裏にバーコードが付いているような判断のしかたで

 

駿河昌樹

 
 

簡単には言い切れないことを
もどかしく
ぶつぶつ
時には陰々滅々と
ことばならべしていくのが

だと思ってきたので

きりきり言い切り
あちこちから借りてきたような表わし方や
裏にバーコードが付いているような量産品的な判断のしかたで
髪を突っ立てたIT企業の社長や
半グレのトップみたいな「後悔?無関係だけど?」的な口調で
そこそこ高価なスニーカーみたいに
キッ!
キッ!
と歩くたびブレーキやアクセルを利かせて
八方美人に小利口にしゃべってるのを見ると

ヨシモト
にでも
行ってやったら?
と思う
政府からは100億円貰っているそうだから
潤う
と思うよ
それなりにさ
と思う

(もっとも
(いま起こっているのは
(旧来の日本型裏社会の掃討
(ヤクザなんかより遙かに情け無用の国際金融資本が
(この列島をいよいよ直接統治するために
(これまでノシてきた幇間屋を潰しにかかっているところ
(政治の世界も同じで
(新たな真の民主主義の可能性が見えてきた……
(なんて夢を見ていると
(いつのまにか安手の軍靴を履かされるようになるよ
(きっと

(おっと、
(これ以上は言えない
(言わない
(シュールレアリスム詩の形体や
(キリスト教系神秘主義詩の形体や
(イスラム神秘主義詩の形体でも
(ひさしぶりに蔵から出してこないことにゃ……

 

 

 

そういう時節が来た……

 

駿河昌樹

 
 

(どのような個人のものであれ個人の生活も情報も重要ではない…
(そんな時節がある…
(個人主義や民主主義や自由主義という迷妄に甘えた
(20世紀以降の人間には理解できなくなってしまったことだね…

2019年7月1日からの一週間は、
たとえば私が、
ロベルト・シュヴェンケ監督の『ちいさな独裁者』(2017)や
パブロ・ソラルス監督の『家に帰ろう』(2017)を
見たことや
今さらながらに
ニコラス・ジャレッキー監督の『キング・オブ・マンハッタン』(2013)を見終えたり
カフカ『城』と堀辰雄『菜穂子』の再読を始めたり
エックハルト・トールの自我の不在性についての説明法に感心させられたり
ペトラルカのRerum vulgarium fragmentaの
ルネ・ド・スカッティによる2018年のフランス語訳や
フランソワ・ラヴィエの編んだアンナ・ド・ノアーユ詩集(リーヴル・ド・ポッシュ版)をいたく感心しながら読みはじめたり
したことにはなんの重要性もなく、

アメリカとロシアの潜水艦がアラスカ沖で戦闘状態に入り、
アメリカの潜水艦は沈没、放射性物質の海洋への流出が発生し、
ロシアの潜水艦も重大な損害を受けて14人が死亡した
らしい、
という、
事件、
のほうにこそ、
世界的な
重大性はあった

アメリカ側の死傷者については情報がない

ペンス副大統領はホワイトハウスに呼び戻され、
予定されていたニューハンプシャー行きはキャンセルされた
プーチン大統領のイベントもキャンセルされ、
大統領、国防相、ロシア軍参謀長らの緊急会議が開かれた
ブリュッセルの欧州連合本部はEU国家安全保障理事会の緊急会議を招集、
イギリス政府は国家緊急事態対策委員会(COBRA会議)を招集

ベルシャ湾と
湾岸諸国におけるアメリカと西側の軍事基地では
不自然な動員
が発生
他方、金地金はその日の取引の最後の数時間で
1オンスあたり40ドル急上昇

機密情報に抵触するものばかりで
どれひとつ
正確に公表はされない

どれも確認しようがなく
どれも嘘かもしれない
どれかはそこそこ正しいかもしれない
どれもそこそこ正しいかもしれない

怖いのは
怖すぎるのは
まったく
メディアにそれらが載らないこと
ダネ
ダネ
あんなのはインチキ情報さ、
とさえ、載らない
こと、
ダネ
ダネ

なにかに向けての
フェイクニュースの
思わせぶりな
小出しの数々かもしれない
しかし
確実になにかに向けて

韓国への半導体材料の輸出管理強化は
表面的な理由や
その下に推測される別の理由をはるかに凌ぐ
あくまで公表され得ない長中期的な国防上の理由がある
という情報も届いてきている

7月に入って確実に始まったことがかなりあり
これから
大小のかたちで露呈してくるが
危険な時節に本当に入った

(そう、もはや、
(個人の重要性など、見向きもされなくなる
(そういう時節が来た
(これからの個の生、個の興味、個の価値観、
(とは、
(なにか……
(答えは出ているよ、
(無、
(だよ、
(無、
(生きのびて、
(おいきよ、
(ただ、野良犬のように、
(これからの、
(10年
(ほどは、ね、……

 

 

 

きみはどう思う?

 

駿河昌樹

 
 

さびしさから
味わいが失せていかないように
ほんとうに
努めなければいけない

せつなさが
しぼるように
懐かしく
あり続けなければならない

冷えてきた森を抜けて
うすら暗いみずうみのほとりを
まだまだ
ながくながく行かねばならなかったとき
さびしいとも
こころ細いとも
まとめられなかった気持ちを
きっと
無事に戻ったら伝えたいと思ったひとが
何人かは
いたはずだっただろう?

そんなことが
ぼくらのこころのいのちというもので
そう
やはり
ぼくらあっての
ぼくらのいのちだった
と思うのだ

きみはどう思う?

 

 

 

かくある日日を楽しといふか

 

駿河昌樹

 
 

令和と呼ばれることになった
この列島だけの新時代もすでに六日目に入り
初夏というのに
うす曇りの朝はすでに秋めいている
枯れ果てた多くのものが
たんなる名称の変更では覆いきれずに
はやくも露呈してきてでもいるのか

斎藤茂吉の忠実にして有能な弟子
しかし慎ましやかで地味だった歌人柴生田稔が
戦中にこのように歌っていた

つきつめて新しき世も思はねばかくある日日を楽しといふか

 
時代と自己へのなんと見事な批評!
あまりに静かにさらりと一行に表わしてしまうので
細かく過去の詩歌を見直す目にしか
ともすれば
止まらなくなってしまうが

年老いて時におもねる文章は今日もひきつづきて夕刊に出づ

いたく静かに兵載せし汽車は過ぎ行けりこの思ひわが何と言はむかも

 
この列島に起こること
起こりうること
くり返されることは
すべて
柴生田稔がひそやかに歌って去っていってしまっているように見える
まるではじめて自分が発するかのように声高に
あるいは
新たな論や批判を提示するかのように矜持たかく
今さら言うまでもなしに
しかし
再三だれかが
くり返して言葉にしなければならないのも
たしかではあって

時すぎて人は説かむか昭和の代のインテリゲンチヤといふ問題も

 
 

 

 

そうそうに生前葬じみたことをしてみているのか

 

駿河昌樹

 
 

あまりになにもかもが過ぎていくので
あまりになにもかもが去って行くので
人間たちはお手製の時代の区切りなど作って
なにやかや身振りをしてみたいのだろうか
集まってしばし身もだえしてみたいのだろうか
果てのない宇宙の闇に浮いているほかないさびしさを
そうしてまぎらわしてみたいということか
そのさびしさを切々と感じるじぶんさえ
遠くないうちに過ぎていき去って行くことを
たまたま舞い落ちた星の上に今まだあり続けながら
そうそうに生前葬じみたことをしてみているのか

 

 

 

かわいそうで

 

駿河昌樹

 
 

だれを見てもかわいそうに見えてしまって
ときどき
見知らぬ人を見ながら
立ち尽くしてしまったりする

時間とよばれるものも
空間と呼ばれるものも
とりわけ人生とかじぶんとか呼ばれるものも
あんなに信じてしまって
あんなに真に受けてしまって

かわいそうで
だれを見ても
立ち尽くしてしまう

みんなみんな
あまりに
深く
だまされたままになっていて

かわいそうで

 

 

 

雲 あそこ 薄紫

 

駿河昌樹

 
 

雲があのあたり
指のように下りてきている
煙のように

薄紫色がかっているので
薄紫のように
と言ってみたく思うが
日本語は許してくれないだろう
どこの言語なら許してくれるだろうか

そんな許しを求めて
求め
求めて
詩歌のかたちを借り続けてきたが
詩歌でさえ
めったなことでは
許してくれない

雲 あそこ
指して 下りてきている
薄紫して


すこし近づく

下りてきている
でさえ
ひどく離れた嘘の言い方で
ほんとうなら

下り 来 る

ぐらいに言いたい

わたしは
ほんとうに
助詞
助動詞

きらいだ

それらを多用した詩歌
それらに頼った詩歌

ほんとうに
きらいだ


助詞
助動詞

わたしだって
使っている
浸かっている


あそこ
薄紫

 

 

 

正真正銘真正の火宅なんだから

 

駿河昌樹

 
 

世の中を舐めてかかってはいけないとか
世間を馬鹿にしてはいけないとか
そんなお説教をチラ見せする人がいまでもたまにいるし
大上段から振りかぶって投げつけてくる
陳腐な絵にかいたような精神的老人型もいるが
フクシマ以後ではなく
フクシマの原発事故処理の徹底的なゴマカシ以後
いわゆる「世の中」や「世間」の痴呆状態は露呈されたわけで
フクシマ以後「世の中」や「世間」を馬鹿にしないことは野蛮である
とアドルノめかして言い切っておきたいとさえ思う*
「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と記した後
「物象化は精神の進歩をみずからのさまざまな要素のひとつとして前提としていたが、こんにち物象化は完全に精神を呑み込もうとしている。自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている限り、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである」
とアドルノは続けたが
思えばなんと
いまのニッポンは
自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている人人人……
ばかりではないか
とうに精神の死んでいる人人人……が
桜を見てまわったり
夕日のなかで家族的観照に感傷的に浸っていたり
あれはスゴイ!だれはスゴイ!
ステキでしたよぉ!
これってホントおいしい!
どんどん素晴らしいビルが出来てきますねぇ!
とんでもない才能に脱帽するしかないです!
なんとしても新たな風を政治に!
などなどの空言キャッチボールや空言胞子撒き散らし遊びを
しているだけ
それだけ

まぁ
よほどの天才的な発明でもなされないかぎり
数百年は死の放射能出っつづけのフクシマを抱えて
子子孫孫
天文学的負債を背負って滅びに向かっていくだけのニッポン列島人だから
しょうがないと言えばしょうがなくて
たゞたゞ精一杯の明るさを
けなげに
はかなげに
あらんかぎりの心のちからを出し切って装って
太宰治が『右大臣実朝』に書いた
「平家ハアカルイ、アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
「人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
なんて
読んだことも読む気もないだろう気やすさで
読書量の徹底的な少なさで
文字情報と文字情報リテラシーの少なさで
視野のしやわせ…おっと、違った、しあわせな狭さで
行くんですね
逝くんですね
がんばってね

ちょっとはアドルノとかも見てみてね
ルカーチの物象化概念を敷衍したともいえる
アドルノの物象化論は
マルクスの商品化論と
ヴェーバーの合理化論を継承していて
そのあたりをまとめておさらいし直せば
フクシマの原発事故処理の徹底的なゴマカシ以後状況を
もっとポップに言い換えればフクシマゴマカシを
超克する精神や方法論を導き出せるきっかけになるかもしれないから
見てみてね
とにかく
なんとか
自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている人人人……
であるのは
やめていこうよ
あらゆることにもっともっと正しく不満になって
もっともっとあたふたして
じぶんなんてすっかり失って
こころここにあらずでとりみだしてばかりの
あらまほしき姿にしっかりとなって

そんな状況なんだから
正真正銘真正の火宅なんだから

 
 

*アドルノ『プリズメン』
「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である。物象化は精神の進歩をみずからのさまざまな要素のひとつとして前提としていたが、こんにち物象化は完全に精神を呑み込もうとしている。自己満足的な観照という姿でみずからのもとにとどまっている限り、批判的精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである。」

 

 

 

100円商品のプラスチック製の黄緑色の小籠

 

駿河昌樹

 
 

もっとも親しかったうちのひとりを9年前に失ったまゝ、いろいろな思いを脳内に彷徨わせたまゝ、……で、居続けている。かといって、ポーやリラダンやローデンバッハらの作品の人物たちのように死者の思い出だけに沈潜し続けているわけはもちろんなく、最新のCPUが軽々とこなすごとくに、マルチタスクで、意識は諸相的に多層的に忙しく機能し続けている。現代のセルジオ・レオーネとも言えるであろうアントワーン・フークアのアクション映画を次々と見ながら死者のある日の目の伏せ方を心の中に凝視し直したり、出勤前に慌しくシャワーを浴び、洗髪してから髭を剃る時に、また別の、死者が健康であった頃のある日の服選びに助言した瞬間のことをありありと蘇らせたりする。
髪にドライヤーをかけたり、鬚を剃ったりする洗面所の洗濯機の奥の小棚にはプラスチック製の黄緑色の小籠が置かれていて、そこには入浴剤や他の小物が乱雑に詰め込んであるが、この小籠は、死者が最期の日まで、病院での朝晩、歯ブラシや歯磨きチューブ、タオル、化粧水や乳液、口紅などを入れて、病室から洗面所まで通うのに用いていた。手頃な道具入れが必要になった際、病院の近くの100円ショップで慌てて購入して持って行き、与えたもので、100円商品にしてはプラスチックも厚手で、なかなか頼りがいのある悪くない品だった。
すっかり筋肉の削げた足で、よろよろ、ゆるゆると廊下を進み、洗面所に通う姿にたびたびつき合ったが、他にもいくらも適した容器や籠はあり得るというのに、急ぐ必要があったことや使い勝手のよさから、こんな廉価品を毎朝毎晩提げて歩ませることになってしまう…と思いながら見続けた。最期も近いかもしれない人に、100円商品を持たせるとは。かといって、高価でもっと重い、使い勝手の悪いものを持たせるわけにもいかず、成り行き上、それなりというより、必然というべき事情のもつれの果ての風景や光景が一瞬一瞬醸成される。二度と戻らない時間の一刻一刻であるというのに、ひとりの人間を取り巻く物品のありようは、しばしば侘しく、うすら寒く貧相で、偶然というものの悪戯心やそれとない悪意を感じさせられさえする。
そのプラスチックの100円商品の小籠は、持ち主よりももう9年も長く生きのびて、劣化の気配も見せない。鬚剃りの後で化粧水や乳液を顔につけながら横目で見たこの小籠のイメージと、そのイメージに無数に重なって甦る死者の生前の姿、さらにはそれらの姿のかたわらにいつも在った私なるものの在りようを意識の中に漂わせながら、今日も、靴を履いて、地面や、地面と呼びづらいような人工的な石板の数々を踏みに出る。

 

 

 

みんな むかぁしむかしの人に

 

駿河昌樹

 
 

市原悦子が亡くなって
思い出したのは
もっとはやく
8年も前に死んだエレーヌが
マンガ日本昔ばなしをやる時間になると
ノートを手にしてテレビの前にすわり
いろいろな日本語表現を
せっせと
メモし続けていたこと
むかし話を語る時の日本語が
彼女にはおもしろくて
市原悦子や常田富士男の口調を
そのまま真似して
外国人であるじぶんの
日本語を広げようとしていたこと

そんなことを思いながら
そういえば
常田富士男は元気だろうかと
ちょっと調べたら
2018年の7月18日に
彼も亡くなっていた
脳内出血で
81歳で

みんな
むかぁしむかしの
人に
みずから
なっていくところ…