ文句を言う掘氏に別れを告げて、半島の小村の市場へ行くと、魚や野菜が信じられないような価格で並んでいたので、私がどんどん手にとっていると、レジの女性が大きな袋を貸してくれた。5/23

雨宮さんの家は、しろつめ草が茂る広大な丘陵の中にあり、放牧された牛たちがのんびりと空ゆく雲をながめていた。私は彼の奥さんと子供の3人ずれで、その大草原をこころ行くまで散歩するのが常だった。5/22

海外勤務員がなんだか落ち込んでいたので、「君の日記をネットで全世界に発信すれば、面白く読んでくれる人がきっといるはずだよ」と慰めると、次第に元気を取り戻して、「そうでしょうか。ぼくやってみます」などと口走るのだった。5/21

売上不振のこの会社にあって、他の誰もリストラされないのに、なんで販売課の課長の俺だけが指名解雇されるのか。しかも過去2カ月は抜群の売り上げを誇っているのに、と激しく怨みながら、私はノサップ岬の白い波頭を眺めているのだった。5/20

私は愛する少女のためにそのミュージカルをつくり、そのラブソングをつくったのだが、彼女はそんなこととはついぞ知ることなく、涙を流しながら、千秋楽まで毎晩主題歌を絶唱したのだった。5/19

「なにゆえ短歌」というネットでやっている怪しい短歌制作の試みを、授業でもやっていたら、教室の中に得体の知れない老若男女がおしかけてきたので、女子大生たちはきゃあきゃあ悲鳴を上げながら逃げ出した。

「般若のお辰」が迫ってきたので私は驚いたが、お面の奥から昔の女の顔が出てきたので、また驚いた。原宿でお茶していると、隣の席に嫌な女が2人座っていてしきりに私らを窺うので、急いで店を出て彼女のマンションへ行った。5/16

そのひとは、かつてはヘレン・ケラーのように偉大な人物として慕われていた。老いてアルツハイマー症を患ってからは、ほとんど昔日の面影は失われたにもかかわらず、若き日の美しさと冒しがたい気品がかすかに漂っているのだった。5/15

「ドスコイ、エンヤコラショ、おいらの掘った左の穴は、直径100×100」とシコを踏んだ途端左足のふくらはぎが攣った。ようやく回復したので、「ドスコイ、エンヤコラショ、おいらの掘った右の穴は、直径100×100」とまたシコを踏んだら、今度は右足が激しく攣った。5/15

私は巨大な蜂の巣のような巨大な穴の最低辺で働いていたので、遥か上方を見上げると大小いくつのもシャンデリアがさんざめいて、とてもここが地獄のような労働工場とは思えないほどだった。5/14

「ちょっと口を開けてくれませんか」と歯医者が言うので、言われるがままにしたところ、彼はいきなり麻酔注射をぶちかまして、予期せぬ大手術が始まったのであった。5/13

クリークを渡ろうとしたら、底には巨大な2匹の白蛇がうねっている。仕方なく側面をつたって前進しようとしたのだが、そこにも白魚のように白い無数の子蛇たちがうねうねダンスを踊っているので、さてどうしたものかと私は考え込んだ。5/12

プラクシートという所で世界演劇祭が開催されているというので、そこへ行こうと思ったのだが、いくら調べてもそんな名前も地名も出てこないので、私は途方に暮れた。5/11

日露交渉の日本側の通訳を担当することになった私は、プーチンを担当するロシア側の美貌の通訳官と恋に落ちてしまい、業務などそっちのけで愛を交わしていたのだった。5/10

3Dプリンターで拳銃を作ろうとしていたら、みょうちきりんな男が出てきて「シュウダンシジェイエイケングア」どうしたこうしたと言っているので、削除しようとしたが出来ない。仕方なくプリントアウトした奴を、危険物塵出しの日に出した。5/9

私はローバーミニに4人の外国人の女をぎゅうぎゅうづめに詰め込んで、逃走を続けていたが、それは彼女たちを、アフリカの偉大なる王への貢物にするためだった。5/7

野茂になった私は、捕手はもちろん監督の言うことなどもまったく聞かないで、勝手に剛速球を投げ込んでいた。それが墓穴を掘ることが自分でも分かっていたにもかかわらず。5/6

私は原稿を書いている時間が無いので、やむをえず生まれて初めての口述筆記を試みたのだが、私の秘書の男は(こいつはバカ殿のどら息子だった)、それについていくことができず、いたずらにドラエモンの漫画を書き散らしているのだった。5/5

その黒人の牧師は、説教を始める前に聴衆に向かって「まず喫煙をやめるように」と警告したが、聴衆がその指示に従ったのを知ると、「説教代は消費税込みで20.8ドルだ」と言い放った。5/4

息子が何度も「お父さん、すぐに食器を洗ってくださいね」と頼むのだが、パソコンに向かって仕事をしていた私が生返事ばかりしていると、彼は突然怒り狂い、地団太踏んで暴れ出した。5/4

「白いドレスの女」という映画について私が書いたコラムについて、それが国家情報局のビッグデータに収蔵されているデータとの整合が取れていない、という理由で文句をいわれた。そもそも題名からして違っているというのである。5/3

あの日私は、下から押し寄せてくる水をものともせずに、机の位置を少し高い場所に移動して、下からどんどん届けられる荷物を次々に処理して、普段通りに夕方帰宅したのであった。5/2

来年度の予算を立てている村田マネージャーが首をひねっているので、「消費税が上がったから困っているんでしょう?」と水を向けると、そうではなくて「盆踊りの経費をどうしても捻出できないので弱っている」というのであった。5/1

 
 
 

西暦2014年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

夢は第2の人生である 第19回 西暦2014年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

 

「あまりにも多忙だったので、パンフレットの文字校正をする余裕がなかったのです」、と若者たちは、懸命に弁明するのだった。6/30

私たちが運営しているNPO法人は、今年は赤字のはずだのに、なぜか50万の黒字になっているので、調べてみたら安倍蚤糞という会社から350万円の寄付があった、ということが分かった。彼らは水面下で税金をばらまいているようだ。6/29

その謎の電話会社は、先住民に誘拐された一家の悲劇を、隠喩だか、暗喩だか、モチーフにしているという噂があったので、私以外は加入していなかった。6/26

「これは陰茎ではなく、イチジクの形をした肥料なのです。原料は花のエキスなので舐めると花のキャンディにような甘い味がしますよ」と、そのセールスマンはイチジク浣腸をぶらぶらさせた。6/26

地下のスタジオでカモラマンと一緒に撮影をしていると、役員室から尾上理事長が降りてきて、「このパンフレットには違う判子が押してある」などと、じつにくだらないイチャモンをつけたために、撮影は中断のやむなきに至った。6/25

夜の海の奥底には、無数の深海魚がひめやかに泳ぎ回り、その隠微な世界は、波の上からのぞきこんでいるだけでは、到底伺い知ることができない。6/24

停車中の電車に乗り込むと、大学の演劇部の仲間たちが、座席にすわっている乗客たちを次々に殺しているので、恐ろしくなった私は、電車から飛び降りて線路伝いに逃げだした。6/23

独り暮らしをしているマンションで家政婦を頼んだのだが、火はつけっぱなし、水は出しっぱなしで、部屋中が水浸しになってしまったので、すぐに追いだした。6/22

もののはずみで誰かが「こんな会社辞めてやる」と言い出し、まわりの連中も「我も我も」と続いたので、ブラックプレジデントの私は、「本当に辞めたいなら、人事課長の中沢君か係長の内田君に届け出なさい」と言うた。6/21

夢の中なので、いくらお金を借りようが使おうが関係がないということにようやく気づいた私は、それこそ夢中になって欲しかった高価なあれやこれやを、どんどん手中に収めていたのだが、ふと「夢から覚めたらどうなるのか?」と心配になった。6/20

私はAに金を貸した。その金をAはBに貸した。しばらくしてAは、「Bが行方不明になった」と私に告げたが、おそらくそれは嘘だろうと思いながらバイトを続けた。6/19

私は、息子が私のお金を無断で持ち出したことを知っていたが、なにも言わなかった。しばらくして金庫を覗くと、そのお金は元に戻っていたので、息子が返したことが分かった。6/19

地震警報が発令されたので、私らは間もなくやってくる津波にそなえて、各戸に1個ずつ配布されている大きな浮輪を膨らませようとしたのだが、慣れない作業ゆえに捗らず、焦りまくっているうちに、それは襲ってきた。6/17

客がギネスばかりのんでいるロンドンのパブで、私はノンアルコールのビールを頼んだはずなのだが、それはいつまで経っても運ばれて来なかった。6/16

彼らは男ばかり数名で共同生活をしているようだった、ノノヘイが病気の時はセキノが、セキノの具合が悪い時はスギザキが代わりに仕事に出て、お互いに助け合っている姿が好ましかった。6/15

東京を逃れて京都にたどりつき、熊野神社あたりで学生相手の一膳飯屋を物色していたのだが、唯一の女性である前田嬢が「これは嫌、これもダメ、ちゅうちゅう蛸かいな」と文句ばかりつけるので、いつまで経っても昼飯にありつけない。6/14

世の中が戦争一色に染まって来たので、もう黙っているしかないといったんは思ったのだが、あまりに酷い事態を迎えつつあるので、最後の科白を言おうとした途端、突撃兵たちの集団に飲み込まれてしまった。6/13

私が率いる1個小隊は、東に向かっていたのだが、西からやってきたわが軍団の大波にのみ込まれてしまったので、みな三八銃を抱えたまま、ちりじりばらばらになってしまった。6/13

「これからはワンショットごとに消費税を掛けることになった」というので、念のために撮影済みのフィルムを調べてみると、確かに映像毎のすぐ後の黒いフレームには「消費税8%」と書きこんであった。6/12

私は息子を海につれていって泳ぎを教えようとしたのだが、彼は親の言うことは全然聞かず、しばらく放置していたら独りで沖合まで行って勝手に泳いでいるのだった。6/11

塹壕戦に従軍していた私らは、指揮官が全軍突撃を命じたので、三々五々前面の狭い砲撃口から外へ出ようとしたのだが、そもそもそこが狭すぎるうえに、銃や背中の飯盒が邪魔になって、押し合いへしあいするうちに全てが終わった。6/11

プロレスの八百長試合で、私が「ハイ」と声を掛けると、甲が乙に業を掛ける段取りになっていたのだが、んなこたあすっかり忘れて試合を見物していたために、試合はそのまま終了してしまった。6/10

最新のメンズ市場の販売動向を中島選手が延々とレポートしている間、僕たちはねんねぐーしたりあらぬ空想にふけったり、どうやって借金を返済するか算段したりしていた。そして僕たちはこういう時間こそはリーマンにとって至高の時であることを知っていた。6/9

大勢の兵隊を乗せた巨大な軍用列車は、なぜか線路から浮かんでしばらく空中で静止していたのだが、突然呪縛が解けたように汽笛を鳴らして疾走し始めたので、兵士も群衆も鳥も喜んで叫んだり鳴いたりした。6/8

洗濯物を家の外に干しておいたのだが、いつの間にやらそれが道路に落ちてしまって、その上をたくさんの車が轢き過ぎていくのだった。6/8

苦心惨憺の末に1枚1面当たり3時間の長時間超高音質安価LPレコードの開発に成功した私は、CDの音の暴力に悩まされ続けていた全世界のクラシックファンから感謝されただけではなく、一躍大金持ちになってしまった。6/7

死刑囚の私の首の上からシューっと唸り声を上げてギロチンの刃が落ちてくるのを聞きながら、私はそれが初めてではなく、いままでに幾たびか経験していたことを思い出していた。6/6

戯れにガイガーカウンターを買った私が、自分の体や周囲の家具や植物などにそれを向けると、物凄い音響を発してガアガア、ガアガアと唸り続けるので、私は思わずそいつを取り落としてしまった。6/5

プロデューサーは、私が演出する番組の視聴率が悪いのを気にして、あれやこれやの提案を口にするのだが、私は昆虫の名前はすぐに覚えられるのに、どうして野の花や草花の名前を覚えられないのかと考え込んでいた。6/3

私は寝る前に黒い靴下を履き、これなら水虫も痒くならないはずだ、と考えていたのだが、夜中に蚊に刺されてしまったことは想定外であった。6/3

私が彼の女を奪ったために、彼はたいそう私のことを怨んでいたが、これまで彼は大勢の男たちの女を無理矢理奪っていたので、これもいい薬だと私はひそかに考えていた。6/2

グリーン州のグリンランドがこんなに素晴らしい緑の楽園とは知らなかった。観光客は誰ひとりいないし、風と鳥の鳴き声以外は朝から晩まで物音一つしない。私はなにもかも捨ててこの地に永住したいと願った。6/1

 

 

 

平成スチャラカ社長行状記

 

佐々木 眞

 
 

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某月某日
地下道ですれ違おうとした男が、いきなり私の腰に腕をまわしてエイヤとぶん投げようとしたので、そうはさせじと、こっちも彼奴の腰に腕をまわしてナンノナンノとこらえていると、いつのまにか周りに人だかりができた。

すると男は急に力を抜いて「いやいやこれは失礼つかまつった。ほんの冗談、冗談。許されよ、許されよ。アラエッサッサア」と言いながら一礼し、すたこらさっさと立ち去った。

某月某日
さすが日本を代表する大手メーカーの大展示会だ。広大な空間をフルに生かした様々な物販ブースが何百と設営され人だかりができている。私たちもすぐに入場したいと思ったが、なんせ招待状を持っていないからどうしようもない。

必死でもぐりこむ口実を考えていたら、O社の吉田氏が通りかかったので、これ幸いと大声で呼び止め「吉田さん、吉田さん、ちょっと中へ入れて下さいよ。生憎記者招待券を社に置いてきちゃたんで困ってるんですよ」と頼み込んだ。

すると吉田氏は「なんだ佐々木か。お前なんか、ウチにとってなんのメリットもないからなあ」と嫌みを言うので、「おや、そんなことないですよ。なんならおたくがいま喉から手が出るほど欲しいものを言ってみなさいよ。たちどころに希望を叶えてあげるから」と返した。

すると吉田氏は声をひそめて「じつは渋谷の専門店百貨店情報が入ってこないんで弱ってるんだ」というので、「なんだ、そんなこたあお安いご用ですよ。手元に渋谷流通協会の報告書があるんで、よろしければお貸ししますよ。お代はお任せしますから、そちらで適当に値をつけてもらえばいいですよ」というと、吉田氏はこちらへすっ飛んできて中へ入れてくれた。

某月某日
「私Adogの田村ですが」という電話が掛かってきたので、いったい誰だろうと訝しく思ったが、すぐに先週名刺を交換した取引先の女性だと分かった。

「なにかご用ですか?」と尋ねると「送って頂いた企画書の件で直接お目にかかりたい」というのだが、私はそんな企画書を送った覚えはないので、はてどうしたものかと思い悩んだ。

某月某日
かつて友人だった男が脳こうそくで倒れたので、その代理に私が呼ばれて、彼が復帰するまで、「名前だけの社長」を務めることになった。

某月某日
大阪のデザイナーたちは「東京のデザイナーなんか最低。なんとかしてください」と、みんな声を揃えて新社長の私に言い付ける。

私が「名前だけの社長」になったお祝に、A男とB子が、私を銀座の料亭で接待してくれるというので、喜んで出かけたのだが、酒や料理はそっちのけで、やおら販促物のパンフレットを持ちだして、これについてなにか意見を述べろ、と強要する。

その口調が変なので、よく見ると、彼らはもうきこしめて、ぐでんぐでんに酔っぱらっているのだ。こんな連中と打ち合わせなんて、とんでもない。「想定外のコンコンチキだ!」と捨て台詞を吐いて料亭を飛び出したが、2人はどんどん後を追ってくる。

瞬く間に追い付いた男の顔をよく見ると、なんと前の会社にいた日隈君ではないか。彼は「佐々木さん、そんなに大急ぎで逃げ出さなくてもいいじゃありませんか。せっかくあなたの昔の恋人を連れてきたのに、一言も言わずにほおっておくんですか」という。

じぇじぇ、それではあの酔っ払い女がそうだったのか、と思わずその場で立ち止まると、「ほおら、急に態度が変った。それじゃあ僕たち先に東京タワーに行っていますから、あとから来てくださいな」といいざま姿を消した。

某月某日
5年前に会社を辞めた井出君が突然やって来て、「ただ同然の値段で高級別荘地が手に入るから、いますぐ現地へ行きましょう」とせっつくので、「いまから会議があるんだよ」と断ると「この絶好のチャンスを逃したら、もう二度と手に入りませんよ」となおも勧誘する。おいらはしつこいひとは嫌いだ。

某月某日
取引先のL社の宣伝部へ行き、次シーズンのテーマを尋ねたら「アリゾナ州のイメージだ」という。「アリゾナ州のどんなイメージなんですか」とまた尋ねたが、ただ「アリゾナ、アリゾナ」とオウム返しに答えるだけで、具体的な内容がある訳ではないことが分かった。

「そもそもアリゾナ州ってどこにあるんですか?」と聞いたが、それすら理解していないようなので、あきれ果てた。「いったい誰がそんなテーマに決めたの?」と尋ねたら、カンという人物だという。

「カン氏はどこにいるの?」と聞いたら、「あそこです。あそこでふんぞり返っています」というので、見るとどこかの国の官房長官そっくりだったので、私はカン氏には会わずにL社を出た。

L社を出たら、そこはアリゾナ州だった。見渡す限り荒涼とした砂漠が広がり、風がヒューヒュー吹きすさんでいる。ふと見ると、大勢のインデイアン、もとい、アメリカ先住民の子供たちが、私を取り囲むようにして迫ってくる。

怖くなった私は、彼らから逃れてどんどん高い山に登っていくと、円陣を組んだリトル・インデイアンたちも、どんどん私を追って高い山のてっぺんまで登ってくるので、「困ったなあ、どうしよう」と立ち往生してしまった。

ところが、たまたまそこに居合わせた大正時代の着物をきたおばさんたちが、やはり円陣を組んで、リトル・インデイアンたちの円陣にまともにぶつかっていくので、「嗚呼助かった!」と喜んだ私は、その間に沖縄の亀甲墓のような建物の中に入り込んだ。ここならきっと安全だろう。

某月某日
私たちが乗った世界一大きな風船が、熱帯夜の赤道上空に差し掛かったので、窓を開けると、月の光と共にわずかばかりのそよ風が吹き、極彩色の鳥が舞い込んできた。

 

 

 

夢は第2の人生である 第39回

西暦2016年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

 

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米ソ冷戦下の時代にアメリカンのホテルに泊まったソ連の子供たちは、黒人のフロント係に、ソ連のホテルに泊まったアメリカの子供たちは、イワンの馬鹿のようなフロント係にそれぞれ懐いて、とても満足して帰国したそうだ。2/1

国連にロシアと日本が大枚の寄付をしたという噂を耳にして、「その嘘ほんまかいな」と思いながら電車に乗ると、電車の中刷りに「たけしがやって来る」と書いてあったので、「たけしなんかより、さんまのほうがずっとがいいな」と私は思っていた。2/2

ジャイアント馬場を化け物のようにしたような怪物が、チーフとサブの2人をさんざんな目に遭わせたあと、屋上の洗面所で上着を脱いで水を飲んだりしているのを見つけたので、私はぐったりしている2人にそのことを伝え、3人で復讐しようと図った。2/3

洗面所の外で待ち伏せしていたら、お化け馬場がやってきたので、3人で立ち向かい、2人が大きな体を押さえている間に、私が股間に何度も猛烈キックを加えると、さしもの怪物もたまりかねて、8階の階段の上からまっさかさまに転がり落ちた。2/3

これは夢の中だから大丈夫だな、と思って頭にシャワーをかけたが、案の定濡れなかった。2/4

僕の腹と腰には、びっしりとパイプ爆弾が巻かれている。僕のお師匠さんがいう。「あいつは悪魔だ。悪魔はこの世から取り除かねばならない。あいつを殺せば、世の中はたちまち平和になるだろう。そして君は永久に神から賛美されるだろう」2/4

とても面白そうな夢を見たので、真夜中にその内容をメモしたはずだが、朝起きてみたら手帳には何も書かれていなかった。2/5

時間が押していたので、「ではこの執行部案でよろしいでしょうか?」と尋ねると、バラバラという拍手のはざまから2、3本の手が上がったので、私は失敗したことに気付いた。「ではこの執行部案を拍手でご承認ください」と言うべきだったのだ。2/5

早く彼奴を潰さなきゃ、と思ってキック、キックでぶっ潰してやった。2/6

新幹線の先頭の2人しか入れない空間に、無理矢理5人で乗り込んだ。2/6

痩せたデビッド・ボウイそっくりの軍人が遥々私を訪ねてきたので、家の外へ出ると、ボウイは、いきなり私の口を吸いながら、その勢いで、私の肉を全部吸いこんでしまった。2/7

逃亡中に新しいケトルを5個買って、それで茶を飲もうとした首領は、「まず煮沸した熱湯でケトルを消毒してから、湯を捨て、もういちど煮沸した熱湯に、茶を入れろ」と手下に指示した。2/7

道路の真ん中を、中身が空気だけのかりそめの人々が大勢歩いていたが、私もまったく同じような、かりそめの人だった。2/9

官憲は、私たちを逮捕しようと待ち構えていたが、私らは別に悪いことをした覚えはさらさらないので、平然とその場に居直り、彼奴らにつけいる隙を与えなかった。2/9

橋本と名乗ったその男は、激しく降る雨の中を、ずぶぬれになって踊り狂っていた。2/10

「君はよく戦った。もうそれくらいでいいだろう。武器を捨ててそこから出てこい」という聞き覚えのある上官の声がしたので、私はたった一人で閉じこもっていた塹壕から、のっそりと、まぶしい光の中へ出た。2/11

雨宮氏は、彼が大切にしていたルイ14世風の、華麗にして重厚なデザイン画を、ことごとく売り払って出家した。2/12

「君のパンツが、また濡れてる。お気の毒だね」と慰めたら、そいつは「そんなこと、お前の知ったことか」といきなり逆上したので、ついかっとなった私は、彼奴を殴り殺してしまった。2/13

プロのカメラマンが、私のその「万感の思い」というやつを撮影したいというので、私は大いに戸惑っていた。2/14

或る男が、銀の取っ手を世界最高速度で製造することに成功したというので、その町工場ではささやかなお祝いをした。2/15

この男は大物なので、当局はしばらくは拘束せず放置していたのだが、洞窟の中で生活を共にするうちに、私はその人物の重厚な存在感に圧倒されるようになっていた。2/16

半ズボン姿の息子と、山際に建つ高層マンションの階段を自転車を転がしながら、上へ上へと登っていくと、てっぺんで行き止まりになった。ここで引き返そうと、車輪を戻そうとしたとき、いきなり息子が、ひらりと身をひるがえして空に飛び出し、地表にどすんと叩きつけられたので、驚いて見守っていると、しばらくして元気に立ち上がったので、やれやれと胸を撫で下ろした。2/17

その男は、みなから嫌われていたので、こそこそと立ち去っていこうとすると、みんなは口を揃えて、「せっせっせえーのよいよいよい。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」と大声で歌いだした。2/18

その歌は、「あいつは人からお金を借りても、決して返さない。その癖ションベンしてると早く出せ、早く出せと催促する変な奴。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」というような内容だった。2/18

夜、小便をしようと講談社の編集部に立ち寄り、いつもの便器の前に立ってズボンを下ろそうとしたら、いつのまにか隣に知らない男が立っていて、「やあ軽薄短小君、君はなにをしごいてこれからなにをしようというの」と歌い出したので、私は出なくなってしまった。2/19

するといつのまにか紛れ込んでいた女子が、「そういうあんたこそ、女の前で裸になったら、なにもできないくせに、偉そうなことを抜かすな。ボケナス」と罵ったので、くだんの男はすごすごと便所を出ていった。2/19

それから私は、広大なキャンパスの中で途方に暮れていた。昔一度大学に合格していたにもかかわらず、事務所で手続きするのが面倒臭くなって、そのまま郷里に戻ってしまったことがあったが、今度こそちゃんと入学しようと心に決めて、朝から歩きまわっているのである。

しかしなんという人間の多さか。人波に酔って疲労困憊した田舎者の私は、しばらくベンチで寝転んでいたが、急に空腹を覚えたので、よろよろと立ちあがって、学生食堂に行ってランチを食べようと思った。

あらかた喰い物は無くなっていたが、食堂のおやじさんが親切な人で、「ランチは終わったけど、残り物なら出してやろう」と言ってくれたので、ほっと一息ついた。するとおやじが、「ところであんた、これからどこへ行くの?」と私に尋ねた。

「医学部の大学院で入学手続きをするんだ」と答えたら、「なら飯どころじゃない、すぐに行かないとヤバイ」と脅かすので、一口も出来ないまま再びキャンパスに飛び出す。人に聞き聞き走りまわって、ようやく大学院の事務所に辿りついた。

ところが事務所のおばはんは、「手続きはもう終了したけれど、午後4時半からパーテーがあるから、そこへ行って学部長に頼めばなんとかしてくれるかもしれないよ」という。「場所はどこだ?」と聞いたが、「それは分からない」という。喉は乾くし、腹は減るし、頭はクラクラするので、もう諦めて下宿へ帰ろうかと思ったのだが、田舎の両親のことを思ってもう一度がんばろうと思った。2/19

勤務しているお笑い会社で、初めて映画をつくることになり、参考にするためにみんなで大阪のアチャラカ物をみた。会長がみんなの感想を聞きたいというのだが、誰もなにも言わないので、私が「作るとすれば、非上方的で洗練されたユーモアのある映画ですな」といったら、「そんならお前が監督をやれ」といわれた。2/20

わが社の会社案内カタログがやっと完成したというので、手に取って開いてみたが、はじめのほうに4/6という数字が印刷してあるだけで、中身は真っ白だったので、社員は呆然としてペラペラページを繰っていた。2/21

寿司屋で野菜寿司を注文したら、店主が「今日はなにもないから、お前さんの右足を折ってくれないか」というので、折って差し出したら、それを美味しい天ぷらにしてくれた。2/22

世界中が困窮したので、我が国でもそれに準じて貧富の差が著しくなってきて、両階級は事あるごとに大殺戮を繰り返し、格差どころか人口そのものが激減してきたので、万やむを得ずお互いに妥協して、背中合わせにくっつきあうようになってきた。2/23

貧者たちは、冨者が所有するあらゆるビルや住宅の内部に勝手に侵入するようになり、野球場やサッカー場、とりわけ企業の会議室で終日ごろごろするようになったので、冨者のビジネスマンは、彼らの隙間を縫って打ち合わせするほかなかった。2/23

朝の4時頃に私の声が聴こえた、とリョウちゃんがいう。「そんなはずはない、その時間は私は眠っていたよ」というと、「かわかわの耕ちゃん!」と叫んでいたという。どうやら寝言が電波で鎌倉から浦和まで飛んで行ったらしい。2/24

ジコチュウで不規則発言を繰り返していた歌手が、ついにイオニアレストを退社したので、社長も社員もほっとした。2/25

修学旅行の夜にホテルのトイレに行くと、小便器があまりにも高い位置についているので、チンポコが届かない。ふと便器の下を見ると、点点と血糊がついており、人間だか鳥獣だかよく分からない目玉や肉片も散らばっている。2/27

これは駄目だ。小便どころではない。早く自分の部屋に帰ろうとするのだが、ホテルの廊下は真っ暗闇で、どこにあるのかも分からない。2/27

桐野と2人で巨大なクマと戦っている。最初は私が黒クマで、桐野が白クマだったが、いつのまにか相手が入れ換わり、私が鍬を白クマの頭にぶちあてると、真っ赤な鮮血が迸り、脳天の白い骨が見えたので、私は急に白クマが可哀想になった。2/28

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

西暦2014年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

引越しをした。現地につくと段ボールから出された荷物が全部家の前に並んでいる。驚いた。机も椅子も本もピアノもお皿もまるでその空き地が居住空間であるかのように配列されているので、パソコンに向かって日記を書いていると、雨が降って来た。3/30

島崎藤村の身内の何回忌だというので、その生地を訪れた私だったが、そこは山奥の薄が茫々としげる草原の真ん中の一軒屋で、まわりには誰も住んでいなかった。平屋の八畳間には大きなテーブルだけがどかんと置かれていた。3/29

黒光りがする頑丈な古材のテーブルには、私の右に見事な白髪の島崎藤村、まん前には壮年の森鴎外、左にはまだ若さが残る夏目漱石が座っていたが、彼らの顔は逆光でよく見えない。藤村の手には子供の作文か悪戯描きのような紙片があった。3/29

「君は何駅で降りたのかい」と尋ねると、鷗外が「某駅だ」と答えた。それぞれ違う駅からここへ来たらしい。すると藤村が、「なるほど漱石君は一つ先の駅を降りてまず墓参りをしてからここへやって来たというわけだ。そういうコースがあるとは私も思いつかなかったな」といって愉快そうに笑うのだった。3/29

その町の寄り合い所には、意見を異にして敵対する2つのグループ全員が、手に手に武器を携えて結集していた。はじめのうちは荒あらしい言葉の応酬だったが、誰かが誰かを殴ったのを皮切りに、たちまち白刃がきらめき、弾丸が飛び交う阿鼻叫喚の巷と化した。3/29

集英社やマガジンハウスの編集者が集まって、なにやら懸命に企画案をプレゼンしているのだが、おびに短したすきに長し、で行き詰った私たちは、テーブルを離れて午後のコーヒーを飲みにいった。3/26

後楽園ホールで開催される「ばちかぶり」の雲古ライヴに行こうと、彼女と一緒に水道橋の改札口を出ようとしたら、三角形の頂点にあたる場所に、黒メガネをかけたチンピラが立ちはだかって通せんぼうをするので、一発でノシてやった。3/25

西武グループの御曹司のはずなのに、テレビや週刊誌でしか知らない立派な顔をした堤一族が勢ぞろいした大会議の中で、私は蒼ざめた顔付きで黙り込んでいるしかなかった。3/24

大震災のために横倒しになった路線バスが、公園の中に倒れ込んでいたので、カルテットのメンバーである私たち4人は、その内部の狭い空間を活用して、練習したりミニコンサートを開いたりしているのだった。3/23

地下鉄に乗ろうと下降していくと、道はまるで大蛇の巣穴のようにどんどん大きくなり、また丸くなって地下へ地下へと降りてゆく。不安に駆られた私は携帯を掛けたが通じず、仕方なくほぼ垂直に落ち込む真っ暗な道を落ちていった。3/22

ある会社に飛び込み営業を掛けて、出てきた若い女性社員の下着を脱がせて、その場でなにしようとしていたら、アメリカ人のおっさんが「スミマセンガ」と道を聞くので、彼女とつがったまま廊下に出て、「あっちだよ」と教えると、「サンキュウ」といって立ち去った。3/22

医学生の私は、男性の死者たちのペニスを解剖して、そこに刻まれている彼らの末期の言葉、すなわち「金言」を書きとめ、遺族に教えると共に私の博士論文の糧としていた。3/22

私は歌舞伎のチケットを買いに来たのだが、大きなビルヂングのどのフロアに売り場があるのか分からず、エレベーターが止まるたびに外へ出ようとするのだが、すぐに扉が閉まってしまい、結局買うことが出来なかった。3/21

善行を施す度にその人の評価は高まり、彼が住んでいる石川島を見下ろす超高層マンションの彼の住処は上へ上へとあがってゆき、とうとう最上階のペントハウスに到達したのだが、今では避雷針の直下の小屋に住んでいる。3/21

敵鑑からの集中砲火を浴びて、30数発の砲弾に見舞われながらも、私が搭乗している戦艦は、無数の損傷を蒙りつつも奇跡的に運行に支障はなく、毎時20ノットで疾走しているのだった。3/20

ファシストたちが罪なき市民をほうりこんでいる収容所の中で、私は普段の習慣を改めることができず、取締官の目を盗んで、夜な夜なぐうたら日記をパソコンにアップしているのだった。3/20

小中高大学と、何も勉強らしいことをしないで卒業し、会社に入っても同じような状態で呆然と過ごしていたが、そこを追い出されてからは、少し勉強を始めたけれども、それがとんでもなく遅すぎたのだった。3/19

自殺未遂の青年に、少年の私が「どうして死のうと思ったの?」と尋ねたら「いずれ君にも分かるさ」と答えたが、まもなく死んでしまった。やがて私が彼と同じ年になった時、私も自殺してしまったのだが、その時になって、初めて彼の言葉の意味が分かった。3/18

午後6時ごろになってようやく電気が来たので、店の照明を調整したり、電気仕掛けのPOPを動かしたり、BGMを掛けたりすることが出来るようになった。3/17

肝心の商品がよくないうえに販売網に破綻が生じているというのに、宣伝広告を強化すればこの危機を突破できると説くM部長の頑固な能天気を嫌って、私たちは全員で休暇を取ってピクニックに行った。3/16

震災による停電がようやく回復してきたので、それまで天井を向いていたショップの照明の向きを変えて真下にしたら、売り場の雰囲気が明るく楽しいものへと一変した。3/15

夜遅くまで残業をしていて腹が減った。中野坂上の駅前広場のようなところの店でなにが出来ると聞いたら、カレーライスとランチの炒め直ししかダメだというので屋台のラーメンを探すことにした。3/14

大名行列の先頭を歩いていた侍が、突然大刀を抜きはなって、後続の武士たちを斬りつけながら、中央の駕籠に向かって殺到してくる姿が目に入った。3/13

今日明日のオケの演奏曲目が、ハイドンとモザールの後期交響曲をそれぞれ3曲だというのに、指揮者は現れず、なんのリハーサルもないので、私たちはだんだん不安に駆られてきた。3/12

その若い女性は英国大使館の窓口担当だったが、彼女が黙って右側の席に座ると、左の席から窓の外に出てくる英国国旗が、まるで音声付のロボットのように、英国の観光案内を始めるのだった。3/11

朝日新聞の歌壇に自作の短歌が掲載されているかどうかを確かめようと、作品を書き込んだパネルを持った私は、往来を通行する人々に見境なしに尋ねたのだが、みんな怯えた表情で逃げ出すのだった。3/10

去年は17歳、今年は同じイタリア人だが20歳の女性と弧島でひと夏を過ごすことになった私だが、他にすることもないので、朝から晩まで幾たび性交に及んでも、ついにそれを最後まで貫くことができないのだった。3/9

東京ドームでファッションショーがあり、イケダノブオと一緒に見物していると、隣の席の男が「ちょっとやってみませんか」と言って、リトマス試験紙のようなものを持ってきて私の胸に張ると、「あなたガンですね」と宣告したので、愕然とした。3/7

なんでもさる引取り屋が息子を引き取ってくれることになったので、準備万端を整えて業者が来るのを待っている間に、彼は何杯も何杯もカレーライスをお代わりするのだった。3/6

鈴木、杉本の2人のリーダーに導かれた我らのチームは、勝抜きゲームに勝利した。なんでも御馳走してやるというので、今では貴重品となったウナギのかば焼きに舌鼓をうっていると、いつのまにか奇麗どころが膝の上に乗っているのだった。3/5

次から次へと山海珍味が目の前に並んだが、私の胃腸は最新のハイテク技術でこんとろーるされていたので、どんどん退治していった。3/4

中学校の中川という女性音楽教師の下宿に招かれた国語教師の私は、彼女がショパンの「小犬のワルツ」を弾いている背後から抱き締めて、その張り切ったお椀形の両の乳房をゆるゆると揉みしだいた。3/3

雪は次第に解けはじめていたが、まだ人間ピラミッドは確固とした形態を維持していたので、私はその一角に潜り込んで次の大震災に備えることにした。3/2

私は貧しくてお金がないので、さる富豪の家の前の道路の下にある地下室に住まわせてもらっていたが、そこは日の光こそ差さないが、広くて静かで、なかなか快適な環境だった。3/1

 

西暦2014年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

テレビ局に入社した私は、上司の命令で全国津津浦浦を経巡ってその土地に生きる人々の暮らしぶりを紹介する番組を作り続けていたのだが、東京本社の人間は、もはやそんな私のことなど忘れ果てたらしく、何年経っても音沙汰無しだった。4/30

暴力団の武装勢力と対峙していた僕たちは、だいぶ消耗していたが、ふだんはあんなに柔和な高山公平くんが激しくアジっているのを聞くと、「よーし、ひとふんばりしてみようじゃないか」と、腹の底から勇気が湧きおこってくるのだった。4/28

久しぶりに会社の広報誌を見たら、全然聞いたこともない連中が、会社とも世の中とも関係のない不可解な記事や対談やアホ莫迦な感想を吐き散らしているので、担当の前田さんにその訳を聞いたら、「上司が狂ってしまったからどうしようもないの」と言って項垂れた。4/27

広告のコンセプトも全体のデザインもコピーの書体と級数までもが決定しているというのに、肝心要のキャッチフレーズがまだ出来上がっていないので、関係者全員がコピーライターである私の方を見詰めているのだが、まったくのノーアイデアなのだった。4/26

彼らの物づくりのレベルはかなりいい加減で、個性も創意工夫も感じられなかったが、そのときは私はあえて駄目だしをせず、鷹揚に若いスタッフの労をねぎらった。4/25

私たちが所属していた自由市民軍は、みなおいぼればかりだったので勝手気儘にふるまったために、正規軍の連中は眉をひそめていたのだが、いざ戦闘となると楽しみながら戦い、しかも強いのだった。4/24

ボロボロの飛行艇を修理しなければならない。たくさんの硬貨を入れて大量のコンクリートを機に注入すると、いっぺんに崩壊する危険があるので、わたしは100円玉をちびちび投入しながら、愛機を慎重に修理していった。4/23

昨日診察してもらった病院が地震で倒壊したというので、知人の安否を確かめにいったところ、運悪くまたしても崩落が起こって瓦礫の山に呑みこまれてしまったのだが、そんな私を助けだしてくれたのは昔の恋人だった。4/21

イケダノブオが「パリに持ってゆきたいのでいい映画を推薦してください」と頼むのでいろんな映画を見まくったがない。知り合いの若い女性がある中国映画を推薦するのでこれにしようかと思ったが、それは彼女を思いのままに操っているリーチンチンの仕掛けと分かった。4/20

フォノグラムの尾木さんが、いきなり悪魔の歌を歌い始めたので驚いていると、誰かが「あの人は最近悪魔に心臓を抜かれてしまったので、ああやって本物のオペラ歌手を目指しているんですよ」と教えてくれた。4/20

商品企画室のA子と打ち合わせしていたら、彼女の上司の山口君がいきなりA子と企画室のなかの噂話をはじめた。しばらく我慢していたが延々とやっているので、「おいおい、君たち失礼じゃないか。こっちが打ち合わせしていたんぜ」と文句を言ったが、2人とも知らん顔だ。4/19

横町に面した家の奥の部屋には、着物をきてサルカニ合戦のお面をかぶった若い女が、左端でぶらぶらしながら、じっと往来を見詰めている。部屋には小さな裸電球がついているだけで、1つの家具もなかった。4/18

「私は広告を出す代わりに、売れない画家の絵を買っているんですよ」と、その右翼の総会屋は小学館のロビーで豪快に笑うのだった。4/17

吉兆の残飯を毎日食べて飢えをしのいでいた松田君は、遂に奴隷の身を脱して自由の天地に羽ばたいたのだった。4/17

リュクサンブール駅前のカフェに入ったら、昨日スイスで会ったばかりのゴダールがコーヒーを飲みながら独語の原書でギョエテを読んでいたので「ムッシューゴダール、昨日は大変お世話になりました」と挨拶すると、突然奇妙な東洋人に名前を呼ばれた彼は、一瞬怯えた顔つきになりながらも、ぎこちない笑みを浮かべた。4/16

死ぬべき日を迎えていた私の前に、突然蓮池君が蹌踉とした姿で現れて、「広葉の」という大著を世に出したので、これを読んで感想を述べてから死んでくれ、と嘆願且つ強要するものだから、とうとうその日は死ぬることができなかった。4/16

事故死した若林君のバラバラの死体は、4つの茶色い断片になって保存されていたのだが、それらがひとつずつ白昼の下に引き出され、バチンバチンと組みたてられていくと、若林君はたちまち生者となって蘇った。4/15

巴里に滞在していたら、息子の知り合いだという触れ込みで、全然知らない3人の若者が、入れ替わり立ち替わり私の部屋を訪ねてくるのだった。4/14

1985年に私の新居が出来たが、それは1本の巨大な楠を斧で切り倒し、鑿で刻んで作られた手造りの家だった。4/14

南蛮から鉄砲が渡来した種子島に、西洋服の第1号も渡来していたというので、それを見物に行ったら、船着き場の浜辺にお洒落な白いケープが置かれている。記念に持ち帰ろうとしたら、某アパレルメーカーが既に買い取った後だった。4/13

マーラーの交響曲第5番のすべての音符を、広大な正方形の舛の外に押し出すゲームの最終勝利者は、奴隷から解放されるというので、私たちは闘技場の中を必死に駆けずり回った。4/14

30坪ばかりの狭い敷地に、我が家のS型と隣の藤井家のF型の2つの住宅ユニットが相次いで到着したのだが、お互い勝手に組み立てを開始したので、もはやなにがどこやら収拾がつかない大騒動になってしまった。4/12

「原ジョージ」という名義でアメリカ企業の株券を持っていたら、どういう風の吹きまわしか無茶苦茶に値上がりして億万長者になってしまったので、大阪支店の仲間たちがお祝いしてくれることになった。4/11

超有名役者が出演するというので人気沸騰の歌舞伎公演のチケットを買おうと、私は夜も寝ないでパソコンの前に座り込み、ネット販売の時間がやってくるのを待っているのだった。4/11

アメリカでアメリカ車を買おうとしていたら、セールスマンが「まずクレジットカードを自分に預けろ」というので「冗談じゃない、お前はいったいどういう奴なんだ」と押し問答しているうちに、朝になった。4/10

自転車で保谷ヶ谷まで行こうとしたのだが、横浜駅の近所の小汚い一角で、路はおろか方角すら分からなくなってしまった。仕方なく自動販売機に自転車を寄せかけていたら、子供たちがやってきて、「ジュースを買うからどけてくれ」と騒ぐのだった。4/9

佐藤愛子さんが愛猫の青木愛子を亡くして涙にくれているので、「猫じゃなくて犬ですけどうちの愛犬ムクを霊界から呼び出してお貸ししましょうか?」と提案したのだが、にべもなく却下された。4/9

偉大なるお笑い芸人が亡くなったというので、朝から晩までテレビは追悼番組をやっているのだが、誰ひとり「笑っていいとも」とは言わなかった。4/8

NHKのアホ莫迦会長が、「朝9時半に君が代を斉唱しない者は全員解雇する」と宣言したので、これに対抗すべく、わが社の会長は「会社でいつもソーラン節を踊っていない者は、即解雇する」と宣言した。4/8

イタリア語なんて全然分からないのに、ヴェルディのオペラの字幕製作を依頼された私は、公演が終了するとただちに収録映像を再生し始めたが、そこへ指揮者が飛び込んできて、「腹が減ったから飯を食いに行こう」と手を引っ張るのだった。4/7

ABそれぞれ50人からなるチームが、完全原始人生活に挑んだのだが、3か月後に現地を訪れてみると、両チームともほとんど生き残った者はいなかった。4/6

リゾートホテルの労働者たちは、大幅賃上げを要求して無期限ストライキに突入していたのだが、仲間割れが起こって殴り合いも始まってしまったので、団結がぐずぐずに崩れ去り、お決まりの敗北を喫してしまったのだった。4/5

道路混雑を規制する会議に出たのだが、会議がポンポコ狸踊りを始めてしまったので、とうてい結論など出やしないのだった。4/5

「こんなに広告の出校があるんだから、パブも宜しくね」と誰かがリクエストしたら、婦人画報の戸川さんは「ハハハハ、また冗談ばっかり」と例によって豪快に笑い飛ばすのだった。4/5

全身黒ずくめのそのオバハンと、ちょっとしたことから言いあいになってしまった。会合が始まって司会者が挨拶しているというのに、そのオバハンが後ろを振り向きながら、また私の悪口を言いだしたので、私も応酬を開始すると会場は騒然となった。4/4

どこかの寄り合いでおいらは連れの席を取っていたのだが、あとからやって来たヤクザが「そこは俺の席だ」と難癖をつけやがったので、最初はしたでに出ていたおいらも、すぐに切れてしまって、彼奴をあっというまにボコボコにのしてやった。4/3

図書館に行ったが、平日の真昼間だというのに、誰もいない。仕方なく「誰かいませんか?」と大声を出すと、暗い奥の方から割烹着をきたおばさんが出てきたので「お茶を下さい」と頼んだらハイと答えたきり、いつまで経っても姿を現さない。4/2

軍事演習という名目で隣国のアパリティアに進駐したわが軍団は、ここで進撃をとどめるべしという慎重論と、さらにアンゴラ国まで東進すべしという積極論が激しく対立したために、進軍を停止せざるをえなかった。4/1

 

 

 

Les Petits Riens ~三十六年もひと昔

蝶人五風十雨録第13回「五月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 
 

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1981年5月30日 土曜
宮澤清六氏から頂戴した宮澤賢治の「貝の火」を読む。

1982年5月30日 日曜
藤沢にて第9回自閉症連続講演会を開催し盛会なりき。東大の太田昌孝先生を講師に招き、聴衆約200名。併せて神奈川県域総会も開催する。

1983年5月30日 月曜 快晴
サミット閉幕す。Addenda演出を野田氏に決める。次男が仲間と燕の巣を叩き落としたので妻、担任の小林先生謝る。子の弱さが問題なり。

1984年5月30日 水曜 くもり
六本木のスタジオAbiでAddendaテレビCM建設会社編を撮影。深夜、宣伝会議の答案の添削をする。

1985年5月30日 木曜 はれ あつい
池袋サンシャインにて「チェーンストアフェア85」をみる。この頃三半規管がおかしい。地軸がずれる。

1986年5月30日 金曜 雨
新橋TCCで「モロン」をみる。SFカルトお笑い映画なり。ぴあにて「インディアン・キャバレー」をみる。インド女流監督によるドキュメンタリー映画なり。

1987年5月30日 土曜 くもり
会社休んで次男の授業参観。教師は高見順の「われは草なり」を題材に詩学講義を行ったが、こんなの子供には無理だろう。

1988年5月30日 月曜 はれ
エミリオ・エステベスの「WITHDOM」、エリック・ロメール「喜劇と諺シリーズ」の「友達の恋人」。いかにもありそうな話をいかにもありそうに描き出す才人ロメールならではの佳作なり。

1989年5月30日 火曜 にわか雨
3日続けてのにわか雨、そして雷雨。早くも夏か。デパートは消費税のあおりで売上が落ち込む。博報堂はじめて来社。余、身体弱りつつあり。企画の仕事に悩む。

1990年5月30日 水曜
「フンクイの少年」。侯孝賢の初期の自伝的映画なり。夜イケダノブオ氏の御馳走になる。

1991年5月30日 木曜 晴
会社休む。長崎雲仙は溶岩流で人々が逃げ惑っている。「弁明」「クリトーン」などでソクラテス最後の日々を読み感銘を受ける。新会社ディレク発足。

1992年5月30日 土曜 くもり後雨
会社休む。長男は材木座の散髪屋で髪を刈ってもらう。この家にも自閉症の同級生がいる。

1993年5月30日 日曜 ふったりくもったり
朝、長男の定期券を駅まで買いに行く。「杜詩」とシューベルトのCD2枚買う。雨上がりにムクと太刀洗まで散歩。父母が散歩のついでに我が家にやって来る。鎌倉古寺地図を見る。

1994年5月30日 月曜 雨のち晴
久しぶりに会社へ行く。佐野ちゃんは実家に帰ってぐずぐずしていたら、母親に怒られたそうだ。小坂、清水はギャラアップしたが、俺は去年と同じだ。妻は長男の要請で、遥々高野山の麓の本屋まで行く。ただそれだけでまた鎌倉まで遥々戻ってくるのである。

1995年5月30日 火曜 くもり
大阪出張。帰りに奈良に寄って国立博物館の日本仏教美術名宝展を見る。空海、最澄、聖徳太子の真筆、平家写経、吉祥天女像など素晴らしき限りなり。ついでに東大寺大仏、二月堂、三月堂をみて夜10時半帰宅す。

1996年5月30日 木曜 くもり
雨の予報なれど雨降らず。会社休みで静養す。今週長男はゆりの木ホームにステイする。ムクと太刀洗散歩。父具合悪く義姉吐く。義妹宅でもめる。

1997年5月30日 金曜 晴
会社に妻と次男より電話あり。次男のカメラ、マニュアルに出来るか否かの問い合わせなり。

1998年5月30日 土曜 陰 湿度高し
昨夜妹より身の上相談あり。失業率4・1%と過去最高。米国並みなり。パキスタンが再度核実験を行う。

1999年5月30日 日曜 快晴
素晴らしき5月の好天なり。次男がスパゲティを作ってくれる。いつものタラコではなく新作也。妻と長男「ゆうあいピック」より日焼けして帰宅。ムクのダニを50匹ほど取って瓶に入れたり。

2000年5月30日 月曜 晴 暑い!
午前、六本木シノヤマ事務所の傍の渡辺君の会社を訪ねる。webサイトの仕事をしているとか。午後、集英社にメンズノンノの石井さんを訪ねる。ロードショウ誌の田中洋子副編集長を紹介してもらう。

2001年5月30日 水曜 雨ときどきくもり
ムクと散歩。テングチョウ、ジャコウアゲハ、アオスジアゲハを見る。小柳、内田氏より電話。内田氏にレイアウト依頼す。本日より文芸社にとりかかる。講談社オブラからファックス届く。

2002年5月30日 木曜 はれ
鎌倉早見学園で講義。女の子休みで学生1人のみ。妻と海岸近くのレストランでフランス料理を食べる。もう海で泳いでいる人がいた。歯痛と戦いながら、文芸社リライト終了す。

2003年5月30日 金曜 はれ
文化講義第8回目。商業施設について喋ったが、途中で時間になった。新橋アシェット婦人画報社に鴨沢さんを訪ねる。元気そうなり。「夕映えの道」をみる。

2004年5月30日 日曜 はれ あつし
文芸社やる。原田さんに原稿のデジタル化を依頼す。妻、長男と熊野神社まで歩いたが、蒸し暑くさながら夏日のごとし。

2005年5月30日 月曜 雨
文化講義。EUは25カ国なのに23しかないと指摘され、赤面す。ルーマニアとブルガリアが抜けていた。双子山親方(元貴乃花)ガンで死ぬ。55歳なりき。

2006年5月30日 火曜 腫れたり曇ったり
工芸大、藤沢に住む映像科の女の子が駆けこんできたが、橋本氏にバトンタッチして帰る。日本、ドイツとの練習試合で引き分ける。今村昌平死す、79歳。

2007年5月30日 水曜 雨
南長崎のカウンタックに青池夫妻、母、妻と次男のグループ展を見にゆく。2点の写真が1枚8.5万。買ってやってもよいのだが、買わずに帰る。

2008年5月30日 金曜 くもり
工芸大、若干名。疲れた。7月29日から休みが取れないと知り、妻怒る。

2009年5月30日 土曜 くもり時々雨
妻と一緒にNHKの共同アンテナのちらしを配って歩く。積立金から3万円払い戻すという。

2010年5月30日 日曜 くもり
沖縄普天間基地問題で署名を拒否した福島大臣を罷免した民主党連立政権から、社民党が離脱。文芸社アップ。

2011年5月30日 月曜 雨のちくもり
文化講義2連発。

2012年5月30日 水曜 雨ときどきくもり
午前中に湿生花園を訪ね、4時に箱根から帰宅す。

2013年5月30日 木曜 くもり時々小雨
妻と大和へ行き、ニトリでベッド、無印で机と椅子を買い、6月9日に入所施設に納品してもらうことにした。

2014年5月30日 金曜 はれ
文芸社アップ。すぐに次の依頼ありしが、労賃あまりにも安すぎるので断る。

2015年5月30日 土曜 快晴
太刀洗で例年のごとく大量のルリシジミ発生。白いサラシナショウマの花もあちこちで咲いている。

2016年5月30日 月曜
今宵も森戸橋でヘイケボタル乱舞す。
月初シューマンの歌曲を思いながら「美しい5月」という詩を書いたのだが、安倍蚤糞の御蔭で「醜い5月」となり果てた。
この男はみずからが能天気に実行した経済政策が破綻し、なんの成果も上がらないので、それをなんとか責任転嫁しようとして、なんとサミットで「世界経済はリーマンショック前と同じくらい危機にある」などと異常な脳内妄想を公言して他国の首脳から気狂い扱いされたのみならず、3本の矢がみな折れて消費税アップの公約すら果たせないという醜態を演じている。
あまつさえ「謝罪なんかしなくてもいいからともかく来て下さい」と拝み倒してオバマ大統領の広島訪問を実現したことを、まるで鬼の首でも取ったように大騒ぎして、沖縄の邦人女性殺害の責任追及や日米行政協定の見直しなど、すっかり忘れ果てているようだ。
彼奴は「二匹目のどぜう」よろしく7月に選挙に打って出るようだが、こんな子供だましの手品に騙されるほど愚かな民草ではないことを思い知らされるに違いない。

 

陰謀は悉く破れ皐月尽 蝶人

 

 

 

Les Petits Riens ~三十六年もひと昔

蝶人五風十雨録第12回「四月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

 

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1981年4月30日 木曜
一難去ってまた一難。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の著作権問題起こる。夕方弁護士を訪ねる。

1982年4月30日 金曜
「若いネッコの会」盛況。深夜までUCLAについて語る。

1983年4月30日 土曜 曇
中島氏と東急、西武、丸井等々の売り場を回る。

1984年4月30日 月曜 晴
自宅に河野氏、渡辺夫妻、大友さんを招いて夕食会。自閉症の親はみな大変なり。

1985年4月30日 火曜 晴
PRⅩブランドCMのラッシュを見る。平凡なり。

1986年4月30日 水曜 はれ
霞が関ビルにて日本システム・マーケティング講習会。筑波大星野、法政大某助教授の話が面白かった。「Mrミスター」のライブ。新宿厚生年金会館で天皇在位60周年の式典。ソ連の原子炉爆発。2千人以上死亡。(追記、26日のチェルノブイリ原発事故である)。

1987年4月30日 木曜 はれ
スタジオにてトシオトミタ・メンズの記者会見用写真を撮影。流通大島氏、能率協会殿村氏にネクスト・アパレルの原稿300枚を渡す。

1988年4月30日 土曜 はれ あつし
朝9時より東西スタッフが集まってIN初の宣伝企画会議を行う。ショップは全国27店舗で15坪を確保。

1989年4月30日 日曜 はれ
学研「ル・クール」鴨沢氏より依頼のビデオ原稿を書くために「恋に落ちて」「恋のエチュード」「男と女」「哀愁」「慕情」「イージーライダー」「ペーパームーン」「パリテキサス」「ストレンジャー」「俺たちに明日はない」をみる。

1990年4月30日 月曜 はれ
休日出勤。会社は英国ブランド買収のために200億投じたという。吉越氏と昼食。某嬢と夕食。

1991年4月30日 火曜 快晴
オリバー・ストーンの「ドアーズ」を見て結構感動す。吉祥寺で盲導犬を連れた眉目秀麗なる青年とすれ違う。

1992年4月30日 木曜 雨
内心忸怩と雨が降る。物凄く寒い。かくも長きセクスの不在。新橋にて「ハワーズエンド」みる。2時間半は少しだれるが、まあ英国文学の香りを伝えてはいる。

1993年4月30日 金曜 くもりのちはれ
朝信濃川河畔より万代橋にのぼりて、日本海を望む。彼方に佐渡の島あるべし。やがて快晴となりてNext21ビルの展望台にのぼらんと、百千の新潟市民つめかけたり。ラフォレ店は超満員。帰京して東博にて大和の古仏、浮世絵展をみたり。

1994年4月30日 土曜 はれたり曇ったり
今日こそは、と思いてふとんを干せば忽ち曇り、取り込めば再び晴れるなり。さながら余の人世の如し。ムクを伴いて2度散歩。妻子と大船常楽寺に詣ず。北条泰時公の墓あり。イトーヨーカ堂にて5千円の椅子を需む。

1995年4月30日 日曜 くもり時々雨
栄子さん来たりて妻と辻家へ赴き、おとむらいへ行く。玄関に塩を撒く。ムクと太刀洗いへ散歩。悪食の台湾栗鼠は3、4年前から鎌倉に出現するようになれり。鈴木保奈美が詩を朗読するアイデア浮かぶ。夜、二代目鴈治郎の「曽根崎心中」の千回目公演をテレビでみる。

1996年4月30日 火曜 くもり
課長会にてクリエイティブが駄目だと文句をいわれる。蓮池君が給料が減ったとこぼす。クリュイタンスのベートーヴェン全集4千円也。

1997年4月30日 水曜 晴のち小雨
夕方次男が取手に帰ったので悲しくて仕方がない。我が家の希望の星なり。山岳部に入って山に登るというので驚く。

1998年4月30日 木曜 くもり
皇居前のパレスホテルのサンアドにて、雑誌広告の打ち合わせ。その後原宿に戻って、引越し準備をする。

1999年4月30日 金曜 晴
今朝秀麗なる紫色の富士山を見る。9時半になるのに佐藤以外誰も来ない。原宿へ行き豊田社長に手帖・カレンダーの製作を止める許可をもらう。次男、山荘へ行く。今宵満月なり。

2000年4月30日 日曜 晴れたり曇ったり
TALO都市企画に50万の見積りを出す。夏物を出し、クリーニングに出すもの以外は天日に干したり。茶色でピーチクピーチク鳴く尾長き鳥は何鳥ならん?(追記、中国より飛来して大繁殖中の画眉鳥なりき)。

2001年4月30日 月曜 雨
妻の助けでテープを起こしながら、竹田津氏の対談を原稿にする。雨が上がったのでムクと散歩。緑に横時雨。風邪完治せず薬を呑み続ける。

2002年4月30日 火曜 小雨
吉祥寺二葉専門学校にて講義。前半時代史、後半課題。タワーレコードでワーグナーの「指輪」13枚組4千円。東京駅で散髪。

2003年4月30日 水曜 小雨
二葉にて授業。出席4名のみ。概論と時代史。決算報告レポート。連歌18句まで到達。妹は長女の挙式で大童らし。

2004年4月30日 金曜 くもり
長男風邪で発熱。病院で診察してもらったが、一昨日の薄着が敗因なり。住宅関連の取材で連休中に神戸に出張することになる。(追記、取材前夜急性アルコール症にて突如意識不明となり、救急車で集中治療室に担ぎ込まれたり)。

2005年4月30日 土曜 はれ
青池夫妻来たりて長男にカラオケをさせてくれる。長男、喜ぶ。余、急に左の背中が痛くなり、呼吸困難に陥ったので妻に治してもらう。名刺を自分で印刷したが10枚中2枚白紙なりき。

2006年4月30日 日曜 晴 好日
数日前と同様クロアゲハ飛来す。長男と共に熊野神社へ。文芸社やり、文化講義の準備する。妻は繁れる草を取る。

2007年4月30日 月曜 快晴 暖
青池家納骨式。卓。亮夫妻来たりて皆で楽しく過ごす。長男と熊野神社へいく。

2008年4月30日 水曜 はれ
工芸大いそがし。夏の如き気候なり。妻の胸腺まずまず異常なしと診断さる。

2009年4月30日 木曜 晴
工芸大ほとんど学生来ず。ロスから帰国の女性、ウイルスに感染。いよいよパンデミックか。

2010年4月30日 金曜 晴
太刀洗でシジミチョウ見る。家の垣根に大きなガもいた。妻の腰痛ますます酷くなる。自動車の運転のせいである。

2011年4月30日 土曜 晴
長男と散髪に行く。今日で4月は終り。結構残酷な月なりき。妻、虫に刺されて顔腫れる。

2012年4月30日 月曜 小雨のち曇
文化学園大講義。出席35名。理論編の第3回なり。夕方次男が帰宅す。元気そうなり。

2013年4月30日 火曜 小雨 ○
妻、横浜市大病院にて胸腺の診察。阿呆莫迦猪瀬知事がイスラム国を莫迦にする発言を行う。

2014年4月30日 水曜 くもり
妻と太刀洗。長男大荒れに荒れる。

2015年4月30日 木曜 くもり
次男、妻と葉山の美術館にて「日韓近代美術家のまなざし展」を見る。十二所の玄関の階段を修理する。

2016年4月30日 土曜 快晴
連休はじまり、親戚一家来訪。ともに太刀洗を散歩す。オナガアゲハ、モンキアゲハ、クロアゲハ、ナミアゲハ、アオスジアゲハ、ナガサキアゲハ、ジャコウアゲハ、モンシロチョウ、コミスジチョウ、ベニシジミ、ヤマトシジミ、ヒメウラナミジャノメ楽しげに飛ぶ。好日なれど風強し。
熊本と大分で地震の余波が続く。自宅や家族を失った被災者たちの心身の打撃は測り知れず、政府の復興対策は遅々として進まない。結局国は口だけで何もしないのだ。福島と同様の生き地獄なり。

 

 

身自らやられない限りは所詮他人事 蝶人

 

 

 

Les Petits Riens ~三十六年もひと昔

蝶人五風十雨録第11回「三月三十日」の巻

 
 

佐々木 眞

 

 

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1981年3月30日 月曜

1982年3月30日 火曜
我が家の地鎮祭を行う。出席は父母と妻と我のみ。父母も近所への挨拶をしてくれたそうだ。夜、建築確認書が下りる。

1983年3月30日 水曜
マックスファクターなど化粧品メーカーを訪問する。N響の第2ヴァイオリン奏者の女性宅を訪れて、いろんな裏話を聞く。

1984年3月30日 金曜 はれ
資生堂フレグランス江守課長とCMタイアップの話。夜、日本武道館でリンダロンシュタット公演。

1985年3月30日 土曜
「宣伝会議」講師時代の教え子主催の集まりありしが、辞退して自宅で静養す。

1986年3月30日 日曜 雨 寒
冷たき雨降れど、妻の父母結婚45周年、長男の大船中、従弟の大宮高入学を海岸傍の大海老で挙行す。

1987年3月30日 月曜
小学館キャンキャン増井氏、ダイム中村氏を訪ねて打ち合わせ。宣伝の中川氏は休みなりき。成瀬の「流れる」「晩菊」をみる。

1988年3月30日 水曜
INのショー責任者会議召集、22名出席。CFDに参加するのは大変そうだ。

1989年3月30日 水曜
INのショー第3回打ち合わせ。ルイ・マルの「アトランティック・シテイ」、カウロス・サウラの「エル・ドラド」をみる。

1990年3月30日 金曜 はれ
INのショー打ち合わせ。6時から六本木の中華料理店で生活文化フォーラム最終回。大学教授や通産省の役人などが集まって「未来論」をやるのである。

1991年3月30日 土曜 雨
会社休みて大塔宮、荏柄天神に詣ず。駅前の島森書店で「すばる」を立ち読みしたら、明日締め切りとあったので、帰宅して原稿を清書す。

1992年3月30日 月曜 くもり
会社に身を捧げるは阿呆なことなり。心晴れず。すべからく自立しておのが進路を切り開くべきなり。永原嬢送別会。

1993年3月30日 火曜 はれ
昨夜、金丸信は3億円の保釈金を積んで釈放さる。仏社会党大敗。保守が2/3制す。ミッテラン大統領のCohabitation第2部のはじまり。一方ロシアのエリツィンは来月の国民信認投票を議会から強要されピンチなり。ダニエル・シュミット監督の「HORS SAISON」をみる。

1994年3月30日 水曜 はれ
ようやく春。しかし朝晩は寒し。細川首相の佐川疑惑は、以前続行中。

1995年3月30日 木曜 雨
体調悪く、会社休む。朝警察庁長官が背中をピストルで3発撃たれた。犯人はオウムなるか。

1996年3月30日 土曜 終日雨
早朝より3人で取手に行き、藝大に入った次男の下宿を探す。月額3万円、礼金敷金各1ヶ月の良き物件あり。パリーグ開幕。「ボリス・ゴドノフ」のLDを視聴す。長男は余を気にしている。ムクを怒る。

1997年3月30日 日曜 晴 風強し
十二所に行き、義母とガンで死にかけているその弟さんの葛藤話を聞く。いわゆる医者の不養生なり。安価なる銘機「カール・ツアイス・ドレスデン」にて庭の桜の花を撮りたり。

1998年3月30日 月曜 晴 良い陽気
午前永代営業所へ。まだ施工中で利用できるのは明日からなり。富岡八幡宮と不動尊に参拝す。

1999年3月30日 火曜 小雨
失業者313万人、失業率4.6%の過去最高を記録。朝9時15分に出社するとO副社長より電話あり。「よそ者の我われすら8時に来ているのにお前はなんじゃ」と怒鳴られる。さすがメガバンク出身者なり。午前中全員会議。

2000年3月30日 木曜 晴
ネーミングを社内ではなく外部のプロに依頼せよという指令が飛んで、てんてこ舞い。柿崎と昼食。中野君の会社に寄ってから帰宅す。疲れる。

2001年3月30日 金曜 降ったりやんだり
昨日直したはずの水道栓だが、今日はお湯が出ない。3万5千円も払ったのに。さらに2階のサッシがぶっ壊れてしまった。夕方銀座の資生堂ワードで梅若六郎と水原紫苑の対談。能の話が面白かった。

2002年3月30日 土曜 くもり
母の葬式で帰省したが、事後処理に悩んで寝られず。かろうじて郵便局の100万を引き出したり。実家の2階の雨戸を開け放ちて大掃除をする。午後3時発の「のぞみ」にて帰宅。疲れたり。

2003年3月30日 日曜 はれ
終日データをPCに打ち込み。亀田さんの桜はまだ2分から3分咲きなり。3人で太刀洗まで散歩。大量のカエルの卵発見。ようやく春が来たのだ。

2004年3月30日 火曜 くもりのち雨
工芸大橋本氏に呼ばれて中野坂上へ。就職課の仕事を2、3日手伝ってほしいと依頼される。アメリカ大リーグ開幕戦。ヤンキース対デビルレーイズをテレビで観戦す。

2005年3月30日 水曜 はれ
亀田さん宅の桜咲く。郵便配達にやってきた女の子がバイクを転倒させたために、郵便物が滑川に落下した。向こう三軒両隣のおじさんおばさんが大騒ぎして埒が明かないので、私が川に降りて拾ってやった。太刀洗にて第2弾のオタマジャクシ発見。熊野神社の参道に菫が咲いていた。

2006年3月30日 木曜 はれたりくもったり 寒 ○
明日までが冬の寒さだそうだ。この頃は大渋滞でバスが遅れたので、大学前で降りて駅まで走ったが、横須賀線も遅れていた。工芸大客多し。

2007年3月30日 金曜 雨のちくもりのちはれ
太刀洗まで写真を撮りに行く。長年続けていた自分の顔の撮影が、一昨日で頓挫してしまった。文芸社やる。

2008年3月30日 日曜 くもり時々雨
昨夜青池家の人々我が家に集い一泊。今日の午前中に帰った。優ちゃん元気そのものにて全く心配なし。耕は偉い!

2009年3月30日 月曜 はれ
久しぶりに妻と栄プールで泳ぐ。春休みなので大勢の子供たちが母親と一緒に来ていた。千葉県知事選で莫迦な男が当選す。

2010年3月30日 火曜 晴
大船の湘南鎌倉病院にて大腸ガン再検査を申しこむ。エコーでポリープの小さいものがあることが分かった。4時に帰宅。病院は嫌だ。

2011年3月30日 水曜 晴
長男がついに鎌倉の施設に移ることに同意したので、明日妻と4か所の施設を見学することにする。

2012年3月30日 金曜 くもり 風つよし
義母はシルバーから帰宅し、また文句を言っているらし。文芸社やる。国民新党分裂。

2013年3月30日 土曜 くもり
特に記すべきことナシ。

2014年3月30日 日曜 雨
終日家居して、ブログをアップする。本日で購読を止める最後の日経歌壇にて拙歌選ばれず。

2015年3月30日 月曜 快晴
妻の妹と娘が2人の子供を連れて十二所にやってきた。上の子が下の子をいじめるのは問題だ。

2016年3月30日 火曜
若宮大路の段葛改修工事が終了したが、見るも哀れな姿なり。中村吉右衛門丈を迎えた渡り初め行事を見物す。外国人多し。
今年はカエルの産卵が少なかったのに、鶯の数が例年より多いような気がする。
台湾栗鼠の暴威を耐え忍んで藪の奥からやってくる玉を転がすような美しい囀りに耳を傾けていると、偽イスラム国の自爆テロもアメリカ共和党予備選のトランプの狂気も、安倍蚤糞の破綻も、全世界を覆う暗雲もどうとでもなれという気持ちになってくる。

 

悪役が賜杯を攫い弥生尽 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第36回

西暦2015年霜月蝶人酔生夢死幾百夜

 

 

佐々木 眞

 

 

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ヤクザの家に生まれた私は、さるアパレルメーカーに入れられたが、そこの社長でもある父親は、私の名前であった吉田一郎を、翌年は吉田次郎、その翌年は田中三郎、その翌年は天草四郎と次々に改めさせ、出世魚のように出世させようとしていた。11/1

父は「ヤクザにも地域社会への貢献が必要だ」と称して、毎年一回「酒池肉林の会」を開催し、近隣の男たちに酒を振る舞った後で、一家の女たち全員を裸にして裏山に放ち、やりたい放題にさせていたので人気があった。11/1

面積1万ヘクタールの敷地に、私たち一家が経営している玩具工場とサーカス小屋がある。工場は金属はいっさい使われず、すべてが木でできていて、やはり木だけで出来ている玩具が製造され、サーカスの呼び物はお馴染みの空中ブランコだった。11/2

熊さんと八さんが道路の真ん中で睨みあっているうちに言い合いになり、突然熊さんが八さんの頭を、八さんが熊さんの頭をかち割ったので、大通りは血まみれになった。11/4

イーストロンドンの洒落たカフェには、緑色のウナギが飼われているのだが、ちょっと油断すると悪ガキどもが盗みに来るので、店主はいつも目を光らせていた。11/4

地球に帰還する宇宙船が時速5千キロになった段階では、地球から迎えに来た大道君が、時速3千キロに減速した段階では、門君がその操縦を担当することになっていた。11/5

毎年の夏の恒例となった映画撮影が、今年も始まった。南海に臨むリゾートにある監督の別荘に三々五々ここに集まった私たちは、極めて限られたスタッフだけで、極私的な長編映画をこれで7年間も撮り続けていた。

この夏も私は近くの基地にロケットで降り立った主役のエディ少年とエセル嬢を出迎えるために、おんぼろのダットサンで出かけたが、その光景は1年前となに一つ変わらなかった。お互いに一つ歳をとったという点を除いて。11/5

四越デパートでやって来たエレベータに飛び乗ったら、それがどういうわけだか2人乗りエレベーターで、中にはでっぷり肥ったいかつい中年男が乗っていたが、仕方なくお互いに我慢しながら1階まで下りていった。11/6

公演をキャンセルしたカール・ベームになり変って、大天使ガブリエルの私は、短い指揮棒を右手に軽くつまんでウイーン・フィルの前に立ち、コンマスのゲルハルト・ヘッツエルに合図してから、ブラームスの交響曲第1番ハ短調作品68の第1楽章の冒頭を開始した。11/7

荒野の真っただ中で、私は無くしたライフルと銃弾が入ったガンベルトを拾ったが、それれはインディアンもとい先住民が落としたものだった。インディアンもとい先住民は、私のライフルを拾った白人を殺してそれを奪ったのだが、それをまたしても落としたのだった。11/8

金に困って往生していたら学生時代の友人にぱったり出くわしたので、これ幸いと窮状を打ち明けたら「万事俺に任せろ」という。友人はその場で茂原印刷の茂原社長に電話して、「いつものようにあれを印刷してくれ」と頼んだ。

「あれって何だ?」と尋ねると、「ほらこれと同じ偽札だよ」と言って、本物そっくりの1万円札を見せた。「2時間ほど経ったら、茂原印刷へ行ってみな。出来たての新品が100枚首を揃えているぜ」というので、白山下まで行ってみるとその通りだった。

やったやったヤシカがやった!と鬱から躁に舞いあがった私は、同じクラス仲間のかつてのマドンナであったつうちゃんとまりちゃんを電話で呼び出し、久しぶりに酒池肉林の宴を開いてからピン札で勘定して、ご祝儀に2人に10枚ずつプレゼントしてらりらりらあんと帰宅した。

翌日のお昼ごろ、おいらは突然土足で踏み込んできた刑事に叩き起こされた。なんと、つうちゃんとまりちゃんが、今朝横浜銀行の窓口でおいらの渡した万札を、別の御札に両替してくれと頼んだ、というのだ。そこでおいらは「だから両家の御嬢さんは嫌いだよ」と呟いたが後の祭りだった。11/8

廃れた学校の校舎のような建物に着いた我われは、思い思いの部屋に荷物を運び入れ、そこで生活できるような環境を整えてから、遅い昼食をとった。隣の部屋には老母と美しい娘がいたが、一瞥をくれただけで、私は近くの町まで探訪に出かけた。

町にはひとっ子一人見えず、誰も住んでいる様子がなかったが、駅舎には電車が停まっていたので、既に動き始めていたそれに乗り込んだ。普通の電車と違って、開閉するドアがまるで自動車のように外側に向かって大きく開かれているから、簡単に飛び乗ることができたのである。

電車の中には20代の学生風の可愛い女が座っているだけで、他には乗客が一人もいない。まもなく電車が駅に着くと彼女が降りたので、私も降りて後をつけていくと、大学で入学式のパーティをやっていたので、なんとか彼女に話しかけたいと思ったが、妙な男に付きまとわれているうちに女は姿を消した。11/10

どこかの国の、どこかの街の、どこかの交差点で見かけた昼顔のように白い貌は、確かに私が昔恋した懐かしい女だった。11/11

慶応を出たスポーツマンのK氏が、若くして突然亡くなってしまった。彼は仕事はあまり出来なかったが、性格が温和にして明朗闊達だったために、大勢の人から愛されていた。また彼は大食漢であったが、私はこの人ほど美味そうに食事する人を知らない。

杉並の自宅にお通夜に行くと、真っ暗な闇の中に大きな提灯がぼんやりと灯っているだけでよくは見えなかったが、死んだはずのK氏が、家の前でその巨体を逆立ちさせながら「やあ佐々木君、お久しぶりですなあ」と声をかけたので驚いた。11/12

次回のテレビCMの企画会議が開かれたが、プロダクションの担当者がコンテ案を用意してこなかったので、電通の古川氏が激怒して叱りつけているが、そういうことがないように手配するのが君の仕事ではないのか?11/13

高原の牧場に立っているパビリオンに入ると、知らない男が演説していて、「この商品は外国人が一手に縫製しているから、これをすべて内製化すれば大きな利益を上げることができるだろう」と説いていた。11/14

この阿呆めが、と思いながら、ふとカフェを覗いてみると、リーマン時代の中島君や日隈君や斎藤君などのデザイナー諸君が、テーブルを取り囲んで談笑しているので、私は何十年振りかと驚きながらも懐かしかった。みなそれぞれあんじょうやっているようだった。

誰だか知らない人の家にいたんだが、2階からベランダへ出て、そこからどんどん下へ降りて行くと、レールの上に出た。やがて新幹線がやって来たので乗り移ると、先頭から2番目の車両で、そこには中学か高校の女子だけが乗っていたが、しばらくしてまた同じコースを逆にたどって、元の家に戻った。11/15

息子と一緒に大学のキャンパスで散歩していたら、久しぶりに黄揚羽が花に止まっていたので、パッと右手で捕まえた。すると今度は、別の花にルリタテハが止まっていたので、左手で捕まえて喜んでいたら、息子が「両手に蝶だね」と云った。11/16

田辺氏は「君、困ったときにはこの辞書を引いてみたまえ」と云うて「仏蘭西語にとっての外国語辞典」を下さったので、早速困ったときに引いてみたのだが、日本語すら容易に理解できない私ゆえ、仏蘭西語もその他の外国語もてんで理解できないのだった。11/17

ちょっと油断したすきに、長男がとんでもないものを口にしていたので、私は総毛立った。11/18

こうちゃんとけんちゃんは、それぞれに自転車に乗って、私より先に家を出て駅に向かったはずなのだが、いつまで待っても2人とも姿を現さないので、私はだんだん心配になってきた。11/19

A夫は空襲で怪我をしたB女を、防空壕の中で懸命に介護していたが、B29がその防空壕を直撃したために、2人とも死んでしまったが、両人は暗闇の中で不純異性交遊を行っていたことが、死後に判明した。11/20

さる編集者と次の小説の話をしながら十二所まで歩いてくると、葬列がやって来たのでよく見ると、私の親類の人の葬式だったので驚いた。11/21

その宝石を買うのは、大変だった。何時間も並んでからようやく順番がきたのだが、目の前に聳え立つ火山の噴火口から、赤青緑の珍しい宝石が次々に打ち出されてくるので、それを上手にキャッチしなければならないのだ。11/22

夢中になって両手を振り回しながら、ようやく緑色の大きなエメラルドを手にすると、そこには「魅せられたる魂」という文字が鮮やかに刻印されていた。11/22

「私がバッハを演奏する時には、空気滞留システムを使用します」と、その謎の女流ピアニストは言うので、「そんな話は聞いたこともない。どうぞお引き取りください」とホールの支配人は言うた。11/23

そこで私は支配人に、「スタインウエイにその空気滞留システムを設置するのは、そんなに難しくない。その新しいシステムを有名にする絶好の機会を逃がしては為になるませんよ」と、アドバイスしてあげた。11/23

Mcパーカ氏は、さる大富豪の好意で、自分のブランドショップをLAの繁華街に作ってもらったのだが、そこへ立ち入ろうとしたら、警備員に阻止されてしまったので、仕方なく裏口に回って屋根に上り、そこから梯子で中にもぐりこむしかなかった。11/24

帰宅すると井出君がいた。幼い耕君や健君と遊んでくれたようで、2人ともお城のてっぺんにのっかって、無数の爪を城下に捨てながら、楽しそうにしていた。11/26

軍団同士の戦は何日も続いたが、一進一退だった。今日こそは勝利をものにしよう、とわが軍が塹壕を辿って前線に肉薄したが、敵陣は空っぽである。ちょうど我々と入れちがいに、彼らはわが軍の陣地めがけて突撃していたのだった。11/27

わが図書館の分館では、2万冊の書籍を1)日本文学2)外国文学3)コンスチチューションの3つのカテゴリーに分類しているのだが、3番目の内容については誰に聞いても分からなかった。11/28

ところがまもなく本館と分館の図書館戦争が始まったので、私はまっさきにコンスチチューションのカテゴリーの書籍を、地下室のシェルターに隠匿した。11/28

2040年の4月に、4千万人の男女が築地市場に集合した。拡声器で入り口で渡されたチケットの番号を呼ばれた男女は、大喜びで抱擁し合っている。早朝からはじまったビッグイベントは夕方には終了し、誰もいなくなった。11/28

緑色のシャツを着た上司が、高倉健の真似をすると、まわりのお調子者の部下たちが拍手喝采していたので、面と向かって「なんだ、ちっとも健さんに似ていないじゃないか」というと、緑シャツはこそこそ姿を消した。11/29

東北の大牧場で、昨日から徹夜で馬やら牛やらを貨車にぎゅうぎゅうずめに詰め込んだが、送り主のリクエストに応えてそのすべての作業が終了したのは、そのまた翌日の夜中だった。11/30

遠路はるばる旅をして、ようやく我が社に来ていただいたお客様だというのに、営業担当者も私の上司も、挨拶すらしないので、私は「こら、お前ら、失礼じゃないか。席から立ち上がって、お礼をいうたらどうなんじゃ」と、怒鳴りつけた。11/30

 

 

 

Les Petits Riens ~三十六年もひと昔

蝶人五風十雨録第10回「二月二十八日」の巻

 
 

佐々木 眞

 

 

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1981年2月28日 土曜
土曜日なのに会社がある。アパレル産業協議会のカリキュラムを作る。急死したボンド氏のピンチヒッターなり。

1982年2月28日 日曜
藤沢の神奈川県青少年会館にて自閉症児者親の会「やまびこ会」の臨時総会を開催。出席者15名。藤沢の大貫氏、両高橋氏が積極的なり。

1983年2月28日 月曜
なんとなく書類の整理などして、嵐の前の静けさか。

1984年2月28日 火曜 はれ
徐々に暖かくなる。次男が「キン肉マン」の漫画を図書券で買う。この頃絵を描くのが好きになってきたようだ。長男は学校へ行くのが厭だという。青木さんアデンダの雑誌広告でTCC新人賞を受賞。

1985年2月28日 木曜 雨 寒
長男は風邪でずっと学校を休む。今日は耳が痛くなって芋川耳鼻科へ行く。感心に耳と口は診せたが、鼻は駄目。東洋現像所にて0号試写。2種のうちAタイプに決める。夕方講談社HOTDOGの原田氏と会う。

1986年2月28日 金曜 ハレ
AD会議。下らぬ。夕方シオンのライヴ・イベント。渋谷のカプセルホテル泊。

1987年2月28日 土曜 はれ
会社休みて芋川耳鼻科へ。ウオークマン難聴で依然聴こえず。昼銀座三越にてシネマウイークのプレゼン。スターロンの「オーバー・ザ・トップ」みる。次男の奇跡の生還を祝して、家族4人デニーズにて会食す。

1988年2月28日 日曜 晴
成田12時20分着のはずがロンドン・ヒースロー空港の電気故障でまたもや延着。機体全とっ換えで成田には4時着。ともあれ無事帰国できて良かった。

1989年2月28日 火曜
浅野、小森氏を迎え東コレ打ち合わせ。テーマはスーパーザウルスなり。予算750万で大丈夫なりや。シャネルの現売ショー、1回1億円の売り上げなると。

1990年2月28日 水曜 はれ
久しぶりに晴れる。西部百貨店の新社長に水野氏。43歳なり。今井氏は当社の副社長になれず、定めしショックならむ。夜、真鍋太郎氏の個展に顔を出す。

1991年2月28日 木曜 寒
開戦から6週間、地上戦開始から100時間、湾岸戦争終結、ブッシュ大統領が勝利宣言。イラクは国連決議を受諾す。INショップが宇都宮東武にオープン。

1992年2月28日 金曜 はれ
IN店長会を休んでJクルーのパンフの見本作り。本当は「ボヴァリー夫人」をみたかったのだが。すべてが遅れているので焦る。

1993年2月28日 日曜 雨のち晴
午前11時、初めて覚園寺を訪ねる。なかなか風情のある寺なり。僧ありておよそ1時間いろいろ解説す。今から800年前に北条時宗が創建、700年前に足利尊氏が再建したそうで、天井に尊氏の文字があった。その後首塚、永福寺に回る。

1994年2月28日 月曜 はれ
だいぶあたたかくなてきた。少し体調が元に戻ったように感じる。

1995年2月28日 火曜 くもり
おととい貴之花が元フジTVアナウンサーの河野景子と婚約した。彼女には会ったことがある。永代に行き、井出と話す。見事な現状分析による鋭い企画書を書いていた。キムラヤにてさらに7枚のCDを買う。

1996年2月28日 水曜 はれ
DM、カタログ打ち合わせ。西銀座スタジオにて日隈、中野両君と7DaySビデオのダビング。次男ムサビに落ちるがめげず、逆に予を励ましてくれる。

1997年2月28日 金曜 晴
今日は完全に怠けるつもりで会社へ行った。昨日の鴨下さんの発言の波紋が職場に流れている。藤沢周平の「白き瓶」読了。長塚節の哀れな生涯。しかし余もまた然り。ルービンシュタインのブラームス協奏曲第1番のCDを買う。

1998年2月28日 土曜 はれのち雨
妻とムクと果樹園に行く。梅8分咲きか。されど匂わず。午後卓ちゃん来訪。5人でカレーを食べる。卓ちゃんワードをインストールしてくれる。

1999年2月28日 日曜 はれ
熱、夕方7度近くになる。風邪か、それともプレッシャーか。高知で脳死の人、心、肝、腎の三臓を差し出す。来週土曜のためのテキストを打つ。来週部長にならむとす。

2000年2月28日 月曜 晴
11時小学館梅沢氏。矢沢、小野氏を紹介してもらう。午後4時半、電通古川氏。東北、九州の仕事を紹介してくれるという。夜マガジンハウスの倉田氏に御馳走になる。宝島のレップにならないかと。余は知らずして瀬戸口氏に傲慢なりき。次男が藝大大学院合格。

2001年2月28日 水曜 くもり 風強し
「プレイボーイ」鈴木氏への企画書を作るが、プリンターにトラブルありて苦労す。妻は「やまびこ会」のOB会に出席。若手と別れようとして、かえって苦労している。可哀想なり。

2002年2月28日 木曜 くもり 暖
終日ワードをやるがなかなか終わらない。夜佐藤から℡ありて工藤さん宅にいるという。石原、有馬などの同級生と一緒だというので驚く。文芸社高橋氏に請求書送り、山口氏から「主婦の友」の分入金。

2003年2月28日 金曜 晴
お茶の水SPビル8階にメデイアレップの森社長を訪ねる。「テレビサライ」の編集長を紹介され、余の新提案をぶつけよと示唆される。青柳君の神保町の事務所を訪ね、夜、銀座資生堂のワードにて玄侑氏が美女に催眠術をかけるを目撃す。あやしの業なり。

2004年2月28日 土曜 くもり
昨夜次男帰宅し、申告書類を作る。私は長男と喧嘩したので、「もうお父さんと暮したくない」といわれる。今朝、長男次男と3人で熊野神社まで散歩。午後次男が帰ると寂しくなる。

2005年2月28日 月曜 はれ
のどをやられて熱あり。耳鼻科のカクさんで診てもらう。文芸社リライト第1次終了。明日追加原稿が来る。

2006年2月28日 火曜 陰 寒
中野の工芸大にてコピーライター志望の優秀な学生に会う。今日で2月終了につき、長男ふきのとう舎より帰宅す。民主党の阿呆莫迦永田議員が謝罪す。前原は代表選に出ず。

2007年2月28日 水曜 晴 暖
文芸社アップす。風呂沸かし器みてもらう。2100円也。熊野神社頂上でカトリックの尼さんに会う。中国バブルで全世界で株価が下落す。

2008年2月28日 木曜 晴 ○
工事順調、コンクリ打ちが終る。妻は渡辺さんたちと外出。長男の来週のホームステイがなんとかOKになる。ついに文芸社来る。30万円也。

2009年2月28日 土曜 陰
経済危機ますます深刻。太刀洗いにカエルの卵あり。

2010年2月28日 日曜 雨のち曇
冷たい雨の中、3人で生協へ行く。午後から晴れてきたり。チリでM8.8の大地震ありて津波予報出たり。

2011年2月28日 月曜 氷雨
物凄い寒さのなか、中目黒の「青山目黒ギャラリー」で開催中の次男の個展「still live」をみる。作品もよく、オーナーもとても良い人。青池夫妻と同道の先生にも会う。

2012年2月28日 火曜 くもり
昨日母もホームステイへ。余は文化で講義。

2013年2月28日 木曜 晴 暖
都美術館の「エル・グレコ展」と東博の「円空展」、さらに埼玉美術館まで足を伸ばして「ポール・デルボー展」をはしごする。

2014年2月28日 金曜 晴 ○
あたたかし。太刀洗い第一現場にてアカガエル産卵す。親カエルが良い声で鳴いていた。

2015年2月28日 土曜 曇
本日にていちおう十二所リニューアル終了。台所とバス等を直して530万強なりき。

2016年2月28日 日曜 はれ
太刀洗から朝夷奈峠へ行ったが、産卵しているのはやはり第一現場だけ。しかし大小2種類の卵があり、大きいのはヒキガエル、小さいのはアカガエルであろう。
今年は今月13日にアカガエルが産卵し、その後しばらくしてヒキガエルが続いたが、いずれも例年より数が少ない。毎年こうやってカエル君の繁殖に手を貸しているのだが、徐々に絶滅の道を辿りつつあるような予感がある。
アメリカ大統領の予備選が始まり、共和党のトランプが跳梁跋扈しているが、鬼面人を驚かせるこの男が、歯に衣着せぬ本当の本音をぶちまけているからだろう。
普通の人ならいくら移民嫌いでも「メキシコ国境に壁を作れ」などと言いたくても我慢して言えないし、言わないが、良識と廉恥心をかなぐり捨てたこの排外主義者は、民衆の俗心の代理人のつもりで平気で口にするから、拍手喝采を浴びるのである。
「文化のない本音人」は「文化のある建前人」によって敗北するのが文化文明の世の常識というものだが、このアメリカのイトレルは、本邦の猪八戒イトレルと同様、もしかすると、もしかするかもしれない。
共和党と民主党でトランプとサンダースという左右の極端派が進出し、クリントンのような中庸派を震撼させていることは、ある意味でEUや中東イスラム教徒国の内部分裂・抗争、この国の右翼独裁体制と軌を一にするもので、大統領選の結果次第では、万人が万人の敵となる恐怖の世界大動乱の幕が切って落とされるかもしれない。

 

 

友愛てふ言葉床しき藪椿 蝶人