あの縁側にすわり続けている

 

駿河昌樹

 
 

空白空白あゝ おまえはなにをして来たのだと…
空白空白吹き来る風が私に云う
空白空白空白空白空白空白空白空白中原中也「帰郷」

 
 

国というものへの落胆や
さらには
絶望も
今年のお盆に
魂迎えの灯をいくつか添えるだろうか

なんといったかな、
あの小さな古いお寺は

木の乾き切った
あの祠にも
顔のすっかり崩れた
古いお地蔵様の
並びにも
まだ
だれか
花を添えているだろうか

蚊取線香を焚いて
大きな団扇を動かしているだけで
あやまちなく
人生の大道にある気がする
あの縁側に
こころだけは
いまも戻る

だれもいなくても
みんながいるような
夏のひろい庭に向かった
あの縁側に
すわり続けている

 

 

 

あなたはだれ?

 

駿河昌樹

 
 

みんな
なにものかであろうと
見せようとして
かわいそう

みんな
なにものかであるかに
信じ込もうとして
かわいそう

だれひとり
かたちのない
思いも
こころも
ことばもない
あそこへ戻っていくとき
残りはしない
これっぽっちも
やり遂げた
などと
信じようとする
ごたごたの
ものの世界の
がらくたの
片鱗
さえも

かたちでもない
思いでもない
こころでもない
ことばでもない
信でもない
ものしか残らない

もちろん
もの
でなど
ないもの

その時
あなたはだれ?
あなたはなに?

あなたはだれ?

かたちもない
思いも
こころも
ことばもない
信もない
その時

 

 

 

つねなる古物屋の店開き中

 

駿河昌樹

 
 

小説家の井上光晴がむかし
才能のある者が見出されないことなど絶対にない
どんな小編でも必ず見出される
と対談だか合評だかで言っていて
それほど世間の目というのは信頼できるものかと思いもしたが
いつのまにか
井上光晴自身もすっかり書店から消えてしまい
彼といっしょに話題にされることの多かった野間宏や
武田泰淳あたりさえ消えてしまい
村上春樹を賞に選んだ佐多稲子も消え
やはり群像新人賞で村上春樹を推した丸谷才一
エッセイではなんとか命脈を保ったものの
小説がつまらないと蓮実重彦から酷評されていたあの丸谷才一も消え
ひと頃は文庫棚を席捲した丹羽文雄も文芸文庫以外からは消え
個人文庫コレクションが多量に全国に並んでいた遠藤周作も消え
毎年毎年の芥川賞受賞者のほとんどが
その後うまくは続かずに消えていくのを見続け
詩だの短歌だの俳句だのとなると
どれほど新聞文芸欄の知りあい担当者が頑張って記事を書こうとも
もう世間は虚無の大海のように大いなる無反応を示すだけなのを
つらつら長いこと見続けてきてみると
甘かったんだなァと思う
井上光晴は
社会自然主義とでも呼びたいようなあの作風は
中上健次が読まれ得ていた時代はまだ生き延びていても
村上春樹一辺倒の時代に入ると
もう古物屋にさえ置かれなくなってしまう運命となった

ところで余はいつも
井上光晴や野間宏や椎名麟三や梅崎春生あたりに熾烈な興味があるのだから
頭の中はつねなる古物屋の店開き中というわけかもしれない

 

 

 

サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。

 

駿河昌樹

 
 

国民とやらを
市民とやらを
庶民とやらを
これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

自分で採った種子を蒔けない法律もできたことだし
水道は民営化されて8倍も10倍も料金が引き上げられるようだし
労働時間の規定は完全に取り除かれて酷使したい放題になるのだし
老人や身障者や他の社会的弱者の切り捨て政策は進展目覚ましいし
原発事故の県ではガンの発生がウナギ登りでも誤魔化されているし
各地の原子炉の維持や廃炉には天文学的な支出が続いていくのだし
腹汚い既得権益連中が凝集して富を吸う戦前帝國化が進んでいるし

わからないのも
見て見ぬふりも
何もしないのも

国民とやらの
市民とやらの
庶民とやらの
やっぱり自業自得なので

これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

…と書く
あたしはだれ?
と問いが来るかもしれないから
言っておくけど

サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。

 

 

 

ほんとうの窓が

 

駿河昌樹

 
 

だれにも媚びないことばを
まだ
記せる?

どれだけ?

そう思って
ここにも
ことばを記してみる

認められたがりのことば
買ってもらいたがりのことば
覚えてもらいたがりのことば
こころに留めてもらいたがりのことば

そんな商売ことばたちだけに
なってしまった地上で
まだ
あり得るのか
けっして奴隷になることのない
ことばは

たゞの逡巡としか見えないことばや
急ぎのメモ書きのことばこそが
まだ知らぬ
どこかのひろびろとした草原への
窓のように見える

だれをも動かそうとしないことば
だれをも誘導しようとなどしないことば

そんなことばたちがほしい

たゞ
窓がほしいために

ほんとうの窓が

 

 

 

また恋文したくなってきている

 

駿河昌樹

 
 

ひとにわかりやすいものを書くひとたちの
書いたあれこれ
ちょっと時間つぶしのあいだに
読んでみていて

…やっぱり
辟易してしまった

わかりづらいものへ
わかり得ないものへ
ことばを並べながら手さぐりしていく
高原の空気のようなひとたちへ

また
恋文したくなってきている

 

 

 

どんな炎でも暖められないほど

 
 

駿河昌樹

 
 
 

……そうであるならば、
わたしたちのまわりにも、
なんと多くの、疑いようもない、
詩の、数々が……

エミリー・ディキンスン、ヒギンスンに宛てて

〈本を読んだとき、どんな炎でも暖められないほど
〈からだ全体が寒気立つとしたら、
〈わたしには、それが詩だとわかります。
〈あたまのてっぺんがすっぽり抜けるように
〈からだが感じたら、それが詩だとわかるのです。
〈わたしには、この方法が、すべて。
〈ほかに手だてがあるでしょうか?

 

 

 

たとえば声を奪われ

 

駿河昌樹

 
 
 

あの肉体のない詠唱が…
エミリ・ディキンスン

 
 
 

たとえば声を奪われ
目も耳も奪われ
顔ばかりか
四肢も胴も奪われ
心も思念も
意識まで奪われても
なおも残る
あなた

そんなあなたが生きるべき
いまとせよ
今日とせよ
これからの数か月
数年とせよ

 

 

 

詩人

 

駿河昌樹

 
 

ジャームッシュの『パターソン』*はよかったが
詩人と呼ばざるをえないひとが
どうして詩人としか呼ばれざるをえないか
たとえば
この花がどうしてこの花で
どうしてあの花ではないのか
ありえないのか
いろいろな批評や研究のようにわずらわしい理屈など重ねず
時間の流れのなかに
ほわんと鮮明に見せてくれていたのが
よかった

詩人としか呼びようのないひとというのは
毎瞬さまざまなものが意識に押し寄せ続けるこの世のしくみに対しては
やっぱりよい存在のしかた
やっぱり的確な意識の使い方をしていると
思い直させられ再確認させられるところがあって
よかった

ウイリアム・カーロス・ウィリアムズで有名な
パターソン市に住んでいる市営バス運転手
その名もパターソン
が主人公で
これだけでもう詩神話的な人物設定なのだが
ノートに詩を書き溜めるだけで
詩集にまとめて出版しようなどという気の全くないところが
詩人の最高のすがたになっている

ジャームッシュの批評精神ははっきりここに出ている
まだ若く最高の活動期にある詩人が
じぶんで詩集を出版しようなどと思っては駄目なのだ
じぶんの詩をふり返り推敲し直し選択し編集して本にするなどの
一連の行為は詩作とは全くちがう運動で
それらに精神をふりむけた時にもう彼は詩人ではなくなってしまう
ジャームッシュの慧眼はすごいものだと思わされる

もちろん後世の読者としては本がなければ困るのだが
書き留められた詩から詩集出版への過程には
つねになにか予想外の突発的な事故や椿事がなければならない
書物の中で最高度の存在であるべき詩集というものは
詩人が必死に出そう出そうとしては絶対にいけないもので
ことの成りゆきから出版されてしまう事態に至るのでなければならない
詩集には詩人の思惑を超えた画竜点睛の伝説がどうしても必要で
そうしてこそ人類にそれらの言葉の束が残る奇跡が起こる
何冊何十冊出そうが人類の流れに深く染まっていかない本ばかりだが
書物の中で最高度の存在である詩集というものは
そのような身ぶりをせず別のアリュールを帯びていなければならない

主人公パターソンの詩帖はある晩
飼っている犬にこまかく食いちぎられてしまって
それまで書き溜めてきた詩はぜんぶ花吹雪になってしまう
さんざん妻からコピーしておけと言われながら
その気なしにいい加減な返事をし続けてきたぼんやりパターソンも
この時ばかりはさすがにショックを受ける
けれども彼が本当にもう一段上の詩人レベルに抜けるのはこの時
じぶんの秘密の詩帖にだけ書き溜めてきた天性の詩人が
それまでの作品をすべて失って
なおもこの世の中のひかりの中に居続ける時
純度100パーセント詩人がふいと顕現してしまう
それでも市営バス運転手の彼はいつものように出勤し
いつものように街を茫洋望洋と歩き
さまざまなあたりまえの光景を見聞きし続ける
書いたものを失ってしまっても詩人は詩人
たぶん書いても書かなくても詩人は詩人
数十年に一冊だか一世紀に数冊だかの割合で残っていく詩集だけでも
人類史上ではすでにずいぶんな量になっているけれど
そうした詩集があろうがなかろうが生まれつきの詩人たちがいて
そのうちのひとりは市営バスを寡黙に運転していたりする
彼らとおなじひかりの中に詩人でなど全くない人たちもいて
詩人素ゼロのひとたちさえ中にはいっぱいいるという豊饒さに
気づいてみると
それはそれで
いい感じもするよね…
とジャームッシュは呟いている
たぶん

映画の最後
パターソンがグレートフォールズの前のベンチに座っていると
日本から来た詩人なのか
文学の先生だかが隣りに座る
演じているのは永瀬正敏
眼鏡をかけた日本人は鞄から
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『パターソン』の訳本を出して見せる
街のことも『パターソン』のこともアメリカの詩のことも
いろいろ知っているのがわかる
日本人に「詩人か?」とたずねられて「ちがう」と答えたパターソンが
それでもいろいろと詩のことを知っていて
好きな詩もいろいろあるのに気づき
日本人はパターソンが生来の詩人であるのを直観的に理解する
パターソンに白紙のノートを渡し
書け!
とは言わないものの
書くことを促して去っていく時に
Aha…と言い残すが
後で白紙のノートをぱらぱらめくりながら
パターソンも
Aha…とつぶやく
詩人どうしの最高のコミュニケーションをAha…としたところに
ジャームッシュの詩の理解の非常な深みがある
禅や武士道に通じた彼なら
あたり前といえばあたり前の締めかただったかもしれない

もちろん
ぱらぱらめくられる時の
白紙のノートこそ
どんな詩集にも優る最高の詩集であることも

それを手にしながら
Aha…とつぶやくことの
目もくらむような豊饒の瞬間の
この世のひかりの中にあるひととしての
確認も

Aha…

 
 

*