佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」

「祖父佐々木小太郎伝」文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

第1話 母の眼病

私が行き年12の時、(以下年齢はいずれも行き年)、33歳の母は4人目の子を産んで、この子は育たず、母は産後眼を病み、だんだん悪化してついに全く失明してしまった。

にわかめくらの不自由はたとえようもなく、何とかして治さねばと、当時は日本一の眼医者として知られた浅山博士を院長とする京都府立病院で診療を受けるため、渡世の下駄屋を閉め、弟と妹を親類に預けて、母をカゴに乗せ、父と私が付き添って2晩泊まりで京都へ行き、東洞院佛光寺上ルの十二家という丹波宿に泊まり、翌日京都府立医大病院に行って浅山博士に診てもらうと、「これはクロゾコヒといって、とても治らぬ眼病だ」と宣告され、母はガッカリして、「死んでしまう方がよい」といって泣き悲しみ、父も思案にあまって、このまま綾部に帰る気にもなれず、途方に暮れていた。

すると母は、「わたしは柳谷の観音様におこもりして、“消えずのお灯明”をあげて一生一度の願を掛けてみようと思う。どうぞわたしをそこまで連れて行って、あとはどうなろうとかまわずに、3人は綾部に帰っておくれ」と、いうのだった。

母はかねて柳谷の観音の霊験あらたかなことを聞いていたのである。“消えずのお灯明”よいうのは、手のひらに油を入れてお灯明をともし、一生一度の大願を掛けるのだということである。だが、そんなところに、この不自由な母をおきざりにして帰れるものでもなし、ますます困り果てて悲嘆に暮れ、2人の駕籠かきまで一緒に泣いてくれたほどだった。

この愁嘆場を十二家の主人が見るに見かねて親切に慰めてくれ、それから「千本通鞍馬口は十二坊というところに、俗にエッタ医者という眼医者があります。たいへん上手で、いかな難病でも治すという評判が高く、遠国からも病人が来て、ひどくはやっているそうです。そこへ行って診ておもらいになったらいかがでしょう」とすすめるのだった。

藁にもすがりたい気持ちの私たちは、すぐに母を駕籠に乗せて、京の町を端から端へ、遠い千本通鞍馬口へ、十二坊のエッタ医者というのをたずねて行った。

行ってみるとこの辺は京も田舎の静かなところだったが、病院はなかなか大きく立派だった。院長は益井信といい、そのお父さんの老院長とともに開いている眼科専門の病院だった。

院長の診断によれば、いかにも難病は難病だが、まんざら見込みがないとはいわないのである。ところが入院しようにも病室は満員でどうすることもできない。それを何とかして、「せめて1週間でもよいから」と頼んで、薬瓶など積んであるせまい物置部屋を片付けて収容してもらった。そこで父と駕籠かきは綾部へ帰り、私が母の介抱に残った。

にわかめくらの母は、何一つとして自分ではできない。食事の世話は箸の上げ下ろしから、便所通いにはいちいち肩を貸し、私は大事な大事な母、好きな好きな母のために、学校を長く休むかなしさとも、友だちと遊べないさびしさも忘れて、かた時も傍を離れず介抱した。

病院には広々とした庭があって、中に観音様の御堂があった。お参りする人が次から次へとあって、線香の煙の絶え間がなかった。母の目を治すために、何か祈りたい気持ちでいっぱいだった私は、母から聞いた柳谷の観音と、いずれ同じ観音様だから、これに母の眼病平癒を一心込めて祈ってみようと決心した。

毎朝母が目を覚ますと、いちばんに便所に連れていかねばならぬ。それから次々と用事がある。お参りは、まだ母が目を覚ます前にしなければならない。
私は毎朝うすぐらい時に起きてお参りをした。それからお祈りをするにしても、ただ「お母さんの目を治して下さい」だけでは、自分の真心が観音様に通じないような気がして、とつおいつ考えて、「私の片目をお母さんに上げますから、お母さんの片目だけでも見えるようにして」といつでも祈った。
それもただ心の中で念じるだけでは通じないような気がして。声に出して祈った。

こんなに早く誰も聞いている人は無いと思って、声はだんだん大きくなった。
ところがそれを聞いている人があった。丹後の森というところから来ている馬場治右衛門というおじさんと、越前から来ている川合おえんさんというおばさんだった。

馬場さんは目の悪い奥さんに付き添って来ていて、ひまさえあれば老病院長の碁のお相手をしている心の優しいおじさんだった。
おえんさんも優しい世話好きの良いおばさんだった。

この2人が病院中、に言いふらして、「可哀そうなことだ」、「感心なことだ」と、大変な同情を呼び、とりわけ老病院長がすっかり感動して、病院長と老夫人が願主となり、馬場さんやおえんさんたちが奔走し、病院中こぞって観音様に百万遍の大祈祷を病院の大広間で開くことになった。

私もその座に連なった。見ると一つひとつの玉の大きさがピンポンの玉ほどもあるような大きな数珠を座敷に置き、それを囲んで一同が輪に座り、まず願主の祈りがあると、続いて会衆は口々に南無阿弥陀仏を唱えつつ両手で玉を送って数珠をグルグル回すのである。

玉の中に格別大きくて房の垂れたのがあって、それが老院長のところへ回ってくると、老院長はうやうやしくこれを押し頂き、「戌の年三十三歳女眼病平癒致しますよう南無大慈大悲の観世音菩薩」と唱え終わると、すぐにまた数珠回しが始まり、これが限りなく繰り返される。

はじめのうちは数珠の回りがゆるやかだったが、だんだんそれが早くなり、念仏の声も高くなり、一人ひとりに憑き物でもしたかのように満場湧きかえるような白熱した祈りとなった。

私は人の情のありがたさに泣き、これほど熱のこもった大勢の祈りは、きっと観音様に通じて御利益が頂けるだろうと、何だかひどく元気づけられた。母もきっとおかげが受けられるだろうと言って喜んだ。

この御祈祷のあと、綾部から父が来た。この時、老院長は父に向かって「ひとつ一か八かの治療をやってみようと思うのだが」といって父の承諾を求め、その治療が行われた。注射器の針を眼尻の少し上のあたりに差し込んで血を取ったのである。ドス黒い血が太い注射器にいっぱい近く取れた。

その翌日、母を便所へ連れていく時、病室から明るいところへ出ると、母は私の肩から手を放して、「これ、畳のフチじゃないか。これ、障子のサンじゃないか」といって、畳を撫でたり、障子に触ったりするのだった。

「ああ、眼が見える! 源や! わしは眼が見え出した。うれしいことじゃ!うれしいことじゃ! 勿体ないことじゃ! うれしいことじゃ!」と、まるで気ちがいのように大きな声を出し、変な身振りで二度も三度も躍り上がるのだった。

それから畳に身を投げ出し、掌をいそがしくすり合わせて、観音様や院長様にありったけの感謝のことばを並べあげるのである。

この騒ぎに病院中の人がみるみる集まってきた。みな百万遍の珠数珠を回してくれた人たちである。眼が見えだしたと聞いて、誰もかもが自分のことのようによろこび、言い合わせたように一回ひれ伏して、観音様に奉謝の祈りを捧げ、祝福のことばが雨のように私たち母子の上に注がれた。

母の眼は、それからグングン良くなった。大体元通りになって、生涯さしつかえないだけの視力を保つことができた。
私はこの時おかげを受けた観音様や、親切にしてもらった多くの人々の御恩を忘れることができない。

十二坊の病院は、今はない。あの辺もひどく変わって、今は相当の繁華街になっているが、観音様は少し位置は変わったが、通りに面して今もある。後に、ほど遠からぬ場所にネクタイ工場を持った関係から、今はクリスチャンの私であるが、通りすがりには少しくらい回り道をしてでも、時々お参りをしている。

馬場治右衛門さんは、舞鶴辺の人と聞いていたが、住所の森というところがどうしても分からなかった。去年ある人から、東舞鶴の森の宮町が、昔は森といった、と聞いたので、行ってみたら、お宮の出口のところに馬場という豪家があった。

尋ねてみたら当主を亀吉といい、亡き祖父の名が治右衛門で、碁の名人だったこと、私たち母子の話も祖父から聞いていたとのことだった。私は後日改めて手土産を携え、再び馬場家を訪れ、仏をおがんで旧恩を感謝した。
ただ越前とのみ聞いていた川合おえんさんの住所は遂に分からなかった。

母は眼病後も7、8年経った頃、胆石病でおお患いをした。
胆石独特のはげしいはらいたがたびたび起こってひどく苦しみ、からだは見る影もなくやせ衰え、医者の薬もききめがなく、再三再四起こるさしこみに耐える力もなく、ただ死を待つばかりのありさまとなった。

この時も私は、眼病の観音様に祈ったのと同じ気持ちで、「私の命を3年縮めて母を病苦から救い、あと3年の寿命をお授けください」と、今度は、母の信仰する生まれ在所の稲荷様と讃岐の金毘羅様に、毎朝頭から3杯の水をかむって祈りに祈った。

その時の主治医の長澤さんが、「それは手術して胆嚢を切り取ってしまうよりほかに、仕方がない。私がやってみる」といわれた。まだ若い内科医の長澤さんが、まだやったことがない胆嚢摘出という大手術を、衰弱しきっている母の腹を開いてやろうというのだから、これもまた一か八かである。
ところがこれがまたみごとに奏効して、母は胆石の病苦を脱し、健康を回復して49まで生きた。

この二度の体験、わけても12歳の時の体験は、「まごころをこめた祈りは、必ず神仏に容れられる」という信念を、私に植え付けた。
これが子供心に焼き付けられて信仰の芽生えとなり、私は常に神仏を認め、これを敬い、これを畏れた。

後にキリスト教に入信し、いまだ、はなはだ至らない信仰ながら、ひたすら神を求めて祈りと感謝の明け暮れを送っているのは、この少年の日の苦難からもえ出た信仰の小さな芽生えが、雨露の恵みを受けて枯れしぼむことなく育った賜物である。

「それ信仰は、望むところを確信し、見ぬものを眞実とするなり」(ヘブル書第11章1節)
これは聖書中、信仰の定義といわれている有名な一節であるが、私が12歳の時の体験は、信仰というにはあまりにも幼稚なものであったにしても、この聖句の一端にシカと触れたものだと思い、かかる機縁を恵み給いし主と母とに感謝している次第である。

 

 

 

アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ

 

佐々木 眞

 
 

正午。
誰一人通らないカンカン照りの田舎道を歩いていると、どこかでポトっと音がする。
振りかえってみると、道の真ん中に、栗がひとつ落ちていた。

栗を拾って、なおもカンカン照りの道を進んで行くと、
道の真ん中に、小さなコジュケイが、ひとり佇んでいた。

コジュケイは、ゆっくりと歩きながら、しばらく物思いに耽っているようだったが、
いつものようにチョットコイと騒いだりせず、また一度も僕の顔を見ることもなく、
黙って電柱の脇に消えた。

どこからともなく、一陣のそよ風が吹いてきたとき、
僕は突然、分った、と思った。
彼女は僕に、「アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ」と言いたかったのだ。

なぜか僕は、一瞬その電話を、とることを躊躇ってしまった。
去年の今頃亡くなった妹が、ホスピスから掛けてきた電話を、
コロナで仰臥していた僕は、なぜか素早くとれなかった。

巨大な白入道が立ち上がる群青の空の彼方から、
ふと思いついたように吹きつけたそよ風は、歌うようにこう囁いたのだった。
「アリガトウ、サヨウナラ、ゲンキデネ」

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その66

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年4月

お父さん、メンドウクサイといったら、ダメでしょう?
ダメだね。

今回って、今のことでしょう?
そうだよ。

変更って、変えることでしょう?
そうだよ。

お母さん、シャケご飯とトマトスープとマーボドウフにしてね。
分かりましたあ、シャケご飯とトマトスープとマーボドウフにしましょう!

お父さん、じえじえ、アマちゃんでしょう?
そうだね。ツバメも、じぇじぇって鳴いてるけどね。
じえじえ、じえじえ、じえじえ

お母さん、被告人て、なに?
悪いことをしたかもしれないひとよ。

お父さん、駅でえ回数券買ってえ、東急行きますお、29日。
分かりましたあ。

アコトさん、加藤のトウ、フジでしょ?
そうだね。フジだね。

お母さん、案内に従って、て、なに?
言うとおりにしてくださいね、のことよ。誰が言ってたの?
東急で。

お母さん、ぼく、東急好きですよ。
そうなんだ。もうツツツ大丈夫になったのね?
大丈夫ですお。

コウ君、ひーちゃんに、朝の5時に電話したら、駄目じゃないか!
うわあああ、御免なさい、御免なさい、もうしません!!

桜木町で、横浜線見ました。ぼく、横浜線好きですお。
そうなんだ。

 

2023年5月

鎌倉には、ツツツが、あります。
「早く渡れ」の信号ね。

お父さん、笑うとサトミ、なんていう?
「コウさん、アホ笑いしないでね」っていうよ。

お父さん、早く起きてください!
うんうん。
お父さん、早く起きてください!
うんうん。
お父さん、早く起きてくださいね。

お父さん、生徒会長、英語でなんていうの?
生徒会長ねえ。うーん、ちょっと分かりません。

取材って、なに?
取材かあ。新聞記者やテレビ局が記事や情報を集めて仕上げること、かなあ。
お父さん、取材って、なに?

「首都圏ネットワーク」のウエハラミツキが、黄色いスカートはいてましたよ。
そうかあ。よく見てたね。

お父さん、首都圏の英語は?
えーとお、メ、メトロポリタン!

お父さん、大好きですお。
お父さんも、コウ君大好きだよ。
お父さん、大好きですお。
コウ君、どうかしたの? 大丈夫?
大丈夫ですお。

お母さん、インターネット、なに?
いろいろと調べる道具よ。

お父さん。いまお母さんは?
当ててご覧?
セイユー。
ブ、ブー。
オバアちゃんち。
ピンポン!

お母さん、亡くなったのは、ヒロスエリョウコでしょう?
そうねえ、ドラマのお話の中でね。

お父さん、「やり直し!」って、言われちゃったよ。
いつ?
むかしッ!
大丈夫だよ。

お母さん、むかし、湯河原の、コノエモンホテル、行きましたお。
そういえば、昔みんなで行ったわね。面白い旅館だったわね。

盛りだくさんって、なに?
いっぱい、いっぱいのことよ。

 

2023年6月

たしなめるって、なに?
悪いことしたらダメよ、って注意することよ。

ウエハラミツキ、臙脂色のスカート、はいてますよ。
そうだね、臙脂色だね。

コーヒーポッド出て来たよ。コウ君が捨てたんじゃないのに、コウ君を疑ってごめんね。
許してあげますよ。
ありがとう!

クワイ、出てて良かったよ!
何が出たの?
ハッパだよ。
どこで出たの?
お庭だよ。

コウ君、今日はどこいきますか?
図書館とお西友だお。
分かりましたあ。

再調査って、なに?
もう一度調べることだよ。

ぼく「舞いあがれ!」みてますお。ぼく「舞いあがれ!」好きですお。
そうなんだ。
舞いあがれ! 舞いあがれ! 舞いあがれ!

お父さん、大好きですお。
お父さんも。

お父さん、洗濯物、乾いた?
乾きましたよお!
お父さん、洗濯物、乾いた?
乾きましたよお!
お父さん、洗濯物、乾いた?
乾いたよ。乾いたよ。乾いたよ。

お父さん、社長秘書の英語は?
プ、プレジデンツ、セ、セクレタリー。
なに?
プレジデンツセクレタリーだお。

お母さん、ウエハラミツキ、怖くない?
怖くないわよ。コウ君、怖いの?
怖くないですお。
可愛いんでしょ?
ウエハラミツキ、可愛いお。

コウ君、今日はどこへいきますか?
西友ですお。
そうですか。

お母さん、ヒロスエリョウコ、いなくなっちゃったよ。
そうねえ。ザンネンなことしたねえ。

さて問題です。お父さんは、いまからどこへ行くでしょう?
おばあちゃんち。
あったりー! コウ君も行きますか?
おうちでお留守番してます。
そうですか。

お父さん、洗濯物、乾いた?
乾いたよ。
洗濯物、乾いた?
バッチリ乾いた方から、心配しないで返ってきな。

一人ぼっちって、なに?
お友達がいないことよ。

フラレルって、なに?
もうお付き合いをしてもらえなくなることよ。

お母さん
証明って、なに?
はっきりさせることよ。

お父さん、明日トウキュウいきますお。
そう。もうツツツ、大丈夫?
大丈夫ですお。

お父さん、ぼく、イシャラサトミ、可愛がっていますよ。
え、そうなの。

対象者のショウって、ゾウだよね?
そだね、確かに象だね。

 

 

 

ジェーン・バーキンの思い出

 

佐々木 眞

 
 

その1

 

2023年7月16日、女優ジェーン・バーキンが、パリの自宅で76歳で死んだそうだ。

長く心臓を患い2021年には軽い脳卒中を起こしたこともある、という新聞報道を斜め読みしながら、私はしばらく彼女との懐かしい思い出に浸っていた。

バーキンといえば、日本人の誰もが思い出すのは、2011年3月11日の福島原発事故であろう。

あの時、多くの外国人が来日を取りやめたが、なかにはジェーン・バーキンやシンディ・ローパーのように、万難を排して震災直後のわが国にやって来てコンサートを開いたり、激励のメッセージを私たちに伝えてくれた勇気あるミュージシャンもいた。

当時原発事故の様子は、本邦よりも西欧諸国のメディアのほうがより深刻に報道されていたはずだから、「万難を排して」というのは単なる形容詞ではなく、彼らは恐らく文字通り、みずからの生命の危険を賭して、飛んできたに違いないのである。

実際ジェーン・バーキンが乗り込んだ成田行きのエアフランス機には、彼女以外の乗客は一人もいなかったそうであるが、この便がパリに戻るときには、大勢の乗客で満席だったはずで、その中には本邦を逃げ出そうとする日本人もいたに違いない。

なぜジェーンが、そういう命懸けの向う見ずな行為に及んだのかは私にはよく分からないが、思うに彼女は、愛する日本人のことが心配で心配で仕方が無かったのではないだろうか。

テレビで第一報に接してすぐにシャルル・ドゴール空港に向かおうとする異邦人の心の底には、日本人と自分を同一視し、この最大の苦難の時をともにしたいという、国境を超えた同胞愛のようなもの、が点滅していたに違いない。

「朋あり遠方より来たる」と孔子は言うたが、同胞からおのれを切断する悲愴な決意を固めて西に飛んだ友人の代わりに、新しい東方の友人を迎えた人たちは、百万の味方を得た思いで「楽しからずや」だったのではなかろうか。

私がジェーン・バーキンという、そんな伝説付きの女優に初めて出会ったのは、1986年11月のことだった。

当時彼女は、レナウンの「P-4」という婦人服の広告にモデルとして出演するために、夫の若手映画監督ジャック・ドワイヨンと共に来日し、宣伝部に在籍していた私が、その接待役?を務めることになったのである。

私はその前年に同じ「B.B.N.Y」というブランドのテレビCⅯ2本を、やはり老練映画監督のJ=Ⅼ・ゴダールに撮ってもらっていたので、なんとなく新旧のヌーヴェル・ヴァーグに近いところで、趣味と実益を活かした?楽しい仕事をさせてもらっていたなあと、今振り返って思うのである。

 

ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり  蝶人

 

 

 

その2

 

ジェーン・バーキンが出演するテレビや雑誌広告の撮影は、京都の大沢池や高山寺の周辺で行われたので、私はロケ隊と同行し、彼女のモデルとしてのプロ意識とスタッフに対するざっくばらんな接し方に共感を覚えたが、いちばん印象的だったのは、ある日の昼の弁当に出て私を驚かせ、どうしても食べられなかったアメリカザリガニ!のフライの弁当を、彼女がミック・ジャガーのような大口で、パクパクパクと喰ってしまったことだった。

1986年11月30日日曜日の私の日記に、「ジェーン・バーキンはキディランドでお買いもの。夜、音響スタジオにてグリーグのペールギュントの「ソルヴェーグの歌」を管弦楽とピアノの両方で録る。久しぶりに自宅でくつろぎ『キネマ旬報』の原稿を書く」とあるが、この時のテレビCⅯの音楽で、彼女がスキャットで歌った「ソルヴェイグの歌」が、彼女が帰国したあとの1987年に、ゲンスブールの歌詞とプロデュースによって「ロスト・ソング」という新曲としてフィリップスレコードからリリースされたのだった。

ゲンスブールは高音部を出せないバーキンに、あえてそれを強いた。バーキンの悲鳴に似たその歌声が、この曲の悲愴味をいやがうえにも高めているが、ハンサムでインテリのドワイヨンに夢中で、間もなくゲンスブールと別れて結婚することになるバーキンに対する、サディスティックないたぶりも、ふと感じさせるような編曲である。

なぜか音楽の話になってしまったので続けると、私はバーキンの最初の夫、英国の作曲家ジョン・バリーの映画音楽が割と好きで、今でも「007シリーズ」や「冬のライオン」「真夜中のカーボーイ」「アウト・オブ・アフリカ」などの名曲を楽しんでいるのだが、2人の間に生まれたフォトグラファーのケイト・バリーが、2013年12月に謎の死を遂げたことは、子供思いの母親バーキンにとってとても大きな痛手だったに違いない。

来日中の彼女は、毎日3女のルーに、「ルー、ルー」とその名を愛しげに呼びながら、国際電話していたことを、何故か私は知っているのだ。

 

 

 

その3

 

それはさておき、接待役の私は、日本の普通の家の暮らしが見たいというジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を鎌倉に招き、当時妻の両親が住んでいて、その死後には私の次男のアトリエ兼展示会場に変身した古民家「五味家」に案内すると、大層喜んでくれたのだった。

それから妻が運転するカローラに2人を乗せ、大仏と長谷観音を見物してから光則寺に行ったら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながら、ア・カペラで知らない歌を歌っていたので、「ああ、この人はアッシジのフランチェスコみたいに不思議な少女なんだ」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろ?」とか、「日本人はどうして火葬にするの?」などと、矢継ぎ早に英語で聞かれ、不勉強で教養のない私は激しくうろたえたことを、いま思い出した。

長野県の親戚の田舎などでは、いまだに土葬にすることを知っていただけに、「日本全国総火葬」と言い切ることも憚られたのである。

その場はいい加減にちょろまかして、私らはそこから以前女優の田中絹代が住んでいた鎌倉山の眺めの良い日本料理屋に行って、4人でお昼御飯を食べたのだが、その思い出の「山椒洞」は、その後ミノ某とかいう芸能人が買い取って、無惨なるかな跡も形もなく破壊され、すっかり新築されてしまったそうだ。

さて京都での撮影が無事に終わって東京に戻り、ドワイヨンが一足先に帰国してからも、バーキンは一人で帝国ホテルに滞在していたので、当時季刊映画雑誌「リュミエール」の編集長をやっていた蓮實重彦さんが彼女をインタビューし、私もその号にバーキン愛のエッセイを寄稿させて頂いたはずだが、肝心の掲載誌がどこかに消えてしまって見当たらないのが、とても悲しい。

 

 

 

その4

 

前にも書いた通り、私は彼女の接待役であったから、雑誌社の取材の時にも立ち会って、賓客の「バーキン様」に失礼や粗相のないように気を付けていなければなかったが、マガジンハウスのふぁっちょん雑誌「アンアン」の取材のときに問題が起こった。

彼女が滞在していた帝国ホテルの彼女の部屋でインタビューし、ホテルの裏口あたりで何カットかの写真撮影が行われ、「さあこれで終わりだな」と思った瞬間、取材担当のライターのおネイさんが、バーキンが肩にかけていた白くて大きなバッグに眼をつけ、彼女に断りもせずバッグを手に取って、そのままコンクリートの地べたに置き、カメラマンに「これを取れ」と命じたのである。

後ろの方でそれを見ていた私は、思わずカッとなって最前列に飛び出し、「あんた、こんな所でバーキン様の大事な私物を撮るなんて、失礼じゃないか、即やめれ!」と阻止したのだが、その白くて無暗に大きな皮製のバッグこそ、1984年にエルメスから商品化された「エルメスのバーキン」の「原型そのもの」だったのでR。

だから今思うに、本家本元の大元祖に目を付けたオネイさんは、礼儀知らずの無礼者ではあったけれど優れた編集者であり、それを実力で阻止した私は、ふぁちょん音痴の忠犬ハチ公なのでありました。

 

 

 

その5

 

ジェーン・バーキンが滞在していた間、東京でも京都でも、素晴らしく天気が良かったので、私は中原中也が待望の長男の誕生に狂喜し、『文也の一生』で「10月18日生れたりとの電報をうく。生れてより全国天気一か月余もつゞく」と綴ったことなどを、ぼんやり思い出していた。

1986年11月29日の土曜日も、東京は晴れていたが、その日、渋い2枚目俳優のケーリー・グラントが82歳で死んだ。

私は同じ英国生まれの彼女から、帝国ホテルでそのニュースを直接聞いたのだった。

「ジャパンタイムズ」を両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、(フランス語ではなく英語で)、彼女とグラントとの思い出について語ってくれたが、残念なことに、それがどういうエピソードであったのか、私の貧弱な語学力では、ほとんど理解できなかった。

しかし、同じ英国生まれの大先輩とはいえ、共演したこともない偉大な俳優の死に、なんで彼女はあんなに興奮していたんだろう?と、私は随分あとになってからも気になっていたのだが、ある時米国アイオワ州ダベンボートの劇場でリハーサル中に脳卒中で急逝したケーリー・グラントが、現地で「火葬」されたという事実を知って、もしかすると、それが興奮の原因だったのかも知れない、と考えるようになった。

わが国では死者の殆どが火葬だが、欧米では今でもその多くが土葬にされるので、ケーリー・グラントのようなケースは稀である。

バーキンは「ジャパンタイムズ」でそんな記事を読んだので、光則寺で土葬と火葬の話題をふってきたのではないか、と思い当たったのだが、ひょっとすると先日パリで死んだ彼女は、フランスでは少数派でも、英国では多数派の火葬にすることを、予め遺言していたのかもしれませんね。

 

 

 

その6

 

仕事柄何度も何度も帝国ホテルに通ったのだが、彼女はその都度「ボンジュール!」といいながら、自分の頬を私の頬に左右2度に亘ってくっつけ、そのたびに明後日の方を向いて、チュッと唇を鳴らすのだった。

フランス人が、親しい友人との間で交わす「ビズ(la Bise)」、すなわち“社交的なキス”である。

はじめのうちは大いに戸惑い、右から来るのか左から来るのか、と緊張しまくったが、だんだん数を重ねて慣れてくると、その時のテキの出方で、なんとなく分かるようになり、彼女の頬の柔らかさと淡いあえかな香水の匂いにうっとりしている自分が恥ずかしくなる瞬間も、偶にはありましたね。

何事につけても自然体で、あるがままに振る舞う彼女なので、格別セクスイーとは感じないのだが、何度も何度もビズを繰り返しているうちに、これはもしかするとベゼbaiserではないかという勘違いに陥る人も、いるに違いありません。

私はそういうニッポン人だけにはなりたくないなあと思っていると、バーキン様が喫茶レシートを見ながら、何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミック・ジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て、激しく首を振っています。

彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えて帝国ホテルのレシートにVirkinとサインしていたことを、いま知ったのです。

 

 

 

その7

 

すべてのプロジェクトが終わって、いよいよ明日は帰国という日に、コーディネーターの方の招待で、ジェーンと私はJR有楽町駅前のガード下あたりの、当時はちょっと有名だったフレンチレストランに入ろうとしていた。

ところが、入口でジェーン・バーキンを上から下までじろじろ観察していたボーイが、「ただ今満席です」と、にべもなく入店を拒否したのである。

彼女はいつものように白の幅広シャツにあちこち素肌が露出しているボロボロに履き慣らしたジーンズといういで立ちだったが、それがこの格調高い高級店?のドレスコード?に抵触したらしい。

私は、ここでまたしても逆上して、「このお方をなんと心得る!」と、不逞のボーイを叱りつけようとしたのだが、その前に「あ、そう。そんなことは慣れっこよ」といわんばかりに軽やかに身を翻したバーキンは、別に「食べるのはどこでもいいのよ。あ、ここがいいんじゃない」と呟くと、敷居の高すぎるフレンチの左隣にあった大衆食堂にどんどん入っていき、私たちはその日本料理屋の畳の上であぐらをかきながら、ビールで乾杯してから天ぷら、刺身、寿司などの山海の珍味に舌鼓を打ったのであった。

今ではその高級フレンチも、なんでもありの大衆食堂も消え失せて跡形もないが、私はここを通るたびに、女優でもなく、歌手でもなく、ただ一個の人間であった日のジェーン・バーキンを、懐かしく思い出すのである。

そして、その日彼女が日比谷花壇で買ってプレゼントしてくれた大きなタペストリーは、今でも我が家の家宝のように大切に保存されていて、毎年のクリスマスの日が、すなわち「ジェーン・バーキンの日」になるのだった。

巴里に戻ったバーキンとドワイヨンは、その後も彼らの愛児ルーを寵愛しながら、数年間仲睦まじく暮らしたようだが、1990年に離別し、ドワイヨンは96年の「ポネット」でヒットを飛ばしたけれど、2人の代表作は1984年の「ラ・ピラート」であると、わたくしは信じている。

ジェーン・バーキンの霊よ、安かれ!

 

 

 

 

 

女たらし

  ―女たらしって、なに?
    だらしないひとのことよ。(「ある家族の会話」)

 

佐々木 眞

 
 

わいらあ どうせ だらしないひと
おぬしも さいごは だらしないひと

女たらしが おるように
男たらしも わんさと おるがな

ときにそこいく お客さん 
よってらっしゃい みてらっしゃい

この世で いちばんめか 2番目に大事なこと
ただで 教えて しんぜよう

あんさんに どうしようもなく 好きな人が 出来
その人と やりたいと 思ったら

すかさず それを やることだ
抜く手も みせずに やることだ

パッパラパーと 脱ぎ捨てて
ペロペロペーと 舐め回し

グチュグチュグチューと 口吸うて
ズビズビズバーっと 突き入れて

アレアレアレーと 叫んだら
グルグルグルンと 捏ねまわし

一念発起 無念無想
一心不乱 一気通貫

四の 五の 言わず
二人揃って 成仏するんだ

よってらっしゃい みてらっしゃい
耳をほじって お聞きなさい

お二人さんも よござんすか
あたしは 二度は 申しません

好きで やりたく なったなら
ここを 先途と やることだ

これぞ この世の 置き土産
死に物狂いで やりきる ことよ

 

 

 

大宅世継作詞・夏山繁樹作曲による詩篇交響曲第8番『雄大なる楽天』

 

佐々木 眞

 
 

1「ズビズバー、パパパヤー」~2019年トランプ・ヴァージョン原典版*

 
カツオ「ねえねえ、NHKってまた偽ニュース流したんだって?」

のび太「へええ、ほんとかなあ。誰が言ってるの?」

しずか「トランプさんよ」

くまモン「でもあのひと、偽大統領なんだよ。知らなかった?」

シャイアン「へえー、そうなんだ」

トト子「安倍さんも偽総理大臣なのよ」

おそ松「へえー、そうなんだ。知らなかったなあ」

ワカメ「ISって、偽イスラム国のことでしょ?」

サザエ「そうよ。満洲国も偽満洲国なのよ」

イクラ「バブー」

イヤミ「ところで、あんた、誰?」

チコ「あらま、わたしのことを知らないの。ボーっと生きてんじゃないよ」

ガチャピン&ムック「こいつ、偽チコちゃんさ」

チコ「平成が終わったら、あんたらは死ぬといい。あんたらの死は近いぞ」

伴淳「アジャパー!」

アチャコ「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」

黒柳徹子「チコちゃん、あーた、そんなひどいこと言うと、死んでも『徹子の部屋』で追悼してあげないわよ」

左ト伝「ズビズバー、パパパヤー、やめてケーレ、ゲバゲバ」**

 *『佐々木眞詩歌全集』(らんか社)p18
 **『老人と子供のポルカ』     
 https://www.youtube.com/watch?v=LZZk0tP49H8
 作詞作曲/早川博二 歌/左ト伝とひまわりキティーズ

 

2「フェイクニュース」~2022年プーチン・ヴァージョン改訂版***

 
カツオ「ねえねえ、NHK ってまた偽ニュース流したんだって?」

のび太「へええ、ほんとかなあ。誰が言ってるの?」

しずか「プーチンさんよ」

くまモン「でもあのひと、偽大統領なんだよ。知らなかった?」

シャイアン「へえー、そうなんだ」

トト子「キシダさんも偽総理大臣なのよ」

おそ松「へえー、そうなんだ。知らなかったなあ」

ワカメ「I Sって、偽イスラム国のことでしょ?」

サザエ「そうよ。満洲国も偽国家なのよ」

イクラ「バブー」

イヤミ「ところで、あんた、誰?」

チコ「あらま、わたしのことを知らないの。ボーっと生きてんじゃないよ!」

ガチャピン&ムック「こいつ、偽チコちゃんさ」

伴淳「アジャパー!」

アチャコ「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」

黒柳徹子「チコちゃん、あーた、そんなひどいこと言うと、死んでも『徹子の部屋』で追悼し てあげないわよ」

中町綾「アセアセ」

 ***『佐々木眞詩歌全集』(らんか社)p126

 

3「それいけ!自由で開かれたインド太平洋」~2023年異次元男ヴァージョン最新版

 
カツオ「ねえねえ、NHKって、また偽天気予報流したんだって?」

のび太「へええ、ほんとかなあ? 誰が言ってるの?」

しずか「コウ君よ。大雨と落雷で電車が停まるというから早引けしたら、快晴になったんだって」

くまモン「でも、もっとひどいのは、この国の首相だよ。『なにゆえに異次元男を罷免しない公私混同の最右翼なるを』という狂歌を詠んだ人がいるそうだけど、その通りだよね」

おそ松「あの人、金庫にお金もないのに、『ミサイル買いたい、ミルクも欲しい』と叫んでる。無節操で、無定見、まるで<怪人ダヨン面相>みたいだよ」

チコ「あの人、偽総理大臣なんだよ。知らなかった?」

チョロ松「ジェ、ジェ、ジェ、そうなんだ」

トト子「<チャットGPT>を濫用しすぎると、大脳前頭葉がいつの間にか<「スマホチャットGPT脳>に変態して、その人間は<世界AI一家日本支部>の子分になってしまうのよ」

カラ松「へええ、そうなんだ。知らんかったずら」

ワカメ「『なにゆえに原発運転を延長するフクイチ再来が必要なのか?』という短歌を詠んだ人もいるそうだけど」

イラク「バブー」

一松「そういえば、『なにゆえに保険証を廃止する廃棄すべきはマイナカード』という歌もあるよ」

サザエ「真面目にちゃんと働いている保険証を用済みにして、欠陥だらけのマイナカードをアメとムチで強要したり、危険な原発を停止するどころか、勝手に長期運転に切り替えたり、こっそり新設計画を練るなんて、とんでもない話はだわ」

マスオ「<入管法>を改悪はしても改善するつもりなどさらさらない異次元内閣。その胸の奥にあるのは、どうあっても<とつ国びと>を<神国>に侵入させたくないという封建的な島国根性なんだね」

波平「彼らは、いったんは超党派で合意したLGBT法案を、党利党略でちゃぶ台返しにしたりするんじゃ」

フナ「『なにゆえにそんなに急いでどこへ行くマイナ原発LGBT』という狂歌もあるそうだけど、まったくあの人たちは、いったいどういう了見で、あたしたちを、どこへ連れて行こうとしてるんだろうね?」

チコ「そりゃ<自由で開かれたインド洋>に決まってるじゃない!」

イヤミ「ところで、あんた誰?」

チコ「あらま、わたしのことを知らないの? ボーっと生きてんじゃないよ!」

ガチャピン&ムック「こいつ、偽チコちゃんさ」

黒柳徹子「偽者でも本物でもいいけれど、アタシが心配なのは、いつの間にか悪者扱いになっている市川猿之助選手。一日も早く『徹子の部屋』にやってきて、謎の一家心中事件の真相を、キチンと自分の口で説明してほしいな」

タラオ&タマ「そうだ、そうだ、そうだニャア」

 

 

 

「夢は第二の人生である」或いは「夢は五臓六腑の疲れである」第102回

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年4月

私は全国労働者同盟の議長に祭り上げられていたのだが、春季大会冒頭の挨拶を頼まれたので、マイクの前に立ったが、なにもいうことが無かったので、そのまま控室にもどって鏡を見たらカストロの顔になっていたので超驚いた。4/1

「便箋2枚に認めた」という原文を、「便箋2枚にしたためた」ではなく、「便箋2枚にみとめた」というたので、これは阿呆莫迦女子アか、アホ馬鹿AIのどちらかが発音したのだと分かった。4/2

我々が安気に暮していた生活の基盤、社会の岩盤が、突如ガラガラと音を立てて、崩れ去ってしまった。4/3

おらっちニセ家族の家長に祭り上げられていたんだが、ニセ家子たちを善導するどころか、シメシすらつけられないので、全員の総スカンを食らって、とんずらする羽目になっちまったんよ。4/4

企画室には、多士済々の男女が出入りしていたが、その中で一人の楚々とした美人がいたので、おらっちは彼女の細い首の上にうっすらとはえた、柔らかな羊の毛を、せっせせっせと、摘み取っていたのよ。4/5

夜の青山球場で、かの大谷選手がカっ飛ばした、超特大ホームランの球を捜せ、と厳命されたので、もう1週間近く、関東平野をさすらっている。4/6

普段は、左側が汚れているおっさんが、今日は珍しく、右側が汚れていたので、おっさんは大声でわめき散らしていたが、いばらくすると、その喚き声が、焼き場の煙突から文字になって、湧きでてきた。4/7

カエルが跳びこんだ穴の奥をよく見ると、巨大な蛇の卵が4つ5つ転がっていたので、おらっちは、日本政府の敵基地攻撃の真似をして、突き殺してやったずら。4/8

おらっちが所属している素人劇団は、演出担当の座頭不在で、主役も脇役も、毎回役者が変わるのだが、ある日突然、「アカデミー演劇賞」を受賞したので、超驚いたよ。4/9

ミラノのヴェルディに倣って、ザルツブルク音楽院に、「引退した音楽家のためのモザール養老院」が出来、蒙録した御大カラヤン翁をはじめとする大勢の音楽家が、涎を垂らしながら、徘徊するようになった。4/10

その展覧会は、世界一広い会場で開催されていたので、数多の作品の中で、息子のちっぽけな作品がどこに展示されているのかは、いつまで経巡っても、ついぞ分からなかった。4/11

目の前に「世界のサカモト」が、カラシニコフを両腕で抱えたまま通称「民主のたこつぼ」に向かって突撃していったので、おらっちも立ち上がって、後を追ったのよ。4/12

阿呆莫迦議員たちの、破廉恥な私生活を記録した動画を、当局に提出したので、全身逮捕されて、極刑に処せられた。4/13

ヨシダ組の大幹部のマスダ若頭が、物凄くおっかない血走った眼で、おらっちの胸をこづきながら迫ってくるので、おらっちはどんどん後退して、とうとう吉田組の玄関の外まで追い出されてしまったが、あにはからんや、それは組と切り離そうとする若頭の親心なのだった。4/14

夜中に帰宅したおらっちは、2人の子を寝かせて夜なべしながら妻が待っている我が家にこっそり忍びこもうといている泥棒を見つけたので、手に持った傘を思いっきり背中に突き刺してやったずら。4/15

いつのまにか、また夢の中ではお馴染みの、あの町をさ迷い歩いている。かなり離れたところに、駅があるのだが、そこから汽車に乗っても、目的地に近付くどころか、かえって遠ざかってしまうことを、私は知っている。4/16

電車に乗ろうとしても、今日はここまで、なぜか自転車でやって来てしまったので、乗ることはできない。自転車をそこらにもたせかけて、ぶらぶら歩いていると、ヤクザのようなチンピラが、「やい、こんなとこに自転車なんか勝手に置きやがって」と絡んで来た。見ると、彼の後ろには長い行列が出来ているようなので、焦る、焦る。4/16

町の中には、平安時代に造営されたと思しき三重塔のある御寺や、長い参道を有する神社があって、その参道を歩いているときに、いくつかの出会いと事件が生起したようだが、その内容は、杳として霧の中で霞んでいる。4/16

会社に夜遅く戻ると、北海道の友人が送ってくれた1本の牛乳が、私の机の上に置かれていたので、大切に家に持ち帰ったずら。4/17

またセールスの電話がかかって来たので、すぐに切ろうと思ったのだが、さかんに「ほぼほぼ」と叫ぶので、『「保母」と「ほぼ」という日本語はあっても、「ほぼほぼ」という日本語はない。恐らくボボ・ブラジルあたりからやって来た外来語だろう』と、懇切丁寧に教えてやった。4/18

この美術館では、作家たちが来展を呼び掛ける動画メッセージを上映しているのだが、いずれも最初の呼びかけが、暫くすると、各人各様の芸術的、政治的スローガンの連呼に変わっていくのが、面白いといえば面白かった。4/19

久し振りに五味家を訪れたら、ウサギの大家族が繁殖していて、1階には母親と45人の子供、2階には父親と3人の子供が分かれて住んでいて、階段には、大勢の亀さんたちが、思い思いに寝そべっていた。4/20

北から、巨大ロケットにかんする、技術提携の話がきたのだが、いろいろ考えた末に、断ったずら。4/21

死んだ父が、相変わらずハトムギチャを守って、自己解体の危機に瀕したので、コロナ以後は、「2時間を超える映画は、みな1時間半までにカットせよ」というお達しが出たらしい。4/22

私が詩集の最後の校正をしていたら、どういう訳だか自作の詩ではなく、香港の民主派の新聞『りんご日報』の2021年6月24日の、「雨の中香港の人にお別れする。また会いましょう!」という最後の記事が載っかっている。じつに不思議だ。4/23

その男は、私の壊れたラジオや空気枕など、ありとあらゆる身の周りの品々を、まるで魔法使いのように、あっという間に直してくれた。4/24

清水通りから円神神社に向かう小道は、鬱蒼とした森の中にあって、相当不気味だが、神社で賽銭を投げこむと、地下を流れる河の底に蠢く、大勢の不思議な人たちが、我がちに拾い集めている姿が見えて、一層不気味だ。。4/24

イケダノブオが、26日に「サンフランに行く」というので、つい「じゃあ一緒に行こうか」というてしまったが、別に一緒に行って、一緒になにかをするあてがあるわけでもないので、後で後悔したのよ。4/25

ベルナルト・ベルトリッチ監督から、新作映画の劇伴の作曲を頼まれたのだが、ペンを執って真っ白な楽譜に向かうたびに、坂本選手の「シェルタリング・スカイ」の主題歌が頭ん中で鳴り響くので、涙を呑んで辞退してしまった。4/26

怪しげな茶色いカクテルを、誰かれなく「飲め飲め」と強いている、不届きな野郎がいた。4/27

白いワイシャツ姿の男が、てらこ下駄屋の店先に横付けして、花柄のブラウスを着て、おそらく20代の若さに輝く母の愛子さんに、なにやらぺらぺら話しかけている。危ない!きゃつが犯人なのだ。僕は、その場に全速力で駆け付けようとする。4/28

春の長雨が続き、おらっちは引き算ばかりしているので、くだんの伯爵夫人は「どこにもお出かけできないから、あたし詰まんないわ」と、のたまわるのだった。4/28

私の右隣の女は、タイコを叩きまわっているし、左隣の女は、パチンコ台の前に座って、延々とパチンコを続けている。ところが、突然右隣の女が、左隣の女と喧嘩をおっぱじめたので、私は困ってしまった。4/29

いつのまにやら道路の上に、巨大なゴミが置かれているので、近所の人たちと一緒に調べてみたら、どうも同種同文の東アジアの民草の生活道具の一式らしいが、それがいったいどのようにしてこんなところにまでやって来たのか、については諸説紛紛だった。4/29

4年ごとに開催される映画祭にやってきたわたし。港の突提の先端には、不慮の事故で亡くなったわたしの夫の記念碑が建っているが、映画祭が終われば、誰一人訪れる人もなく、忘れ去られていくのだろう。4/30

 

2023年5月

わしは香川県動民村の出身なんじゃが、不心得者の村長が、わしの弾圧を命じ、物凄い村八分に遭わせたんで、じりじりと山間の僻地の方へと退避せんといかんかったのじゃ。5/1

夕方アパートに帰ってくると、人間の大きさのキューピー人形が、おらっちの布団をかついで階段を下りてきたので、おらっちは覚えず激怒して、不気味なキューピー人形どもを皆殺しにしてやった。5/1

せっかくワーナー映画の製作部に入ったのだが、なんでもきゃんでもオーディションに合格しないと仕事にありつけない。仕方なくサントラ・マーク監督の「汚された不在」の通行人役のオーディションを受けたら合格したので、一生懸命に務めていたら、いきなり主役に抜擢され、ヒロインと媾うことになったのよ。5/2

2人の兄がうまく取り持ってくれたので、ぼくは、やっとこさっとこ彼女とデートすることができたんだが、せっかく会ったというのに、ただのヒトコトも喋ることができへんかった。5/3

朝の5時すぎ。早く寝たのでもう起きだした長男が、疲労困憊してぐっすり寝こんでいる妻の枕を取り去り、ついでうわ掛けの毛布を、最後に敷布団まで力任せに引っ張るので、仕方なく妻は、睡眠不足の赤い目をこすりながら起き上がるしかない。5/4

私は日記に、現在と過去と2種類の話を書いていたのだが、現在も過去も、次ぎ次に過去と大過去にずれていくので、ずれていった分に、新しい現在と過去の新しい話が、次々に必要になるのだった。5/5

何十年ぶりに故郷の町に帰ってきた私は、この町の伝統であるマラソンレースに参加したのだが、案の上びりっけつでゴールインしたのだが、その時旧友の一人から、思いがけない話を聞いた。私の昔の恋人が、ここからそう遠くない隣町の炭海地区の洞穴に、1人で住んでいるというのだ。5/6

とっくの昔に誰かと結婚して、米国のLAに住んでいるはずなのに、「なんでまた?」と訊ねると、なんでもLAで暴漢に襲われて亭主が殺され、自分は重傷を負ったものの生き延びたので、帰国してからはずっとそこに住んでいるというので驚いた。さてどうしたものか?5/7

おらっちは、田舎のバッティングセンターで球拾いをして、生計を立てているのだが、時にはピッチングマシンから時速150キロで飛んできた球を撃ち返して、ホームランにしたりすることもあったが、そんな時にはいくら探しても、球は見つからないのだった。5/8

成瀬監督の私が、白い瓜実顔の新玉美千代を起用した映画「長い道」のラストシーンは、題名通り長い坂道を下って来る美千代のロングから始まり、クロースアップで終わるのだが、彼女の顔があまりにも透明で、余りにも美しいので、なかなかカットを命じることができなかった。5/9

キオスクに貼られているポスターで知ったのだが、私が知らない間に、突然今年のザルツブルク音楽祭への出演が決まったらしい。なんでも私は、メンデルスゾーンとモザール、そしてウェーベルンのピアノ曲を演奏するらしいが、はてさて、どうしたらいいのだろうか?5/10

いきなり暴漢共に襲われたおらっちは、ひとりだけうまく外に逃げ出したのだが、それを知った誰かが、後ろから追いかけて来る。ビルの階段を、下へ下へとどんどん逃げまくるおらっち。5/11

大相撲を引退した元横綱めがけて、右から左、大から小までのすべての党派が、「ぜひとも我が党から選挙に立って欲しい」と要請したのだが、元横綱は、どの党の要請にも応えることなく、吉本興業に入ったのであった。5/12

口元にマイクを突き付けられたのだが、いったい誰に向かって、何を言うたらええのか、てんで分からんかったので、チャットAIを呼び出して、「おめえ、なんか言え」と命じて、代わりに答えてもらったずら。5/13

一度将棋でいう「歩を垂らす」というのをやってみたくて、歩を垂らして1歩進んで、晴れて「ト金」になってみたら、あっというまに、名人戦に買ってしまったよ。5/14

おらっちは、その男が正論をぶつのを聞いているうちに、正論は正論で結構なのだが、その正論を、あまりにも激烈にぶちあげる、その態度がだんだん不愉快になってきて、遂には、その男を憎悪するようになってしまった。5/15

おらっちは怒り狂って、今日こそその無礼な酔いどれ詩人をぶち殺そうと、晒しに巻いた出刃包丁を懐に忍ばせてやって来たのだが、それと知った取り捲き連中が、口々に「和を以て貴しとなせ」と、まるで聖徳太子のような科白を吐くので、とうとう決行できなかったわい。5/16

原宿の会社の1階で、エレベーターに乗ろうか乗るまいかと悩んでいると、部下のヒグマが「どうかしましたか?5階に行きましょうよ」と誘うのだが、やっぱり行きたくないので、地下の食堂でお茶を飲んでいると、お気に入りのカワイコちゃんがやって来て、超ミニをモンローみたく翻してくれた。5/17

僕は、シンプルブルブルジョワジーのタカギ伯爵の海辺の別荘に招かれて、ひと夏を過ごすことになったのだが、1冊の文庫本も持たずにやって来たので、突然原因不明の不安に襲われて、おちおち休暇を楽しむどころの騒ぎではなかった。5/18

とつぜん熊本のトミカワとかいう男が電話してきて、「ウチの娘を傷モノにしやがって、いったい全体、どう始末をつけるつもりだ」と怒鳴るので、「おたくの娘さんには会ったこともありません」と返事したが、てんで納得しない。どうやら大きな誤解があるようだ。5/19

俺たちゲリラ軍は、帝国軍の兵士とほぼ同じ格好で、一緒に行軍することもあったが、彼らが右肩に銃を担いでいるのに対して、俺たちは左肩に担いでいることで、両軍の区別が可能だった。5/20

月中には、コロナ怪獣と最前線で戦っていたのだが、月末になると、到底太刀打ちできなくなってきたので、全員医局に籠城せざるを得なくなってしまったずら。5/21

わいらあ南北朝時代に、主君より好き勝手ができた実権派の武将、高師直その人やったもんで、夜な夜な公家の深窓の美女をかっ攫っては犯し、かっ攫っては犯しの「酒池肉林性活」を、何年も何年もエンジョイできたんやった。最後は殺されたけど。5/22

その社会福祉法人の施設で、私は何十年も働いてきたのだが、その間施設長は何十人も代わり、法人の経営主体さえ何度か変わったが、私と妻、そしてまだ幼い時期の面影を宿している施設利用者の息子の3人だけは、朝から晩までいつも一緒に歳をとって来たのだった。5/23

私は、その前日に青年野球の監督を辞めていたものだから、大チョンボを繰り返す選手たちを、怒鳴ったり、苛めたり、体罰を加えたり、訓導したりすることも出来ず、イライラが募るばかりだった。5/24

夢の中の夢が、暗くて部厚い雲のように覆いかぶさっているので、息苦しくて暑苦しいのは、いつもと違う頻尿材を飲んだからに違いない。ところで、今何時だろう?5/25

デザイナーのイケダノブオがやってきて、「ササキさん昼飯でも喰いませんか?」と誘うので、あれっ、「君は、サンフランシスコでソノダと一緒に仕事をしているはずじゃなかったの?」と訊ねると、「ソノダなんて、知っちゃいないっすよ」と冷たい返事なので、超驚いたずら。5/26

久し振りにマージャンをやったんやけど、おっらち、コウヘイにハネ満を振りこんでしまったい。5/27

歳のせいか、目も耳も頭も鈍くなってきたので、やむを得ず、ドタマに1発、ぴすとるの弾を撃ちこんだら、たちまちスッキリしちまったずら。5/28

故障していたテレビが、突然元通りに直ったことに関係するのかどうか分からないが、急に視力が回復して来て、物干し竿の最先端が、くっっきりと見えるようになったあ。5/29

住所録を作るために、エクセルを使わざるをえなくなったが、今までワードしか使ったことがないので、勝手が分からない。縦列全体に網目を掛けて、字体と級数を統一しようとしたら、なにかの弾みで、何丁目何番地のところが、グチャグチャになってしまったずら。5/30

光速を上回る速度で突き進んで行くと、空間がどんどん凝縮されて、葬式饅頭くらいの大きさで、白熱しているのが、観察できた。5/31

私のボールペンの筆先から、紅蓮の炎と共に、霊感に満ち満ちた御文章が発出されたのだが、その中身たるや、書いた本人すら、赤面せざるを得ないほど、無内容な代物だった。5/31

 

 

 

心から心へ

西暦2023年皐月廿日銕仙会能楽研修所にて
青山実験工房第7回公演「追善・一柳慧」を4時間半立て膝で見聞きして

 

佐々木 眞

 

 

これは昨年10月に急逝された敬愛する作曲家を追悼する催しの、駆け足レポートです。

敬愛する音楽家が、多数登場する異色のコンサートとあれば、万難を排して駆けつけねばなりませんが、期待以上の感動的な音楽会でした。

まずバーバラ・モンク=フェルドマン構成・作曲による世界初演の「松の風吹くとき」では、高橋アキの研ぎ澄まされた感性と熱演が、劇空間と時間の全体を終始完璧にコントロールしていました。

ワキ西村高夫、シテ清水寛二の朗詠と能舞で、小野小町の3つの和歌が朗詠されるなか、高橋アキのピアノが、西洋音楽の主旋律と能の謡、地謡、囃子の劇伴を、同時並行かつ重層的に奏でる和洋折衷の新世界は、まことにエキサイティングでありました。

ただ、小町の世界に「羽衣」を不器用に接ぎ木したような能舞や、突如登場した鳳凰?の模型を、シテからワキへと手渡したりする直截的な演出に対しては、古典的な能の世界に馴染んできた観客は、多少の違和感を覚えたことでしょう。もっとも、それが演出家の狙いかも知れませんが。

トイレに並んでいうちに終わってしまった短い休憩の後で、慌ただしく第2部が始まります。なんせ猛烈に中身の濃い演目が、出番を待って犇めきあっているのです。

まずは前衛音楽の世界の重鎮、高橋悠治御大へのインタビューから。
御年84歳ながら、お洒落でシックな服装が素敵です。

「米国で映画音楽を手掛けると一流に非ず、というのが常識だったのに、わが国では武満、黛、林などの現代音楽家が挙って手掛けるのは不可解だ」と米国では言うておった、というような証言が印象に残りましたが、前日と同じ演題では、思い出噺もしんどいですよね。

次は1994年生まれの超若手作曲家、森円花の「神話 独奏ヴァイオリンのために」を甲斐史子が独奏しました。どんどん良く鳴る法華の太鼓、いつ終わるとも知れないアレグロの、テープの張られないゴールに向かって、莫大な熱量で爆走する巨大な行進に拳を握りしめて、「そうだ、そうだ、どこまでも、どこどこまでも突き進めえ!」と、胸の奥で怒鳴っているうちに、白内障でろくに見えない左目から、突如涙が噴き出してきたのには、いささか驚きました。

私は古典音楽では、かのチェリビダッケ&読響の生演奏に絶叫し、涙したことはありますが、現代音楽で泣いたのは、生まれて初めて。彼女が「一柳賞」を獲ったのも宜なるかな。この若き作曲家と、この物凄いヴァイオリニストの名前を、心の中でがっつり銘記したことでした。

息つく間もなく、今度は御大高橋悠治選手の登場で、一柳慧作曲の「イン・メモリー・オヴ・ジョン・ケージ」が、悠揚迫らぬ風格を保ちながら、演奏される。
終わり近くに御大突然立ち上がってピアノの中を弄ったのち、バアーンと全体重を掛けて「思い出を閉じた」あたりは、いかにも<ケージー=一柳=悠治>の濃密な交わりを象徴しているようで、それはそれは特別な瞬間でした。

甲斐史子のヴァイオリンと高橋アキのピアノで、やはりジョン・ケージの「ノクターン」、続いて石川高の笙、甲斐史子のヴァイオリンと清水寛二の能舞で、一柳慧の「月の変容」が奏された後で、メゾソプラノの波多野睦美が登場し、高橋悠治の伴奏で彼が作曲した「黒い河」が演奏されました。

これは解説によると、アムール川のほとりの日本人収容所で1954年に病死した俳人山本幡男による8つの俳句に基づく作品ですが、俳句の四季の循環を再現するように、舞台に円弧を描いて移動しながら歌う波多野睦美の、故人への深い思い入れが印象に残りました。

次が一柳慧の「限りなき湧水」です。タイトル通りに高橋アキが、ピアノが壊れんばかりに、力奏、力演また力奏。これほど勁い思いで書かれた激烈な音楽を、私は初めて耳にしながら、ビアニストの指と、ピアノの無事を切に祈っておりました。

まだまだコンサートは続きに続いて、またまた世界初演曲が登場! 殺された長男元雅の死を悼んで父世阿弥が書いた追悼文に拠る高橋悠治の「夢跡一紙」です。

これは波多野睦美のメゾと清水寛二の朗読、高橋悠治のピアノで演奏されましたが、ここでは能で鍛えた清水寛二の<声>の力が圧倒的。最近はよく詩人がみだりに朗読するようですが、まずは謡曲で喉を鍛錬してからがよさそうです。

さうして、ようやくやってきたのが今日のマチネーのオオトリ、一柳慧の図形楽譜に拠る「アプローチ」です。(この楽譜は1972年に製作されたそうですから、もしかすると、私がその頃の原宿で、ある日あるとき、ほんの一瞬だけ拝見させて頂いた楽譜の中にあったものかもしれないぞ)。

なんせ音楽の全体像に対する図形と漢字による表示はあっても、オアマジャクシがないのだから、石川高、甲斐史子、清水寛二、高橋アキ、高橋悠治、波多野睦美の全出演者が、思い思いに能舞台に現れ出てきても、誰が何を「アプローチ」するのかは、決まっていない。はずである。

それでも、いちおうのリーダー役は高橋アキ選手が司っているらしく、彼女が大声をあげてドラムを叩いたり、その綿棒でピアノの底面を叩いたり、高橋悠治が死んだ振りをして柱に寄りかかったり、清水寛二がピンポン球を客席に飛ばしたり、いきなり窓を開いて午後4時の陽光を招き入れたり、全員が三々五々やたら動き回ったりする姿を見ていると、既成のコンサートホールの音楽のありようを否定して、なんとか「アナーキーな非音楽的音楽状態」を立ちあげようとした一柳慧選手の心中の意図だけは理会できた、ように思ったことでした。

「でんでん太鼓」に「ガラガラ」で対抗しようとする高橋兄妹のユーモラスな顔と顔を、楽しく見物しているうちに、はしなくも私が思い出したのは、かのチャプリンとキートンが芸人根性でシノギを削った映画「ライムライト」でありました。

あそこでは、ヴァイオリンとピアノを破壊しての激烈な音楽バトルが繰り広げられましたが、もしかすると、一柳選手の図形楽譜の端っこには、そんなハチャメチャ・スラップスティック像が想定されていたのかもしれない。

とまれかくまれ、皆さんお手を拝借。過ぎてしまえば、いずれは演じた人も、見た人も、誰もが忘却してしまうであろう、一期一会の夢のコンサートに万歳三唱!!!

 
 

   その昔“昭和の世阿弥”が出入りした銕仙会で「現音」を聴く 蝶人

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その65

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年1月

あけましておめでとう。ぼく、言いましたよ。
コウ君、おめでとう!

ぼくは、お正月、好きですお。ぼく、お雑煮好きですお。
お父さんも。

お母さん、お父さん泣いたの、セイザブロウさん亡くなったからでしょう。
そうよ。

お母さん、ショウガイジって、なに?
障害を持つ子よ。

お母さん、自閉症って、なに?
コウ君みたいな人のことよ。

お父さん、おまわりさんの英語は?
ポリス、じゃなくて、ポリス・オフィサーだよ。
ポリス、ポリス、ポリス

命令って、こうしなさい、ってことでしょう?
まあそうだね。
メイレイ、メイレイ、メイレイ

零は、雨に命令の令ですお。
なるへそ、そうだね。

廃止、なくなること?
そうだよ。

お母さん、オデンに、大根と卵入れてくださいね。
はい、分かりました。

今日は、小正月ですよ。
そうか、コウ君よく知ってるね。
小正月、なに?
小さいお正月、かなあ。

ぼく、2023年好きですお。
そうなんだ。

「♪これっくらいの、お弁当箱に……」、ぼく、歌いましたよ。
歌ったね、コウ君。

お父さん、洗濯物乾いていますよ。
そう?ほんとに乾いた?
乾きましたお。

ぼくはトシヒコ君です。
こんにちは、トシヒコ君!

ぼく「コンピューターおばあちゃん」です。
それなに?
「みんなの歌」だお。
そうかあ。

ぼくはタクちゃんです。
こんにちは、タクちゃん。

お母さん、機会あったら、って?
今度良かったら、よ。

 

2023年2月

お父さん、きょう、イシハラサトミのビデオ、予約して。
分かりましたあ!

お父さん、きのう、イシハラサトミのビデオ、録画してくれた?
しましたよ。(朝5時から何回も電話あり)

お父さん、ぼくイシハラサトミのビデオ見ますよ。いま。
分かりましたあ。

盛りだくさんって、なに?
いっぱいある、ってことよ。

偶に、の英語は?
オケーショナリーかな。
タマニ、タマニ、タマニ

YMCA  GoGoGo!YMCA  GoGoGo! ぼく、いいましたよ!
ゆったね。

つもったら、電車とまっちゃうでしょう?
そうねえ、停まってしまうね。

ぼく、ウエハラミツキ好きになったんですお、フクモトリコの次に。
リコの次にかあ。

フサグは、シンキンコウソクのソクだよね?
なぬ?
塞ぐは、心筋梗塞のソクだよね?
そうか。ああ、そうだね。

お母さん、きょうコンスープとおいものグラタンにして。
分りましたあ。

なんとなくの英語は?
Somehowだよ。

セイザブローさん、シンゾー痛かったでしょう?
痛かったと思うよ。

お父さん、2千円ください。
お母さんにいいなさい。
お母さん、2千円ください。

ぼく令和5年好き。2023年、好きですお。
そうなんだ。

ぼくハレルヤの歌、好きなんですお。ハーレルヤ、ハーレルヤ、ハーレルヤ、ぼく歌いましたお。
歌ったね。

ぼく、パンダ好きですよ、お母さん。
そうなんだ。コウ君、パンダ見たことあるの?
ないお。

お母さん、口内炎が出来ましたよ。
あらまあ、こんな酷いことになって。痛いでしょう。
痛いですお。
可哀想に。お薬飲みましょうね。
ぼく、飲みますお。

えーとねえ、ぼくさいたま市好きですお、お母さん。
そうなんだ。

ウエハラミツキ、可愛いよね、お母さん。
うーーーん、可愛いというよりは……。

ぼくアサオカルリコです。「めんどくさいね」言いましたよ。
浅丘ルリ子がドラマでそういったの?
そうだお。

 

2023年3月

お母さん、大町から六地蔵通って、図書館行ってくださいね!
分かりましたあ。

お父さん、お風呂洗ってください。
分かりましたあ。

お父さん、大好きですお。
コウ君、なにかやったんでしょう?
やってませんよ。やってませんお・

お父さん、きょうトリセツ録画して。
イシハラサトミが出るやつね。分かりましたあ。

お父さん、きのうのトリセツ録画した?
ばっちり録画しましたよ。

お母さん、ミーティング、なに?
話し合いのことよ。

こっちのメダカさん、あなたも仲良く一緒に暮らすのよ。

コウ君、きょうはケンちゃんが来ているから、一緒に晩御飯を食べましょうね。
はい、分かりましたあ。

ぼく、オオヤさんに会ったんですよ。
そう、良かったね。
オオヤさん、ヒロスエリョウコに似ていますよ。
似てるね。

お父さん、洗濯機の修理頼んだ?
頼んだよ。でも部品が無いからいつ来られるか分からないんだって。
お父さん、洗濯機の修理頼んだ?
だからね……

お父さん、大好きですよ。
お父さんも、大好きですよ。

お父さん、洗濯物乾いた?
乾きましたよ。
お父さん、洗濯物乾いた?
乾いたよ。
お父さん、洗濯物乾いた?

ぼく、ヨシダタクロウです。
こんにちは、タクロウさん。

ジゾクコウマクカブロック、麻酔でしょう?
そう、麻酔だね。

お母さん、ぼく埼玉県好きですよ。
そうなの。お母さんもよ。

お母さん、誰と電話しているの?
当ててご覧。
エイコさん?
ブブー。
マリちゃん
ブブ-。

お母さん、ハスの赤ちゃんが出ていますお。
あらほんとだ。小さな芽が出てるのね。コウ君、よく見つけたね。

 

 

 

「即物入魂」の法悦境

豊田市美術館『ねこのほそ道』展で、8枚のぞうきん連作をみて、歌える*

 

佐々木 眞

 
 

 

新幹線の 名古屋駅から 45分
2つ乗り換えて 辿り着いたは 生まれて初めて 訪ねる 豊田市 美術館
人造湖 まで ある 広大な 敷地に 聳える 広い 広い 美術館 じゃった

そこで お目にかかったのは 2匹の ねこ
飼いたくても 飼えず 画家が 泣く 泣く 手放した 可憐な こねこ チャンと
目玉が 爛爛と輝く ペルシア絨毯付きの 立派な ねこの 「しいたけ」君 じゃった

じゃった じゃった ねこ ふんじゃった
大小 2匹 の
ねこ じゃった

『ねこのほそ道』 展 だから
ねこじゃ ねこじゃ の オンパレード か と 思って たら
そうでは なくて ねこ以外 のほうが 多かった

タオル バスマット バスタオル
のれん テーブルクロス 大きいテーブル
8種類も 並んだ ぞうきん 特製 コレクション!

もの じゃった もの じゃった
揃いも 揃って もの じゃった
みんな 見慣れぬ もの ばかり

立派な 絵描きさん なら
油絵 なんかで
ぜったい 描かない もの ばかり

ところが どうでい そんな ガリガリ博士の 無機物を
たとえば 画幅を はみ出す 灰色の ぞうきんなんか を じっと 見てると
驚く なかれ ぞうきん はん が もの を いうでは ないです か

 

第1のぞうきん、かく語りき。

あら、ご主人が、あたしの濡れた体を、ギュッと絞らないので、また奥さんに怒られてる。

 
第2のぞうきん、かく語りき。

ネエ、ネエ、聞いて、聞いて。
あたしんチのご主人ときたら、朝からポカポカ陽気なもんだから、
道路に長々と寝そべっている蛇を見つけて、「ギャッ!」と叫んで、「蛇だ! 蛇だ!」と大騒ぎして、腰を抜かしながら、それでも蛇さんを川に追い落とそうとして、
右足でキックしたら、
見事空振りして、すってんどお。
奥さんに、ケラケラ笑われてたわ。

 
第3のぞうきん、かく語りき。

あの人、白内障で、左の目が見えなくなったからかなあ?
でも白内障で失明してしまった飼い犬のムクの晩年の苦労が、少しはわかってきたらしいよ。
世の中、ケアとかヤングケアラーとか、何でも横文字になったら初めて考えてみるのが大流行みたいだけど、おらっち、昔ながらの「同病相哀れむ」とかの日本語の方がいいな。
台所の片隅に張り付いたままで、それなりに満ち足りた一生を送る、わいらあ「健常ぞうきん」から見たら、世間なんて「2足歩行という名の障害者」、「晴眼者という名の障害者」、「五体満足という名の障害者」でみちみちて、チャンチャラおかしいね。

 
第4のぞうきん、かく語りき。

あのご主人、こないだある指圧の名人から、
「目とは不思議な組織で、大宇宙的な要素がはまり込んだりしています。ちょうど鯉のぼりの鯉の目のように、眼球の中に眼球、さらに眼球、さらに眼球、とイメージしながら、手首を指圧してみてください、重複構造の良い方の層が、悪い方の層と交流しあい、目の改善に役立ってくれる筈です」
と教えられたので、毎日一生懸命に、自分で自分の指圧に励んでいるそうよ。

 
第5のぞうきん、かく語りき。

最近外車では、ボルボが増えて来たようだね。
隣のおにいちゃんも、ボルボを乗り回しているけど、あれはスウェーデン製の頑丈な車なんだ。
むかし、ご主人の親戚のおじさん2人が、夜の京都の比叡山ドライブウェイで、運転を誤って、谷底に転落したけど、怪我ひとつしなかったのは、あの頑丈な車に乗ってたかららしいよ。

第6のぞぞうきん、かく語りき。

谷底で思い出すのは、鎌倉の杉本観音から逗子岩殿寺までの巡礼古道ね。
ここは高台になっていて、昼間なら遥か富士山を見渡すこともできるのよ。
ご主人の奥さんに聞いた話だけど、鎌倉殿の頼朝と政子は、長女大姫の長のわずらいに心を痛め、百鬼疾病退散を祈願して、「100日間毎夜毎晩のお百度参り」を夫婦一緒に敢行したけれど、とうとう治らずに、20歳で亡くなってしまった。
そりゃそうよね、婚約者の木曽義仲の息子、義高を惨殺したのは、他ならぬ頼朝自身。その罰が当たって、落馬して死んじゃったのよ。

 
第7のぞうきん、かく語りき。

きのうの夜、噂のお騒がせ主人が、3年越しの大詩集の最後の最後の校正をしていたら、
どういう風の吹き回しか、自作の巻頭の詩が消え失せて、香港の民主派の新聞『りんご日報』2021年6月24日附の1面トップの、

「雨の中香港の人にお別れする。また会いましょう!」*

という、最期の記事が載っかってたんだって。
まっこと、面妖な話じゃね。

 
第8のぞうきん、かく語りき。

ああ、いい匂い!
奥さんが台所で、夏蜜柑の皮を煮詰めて、ジャムにしてる。
柑橘類の実を食べると、皮を捨てる人が多いけど、ほんと勿体ないわね。
おや、ご主人が「緑のそよ風」*を歌いだした。
下手糞だけど、とてもいい歌ね。
さあ、みんな揃って、歌いましょ!

 

ああ 驚いた 驚いた
ぞうきん には ぞうきん なりの 人世が あった のだ

物 には 言葉 が あった のよ
物 には 命 が 宿ってた のさ

ぞうきん だけ では ありま へん
画家の 描いた もの ども が 次から 次に もの を いう

アベノ マスク プラスチック フィルム
石 防災 シート ブルー シート 画家の 自画像が 描かれた 椅子 まで も
思い 思いに もの を いう

これぞ これ 世にも 不思議な カタリ カタリの 物語り
世 にも 真摯な 展覧会
「即物入魂」 の 法 悦 境

実 相 感 入 真 実 在
山 川 草 木 悉 皆 成 仏
「シン・もの派」 の ワンダー ランド と でも 言うべき か

 
 

*豊田市美術館『ねこのほそ道』展(2023.2.25~5.21)における佐々木健氏の油画連作「ぞうきん」に触発された作品です。

**2021年6月24日テレビ朝日ANNニュースより引用。

***「緑のそよ風」は、作詞清水かつら、作曲草川信による1948年の童謡。