未来

 

長尾高弘

 
 

当たり前って言えば当たり前なんだけど、
歌舞伎を見てると、
役者がしゃべってる日本語は、
今の日本語とちょっと違うんだよね。
違っていても普通に意味がわかる言葉もあって、
たとえば「お前」って言葉は、
間違いなく二人称代名詞なんだけど、
親だの店の主人だのといった
いわゆる目上の相手にも使うみたいなんだよね。
初めて聞いたときにはぎょっとしたけど、
あんまりよく出てくるもんだから、
もう慣れちゃったけどね。
今の言葉で「お前」って言う相手には、
「てめえ」って言うのかな。
あとさ、今ならただ「さようなら」って言うところで、
「左様なればお暇《いとま》致します」
なんて長ったらしく言っているのも
へーって思ったな。
それが縮まってわけがわからなくなっちゃったのかってね。
この間芝居見てて面白いなあと思ったのは、
そば屋の主人が店を出て行く客に
「お帰りなさいまし」
って言ってたところだな。
今そんなこと言われたら、
え? 俺は家に帰ろうとしてるのに、
また店に入れっての? って驚いちゃうよ。
それからよく聞く言葉で、
「真っ平御免」てのがあって、
今みたいにそれだけはやめてくれ、
って意味じゃないんだよね。
素直に本当にごめんなさいって意味で、
「真っ平御免なすってくださいませ」
なんて言うんだ。
最近好きなのは、「かわいい」って言葉だなあ。
今で言う「愛してる」と同じような意味で、
男から女にも言うけど、
女から男に対してでも、
「お前がかわいい」みたいに言うんだ。
「愛してる」なんて言うよりも、
よほど好きだって気持ちが出ている感じがするよ。
全体に、今で言うカタカナ語はないし、
音読み漢字の二字熟語とか四字熟語も少ない気がする。
でもね、「未来」って言葉はなんか耳に残ったんだよね。
それがさあ、
今よりも進歩した先の時代って意味じゃないみたいなんだよ。
どうもあの世ってことらしいんだよね。
「たとえ火の中水の底、
未来までも夫婦《めおと》じゃと」
なんて言うんだもんな。
今の感覚だったら、
何言ってんの? って感じだけど、
あの世に行ってもって意味なら、
なるほどねえと思えるわけさ。
ひょっとして
江戸時代の庶民の感覚では、
何年たっても今日と同じような日がやってくるって
そんな感じだったんじゃないかな。
逆に過去に遡ったときも、
歌舞伎だと江戸時代みたいな世界が出てくるもんな。
菅原道真の時代に寺子屋が出てくるし、
義経弁慶の時代に江戸時代みたいな寿司屋が出てくるわけでさ。
だから、今言うような意味の未来みたいな言葉は
必要なかったんじゃないかな。
一方で、今は昔のような意味の未来なんて誰も信じてないしね。
そんなことを考えてたらさ、
今より進歩した未来なんて本当はないんじゃないかな、
って気がしてきたよ。
これからもずっと同じ毎日が来るわけでもないけどさ。

 

 

 

一重八重

 

長尾高弘

 
 

1

道端のドクダミにカメラを向けていたら、
反対側から声をかけられた。

《うわっ、怒られちゃうのかな。
勝手に撮らないでって》

でも、そういうことではなくて、

「珍しいの? 珍しいの?」

こっちもいい加減おじさんだけど、
こちらが子どもだったときに
すでにおばさんだったようなおばさんだ。

「ええ、八重のドクダミは珍しいですよね。
いつも探しているんですけど、
このあたりでは、ここでしか見ないんですよ」

「そうでしょう、珍しいのよ。
一本だけもらってきて植えたんだけどね、
なんだか増えちゃって。
でも珍しいから切らないでいるのよ」

「本当に珍しいですよね。
このあたりでもドクダミはいっぱい咲いてますけど、
一重のやつばっかりで、
八重はここでしか見ないんですよ」

「そうでしょう、珍しいのよ。
一本だけもらってきて植えたんだけどね、
なんだか増えちゃって。
でも珍しいから切らないでいるのよ」

同じことをきっかり二度ずつ言ったところで、

「どうもありがとうございました」

その場を離れた。
初めて会って、
ほかに話すことなんかないもんな。

《そうか、勝手に生えてきたわけじゃないんだ。
だからよそでは見つからないのかな?》

などと考えた。

おばさんも晩ごはんのときにきっとおじさんに言うだろう。

「あんたはいつもそんなもん刈っちまえって言ってるけど、
今日は珍しいですね、っつって、
写真まで撮ってった人がいるのよ」

来年も八重のドクダミを楽しめるはずだ。

 

2

確かに翌年も八重のドクダミは楽しめたよ。
おばさんとは会わなかったけどね。
でその翌年が今年なんだけど、
八重のドクダミはすっかりなくなってた。
もともと大きな家が建っていて、
その隣に「裏の畑」って感じの場所があって、
梅の木が植えてあって、
奥の方には栗の木も植えてあったかな。
八重のドクダミに気付く前から、
そこの梅の花はよく見に行ってたんだけど、
八重のドクダミはそっちの裏の畑と
道の間のちょっとしたスペースで咲いてたと思う。
今年見に行ったら、
そういった木々はすべて切られていて
道沿いのスペースも
植えられていた草、
勝手に生えていた草、
全部引っこ抜かれていて、
更地って感じになってた。
あのとき、
おばさんは裏の畑から出てきて
家のなかに入っていく途中でこっちに気付いて
声をかけてきたわけで、
裏の畑と大きな家は同じ敷地だったはずなんだけど、
今日は別の敷地って感じに見えた。
たぶん、本当に別の敷地になったんだろうな。
「裏の畑」の部分は一段高くなってたのか。
更地になってそれがよくわかった。
もう顔も忘れちゃったけど、
おばさんどうしてるんだろう。
八重のドクダミを珍しがる人は
いなくなっちゃったのかな。
母屋と道の間のスペースには、
バラやオオキンケイギクにまじって、
勝手に生えてきたらしい
一重のドクダミが咲いていた。

 

 

 

神の下僕

 

長尾高弘

 
 

ちょっと前に、
明治憲法の体制のもとでは、
天皇以外はすべて臣民、
天皇が主(あるじ)で臣民は奴隷、
ってなことを言ったら、
鈴木志郎康さんに
臣民イコール奴隷とは言えないのでは、
と批判されて、
いやいや臣民は天皇の奴隷であると言っても
大きな間違いではないだろうと思いますぅ、
って開き直っちゃったんだけど、
実はそれから臣民は奴隷なりとは
あまり言わなくなって、
考え込んでおりました。
臣民は自由民じゃないわけだから、
奴隷と言ってもいいんじゃないか。
でも、江戸時代の大名だって、
幕府に切腹しろと言われたら死ぬしかなかったわけで、
自由がないと言えばなかったわけだけど、
家来をたくさん抱えて贅沢していたのに、
奴隷って言うのは変だよなあ。
そんなときに、
今井義行さんの詩を読んでたら、
ネットのSPAMメールの引用らしきものがあった。
Dear Servant YOSHIYUKI IMAI
Greetings to you in the name of God Almighty.

親愛なる奉仕者イマイヨシユキ
全能の神の名であなたにお挨拶。

英文の後ろに日本語のようなものがついていて、
これはGoogle翻訳にちょっと手を入れたものだと、
あとで作者に教えてもらった。
それはともかく、
そのservantという英単語を見て、
ああ、臣民てのはこれかと思ったんだよね。*
Googleはservantを奉仕者って訳したけど、
servantの訳語には下僕(しもべ)とか従者とかもあるよね。
臣民てのはそういうことでしょ。
ところが、英語にはslaveっていう単語もあって、
日本語の奴隷はslaveの訳語ってことになってるわけだよね。
だから、
Googleサーチでslave servant differenceも調べてみましたよ。
どっちも他人に支配されていることは同じだけど、
slaveは誰かの所有物で金で売り買いされるのに、
servantはそうじゃないって説明があって、
日本語の奴隷と従者、下僕の違いもそんなところなのかな、
と思った。
ほかのページを見たら、
今の世のemployee(会社の従業員)も、
slave、servantと大して違いがないじゃないか、
というようなことも書かれていて、
それはそれで説得力があると思った。
ただ、もとの話は、
明治憲法の臣民と現憲法の国民の違いで、
少なくとも法的な建前として、
人がみな自由なのかそうじゃないか、
ってことだから、
servantもslaveも自由じゃないってことで、
同じくくりで考えていいんじゃないかな。
法的な建前ってのは、
政治や裁判の前提ってことだから、
あんたは天皇の下僕なんだから、
つべこべ言わずに戦争行けよ、
ってなことじゃ困るわけで、
あんたは自由なんだから
天皇のために戦争に行く必要はないよ、
ってことじゃなきゃいかんでしょ。
奴隷とかslaveといった言葉は確かに強烈で、
臣民はそこまでひどくないよね、
って思いたくなる気持ちはよくわかるけど、
奴隷よりもマシだからああよかった、
なんて思っちゃうと、
臣民が自由じゃないことを忘れちゃう。
あと、奴隷ってのはたぶんそう古い言葉じゃないよね。
それこそ、slaveの訳語でございってことで、
外国の話だって感じがあると思うんだよね。
日本には奴隷なんていないよってさ。
本当はいたんだけど、
奴隷だってことを隠すために、
奴隷って言葉を使わないからさ。
人買いが出てくる山椒大夫の時代まで遡らなくても、
戦後まで続いていた吉原ってのは、
まさにお金で売られてきた女性たちを集めていた場所で、
その女性たちは売春を強制され、
しかも逃げられないように監視されていたわけだからね。
もっとひどいのが従軍慰安婦で、
本人の意に反して連れてこられ、
ひどい環境で売春を強制され、
逃げられないように軍に監視された上に、
吉原のように年期明けで自由になるということすらなかったわけでしょう。**
政権与党になるような勢力が、
現憲法の人権条項を旧憲法のように戻しちゃおう、
なんて改憲案(壊憲案だと思うけど)を出して、
それなりに通用しちゃうのは、
そういう言葉の魔術もあるよね。
こいつら従軍慰安婦はビジネスだったなんて言っちゃうわけだし。
自分の娘にやらせられることなのかよーく考えてみろよ。
あと、改憲案が大手を振って歩いているのは、
今の自由が自分で勝ち取った自由じゃなくて、
戦争に負けたおかげで、
棚ぼたでやってきた自由だから、
まだ自由に慣れていないってこともあるのかな。
ああ、イヤダイヤダ。

ところで、
servantには主(あるじ)がいるわけだよね。
SPAMメールの英語では、
言うまでもなくGod Almighty、
全能の神が主だけどさ、
明治憲法の臣民の主は天皇、
これが現人神だったわけだね。
もともと日本の神道なるものは、
山や木や岩を崇めたアニミズムで、
キリスト教みたいな一神教じゃなかったわけだけど、
明治以降の国家神道ってやつは、
現人神である天皇を崇拝する一神教まがいなところがあるでしょ。
ひょっとして、西洋のマネしちゃった?
天皇の命令の勅語ってやつは、
神のお告げで絶対なわけよ。
教育勅語に軍人勅諭、
一字一句正確に覚えることを強制されたんだもんね。
西洋の全能の神の教えは、
偶像崇拝を厳しく禁じてたのに、
御真影という偶像崇拝に化けたところが、
いかにも浅薄なマネかただけど。
頼むからそんなアナクロに引き戻さないでくれよ。
世界から何十年遅れたら気が済むんだよ。

 
 

*ほんの2か月ほど前にNYTの記事でsubjectという単語を見て、ああこれが臣民の本当の意味かと思い、そう書いていたのにもうすっかり忘れていた。全部書いて何度か書き直したあとで、ちょっと前に書いたものをチェックして気がついた。それはともかく、いずれにしても英単語の方が「臣民」の非自由民性をよく表しているようだ。

**2015年に訪米中の安倍晋三が、従軍慰安婦の人々のことを「人身売買の犠牲者(victims of human trafficking)」と盛んに言って回ったことがニュースになっている。本文中で触れたように、slaveはservantとは異なり人身売買の対象になるという意味があるので、あたかも慰安婦はsex slave(性奴隷)だという英語圏の主張を認めたかのようになる。しかし、日本語の「人身売買の犠牲者」は「性奴隷」よりも軽い。実際、安倍晋三は、朝鮮の人々が身内を売った、人買いも朝鮮の人々である、という日本の右翼の主張に沿っているだけで、日本の国家、軍隊の責任を認めておらず、謝罪していない。だから、元従軍慰安婦とその支援者たちは、安倍の欺瞞的な動きを厳しく批判している。なお、植民地に本国の権力構造の尻尾にくっついて植民地に住む一般の人々を裏切る者が出てくるのはいつものことであって、この現代日本にもここに住む人々のためでなく、アメリカの軍産共同体の利益のために行動しているとしか思えない政治家、官僚が総理大臣を筆頭として少なからずいる。

 

 

 

さくら

 

長尾高弘

 
 

さくらはやっぱりさ、
満開だってときより
ちょっと散ってる方がいいなって感じだよね、
そんなこと言っちゃいけないんだけど。
ってそこまで言ってから、
あれ、変なこと言っちゃったなって思ったよ。
そんなこと言っちゃいけないんだけどって
言ったことだけどね。
言われた相手はスルーしちゃったけどさ。
これって、毎年さくらの時期には言ってたことなんだよ。
でも、今年に限っては、
さくらのように潔く散れって言われて、
戦争で命を落とした人のことが頭をよぎったんだ。
なんでかって?
たぶん、
学校で銃剣道を教えてもいいってことになったとか、
教育勅語を教材にしてもいいと閣議決定したとか、
そんなニュースばかり聞かされてるからさ。
銃剣てさ、単なる人殺しの道具でしょ。
戦争のときはあれで無抵抗な人をどんどん突き殺したって話じゃない。
そうやって殺された人たちの子孫はどう思うんだろうね?
それにさ、戦後になってもあんなのやってたのは、
自衛隊だけだっていうんだよね。
誰が教えるんだよってことさ。
学校の体育の先生だって教えられないでしょ?
元自衛官が臨時教員にでもなって
学校に教えに来るのかしらん?
それじゃあ戦時中の軍事教練と変わんないじゃないか!
で、教育勅語といえば、
戦争になったら天皇のために死ねっていう
絶対的権力者の臣民に対する命令だよ。
さくらのように潔く散れって言葉のもとさ。
自分の生命を大切にしないことを叩き込まれて戦場に行ったから、
手当たり次第誰でも平気で殺せたんだと思うよ。
いや、平気ってことはなかったと思いたいけど。
だからこそ、今の憲法には、
国民は、個人として尊重される
って書いてあるんじゃないの?
その憲法に真っ向から対立するものとして、
国会が排除無効を宣言した教育勅語を
なぜ政府が勝手に復活させられるんだ?
そんなこと考えてたからさ、
潔く散れって言われて殺された人や
その人に殺された人のことを考えたら、
さくらが散るのがきれいだなんて、
とても言えないよねって、
思っちゃったんだよね。
むしろ、今までそこに頭がまわらなかったのが
おかしかったんじゃないかってことだよ。
でもさ、
そんな悪い比喩にいつまでも振り回されたくないじゃん。
さくらの花はたださくらの花として愛でたいよ。
戦前日本ときっぱり決別しない限り、
それが許される日は来ないんだけど。

 

 

 

神の代理人

 

長尾高弘

 

 

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス(第1条)
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス(第3条)
明治憲法体制では、
天皇以外はすべて臣民だったわけよ。
天皇が主で臣民は奴隷、全然平等ではないのよね。
憲法にはちょっと自由を認めてやるよってことが書いてあるけど、
天皇の命令でどんな自由もいつでも奪えるようになっていたわけ。
でもさ、天皇はたったひとりで、
「臣民」は何千万人もいたわけで、
どうやってひとりが何千万を抑えつけていたんだろうね?
たぶんこういうことなんじゃないかと思うんだけど、
軍人やら政治家やら役人やら教師やらといった連中がいたでしょ。
そいつらが身近な天皇の代わりになったんじゃないかな。
最初は神の言葉を代弁していた神主が、
そのうちに神そのものに成り上がるって、
民俗学にたしかそんな説があったと思うんだけど、
まさにそういう関係よね。
天皇の代理人は、
天皇に対しては臣民かもしれないけど、
一般臣民に対してはまるで天皇のようにふるまうわけ。
すると、一般臣民に対しては主なんだよね。
一般臣民はそいつらの奴隷さ。
一段上に立って、一般臣民の批判を許さないわけ。
戦前の体制に戻したい連中って、
そうやって自分にとっての天国を作りたいんじゃないかと思うよ。
ゲスだな。

 

 

 

奴隷への命令

 

長尾高弘

 
 

昨日遊歩道を歩いていたらさ、
目の前の市立小学校から子どもたちの歌が聞こえてきたんだ。
最初は何を歌ってるのかよくわかんなかったけど、
「ちよにやちよに」という言葉が耳に入ってきたよ。
なんてことだろう。
学校でそんなものを歌わされて。
天皇の世が永遠に続くようになんて歌は憲法違反じゃないか。
象徴天皇制なんて本当は賛成できないけど、
仮に認めたとしても、
「君が代」ではないはずだよね。
あえて言うなら「民が代」じゃないの?
主権者は国民なんだから。
話のついでだから言っておくけどさ、
教育勅語を丸暗記させる幼稚園が話題になってるけど、
ネットで教育勅語の現代語訳というのを探したら、
軒並み「臣民」を「国民」と訳してるんだよね。
「臣民」は天皇の奴隷で主権者になれないんだから、
「国民」ではあり得ないはずさ。
ニューヨークタイムズは、subjectって訳してたよ。
従属する人、服従する人ってこと。
日本語訳より英訳の方が的確だなんて、
とんだ笑い話さ。
教育勅語は、天皇という支配者から
支配に服従する臣民への命令だよ。
だからさ、
「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」
親を大事にして兄弟夫婦が仲良くしてといった徳目でも、
天皇の臣民に対する命令となれば桎梏でしかないんだ。
実際、教育勅語の時代には家制度があり、
尊属殺人制度があって(これは戦後もずるずる続いたけど)、
人は個人として決して自由になれなかったんだ。
「國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」
憲法に従うのは権力者じゃなくて臣民なんだよ。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
挙句、戦争になったら私を捨てて(公ニ奉シ)、
天皇のために戦え(皇運ヲ扶翼スヘシ)ってさ。
徴兵令に危機感を抱く人々でも、
教育勅語に危機感がないのは、
教育勅語の正体が知られてないからだと思うよ。
戦前の暗黒をすべて体現しているのが教育勅語だと思うけどな。
「ウイスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない」(田村隆一)
いつまで奴隷でいるつもりなんだい?

 

 

 

物言えば

 

長尾高弘

 
 

物言えば唇寒し秋の風って言うけどさ、
最近本当に息苦しくなってきたと思わない?
もう二年前になるけど、
さいたま市の九条俳句の問題があったよね。
公民館の俳句教室で会員が互選した作品が
毎月の公民館だよりに載ってたんだけど、
「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」
って句が選ばれたときには、
公民館が掲載を拒否したって話だよ。
さいたま市は、市内の全公民館に
「世論が大きく二つに分かれる問題で、
一方の意見だけを載せられない」
などと説明しなさいっていう
マニュアルを送ったんだってさ。
公民館だよりに掲載される作品は、
市民の作品であって、
市の作品じゃないのにさ、
これって変な話じゃない?
色々な意見を自由に言えるのが、
民主主義社会ってものじゃないの?
それに、掲載拒否された俳句は、
憲法を守れってものだよ。
憲法ってのは、
政府の暴走を防ぐために、
市民が政府に守ることを義務付けている法でさ、
その法を守れという俳句の掲載を拒否するなら、
市が市民そっちのけで暴走しますよ
って言ってるようなものじゃん。
おっかないったらありゃしない。
また、あの戦争の時代を繰り返すことになるよ。
何も言わずに国のために死ねって時代さ。
その点、
区民文化祭でこの詩をそのまま発表できる横浜市は、
さいたま市よりはいいのかもしれないね。
だけどさ、
育鵬社の社会科教科書を使うのは止めた方がいいよ。
歴史の現実を見ないで、
日本はいい国だ、
よその国より優秀だって自慢したところで、
ろくなことはないよ。
故事ことわざ辞典によると、
物言えば唇寒し秋の風って言葉は、
もともと松尾芭蕉の「座右の銘」にある句で、
人の悪口を言えば、
なんとなく後味の悪い思いをする、
ってことなんだってね。
この句の前には、
「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」
と書いてあるらしいよ。
よその国の人を馬鹿にして、
日本のあることないことを自慢するようなことは、
しない方がいいよってことでもあるよね。
昔の人はちゃんと正しいことを言ってるわけさ。
もちろん、おれだって、
こんなことを書いて発表して、
後味が悪くないわけはないんだよ。
ただ、言うべきことを言わないで、
口を塞がれるのは嫌なだけさ。

 

2017年1月26日~31日に都筑区民文化祭(横浜市)に出展

 

 

 

朝の異変

 

長尾高弘

 

 

朝起きて、パソコンの電源を入れたわけ。
いつものことさ。
スリープしていただけだから、
昨日とおんなじ画面が残っていて、
マシンが立ち上がったらすぐ、
ブラウザのリンクをクリックできるわけ。
だから寝ぼけ眼でちょっとゲームでもしてやろうと思って、
ゲームのリンクをクリックしたわけよ。
そしたらインターネットにつながってないとかいうんだよね。
携帯の画面を見ると、
4Gじゃなくて波のアイコンになってるから、
こっちはつながってるはずなんだよ。
でも、パソコンの設定画面でネットワークの診断てのをやってみると、
おれじゃなくてルーターが悪いんだって言うんだよね。
責任逃れってやつだよな。
こういうときのおまじないで、
ルーターと終端装置の電源を落として、
十数えて電源を入れ直してみたよ。
一度ならず、二度、三度。
パソコンの方も何度も再起動したさ。
でも、ネットにはどうしてもつながらない。
参ったなあ。
ここでひょっとしてと思い直して、
携帯でネットを操作してみたわけ。
波のアイコンは表示されてるけど、
動かねえじゃん。
これはパソコンと同じ症状だぜ。
なんだ、パソコンの責任逃れじゃなくて、
本当にルーターの方が悪いのか。
そういや、IP電話はどうなってるかな。
受話器を取ってみると、
ビジー音がする。
携帯からIP電話にかけたら、
おかけになった電話は電源が落ちているか、
電波が届かないところにあるだって。
どうしてくれよう、ソフトバンク。
料金がちょっと安くなるとか言われて、
ネットを乗り換えたのが間違いだったか。
ここで改めてルーターを見てみると、
インターネット回線のインジケータがついていない。
おんやあ?
終端装置からルーターにつながっているケーブルを抜いて
さし直してみたよ。
インターネット回線のインジケータが今度はついた。
で、インターネットにもつながるようになったよ。
なんだそんなことだったのか。
ごめんねパソコン、ごめんねソフトバンク。
でも、誰もそんなケーブルには手を触れてないぞ。
こっちが寝ている間に
どんな小人が出てきていたずらしたんだ?

 

 

 

餌をやる人

 

長尾高弘

 
 

鴨がたくさん集まっているのは、
餌やりババアがいたからさ。
鳥が集まるところには、
かならず餌をやる人がやってくるね。
テレビでそういう人をつかまえて、
迷惑だと思わないんですか、
なんでそんなことやってるんですか、
みたいに質問攻めにしてたのを見たとき、
だってかわいそうじゃないか、
みたいなことを言っていたな。
いやいや、そんなことをしなくても、
食べるものはありますから、
とか言われて、
いいじゃないか、こっちの勝手だよ、
って開き直ってた。
今日の餌やりババアは、
池を半周して、
餌をやりやすい三箇所でばらまいてたよ。
さっきの場所で餌を食ってた鴨や鳩が、
バタバタバタっと飛んで、
次の場所でも餌を食ってた。
なんか無表情を作ってたけど、
ひょっとして、
こうやって集まってくるのがうれしいのかな、
とちょっと思った。
人間には迷惑がられるけど、
(テレビでやってるぐらいだから、
たまたままわりの人が何も言わなくても、
迷惑がられてることは意識してるんじゃないかな)
鳥たちには大切な人に思われてる。
三箇所で餌をやって、
その都度鳥に集まってこさせて、
それを確かめてる。
まあ、
他人が何を考えてるかなんてわかんないけど、
もしそうだとしたら辛いものがあるな。

 

 

 

ずっと

 

長尾高弘

 

 

小さいころ、
まわりにはお父さんがいて、お母さんがいて、
ほかにもいろんなおじさん、おばさんがいて、
ずっとそういう世界が続くもんだと思ってたなあ。
もう誰もいない。
(父はいるけど、もう何も覚えてない)
そして気がついたら、
自分がおじさんになってたよ。
そういうことだったんだなあ、
時間がたつって。
あの頃より世の中が暗い方に向かってるのが
困ったもんだけど。