「夢は第2の人生である」改め「夢は五臓の疲れである」 第66回

西暦2018年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

私は、突然抽選で選ばれて、ある国の王様になってしまったのだが、どう考えても本物の王ではなさそうなので、あんまり嬉しくなかった。5/1

いつも暇で暇でごろごろしている宣伝課なのだが、急にイマイ課長とか、上司のマエ選手あたりがサンザメいて、ブランド立ち上げの機運がみなぎってきたので、私は、仕方なく部下のサカイ君を叩き起こした。5/2

その展示会では、展示物が一定の間隔を置いて、2次元になったり、3次元になったりするので、観客の関心を集めていたが、ほどなくして、飽きられてしまった。5/3

またしても、いつもの駅に来てしまった。これは何という駅で、どこからどこまで走っているのか分からないが、いつもホームも列車も満員なので、乗ったことはない。今日はホームの誰かが「それでも、就職するならやっぱり電通がいいわね」とほざいておった。5/4

彼ら超エリートたちの趣味と言えば、もう珍しい高価な物を買い漁るようなことではなく、手持ちのお札や、住所や、車や、部屋の番号を、1で揃えることだけだった。5/5

ハバラというその男は、「ササキはん、絶対にこっちから値段を言いださないこと。それがブランド買収の秘訣でっせ。よお覚えときなはれ」と、声をひそめて、さももっともらしく教えてくれるのだった。5/6

とっくの昔に現役を引退していた私だったが、駐車場の開閉と集金の仕事を頼まれたので、これも何かの縁だと思い、受けることに決めた。5/7

いつも夢に出てくる場所で途方に暮れていると、「右側に行けばバッハ坂という駅があるよ」と誰かが教えてくれたので、どんどん歩いて行くと、バッハ坂の広場に出た。駅ビルと思しき建物に入ると、そこは九龍城のような迷路になっていたが、なんとアキレタボーイとオリーヴナッツ嬢に再会した。5/8

私はアキレタボーイなんかには目もくれずに、オリーヴナッツ嬢めがけて突き進むと、彼女は迷路の中を逃げるふりをしながら、立ち止まってちょっと腰をかがめ、身につけていた超ミニスカートをぱっと捲くる。それで私が突進すると、彼女は逃げる。立ち止まって捲る。突進するという具合に、昔のように私を挑発するのだった。5/8

いくら「あっちへ行け」と手を振りながら怒鳴っても、追跡を振り切ろうと全力で走っても、シオミ・ヨウイチ君は、いつも私の傍にぴいたりと張り付いて、微動だにしないのだった。5/9

ダラ幹たちは、政権反対の意思表示として、機動隊への投石でお茶を濁していたが、気鋭の怒れる若者たちは、山村深く入り込んで村人たちを武装させ、いつかある日、首都に進撃する日が来るのを待っていた。5/10

ここは熱海か、それともカンヌか。「海岸の傍の映画館で上映されている日本映画は、かなり面白いよ」と、サイトウさんが言うた。5/11

「今回の広告は、シンプルなモノクロームだけで行こうよ。その方が経費もかからないし」というと、ゼンタロウも「いいですね。そうしましょう」と大きく頷いたのだが、結局普通のカラー広告よりも高くついてしまった。513

妹一家は、大船に住んでいるのだが、私たちは、まだ訪れたことはない。ところが、ある日我が家にやってきた見ず知らずの女が、「さあ、これから妹さんのお宅へ一緒に行きましょう」というので、私らは慌てた。5/14

内戦が激化して、死者がどんどん増えてきたので、私たちは、墓地に逃げ込んで、息を潜めていた。5/15

「月曜に西洋医にかかり、水曜日には漢方医にかかって、両方の医者の言う通りにすれば、たいていの病気は治ってしまいますよ」と、その中国人は宣うのだった。5/16

友人に誘われてある会に出たのだが、見知らぬ人ばかりで途方に暮れていると、「さあ、今度はあなたの番ですよ。お題の1句はできましたか?」と、リーダーらしきおっさんが迫る。どうやら吟行句会にまぎれこんでしまったらしい。5/17

毎年5月になると、私は昔取り残した5つか6つの単位を取得しなけねばならないという強迫観念に取りつかれて、仕方なく大学へ行くのだが、その課目は今では存在せず、担当の教師も、とっくに泉下の人となってしまっているのだった。5/18

カウンターの右端にいた小林秀雄が、「このトロを喰うと、ほかのはてんで喰えねえな」とほざくので、私も試してみたが、アブラ身がエグくて吐き気がしたので、二度とその寿司屋には行かなかった。5/19

大阪駅で、長崎に向う在来線の特急を朝早くから待っていたのだが、いよいよ列車が入線するとなると、列があってなきがごとき状態になってしまった。どうも昔から関西は、客の「たち」があんまり良くないらしい。5/20

さる秘密結社の会合に出たら、いきなり「俳句を詠め」といわれたので断って、某社のCMのロケ現場へ駆けつけたのだが、いくらコンテを見ても、何を表現したいのかさっぱり分からないので、帰宅して寝た。5/20

このたび地球に飛来した火星人と対話できるのは、なぜか自閉症児者だけだと判明したので、これまで各方面から白眼視されていた我が家の長男にも、俄かに明るい光が当てられるようになってきた。5/21

うちのコウ君は、複雑な数式を用いて両惑星の岩石構造について対話したり、火星でのthere とafternoonという言葉の両義性、音楽の2重3重4重奏曲におけるポリフォニーの響き方の違いについて、論じあったりしていた。

シェルターの中で、昔の平和な時代の思い出に耽っていると、山の向うのバルザック像が微笑んでいるように見えたが、それもつかの間、私は過酷な第3次世界大戦の現場に引き戻された。5/22

午後8時、横浜駅のタクシー乗り場で待ち合わせ、助っ人の2人と一台の車に乗り込む。目指すは、渡辺組の渡辺兄弟。今日こそ決着をつける運命の日だ。5/23

「あたしはね、誰かさんにデザイナーになってくれと頼まれたから、デザイナーになってやったのよ。そしたら無茶苦茶に売れたので、みんな喜んだじゃないの」と誰かが息巻いている。5/23

バスに乗って、赤いトマトを買いに行こうと思うのだが、いつも超満員なので、乗れない。たまに乗れても、乗客同士の押しくら饅頭に巻き込まれて、精根尽きはてるので、うまく買えたためしがない。5/24

私は、その国に行ったことがあるが、薬品は別として、その他の飲料や食品などは、飲食しても大丈夫だ、と判定していた。

手に持った百円玉を落としてしまったので、拾おうと思ってしゃがんでいると、耳元で「大好きなのよ」という声がしたような気がして、立ち上がると、ミタさんだった。ミタさんは、私が落とした百円玉を拾って、そっと渡してくれた。

山の上には、まったく同じ住居に、姉妹がそれぞれ住んでいるのだが、、航空写真を拡大して見ると、敵は2人の姉妹を捕まえて、首をのこぎりで挽いているようだった。5/25

次の競売品は、古書が入った汚い本箱だった。見習のデッチが処分しようとしたのを、とどめてよく見ると、なにやらいわくありげな巻物が。
これはもしかすると値打ちがあるかもしれない、と、私の心は躍った。5/27

地獄門からの眺望を楽しんでから、私はふと思いついて、いつもの北口ではなく、反対側の南口から降りてみようと思いつき、陸橋を移動していくと、黒人が門扉を開いてくれたが、下は真っ暗で何も見えない。ここを降りても大丈夫なのだろうか?5/28

このビルでは、常務、専務、社長、会長専用のエレベーターが完備され、それぞれ内装や速度などが、彼らの好みによって調整されていた。5/29

すべてのマイスターが準拠すべき規範は、1844年に定められているので、私たち新米職工も、ここから出発せざるを得なかった。5/30

くたばる前に本を出そうと決意し、諸事万端準備を整えて新宿まで出張ったのだが、題名、構成、挿画などのすべてについて自分の考えがバラバラだったことに気づいた私は、タカハシさんに「さよなら」も言わずに、らんか社を飛び出してしまったよ。5/31

 

 

 

また旅だより 02

 

尾仲浩二

 
 

上海で懐かしい人に会った。
カナダ人の彼は仕事でフランスから東京に越してきて、ある日僕の家を訪ねてきた。
僕は英語ができなくて、彼も日本語は話せなかった。それでもとても仲良くなった。
もう十五年も前のことだ。

その後、彼はフランス人の奥さんと別れ、日本の人と結婚し長崎へと越していった。
いまは上海と長崎を行ったり来たりして仕事をしているそうだ。

上海で、僕は少し話せるようになった英語で、彼はカタコトの日本語であの頃の話をした。
今度は僕が長崎に彼を訪ねる約束をして別れた。

中国 上海にて 9月23日

 

 

 

 

ボナールです!

国立新美術館でオルセー美術館企画「ピエール・ボナール展」をみて

 

佐々木 眞

 
 

 

今回のボナールは、「日本かぶれ」とか「ナビ派」とか下らない包装紙に包まれて巴里から六本木までやってきたが、んなもん余計なお世話である。

僕にとってのボナール選手は、その名前のとおり、あのボナーッとしていて、ヌボーっとしたダイダイ色などの暖色が、疲れた心身を穏やかに揉みほぐしてくれるやわらかな存在で、例えばルーベンスとかルオーなんかの重厚長大派とは対照的に、「親和力に富む絵描きはん」、なのである。

作品は静物や風景、室内画、それぞれに良きものがあるが、なんというても愛妻マルタの入浴図にとどめを刺すだろう。

もう半世紀以上も昔の大むかし、丹波の田舎の中学か高校生だった僕は、美術鑑賞の時間に同級生と一緒に、恐らく京都の美術館でボナールの入浴図を見て、その美しさとエロチシズムにしばし陶然となったことがある。

その展覧会は、当時ポピュラーだった印象派を中心とした寄せ集めの「泰西名画展」で、ボナールはおそらく1点か2点しかなかったはずだ。

小一時間の鑑賞を終えて、クラス担任のU先生から、「ササキ君、どうやった? どれが良かった?」と聞かれた僕が即答できずにいると、U先生は、どことなく自信なさげに、でもその自分の感想を、誰かに支えてもらいたそうに、「ボクは、ボナールがええなあ思たけど、君はどう思った?」と尋ねられた。

あろうことか、僕は黙って、うつむいてしまった。
しばらくして顔を上げると、U先生の姿はもうなかった。

僕が「ボナール!」と即答できなかったのには、2つの理由があった。

ひとつは自分もボナールに感動したのだが、その絵があまりにも官能的であったので、教師の問いかけに、つい躊躇ってしまったこと。

もうひとつは、普段は謹厳実直そのもののU先生が、ボナールの裸婦に、僕と同じか、あるいはそれ以上に感動し、先生の顔が、興奮で少し赤らんでさえいることに対して、不遜にもある種の嫌悪感を懐いてしまったからだった。

そんなU先生の顔を、まともに見ることもできず、うんともすんとも返事できなかった自分……。
あの頃、丹波の田舎の教育者が、自分の教え子にエロチックな作品への肯定的評価を伝えるのは、それなりに勇気を必要としたに違いない。

思いきって心を開いてくれたU先生に、率直に応えられずに、あまつさえ不快な思いまでさせてしまった僕は、ほんとに嫌な奴だった。

先生、どうかあの時の無礼をお許しください。
恐らくは在天の先生に、半世紀前に答えるべきであった返事を、遅まきながらいま致します。

「ボナールです! 先生と同じ、ボナールの裸婦です!」

 

 

 

また旅だより 01

 

尾仲浩二

 
 

息を切らしながら考えていた。どうして山に登っているのだろうと。
頂上までたったの45分と言われ、軽い気持ちで歩きはじめすぐに後悔した。
なんとか引き返す言い訳を考えていたが、だんだん頭が回らなくなって、景色を眺める余裕もなくなった。
石でガラガラの足下ばかりを見ながら、なぜ山に登っているのか、いまさら考えても仕方のないことをぐるぐる考えているだけだった。
モンテローザの雪を眺めながらのビールの味は忘れない。
そうして、どうして山を下るのかは考えるまでもなかった。

Italy Gressoney にて 9月7日

 

 

 

 

「夢は第2の人生である」改め「夢は五臓の疲れである」 第65回

西暦2018年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

オペラ歌手の「大声コンテスト」に応募した私が、天井からぶら下がった、道成寺の鐘の下で、大音声を発すると、さしもの大鐘も、めりめりとひび割れてしまった。4/1

小学館のシマモト選手の案内で、珍しい古本屋や趣味の店を巡り歩いてから、杉並区に入ると、区民会館で杉並映画会のおばはんが、長々しい宣伝を続けているので、老舗の杉並シネクラブのスタッフが、とてもしらけていた。4/1

「せっかくだから、ゆっくりしていきなさい」と、言われるがままに、親戚の家で寛いでいたら、いつのまにか大広間で大伯母の18番の皮田踊りが始まった。能のように悠々と舞っているので、身動きもならず。ましてや逃げ出すこともかなわない。4/2

記者会見で「これから銀行は、銀行以外の機能が必要になる」と見得を切ったアソウは、「例えば」と言うたなり、後が続かず、永遠の長考に沈んだ。4/3

「おえめのようないかさま渡世人は、ここからとっとと出てゆけ。おれの目の黒いうちは、おめえのような極悪もんの勝手はさせねえから、そう思え」と、カタオカ・チエゾウは、凄んだ。4/4

うっかり座席に荷物を置いたまま、バスから降りたが、そこは私が降りるべき駅ではなかった。急いでバスを追いかけて、2駅目でようやく追いついたのだが、どこへ消えたか荷物はどこにもなかった。4/5

眠れないので、脳味噌の中に潜り込んだら、脳天に真っ白なサソリどもが蠢いているので、恐ろしくなった。これは、本当に私の脳なのだろうか?4/6

「田を耕し、己を耕し、世を耕す人となれ」と念じて、私は息子を耕と命名した。4/7

本邦初の南極探検に応募して、晴れて合格した私たちだったが、宿舎で待てど暮らせど、探検船は現れず、私らは、朝な夕なに水平線を見つめて日を送っていた。4/8

バナナボートに乗り込むと、バナナ娘が「デーオ、イデデエオ、イデデイデデイデデーオ、アンミソタリマンタリババナあ」と唄ったので、「そんなバナナ」と驚きつつも、船の中の美味しいバナナを食べ続けた。4/9

巴里滞在中に私が作った切り絵の鳥は、アルジェの展示会で、生きた青い鳥となって会場内をはばたき、やがて玉のように美しい娘となった。4/10

我が家に遊びに来たヒーちゃんは、「ちょっとごめんなさいね」というて、床の下に潜り込み、深い穴を掘って、妙な石を見つけたが、「はい、この悪い石を取り除いたので、もう大丈夫。これからは幸せが舞い込んできますよ」と予言して去っていった。4/11

お偉いサンの接待を仰せつかったのだが、なにをどうやっても気に入ってもらえないので、意気消沈する。いかに多くの人々が、嫌で嫌で仕方のない仕事をしながら生計を立てていることか。それを思うと暗然とする。4/12

いつもの退屈なNHKの定時ニュースの声が突如搔き消えて、「臨時ニュースを申し上げます。私らは、唯今本局を乗っ取った叛旗グループです。これからは公共放送にふさわしい正義の情報だけをお伝えしたいと思います」というアナウンスがあった。4/13

去年の夏、南の無人島に遊びに行ったタカヤマさんは、あれからずっと海水浴を楽しんでいる、という噂を聞いた。うらやましいなあ。4/14

人里離れた深山幽谷の岩窟に居を構えていた老師は、ますます歳をとって力衰え、いまや急速に迫りくる死に瀕していたが、唯一の友人である蝮が棲息する平らな岩の上に横たわって、安らかに眠り続けていた。4/15

モスクワ空港の免税店で、しこたまアルメニア特産のコニャクを買い込んだマッサンは、そいつをガブ飲みしながら、エコノミーの狭い座席で朗々とチェロを奏でるので、乗客は煩くて煩くて一睡もできなかった。4/16

打ち合わせのためにホテルに戻ると、アカシヤサンマがぶるぶる震えている。「このホテルにはかけ流しの温泉があるから、ちょっと体を温めたらどうだ」、と勧めたが、「どうにも気分が悪いからこのまま寝たいんや」といって、眠りこんでしまった。4/17

放射能にまだ汚染されていない人たちは、まだ地下壕に潜んでいたのだが、ある朝、彼らの顔の上を、何千何万というカマキリの子供が、ワッセワッセと歩いていった。4/18

今年のパリコレの話題を独占したのは、ベルギーの新ブランド「ランボオ&ヴェルレーヌ」による「パリ・コンミューンを遠く離れて」をテーマにした、疑似革命的なふぁっちょんであった。4/19

ランボオとヴェルレーヌを主人公にした「パリ・コンミューンを遠く離れて」という小説を書いたフマモトヒコ氏は、ついに念願の芥川賞を受賞したのだが、それを祝うはずの同窓生の多くが幽明境を異にしていた。4/19

「らっしゃあーい、美味しい水だよ。これをスピーカーに注ぐと、抜群にいい音が出るよ!」と、その香具師はペットボトルに入れた怪しい水を売りつけようとするのだが、誰も立ち止まらなかった。4/20

シルヴィー・バルタンのコンサートにやってきたお客さんは、バルタンならぬバルタン星人のような八代亜紀が、いきなり「新宿の女」を歌いだしたので、怒り狂って舞台に殺到した。4/21

コータロー氏を誘って教会まで来たのだが、いつのまにかいなくなってしまった。厳かなバッハの音楽が聞こえてきたので、もしかすると礼拝に参加しているのかもしれない。ナカノ一家もいたが、さてどうしたものか。4/22

ドケチな私は、ケータイの使用料を、なんとか自分のスポンサーに払わせようと、いぢましい苦労を、積み重ねていた。4/23

カマクラの町内会に、お隣のズシの市民が乱入してきて、勝手なことを言い始めたので、町内会長は、どうやってこの場を収集したらいいのか、途方に暮れています。4/25

丑三つ時になると、ほんとうに草木が眠っているのかを確かめるために、私は、時々森の中に入っていった。4/26

「キリノという男について、なにか知っていることはないか?」と駐在から問い合わせがあったので、「蕎麦を手打ちするのが趣味で、バハマの桃色の砂浜でジープを運転する男」と答えると、フーンというて引き上げていった。4/27

地下鉄東西線に乗ったら、2人の男が押しくら饅頭をしていたが、次の駅で乗ってきた男も加わって、3人で楽しそうに押しくら饅頭をしている。4/27

大人になってから、また寺子屋で学びはじめたのだが、読み書き算盤のうち、算盤だけは大の苦手で、昔と同じ12級のままだった。4/28

「○○」の役割は、ほんとうに難しい。半世紀の時間の経過に磨かれて、私はようやくなんとでもできるようになったのだが。4/29

私の長年の病気は、某病院の最新式の治療と手厚い看護のおかげで、ついに完治したのであった。4/30

 

 

 

銀座の夜のトランペット

音楽の慰め 第30回

 

佐々木 眞

 
 

 
あれは確か1980年代の半ばを過ぎた頃だったでしょうか。
私は久保田宣伝研究所が運営する「宣伝会議」主催するコピーライター講座の講師として、毎月何回か、当時銀座の松屋の裏手にあった教室に通って、コピーライター志望の若者相手に、自分流のカリキュラムを作って、まあなんというか、いちおう教えていました。

80年代になると、昔は「広告宣伝文案作成業」などと称されていたコピーライターが、突然時代の寵児のような人気職種になり、第2の仲畑、糸井を目指す人たちが「宣伝会議」の養成講座に群がるようになっていたのです。

「1行100万円!」のコピーライターを目指す気持ちはわかりますが、そう簡単に1流のコピーライターなんかなれるものではない。あらゆる芸事と同じで、生まれながらの才能がない人がいくら努力しても、ダメなものはダメなのです。

じっさい私がそうでした。いくら努力しても2流どまりだなと、早い時期に分かってしまったのです。もちろん若き学友諸君だって、そんなことは、3カ月もコピー修行を続けていれば、自分自身で分かって来ます。

そうなると話が早いので、第1級のプロになることを諦めた若者たちと、2流のコピーラーターに甘んじている臨時雇われ講師の私は、2時間の授業が終わると、そのまま安い居酒屋に直行し、その日の僅かばかりのギャラで、らあらあと気勢を上げて飲んだくれていたのでした。

確かある夏の夜のこと、いつものように学友諸君と一緒に、夜風に吹かれて銀座3丁目から4丁目の交差点にさしかかったところで、誰かが吹いているトランペットの音色が街の騒音を縫うようにして聞こえてきました。

日産のショールームの前あたりに、いかにも人世にくたびれ果てた顔つき、そしてくたびれた背広を着た一人の年齢不明の白人男性が、過ぎゆく人や車にはまったく無関心に、夜空に向かってペットを吹いています。超スローペースのメロディを、ゆったりゆったりと吹き流しています。

唇に当てているのは相当古びたトランペット、吹いているのはジャズのようですが、果たしてそれをジャズと決めつけていいのかどうか。その男は、じつに単純なメロディのようなものを、きわめて自由な、そして超遅いテンポで、なにか大切なことを、どうしてもこの際言うておかねばらなぬことを、自分自身に向かって言い聞かせるように、あるいはどこか遠くへ行ってしまい、行方不明になってしまったもう一人の自分に切々と訴えかけるように、朗朗と歌っているのです。
腹の底からジンジン歌っているのです。

それは例えてみれば、白人の虚無僧が吹く西洋尺八のリバティ音楽のようでした。

何人かの勤め帰りのリーマンたちに混じって、しばらくその西洋虚無僧の尺八の音に耳を傾けているうちに、私はこの10年間というもの、なんだか手ひどく抑圧された心が、ゆっくりと解き放たれるような気がしてきました。

ジャズのようだけどジャズじゃない。要するに、これはただの音楽なんだ。しかしただの音楽にしては、物凄すぎる。いったい何なんだ、これは? そうかこれが音楽なんだ。

とりとめのない想念がなおも渦巻く、こんがらがった頭の中を断ち切ろと、私が目を閉じて嫋々と鳴り響くソロに酔い痴れていると、突然隣で一緒に聴いていたホンダ君が叫ぶように口走りました。

「先生、もしかしてこれ、本物のチェット・ベーカーじゃないすかねえ」

 

 

 

*天才的ジャズ・ミュージシャンChet Baker(1929-1988)は、1988年にオランダ・アムステルダムのホテルから転落し、58歳で亡くなったが、その少し前の1986年と翌87年に来日している。

 

 

 

さとう三千魚さんの詩集「貨幣について」を読みながら

 

佐々木 眞

 
 

今月の20日、すなわち2018年8月20日にさとうさんの最新詩集が出版されました。
「浜辺にて」という632ページもある大著が出たのが、昨年の5月20日でしたから、このペースは驚きに近いものがあります。

この間、さとうさんはリーマンを辞めて郷里に戻り、「詩人になる」と宣言されていますから、余人には窺い知れないが、心中深く期するところがあったのでしょう。

彼は極力難解な言葉を避け、誰にもわかりやすい簡素で平明な言葉を用いて、自分の世界を言い表そうとしています。それはおそらく、これまでのいろいろな試行錯誤の果てにつかみとった彼のやり方なのでしょうが、自分の思想と詩法に、よほど自信がないとできないはずです。

それからさとうさんの詩集には、毎回必ずといっていいほどテーマがあります。
前回の「浜辺にて」では、英語の基本的な単語を、自分の頭と暮らしの中で噛み砕いて、それを創世記のように再定義する、という離れ技に挑戦しておられました。

今回は、彼が親炙する画家の桑原正彦氏から提示された「貨幣」というテーマに依って、貨幣のあり方と本質を考えようとして、この思索的な連作詩が書かれたようです。

従って本書を読む人は、おのずから貨幣についての思索を余儀なくされることになるでしょう。ちょいとばかり難儀なことですが。

私はこれまで「貨幣」について考えたことなんか一度もありませんでしたが、さとうさんが巻末に挙げている経済学者の岩井克人さんの、貨幣についての講演を、むかし耳にしたことを、はしなくも思い出したので、その折りのメモを頼りに自分なりの貨幣についてのヴィジョンを尋ねたいと思います。

その夜、岩井さんは、財布の中からいきなり一枚の1万円札を取りだしたので、私たちは、「あ、1万円だあ」と思って目の色を変えました。この場にヤギがいたら、もっと目の色を変えたことでしょう。

ヤギは、これは食べると美味しい紙だと思っているから、ウメエーと鳴いて、目の色を変えますが、私たち人間は、これが単なる紙切れだと思いながらも、それでいろんな本や服や食べ物を買えるので、値打ちがある紙だと思っています。

しかしそれが偽札でなくても、本当に値打ちがあるかどうかは、日本銀行、またの名日本国でも、100%保証しているわけではありません。たとえば子供が1円玉を1000個集めて銀行に持って行った場合、銀行は20個以上の1円玉を「お金じゃない」と言って拒否することが法律上できるそうです。

岩井先さんによれば、昔から有名な「和同開珎」とか「皇朝十二銭」とか、政府がいろいろなお札やお金を発行してきたけれど、いくらお上が躍起になって命令しても、お金として使われなかった例がいっぱいあるそうです。

お金は単なる紙切れだから、物としての価値はない。
では、なんでそんな吹けば飛ぶような紙切れが、絶大な価値を持つかというと、岩井さんは、「すべての人がこれを価値あるものと認めているから価値がある」と仰るのです。

ふーむ。これこそ貨幣がひそかに内蔵している逆説的な魔法だな、と、そのとき私は思いましたな。

もしも私が、これは1万円ではなく、福沢諭吉の肖像が浮き彫りになっているただの紙切れだと喝破し、それと同じように私の隣の人も、そのまた隣の人々も、次々に裸の王様を見るような目で見るようになれば、その瞬間に夢は破れ、大いなる共同幻想はドドンと崩れおちてしまう。

もしかすると、現世秩序のすべてが!

それから岩井さんは、貨幣と同じように、言葉も、すべての人がこれを価値あるものと認めているから価値がある存在なのだ、と厳かに付け加えられました。

この詩集の「あとがき」で、さとうさんは、「詩は貨幣の対極にあるものです」と宣言されていますが、もしかすると、貨幣も詩の言葉も対極にあるものではなく、きわめて近しい関係にあるのかもしれませんね。

ふと見れば、岩井先生の小太りの姿が、どこにも見当たらない。

アッと叫んで私たちが、窓の外を見ると、先生はいつのまにか銀座8丁目の高層ビルヂングの10階を飛び出した先生が、本物とも偽物とももはや見分けがつかなくなった万札を盛大にばら撒きながら、満天の星が輝く銀座通りの上空を、フクロウと一緒に楽しそうに飛び回っておられるのでした。

 
 

注 文中の岩井克人氏の言葉は、2004年に行われた「資生堂ワード」講演会におけるメモに基づいて自由に作成されているが、ラストの行動は、ある参加者の幻視に基づくものである。

 

 

 

「夢は第2の人生である」改め「夢は五臓の疲れである」 第64回

西暦2018年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

夜中の3時45分に、どこかから電話がかかってきたが、それはいつもの非通知電話で、「モシモシ」というても、先方は一言も発しない。3/1

私は、地下室で集団生活をしていたが、そこでは、某有名スポーツマンの日常が、隠しカメラで撮影され、朝から晩まで放映されているのだった。3/2

我々のさまざまな問いかけに対して、スフィンクスは何も答えず、その代わりに、ベート-ヴェンの交響曲第7番の第2楽章を、記者会見の現場に垂れ流すのみだ。3/2

その夜も、僕は級友のカド君とソウちゃんが運転するスバルに乗って、雪谷の長いS字坂で、クラス一の美女マリちゃんが通りかかるのを待っていた。やがてやってきたマリちゃんが、坂の途中にある電話ボックスでずれたガーターを直すのを、僕らは眼を皿のやうにして見つめた。3/3

やがて電話ボックスを出たマリちゃんだったが、あまりにも真夏の太陽がカッカと照りつけるので、道の真ん中でぐらりとよろめいたところを、すかさず車から飛び出した僕が、咄嗟に抱きとめると、彼女は、あわいコーヒーブラウン色の唇をかすかに開いたので、思わず僕は3/3

神の召使が「輝く鳥の夢を見た」というので、みんなでその夢のタイトルを決めようと、召使の夢の中に入って、同じ夢を見てから考えるのだが、燃える鳥とか、黄色い鳥とか、光る鳥とかの候補が乱立して、なかなか決まらない。3/4

海の底に潜っていくと、今まで見たこともないような奇麗な貝がたくさん棲息していたので、どんどん取って陸に上がると、「これは原発で汚染されてる」と誰かが警告したのだが、委細構わず私は、どんどん食べていった。3/5

「ダットサンなんかで、高速を走らないでください。もっとちゃんとした車でないと、危ないですよ」と警備員から注意されたが、委細構わず、私は猛スピードでつっぱしった。3/5

「物品に記された日本語を、10字以内に減らさないと、入国できない」というので、私は、必死になって持ち物を荒探ししていた。3/6

町に出ると、アンサンブル・カビア社の特製スーツが当たる抽選会をやっていた。
「誰でも参加できます。あなたもいかがですか?」と誘われたので、ハンドルをグルグル回すと、「あ、当選ですね」と、担当の女性が言うた。3/7

フランス料理の食後に、近くのコーヒー焙煎屋に入って200gの豆を挽いてもらったのだが、その主人の、とても商売人とは思えぬ不機嫌さに、私はいたく不愉快になった。3/8

タダさんは、真夜中に私を乗せた車を駆って、全速力で工事中の狭隘な道を通りぬけると、「どうだい、怖かったかい」と尋ねたので、私は「いや、ちっとも」と答えた。3/9

六畳一間の安アパートで下宿していた我々3人は、今日は検便の日だというので、ウンチをマッチ箱に取ろうと、思い思いにしゃがんでいたら、隣の部屋に住むヤクザの新三が、「なんでウンウン言うとるの?」と覗き込んだので、叩きだしてやった。3/10

ヤフオクで、運よく打ち出の小槌を手に入れたので、おらっちは、次々に美女を打ち出しては、夜な夜なナニしていたのだが、とうとう精根尽きはてて、くたばってしまった。3/11

こんな東南アジアの海岸で、大宴会になってしまって、予算なんかないのに、大丈夫なのか? 大広間では、海蛇たちが夢中で「猫じゃ猫じゃ」を踊っているので、会計責任者の私は、逃げ出したくなった。3/12

音楽のことなどまったくの無知なのに、その名前の語感がいたく気に入って、パレストリーナの音楽についての論文をでっちあげたら、全世界のパレストリーナ・ファンから拍手喝采を浴びてしまったので、ひどく当惑しているわたし。3/13

彼の、いつもと変わらぬ献身を、目の当たりにした時、初めてあたしは、これまで若頭の銀次郎に冷たくしてきたことを、心の底から後悔した。3/14

サトウさんとスズキシロウヤス氏を訪ねた時、私が「ともかく実直に」と言うと、シロウヤス氏が「ジッチョクですか?」と、微かに頬笑みながら反問されたので、私は思わず顔を赤らめて、「実直に、実直に生きよう、グララアガア」と唄って、誤魔化してしまった。3/15

怒り狂って刀を振り回し、まるで気違いのように、見境いなしにまわりの人々を切りつけている男の顔をよく見ると、どうやらほかならぬ私だったので、驚いた。3/16

こないだから、愛犬ムクが、行方不明になっている。その行方は、杳として知れないが、ムクは、とっくの昔に死んでしまっているので、私らは、ちっとも心配していない。317

「平安の昔から、京の土地は京の人のものなのに、お前のような、どこの誰だか誰も知らないような馬の骨に、この大事な土地を渡すものか」と宣告された。3/18

「肥ったブタより、むしろ痩せたソクラテスであるべきだ」と私が力説すると、目の前のブタブタ女が、怒りの眼を私に向けた。3/19

京都駅に着くまでに、例によってあちこち彷徨っていたので、とうとう新幹線に乗り遅れてしまった。さまようというても、四條通りの近辺を、楕円状にぐるぐる回っていただけなのだが。3/20

長いあいだ訪れたことがない遠隔地の別荘に行ったら、あらゆる水道の蛇口から、水が垂れ流しになっていて、1階は天井まで水没していた。3/21

京でいつも泊まっている町屋の5つの部屋が、ことごどく解体されることになったので、私は「帝国」と「共和国」という名の2つの部屋に、一晩ずつ泊まって別れを惜しんだ。3/21

王は、「もしお前が、そやつを、悪しき者と思わば、その首を撥ねよ。もしそやつが、悪しき者にあらざれば、余が、そなたの首を撥ねるべし」とのたまわったので、私は戦慄した。3/22

怒り狂った民衆が、全員武装して、私の首を求めて「首を獲るぞお! 首を獲るぞお!」と連呼しながら、王宮に押し寄せてきたので、私は生きた心地がしなかった。3/23

トランプと話していると、時々右手でケータイのスイッチを押すので、「何をしているの?」と尋ねると、「これを押すたびに、敵の胴体に仕掛けた爆弾が炸裂する。つまり人間爆弾さ」と、楽しそうに自慢した。3/25

「お送り頂いた小切手は、署名がないので無効です。それにこの請求については、さるお方がすでに受け取られていますので、当方としては、もう終わった話なんです」と銀行の窓口で言われた私は、大いに面喰った。3/26

私は、世界4大テナーの一人として、世界中を何度も公演していたが、ある日のコンサートが終わったあとで、「モンローそっくりの美女が、楽屋に訪ねてきているよ」と、マネージャーのコウヘイ君が教えてくれた。3/27

今日は、この島に別れを告げる日なのだが、着いたその日にロッカーに入れたジャケットが見当たらないので、島人に聞くと、「このロッカーは共有なので、私物を入れると、誰かが持っていってしまう」という。3/28

マニラ空港で、正体不明のスナイパーから、突然銃弾を雨あられと喰らった私は、九死に一生を得て逃げ帰ったあと、その折りの恐ろしい体験を切り売りしながら、わずかな講演料で、かつかつの生計を立てていた。3/30

「600人のオメコを受け入れても、全然満足しないワチキのオマンコって、いったいどうなっているんでしょう?」と、彼女は悲しそうな顔をしながら、つぶやいた。3/31

 

 

 

サラサーテの謎の声

音楽の慰め 第29回

 

佐々木 眞

 
 


 

こないだ、漱石の弟子である内田百閒という人の「サラサーテの盤」という本を読みました。

内田選手の随筆は、どんな小品も個性的な文体と文章で綴られ、ことにそのいささか怪奇趣味に傾いたところには、凡百の作家には真似の出来ない、独特の風韻が湛えられています。

この書籍では、特に芥川龍之介と森田草平について触れた「亀鳴くや」「實説帀艸平記」などが絶品で、まだお読みにならない方にはお薦めです。

書物の表題となった短編「サラサーテの盤」では、主人公の亡くなった友人の奥さんが、主人公の住まいを訪れ、「夫の蔵書やレコードを返してくれ」と頼むのですが、その登場や退場のありかたが、まるで実在の女性とは思えず、要件も佇まいもさながら中世の幽霊のようで、読んでいても相当無気味です。

そしてその不気味さを、まるごと映像に置き換えたのが、鈴木清順監督の幻想映画「ツィゴイネルワイゼン」であります。

この鈴木選手は、むかし鎌倉の長谷に住んでいたことがあり、彼が東京に去ったあとを襲ったのが、他ならぬ娘時代の私の妻の一家だということで、私には格別の思い出のある監督なのです。

海風の吹く長谷の彼女の家を訪ねた折の、私の生涯最初の短歌は、「鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり」というもので、これを俳人の井戸みづえさんから「吹きおり」に直しなさいと言われた話は、別のところに記したとおりです。

それはともかく、鈴木選手は、内田選手の「サラサーテの盤」と「雲の脚」、「すきま風」などの短編のエッセンスを骨にして、鎌倉の由緒ありげな寓居や、現在では交通禁止になってしまった釈迦堂の急勾配の切通を用いて巧みに味付けし、どこか泉鏡花を思わせる幻想的な映画を創造することに成功しました。

この映画では、主人公の家は釈迦堂切通の浄妙寺寄りに、女の家は大町側にあるようですが、それは切通の向こうが異界であり、彼岸でもあると考えた中世の人々の想念に、忠実に準じているようにも思われます。

えらく話が長くなりましたが、その想念を、音響の側から裏付けるのが今宵皆様にご紹介するサラサーテが自作自演した「ツィゴイネルワイゼン」の録音であります。

1902年に録音されたこのレコードの、ちょうど3分38秒あたりで聞こえる奇妙な男の声はサラサーテ自身のものとされていますが、私の耳には、冥府からの生霊の招きのように聞こえてなりません。

私はここまで駄文をつづったあと、ふと思いついて久しぶりにその釈迦堂切通まで歩いてみましたが、やはり交通止めの標識が行方を遮っています。切通の上は、松などを乗せた脆い鎌倉石ですから、突然崩落して人身を傷つける恐れがあります。

修理には多額の費用と時間が掛かりますし、その修理自体が景観を棄損する恐れもありますから、おそらく釈迦堂切通が昔のように開通される可能性は限りなくゼロに近いでしょう。

そう思えば、鈴木清順監督が遺したこの映画は、鎌倉時代の古道のありし日の姿を、永久保存した歴史的カプセルでもあるのです。

 

 

 

「夢は第2の人生である」第63回

西暦2018年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

台風が来襲したので、私は老女と娘が2人暮らしをしているナントカ家が、おおかぜで飛んでいかないように錨を打ちつけたが、烈風が猛威をふるってきたので、だんだん心配になってきた。2/1

私とケン君は、ここんところ広い竹林に棲んでいたのだが、ケン君は、だいぶ疲れているようなので、心配だ。2/2

かのヘルタースケーターは、中央図書館の百科事典コーナーで、いつものように飛んだり跳ねたりしていた。2/3

私はサンフランシスコ・セーヤー軍の、1軍と2軍を取材した。1軍は地下鉄を利用しているのだが、2軍の元有名選手たちは、昔懐かしい馬車に乗って球場入りをしているようだ。2/4

1枚目は失敗作だったが、2枚目はゴッホとムンクを掛け合わせたような、なんだか生きているような感じがする絵ができたので、我ながら驚いてしまった。2/5

私は、会社の営業車を改造して3階建てにして、超おしゃれな内装でシックにまとめた最上階のオーディオルームに寝そべって、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いていた。2/6

その頃の私は、のちには殺してしまうことになる人たちと一緒に、楽しく映画に出演したりしていた。2/6

その日の私の制球は冴えに冴えて、敵をバッタバッタと三球三振に討ち取っていたが、肝心要の9回裏に4番の痛恨の逆転ホーマーを許してしまったのは、朝御飯の時に、つい「タラの白子」を喰うてしまったからに他ならない。2/7

どういう風の吹きまわしか、かねてから莫迦にしているマツザカ社長と、ぱったり出くわしたのだが、だんだん彼奴のペースに巻き込まれてしまい、自分が卑屈な態度を取り始めていることに気づいたが、かというて、どうすることもできない。2/8

デザイナー志望の私は、学校を出てから、きまぐれにいくつかのデザイン会社を受けたが、みな合格してしまった。面倒くさいので、一番はじめに合格通知がきた会社に入ったのだが、それがわが人世の躓きの石となった。2/9

「さあ、撃とうと思うなら撃ってみよ!」とお得意のセリフを絶叫した途端、私は舞台の上で、腹に1発銃弾を喰らった。護民官が、「芝居の中では、絶対に人殺しをしてはならぬ」と再三にわたって厳命していたにもかかわらず。2/10

疎開列車の中では、ときおり天井から降りてくる、葡萄や柑橘類などの果物を食べるのを楽しみにしていたのに、あっという間悪童たちに食べられてしまった。2/11

このヤクザの男は、目の前の織機が、由緒ある古代織を編み出す機械であることを、つとに見抜いているようだった。2/11

いと狭きノアの箱舟にて、情人を確保するは至難の業にて、性欲猛き若き男どもは、時に禽獣を捕まえては、腐りし精を放ちおりたり。2/12

偉いさんたちは、明日の船便を運行させるかどうかについて、曇り空を見ながら相談していたが、僕らはカニなので、小魚たちと楽しく遊び戯れていた。2/13

左の歯が痛い右の歯が痛い左の歯が痛い右の歯が痛い左の歯が痛い右の歯が痛い左の歯が痛い右の歯が痛い左の歯が痛い右の歯が痛い左の歯が痛い右の歯が痛い 2/14

オフィスのフロアが、草ぼうぼうになってしまったので、みんなで手分けして、大掃除をしているうちに、私はえもいわれぬ幸福感に包まれていった。2/15

彼女が、「あなたの古本も売ってあげましょうか?」と親切に言うてくれたのだが、私は断って、彼女の店の片隅で、戦前の無名作家の小説を読み続けていた。2/16

「押しくら饅頭押されて泣くな」という子供たちの悲鳴のような歌声が終わったので、外に出て見ると、はらわたの裂けた饅頭が1個落ちていた。「お父さん、ボクだよ」という声が、そこから聞こえた。2/17

天才悪魔博士の弟子たる私は、博士が開発した難病退治のワクチンを、次々に飲まされる人間モルモットとして重用され、ひとつしかない命を危険にさらしていた。2/18

満月の夜にチチンプイプイと唱えて交わると、子供ができた。翌年の満月の夜にチチンプイプイを2回唱えて交わると、双子ができた。そのまた翌年の満月の夜にチチンプイプイを3回唱えて交わると、3つ子ができた。そのまた翌年の満月の夜に2/20

会社の若者たちと共同生活を始めたのだが、すぐに嫌になった。些細なことで行き違いがあり、ひとたび生じた亀裂は、もはや修復のしようもなかった。どっちが悪いのか分からないが。2/22

殺してもあきたらない彼奴の、まるで猪八戒のように醜い体に、切り出しナイフで3度切りつけたのだが、なぜか彼奴は、まだ倒れない。2/23

私が長い旅から戻ってくると、長年にわたって下宿していた長屋が、何者かの手によって壊され、火をかけられ黒焦げになっていた。2/24

私は政府の犬になってしまい、さらに落ちぶれて、殺し屋になってしまった。上機嫌で唄い踊っている連中を見つけると、いきなり背後からドスで刺し殺すのが仕事だ。2/25

お笑いの世界でちょっと有名になった私に、扶桑社のタジマという男から電話がかかってきて、「新書を出しませんか?」と誘われたので戸惑っていると、「なに、もう原稿は全部出来上がっているので、お金さえ頂戴すればすぐに出版できますよ」という。2/26

海外出張を終えて出社すると、企画室の私の席に見たこともない人物が座って電話をかけまくっているので、私は、「ははあん、これは常務のナベショーの嫌がらせだな」とすぐに分かった。2/26

私を見ると必ず、狂ったように歯をむき出して襲いかかって来る阿呆莫迦犬がいたので、私は、飼い主もろとも叩き殺してやったんだ。2/28