朝の異変

 

長尾高弘

 

 

朝起きて、パソコンの電源を入れたわけ。
いつものことさ。
スリープしていただけだから、
昨日とおんなじ画面が残っていて、
マシンが立ち上がったらすぐ、
ブラウザのリンクをクリックできるわけ。
だから寝ぼけ眼でちょっとゲームでもしてやろうと思って、
ゲームのリンクをクリックしたわけよ。
そしたらインターネットにつながってないとかいうんだよね。
携帯の画面を見ると、
4Gじゃなくて波のアイコンになってるから、
こっちはつながってるはずなんだよ。
でも、パソコンの設定画面でネットワークの診断てのをやってみると、
おれじゃなくてルーターが悪いんだって言うんだよね。
責任逃れってやつだよな。
こういうときのおまじないで、
ルーターと終端装置の電源を落として、
十数えて電源を入れ直してみたよ。
一度ならず、二度、三度。
パソコンの方も何度も再起動したさ。
でも、ネットにはどうしてもつながらない。
参ったなあ。
ここでひょっとしてと思い直して、
携帯でネットを操作してみたわけ。
波のアイコンは表示されてるけど、
動かねえじゃん。
これはパソコンと同じ症状だぜ。
なんだ、パソコンの責任逃れじゃなくて、
本当にルーターの方が悪いのか。
そういや、IP電話はどうなってるかな。
受話器を取ってみると、
ビジー音がする。
携帯からIP電話にかけたら、
おかけになった電話は電源が落ちているか、
電波が届かないところにあるだって。
どうしてくれよう、ソフトバンク。
料金がちょっと安くなるとか言われて、
ネットを乗り換えたのが間違いだったか。
ここで改めてルーターを見てみると、
インターネット回線のインジケータがついていない。
おんやあ?
終端装置からルーターにつながっているケーブルを抜いて
さし直してみたよ。
インターネット回線のインジケータが今度はついた。
で、インターネットにもつながるようになったよ。
なんだそんなことだったのか。
ごめんねパソコン、ごめんねソフトバンク。
でも、誰もそんなケーブルには手を触れてないぞ。
こっちが寝ている間に
どんな小人が出てきていたずらしたんだ?

 

 

 

餌をやる人

 

長尾高弘

 
 

鴨がたくさん集まっているのは、
餌やりババアがいたからさ。
鳥が集まるところには、
かならず餌をやる人がやってくるね。
テレビでそういう人をつかまえて、
迷惑だと思わないんですか、
なんでそんなことやってるんですか、
みたいに質問攻めにしてたのを見たとき、
だってかわいそうじゃないか、
みたいなことを言っていたな。
いやいや、そんなことをしなくても、
食べるものはありますから、
とか言われて、
いいじゃないか、こっちの勝手だよ、
って開き直ってた。
今日の餌やりババアは、
池を半周して、
餌をやりやすい三箇所でばらまいてたよ。
さっきの場所で餌を食ってた鴨や鳩が、
バタバタバタっと飛んで、
次の場所でも餌を食ってた。
なんか無表情を作ってたけど、
ひょっとして、
こうやって集まってくるのがうれしいのかな、
とちょっと思った。
人間には迷惑がられるけど、
(テレビでやってるぐらいだから、
たまたままわりの人が何も言わなくても、
迷惑がられてることは意識してるんじゃないかな)
鳥たちには大切な人に思われてる。
三箇所で餌をやって、
その都度鳥に集まってこさせて、
それを確かめてる。
まあ、
他人が何を考えてるかなんてわかんないけど、
もしそうだとしたら辛いものがあるな。

 

 

 

ずっと

 

長尾高弘

 

 

小さいころ、
まわりにはお父さんがいて、お母さんがいて、
ほかにもいろんなおじさん、おばさんがいて、
ずっとそういう世界が続くもんだと思ってたなあ。
もう誰もいない。
(父はいるけど、もう何も覚えてない)
そして気がついたら、
自分がおじさんになってたよ。
そういうことだったんだなあ、
時間がたつって。
あの頃より世の中が暗い方に向かってるのが
困ったもんだけど。

 

 

 

天皇は人間か? ver.2

 

長尾高弘

 
 

テレビで天皇の日帰り熊本訪問のニュースを見たんだけどさ、
天皇が行くと、
被災者が天皇にぺこぺこ頭を下げて、
うれしそうな顔をするって映像なんだよね。
被災者は悪いことをしたわけでもないのに、
なぜ必要以上に何度も天皇に頭を下げちゃうのかなあ。
言っちゃ悪いけど、天皇はにこにこして話をするだけでしょ。
立ちん坊でしゃべるんじゃなくて膝をついて話すってだけで、
すごいことだって褒められちゃってるけどさ。
たとえば、SMAPの中居くんが被災地に行くとボランティア活動をするけど、
天皇はしないでしょ。
年齢的に無理だからってことじゃないんだよね。
若かったとしてもボランティア活動なんかするわけないじゃん。
ボランティア活動をしないのは、
天皇だからなんだよ。
本当は来られても迷惑なんだよね、
と心のなかで思ってても、
言うとヤバイから黙ってる人、
いるんじゃないかなあ。
映像の最後は暗くなって天皇が東京に戻ってきたって絵で、
被災者よりも、
天皇の方が大変なご苦労だったように見えておしまい。
すごい民主国家だよなあ。
天皇が被災地に行くと、
天皇制が拡大再生産されちゃうんだから。
この国の国民は、
きっと永遠に民主主義が理解できないと思うよ。
で、
きっとまた論理的に説明できないような理由で、
戦争を始めちまうんだ。
絶望的だな。
ぞっとするよ。

こんなこと言ってるけど、
今の天皇は悪くないほうだと思うよ。
憲法すり替えクーデターのアベシンゾー、
おれは立法府の長だと繰り返す内閣総理大臣、
あいつなんかよりずっとまし。
被災地に行ったのも、
いてもたってもいられないって
気持ちだったんだろうね。
普通に気持ちを語ってくれるわけじゃないからわからないけどさ。
でも、本当に一般の人びとのことを大事に思ってるなら、
あとひとつ足りないことがあると思うんだよね。
あなたが何をしても変なことになっちゃう大本だよ。
たとえば、今度の選挙で与党がボロ勝ちして、
衆参両院で三分の二を改憲勢力が占めたとするじゃん。
そうしたら、
アベシンゾーはすぐにでも改憲案を国会に出して、
国民投票に持ち込もうとするだろうね。
チャンスはそのときさ。
あなたがさっと手を上げて、
もう天皇は辞めたいから、
そのための改憲をしてくれ、
って言うんだよ。
一族みんなにちゃんと根回しして、
代わりにおれが天皇をやる、
なんてやつが出てこないようにして、
天皇制終了を宣言するんだ。
当然、アベシンゾーの改憲案なんてのは全部吹っ飛ぶよ。
だって、まず第一章をなんとかしなきゃなんないでしょ。
第一章 国民 第一条 主権は日本国民にある。
第二条から第八条は削除。
あとは天皇が出てくるふたつの条文を書き換えるだけさ。
念のために言っとくけど、
内閣総理大臣は立法府の長ではない、
なんて書かなくていいよ。
それで国民投票だけどさ、
今まで天皇制を支持してきた人たちだって、
あなたがそう言うならしょうがないと思って、
けっこう賛成してくれると思うよ。
がっかりするのは、
天皇を利用して人を黙らせようとしていた不届きな政治家だけさ。
アベシンゾーとか、アソータローとかね。
これでやっと法の下の平等の十四条があるのに、
国民は個人として尊重されるの十三条があるのに、
日本国と日本国民統合の象徴、
なんて変なものが規定されている憲法最大の矛盾がなくなるわけ。
国民を統合しなきゃいけないなんて思うから、
民主主義にならないんだからさ。
実際に変えてみりゃわかるよ。
統合されてなくても、
国民は互いに折り合いつけてうまくやっていけるはずさ。
あなたも普通に被災地にお見舞いに行けるようになるよ。
熊本行きのときにはあなたがお土産もらってたけどさ、
あなたが直接救援物資を持っていって
被災した人たちに渡せるようになるよ。

それにしても、
言うに事欠いて天皇に望みをかけるなんて、
おれもヤキが回ったもんだな。

 

 

 

家は遠い

 

長尾高弘

 
 

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腰のあたりがブルブル震えているので、
ああ、電話がかかってきたんだなと思い、
スマホを取り出してみると、案の定盛大に
ジャンガラジャンガラ鳴っており、
出てみると奥さんで、どうしたのと言うから、
ああ、日吉で地下鉄に乗ったんだけど、
間違えて日吉本町で下りちゃったから、
また乗りなおして、えーと、今センター南に着いた、
と答えると、
あ、そ、先に寝てるからねと言うから
はい、わかったと答えて電話を切り、電車から下りた。
あれ、なんでふたつも乗り過ごしてんだろう、って
そりゃ酔っ払ってるからだし、
なんで日吉本町で下りちゃったかっていうと、
それも酔っ払っているからだけど、
さらに言えばそこから歩いて帰ろうとでも思ったような気がする。
最近無駄にあちこち歩いて、
日吉くらい軽く歩いて行けるという変な自信がついちゃって、
考えなくてもいいことを考えたのだろう。
でも、どうせ歩くなら地下鉄の改札なんか通らずに日吉から歩きゃいい話だ。
酔っ払っていてもそこのところはすぐに気付いたらしくて
改札の外に出ちゃったりしなかったようなんだけど、
下りは当分来ないような表示が出ていて、
ちょうどやってきた上りが日吉で折り返して、
掲示板に書かれている時間に下りとしてやってくるようだなと思い、
それなら立って待つより電車に乗ればいいじゃんと思って、
上りに乗ったような気がする。
でも、そういう場合、そんなことをすると、
つい無駄に寝ちゃって乗り過ごすってことに気付かなきゃいけなかったんだよな。
だいたい、日吉で奥さんにLINEでどの電車に乗るとか言ってるから
電話がかかってきちゃったんだよ。
でも、電話がかかってこなかったらそのまま中山まで行っちゃって、
ひょっとすると戻ってくる電車がなくなっちゃってて、
帰ってこれなかったかもしれないよな。
いや、中山まで歩いて行ったことは何度もあるけどさ。
でも、そう考えると、日吉でLINEしといてよかったのかもね。
そのうちに、さっきの電車を下りてから八分たって、
日吉行きの電車がやってきて、
今度こそ寝ないようにしなくちゃと思って目を開けていたら
北山田に着いたのでそこで下りた。
歩きだったらセンター南から六千歩くらいで、
一時間ぐらいかかっても不思議じゃないのに、
電車って速いよなあ。
でも、奥さんや息子ならどんなに遅くなっても俺が車で迎えにいってやるけど、
俺の場合は俺がここにいるから誰も迎えにきてくれないんだな。
一瞬寂しいような気になったけど、
北山田から歩いて歩数計の数字を増やしたいと言っているのは
自分だったってことを思い出した。
喉が渇いたので家に帰る前に駅前の仕事場に寄った。
水道の栓をひねる前に持っていたかばんを開けるとバナナが出てきた。
そういえば、カズタミさんにもらったんだよなあ、これ。
何でバナナだったんだっけ、と思ったけど、
もらったときもよくわからなかったのを思い出したので、
それ以上考えるのをやめた。
そもそも今日は渡辺洋さんが亡くなってからもう一年もたったので、
お墓参りに行かせてくださいって奥様に頼んで行ったんだったよ。
お墓参りさせていただいて、
だるまって居酒屋までは奥様もいっしょにちょっとお酒を飲んで、
さらに去年の告別式で出棺を見送ってから入った蕎麦屋でちょっとお酒を飲んで、
蕎麦屋のお客さんがいなくなっちゃったから慌てて出てきて、
清澄白河から電車に乗って、
ミチオさんとは神保町で別れて、
カズタミさんとはいっしょに永田町で下りて、
でも次の電車は違うからそこでバイバイして、
よく永田町で間違えずに南北線に乗ったものだな。
幸いに南北線は終点で下りればよかったので、
乗り過ごさずに済んだわけだ。
そこまで思い出したところでバナナのことも思い出したので、
こいつは食べちゃおうと思って、
水を飲んでからバナナを食べて、
バナナを食べてからまた水を飲んだ。
で、そこから千五百歩くらい歩いて家に帰った。
途中で日付をまたいだから、
歩数計は百三十歩とかいう数字になっていた。
グリーンラインは片道二十一分で終点まで行けてしまう短い線だ。
ひょっとして一往復してから二度目の下りでセンター南まで行っちゃったかと思ったけど、
LINEや電話の記録から時刻表を見て調べてみるとそういうわけでもなかった。
なあんだ、オチがなくてつまらん。

 

 

 

あえてそれを言う

 

長尾高弘

 
 

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二、三日前かなあ、
中学校の裏の桜並木で写真を撮ろうと思って行ったら、
終業式のあととかだったのかな、
昼前だってのに中学生が校門からぞろぞろ出てくるのよ。
参ったなあ、やりにくいなあと思ったんだけど、
木の下で花を見上げて写真を撮り始めたわけ。
そしたらさ、
「ハゲ」って単語がやけにはっきり耳に飛び込んできたもんで、
いやあ、びっくりしちゃったよ。
こっちはさ、
彼らが生まれるずーっと前から禿げてるわけ。
結構若いうちに減ってきて、
結婚だって禿げてからしているわけよ。
だから今さら禿げを気にしたりしないんだけどさ、
とても気にする人だっているんだからさ、
まだ禿げてないけどちょっと毛が細いからとかでさ、
誰か友だちのことをからかってやろうって思ってもさ、
本当に禿げてる人がいるところで大声で「ハゲ」
なんて言わないものだよって教えてやろうかな、
などとちらっと思ったけど、
そんなお節介な親父になるのもいやだったから、
聞こえないふりをしていたわけ。
そうしたらさ、
その一団がいなくなったあとで、
また、耳に飛び込んできたのよ、
「ハゲ」って単語が。
それも何度も言ってるんだよね。
「ハゲハゲハゲハゲ」って。
さすがにさ、
あれ、ひょっとしてオレのこと言ってんの?
って思ったよ。
思っただけで終わりだけどさ。
で、今日のことなんだけど、
ちょっと離れた別の場所でやっぱり桜が咲いててさ、
上を向いて写真を撮っていたらさ、
自転車から下りた状態でしゃべっている小学生がふたりいたのは目に入ってたんだけど、
そのうちの片方が大きな声で発したわけよ。
例の「ハゲ」って単語をさ。
写真を撮り終わって視線を下げたらさ、
子どもとばっちり目が合っちゃったわけ。
口をニヤニヤ笑いの形にしてさっと自転車に乗ると、
ふたりともあっという間に消えちまった。
今度はさすがに確信したよ。
本当にびっくりしたなあ。
禿げてから三十年くらい生きてきてさ、
こんなにハゲハゲ言われたのは初めてだったからね。
自分がそう言われたってことよりもさ、
こいつらこうやってヘイトスピーチを言うようになっていくのかな、
なんて思ったら、
暗澹たる気持ちになっちまったよ。
何しろ、ヘイトスピーチと言論の自由の区別がつかない政権になって
マスコミがそういうことをろくに批判しなくなって
もう三年もたってるからね。
でもやっぱり自分がそう言われたことが気になっちゃったのかなあ。
気にしたりしたくないんだけど。
で、今ちょっと思ったんだけど、
上を見上げていたから、
いつになく禿げ頭が目立ったのかもしれないね。
出かけるときは帽子を被るようにしよっと。
そういう問題じゃないけど。

 

 

 

ねえ、どうして

 

長尾高弘

 

 

散歩してたらさ、
親子連れとすれ違ったんだけどさ、
子どもがお父さんにきいてるんだ。
ねえ、パパはどうしてパパなのう?
お父さん答えないからさ、
すれちがったあともずっと
後ろの方から子どもの声がきこえるんだ。
ねえ、パパはどうしてパパなのう?
ねえ、パパはどうしてパパなのう?
そのうちきこえなくなっちゃったけどさ、
これは困っちゃうよね。
自分だったらどう答えるんだろうって考えちゃったよ。
お母さんにはきかないと思うんだよね。
ねえ、ママはどうしてママなのう?
なんてさ。
○○(名前)はあたしのおなかから出てきたのよ、
って言われてるからさ、
自分で見てきたわけじゃなくても、
ママがママなのは不思議じゃないじゃん。
でも、パパがなんでパパなのかってーと、
わかんないじゃん。
細かく説明できないしさ、
大雑把にも説明するの難しいよ。
ときどき、
お父さん自身がわからないことだってあるじゃん。
うちの子はそんなこときかないで
大人になっちゃったけどね。
あのお父さんどう答えたかなあ。

 

 

 

ありがちなこと

 

長尾高弘

 

 

ダメージってのはあとになるまでわからないものだな。
いつまでも頭の隅にこびりついて離れない。
悪いのは自分だってわかってるんだけどさ。
どうしてこう苦しいんだろう?
言われたことが、
自分では気付いていないことだったから?
意外な欠点を指摘されたからって、
いつもここまで落ち込むものでもないだろう。
指摘された欠点の中身がみっともなかったから?
そもそも人にダメージを与えたのは俺の方だったな。
しかもダメージを与えたとは思ってなかった。
まだ十分に思っているとは言えないかもな。
(こんなことを言ったら悪いけど、
(あなたの家はデリカシーのない家だったから、
(それが当たり前になっちゃっているのかもしれないけど、
(あれはデリカシーがなさすぎる。
家で覚えたことは、
無意識のうちに染み付いてる。
五十年も生きていれば、
それくらいのことは気がついてる。
総論ではね。
ただ、各論の部分ではびっくりすることがある。
落ち込んだのはそういうことか?
それだけではなさそうだな。
よりにもよって一番染み付かないように
意識して避けていたはずのものが、
やっぱり染み付いていて、
しかも自分ではそのことに気付いてなくて、
その事実から逃げ隠れできないような証拠を突きつけられて、
ぐうの音も出なくなったからか?
それとももっと単純な話で、
感受性豊かなふりをして、
詩みたいなものなんか書いてるくせに、
無神経だ、鈍感だと言われたからか?
わからないなあ。
そうかもしれないし、
そうでないかもしれない。
理屈以前の本能的なもののような気もする。
だいたい、なぜ苦しい気分の理由を考えているんだ?
その苦しさから逃げ出したいからか?
心の傷とはよく言ったもので、
小さな擦り傷や切り傷が
できたばかりのときには痛くても、
だんだん傷口が塞がっていって、
治ってしまえば、
傷があったことさえわからなくなるのと同じように、
放っておけばだんだん痛みがやわらいで、
傷があったことさえわからなくなる、
つまり忘れてしまうものだぜ。
そんなにもがく理由がどこにある?
しかし、考えてみれば、
あの言葉がなければ、
ダメージを受けることはなかったんだよなあ。
あんなこと言われなければ、
今苦しい思いをすることもなかったんだよ。
だからって、言った相手を恨むのかい?
それはないよな。
悔しいけど、自分のなかからは、
ああいう考えは出てこなかったんだ。
だからこそダメージがあるんだろうけど、
あんな風にはっきり言われなければ、
自分の無神経に気付くこともできなかったわけだよ。
感謝しても恨む筋合いのものじゃないだろう。
だいたい、本当に心配しなきゃいけないのは、
俺が傷つけた相手の方じゃなかったのか?
自分のダメージのことばかり考えていて、
結局、自分のことしか考えてないのか?
完治しない大怪我があるように、
忘れられないでいつまでも苦しさが残る心の傷もあるぞ。
本当に心配しなきゃならないのは、
お前が人に与えた傷が、
そういうものじゃなかったのかってことじゃないのか?
そして自分に何ができるかだ。
自分がしてしまったことを少しでも打ち消して、
相手の傷を少しでも癒やすこと。
気の利いた方法は思いつかないけど、
やっぱりちゃんと謝ることはしないとな。
やり方次第ではかえって逆効果になるから、
注意しないといけないぞ。
先が見えてきたら、
少し自分の気分もよくなってきたようだ。
やっぱりこれはプライドの問題だったのかもな。

 

 

 

あっちのあれ

 

長尾高弘

 

 

なにやってんだろう?
絵を描いてんのかな?
画板なんか立てちゃってるぞ。
その割には何描いてんだかわからないなあ。
遠くを見ているふりをしてるけど、
あれは抽象画ってもんじゃないか?
こんにちは。
何をなさってるんですか?
見ればわかるだろう。
何を描いてらっしゃるんですか?
見ればわかるだろう。
あ、いやどこですか?
あっちのあれだよ。
は?
あっちのあれ。
確かに描かれているものと同じようなものがある。
あっちのあれとしか言いようのないものが。
こんなに広い景色を前にして
たったそれだけというくらい小さいものだ。
もっと近くで描けばいいじゃないか、
と思ったけど、口にはしなかった。
でも、あっちのあれにそんな赤いものありましたっけ?
これはな、そっちを歩いている人の生命の炎だ。
そっちって、
あっちのあれとはずいぶん離れてるじゃないか。
それに生命の炎だなんてねえ、
よく恥ずかしげもなく言えたもんだ。
では、そこの緑は?
こっちの木の葉っぱだよ。
青いのは?
海に決まってんだろう。
肌色もありますが。
あの家のなかの裸の人だ。
かなり盛りだくさんらしい。
でも肌色の部分は裸の人には見えなかった。