夢は第2の人生である 第58回

西暦2017年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

失業したので、再び東映でチャンバラのアルバイトを始めた。キラレキラレてとことんキラレ、最後は格別念入りにスローモーションで斬られるのは、私だけにできる得意技なのである。9/1

私は、その有名な大作家の代表作の有名な泣かせどころを何回も読んだのに、まったく泣くことができず、こんなはずではないと激しく困惑してしまった。9/2

ジュンちゃんに忘年会の幹事を頼むと、「幹事代はいくらですか?」と尋ねるので、「16万円の経費からいくらかちょろまかせよ」と答えると、口をとんがらかせて文句を垂れていたが、「お土産は河道屋のそばぼうろだよ」と言うと、ニコニコ顔になって引き受けた。9/2

苦心惨澹創意工夫の結果、とうとう「つねに空中歩行可能なスペースウオーキングシューズ」を完成したというのに、てんで売れないのは、いったいどういう訳だろう。9/3

今夜は酒池肉林の宴ゆえ、極上の美女と山海珍味に加えて、コンドームとバイアグラもさりげなくわれわれ参加者に提供されていたが、誰ひとり見向きもしなかった。9/4

東京の南北で、果物にシロップを入れる/入れないの違いがあることが判明したので、広場に集まった人々は、パパパパッパ/パパパパッパと手拍子を打ち鳴らして、この発見を喜び讃えた。9/4

今晩だけは、女たちを食卓から遠ざけておくようにという指示が出ていたのは、こじれきったクマさんと八っつあんの仲を、私らが取り持ち、和解させるためだった。9/5

フリーターの私は、金に困って天孫の末裔が誕生するや否や、素早く奪取する仕事を請け負ったのだが、いつまで経ってもその兆しがないので、とうとう諦めてしまった。9/6

母校で園遊会が開かれるというので、久しぶりに上京して、懐かしい級友たちと久闊を叙していると、突然一天俄かにかき曇り、雷鳴とともに猛烈なにわか雨が落ちてきたので、我々は着飾った同級生とともに、教育学部の古い建物に逃げ込んだ。9/6

サカモト君とサカイ君と3人で地下街に入ったところで、のろまな私だけがヤクザに捉まって難癖をつけられた。彼奴はボクシングの構えをしながら私のポケットに手を入れ、金を探りながら、「殴るぞ、殴るぞ!」と脅かすので、「たあすけてくれえ!」と私は叫んだ。9/7

バベルの塔、バブルの塔、バベルの塔、バブルの塔、バベルの塔、バブルの塔、バベルの塔、バブルの塔があ 9/8

ねうねうねうみやうみゃうみゃうねうねうねうみやうみゃうみゃうねうねうねうみやうみゃうみゃう 9/9

イデ君と林間空港に戻ってくると、出発便で食い損ねた朝食が、座席の前にまだ残っていたので、腹が減っていたから、食おうかと思ったのだが、3日目の物を食って食当たりをしてもつまらないので、全部捨ててしまった。9/10

路地の先に進んでいくと、お誂え向きの切腹の場所となり、一人の老人が、いままさに皺だらけの腹の皮に脇差を突き立てようとしていた。切腹は型通りに行われ、あっという間に老人の体はふたつになった。9/11

私が彼女を見放したものだから、彼女は敵に捉まって、行方不明になってしまった。9/12

お姫様は、庭の池に「万物の精」を浮かばせて、「それでは、わらわに何か頼みたい者は、あの精に手を触れながら念じれば、その思いは叶うであろう」とおっしゃった。9/13

山の上には、映画関係者が利用する素敵な別荘があった。サイトウさんの紹介でそこを訪れた私は、その年の夏をゆったりと過ごすことができた。9/13

牛乳を飲んで、しばらくしてから、それを胃から取り戻して、貧者に分け与える。それこそがわれわれが発見した一本で二度美味しい、一石二鳥の裏技だった。9/14

「さあシオリの尻をよく見てろ」、とその男が指差したので、シオリのお尻をじっと見つめていると、シオリのお尻の下から、黄金色の大判小判が次々に出てきたのでした。9/15

わが先輩は、リーマンになったばかりの私に、出張とはなにか、出張費とはなにか、その事務処理はどうするのかについて、噛んで含めるように丁寧に教えてくれた。9/15

いつも冷酷無比という定評のあるその紳士だったが、その日は、ちょっと普段と様子が違って、にこやかな顔をして、私たちに、御馳走を振る舞ってくれた。なにか魂胆があるのだろうか?9/16

詩を作ろうとしていたのだが、てんでできず、そのかわりに、短歌が5つ6つできたので、フェイスブックに投稿したら、鈴木志郎康さんだけが「イイネ」をつけてくだすった。9/17

「痛いの痛いの、とんでいけえ!」と叫んだら、本当に飛んで行ったので、調子に乗って「あの塔、倒れろ!」と叫んだら、本当に倒れてしまったので、調子に乗って「○○死ね!」と叫ぼうとしたが、そればっかりは、いかにも憚られた。9/17

私は三越との打ち合わせに出席していたが、突然同じ時刻に伊勢丹、西武、そごう、小田急とも打ち合わせすることになっていたことに気づいて、茫然自失してしまった。9/18

東野英治郎に似ている老パイロットが、高層ビルの最上階に住んでいるので、時々遊びに行く。窓からは山やくの字型に折れ曲がった大河、プールで泳ぐ人たちが見える。老パイロットは、改造した自宅のアトリエに格納している、最新型の小型飛行機を見せてくれた。9/19

老人のマンションの格納庫のとなりは、だだっぴろいフリースペースになっていて、老人は恵まれない子供たちを引き取って、この部屋でひがないちにち遊んで暮らしているそうだ。老人は、先月レントゲンを撮ったら、末期ガンで余命半年と宣告されたそうだ。9/19

彼は、時々ツアーを企画する。その飛行機に乗せた少人数の人々を、世界中の楽しいところ、面白いところにみずから案内するのだ。3か月くらいのワールドツアーだ。料金も格安だし、どうやらこれが最後のツアーになりそうなので、私は来月妻と参加することにした。9/19

あの著名な画家のハシモト氏が、一度ならず二度までも、おのが人生を投げ出して再出発したという話を聞いて、私は衝撃を受けた。あれほどの世界的名声をかち得た人物の生涯に、いったい何があったのだろうか。9/20

もしもあの権力の真空状態にあって、彼奴らが「我々は権力を掌握した」という声明を出しさえすれば、クーデターは失敗し、勝負はついていたのに、彼奴らは、それをするのを怠たるという致命的な失敗を犯したのであった。9/20

ここはどうやらLAらしいのだが、砂漠の町で開かれている映画の試写会に行くために、広場に止まっているタクシーに乗ろうとすると、法外な運賃をふっかけられて、はてさてどうしたものか、と悩んでいる私。9/21

ブルックナー野郎と、世紀の対決をする羽目になった私は、小田原海岸では、ブルックナーの1番2番3番野郎に挟み撃ちにされ、大礒では4番、茅ヶ崎では5番、6番野郎と命がけの戦いを繰り広げ、藤沢では7番、鎌倉では8番としのぎを削ったが、いよいよ横浜ベイブリッジを舞台に、交響曲9番との世紀の大勝負が始まろうとしていた。9/22

帰宅途中、地下鉄の構内から出たところで、武装した兵士に取り囲まれたので、とうとう内乱が始まったことを知る。私の後に続いていたリーマンたちは、もちちろん丸腰だったが、もはや誰何もされずに自動小銃でバリバリ薙ぎ倒されていった。9/23

父から1000冊の古本を譲り受けた私は、うち200冊をすぐさま魚雷に転換して、夜襲を仕掛けてきた敵の軍艦のどてっぱらに見舞ってやった。9/24

家老の青山大膳に頼まれて、若殿のお守役を引き受けたずぶの町人のわたしは、莫迦殿にえらく気に入られてしまったので、大膳の推挙で苗字帯刀を許され、あこがれの武士になることができた。9/25

町内の音楽鑑賞会で、マーラーの交響曲9番のCDをかけたら、聴いていた爺さん婆さんが、たちどころに牛や馬に変身したので、「なるへそ、これが音に聞く風馬牛か」と、ハタと膝を打った。9/26

横須賀湾の軍艦見物をしていたら、町内会の連中も同じ湾内周遊船に乗り込んできたので、私は最初から彼らと一緒だったような何食わぬ顔をしていたが、本当は後ろめたかったのである。9/27

その夜のレイトショーに行くと、曰くつきの女が待ち伏せしていて、前後左右でうろちょろするので、ゆっくり映画鑑賞を楽しむどころの騒ぎではなかった。9/27

3人の若い教師の発言を聞いた後、私は立ち上がって「本日は私の講義はありません」というと、3人は笑ったが、私は「教師こそわが天職なり」という思いで、胸がいっぱいだった。9/28

CMでアフリカのライオンの撮影があるから、良かったらどうぞと誘われて現地に赴いたら肝心要のコンテが出来ていない。あなたはプランナーだから今日中に作ってくれとスタッフに言われて大いに面喰っている私。9/29

遠い日本から遙々アフリカくんだりまでやって来たというのに目当ての美貌の母娘とはまだコンタクトもとれず、したがって週刊誌から頼まれた突撃インタビューも出来ないでいるのだった。9/30

世界最高珍味のひとつである極楽ジュースを、私は一気に飲み干した。こういうものは珍味だからと言ってあまり長く保存しておくべきものではないと熟知していたからである。9/30

 

 

 

音楽の慰め 第23回

降誕祭の音楽

 

佐々木 眞

 

 

Sさん、いかがお過ごしでしょうか?
12月といえばクリスマスの季節。そちらはもう雪が降りつみ白一色のホワイトクリスマスではないでしょうか。

そこで今宵は、北国の降誕祭にふさわしい音楽をピックアップしてみたいと存じます。

まずはなんといってもビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」ですね。
1941年にアーヴィング・バーリーが作詞作曲し、クロスビーが晴れやかな声で歌いあげたこの名曲は、我が国の内村直也作詞・中田由喜直作曲の「雪の降るまちを」にも似た古閑で鄙びた趣もあって、世界的にヒットしたのではないでしょうか。

 

 

次はドイツの作曲家、セバスチャン・バッハのオルガン曲です。
「小川」という名前をもつこの偉大なドイツの作曲家には、その名も「クリスマス・オラトリオ」という大曲もありますが、この季節に私が聞きたいのは、教会の礼拝の前にオルガンで演奏されるコラール前奏曲です。

「オルゲルビュヒラインBMW599-644」などのコラール前奏曲は、昔から著名なオルガニストによって演奏されてきましたが、私がひそかに愛聴してきたのはアルベルト・シュヴァイツァー博士の演奏です。

「生命への畏敬」を唱え、赤道直下のアフリカ・ガボンで医療と伝道に尽くし、ノーベル平和賞を受賞した「密林の聖者」は、優れた医師・哲学者・神学者・音楽学者であったばかりか、知る人ぞ知るオルガン奏者でもあったのです。

 

 

シュヴァイツァー博士が弾くコラール前奏曲は、技術をひけらかすどころか、聞きようによってはむしろ下手くそといえるかもしれません。

しかしそれにじっと耳を傾けていると、村の古い小さな教会でオルガンを弾きながら子供たちと讃美歌をうたっている小太りの老人セバスチャンの姿が、おのずから浮かび上がってくるような古拙な演奏で、これこそ神様が嘉し給う敬虔な調べというものではないでしょうか。

バッハの音楽の本質は神への尽きせぬ感謝とひそやかな祈りであり、その名の通り小さな川のように流れる日々の頌歌にこそあるのでしょう。

最後はご存じ管弦楽の神様、ヘルベルト・フォン・カラヤンが、名手ウィーン・フィルを指揮したクリスマス・アルバムです。独唱は黒人ソプラノ歌手、レオンティン・プライスですが、彼女が無心に歌う「清しこの夜」や「アヴェ・マリア」を聴いていると、文字通り心の底から清められていくような気がいたします。

 

 

それではSさん、今日はこの辺で。どうぞ良いクリスマスと新年をお迎えください。

 

 

 

夢は第2の人生である 特集号(第55回・第56回・第57回)

 

佐々木 眞

 
 

 

夢は第2の人生である 第55回

西暦2017年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

龍宝部長は、「これで肉をあぶって食べるといいよ」といって、私に超強力なコンロを呉れた。6/1

大阪支店で乾燥庫に入ったら、熱が強すぎてスーツの色がたちまち変色し、危うく焼肉になってしまうところだった。6/2

社長の私が「今日はオラッチがなんでも奢るぞ」というと、部下たちは勇んで超高級メニューを発注し始めたので、内心こりゃやばいぞ、と焦った。6/3

鈴木志郎康さんに差し上げた工場の作業現場のノイズ録音テープが、ゼミの学生たちによってダビングされ、ヤフオクで途方もない値段で取引されているのを知って驚いた。6/4

天安門にゴロゴロ殺到する戦車の前で、大きく両手を広げてみたものの、怖くて怖くて仕方なかった6/5

週刊文春の短歌欄で、「自己」というテーマで投稿を呼び掛けていたが、現在のところ誰も応募していないようだ。6/6

この会社の広告制作部では、営業が勝手に担当クリエーターに直接発注しているので、アートディレクターは暇だが、制作物の質は最悪だった。6/6

その会社の広告制作部では、朝から晩まで、管理職を除く男性クリエーターたちが、唯一の女性で可愛いデザイナーのキヨミヤさんに、間接セクハラして喜んでいた。6/6

「西暦2017年2月17日の午前中に、神奈川県の大和市で、言うべくして、とうとう言えへんかったことども」という出だしの文章を書いているが、これは単なる散文か? それとも散文詩と呼んでも構わないものだろうか。6/7

中華料理屋で食事中に、緊急打ち合わせが飛び込んだので、シウマイを持ったまま会議室へ向かう途中で、別の中華料理屋の裏口から入って、玄関口から出ようとしたら、「うちのシウマイを持ち逃げするな」といわれて、困ってしまった。6/8

図書館の本は、すでに20冊予約済みなのだが、いますぐ読まなければならない本が10冊もある。はてさてどうしたものか、と私は思案した。6/9

「客に物を買わそうと思ったら、A→B、B→Cのように具体的に矢印で指示すれば、絶対に買うよ」と、その男は断言した。6/10

いったん捨ててしまった1萬牌を最後につもって、私は役満の「国士無双」を上がった。6/11

越中島から永代に来てみると、ヤギ君が「ワカバヤシが打ち合わせに来ない」というてパニックっていたので、「大丈夫、今まで彼と越中島でマージャンをしてたから、もうすぐここへ来るよ」と教えてやると、安心したようだった。6/11

ナカノ君とマツイ君のカバンの中から、つぎつぎに奇妙なハイテク商品が出てくる。「それは6500円だね」と私が言い当てると、マツイ君は、あっと驚いた。6/12

イデノトシコは、にっこり笑って、私にグミの実がいっぱいなった枝をくれたので、私と一緒に暮らしてくれるのか、と一瞬思ったのだが、それは全くの幻想で、彼女はたちまちどこかへ消え去ってしまった。6/14

ブルーレイ・レコーダーには、既に3つの外付けHDDが接続してあるのだが、4つ目をテレビに直接取りつけたら、なにか問題が起こるのだろうか。誰かに聞こうと思うのだが、適当な相談相手が見つからない。6/16

アイオーデータという、何を省略したのか意味不明の会社に、「どうして貴社の外付けHDDは、パナソニックのギーガと接続できないのか」と電話したら、女の子が「検証できていませんので」と、何度も国会答弁のように繰り返した。6/17

ともかくA女に借りができたので、彼女が支配下に置いているB女の店で本を、C女の店でCDを買って、埋め合わせをしようと思って、妻と一緒にポポロ広場へやってくると、くだんのA女が私らを睨んだ。6/18

深夜の海で地引網を引いてみたら、どういうわけか最先端のハイテクおもちゃが、大量に浜に引き揚げられたので驚いたが、子どもたちは大喜びでそれで遊んでいる。6/19

中国の巨大な空港で行方不明になってしまった私は、5時間後に、中国の不思議な役人のおかげで発見され、感謝の言葉を述べようと思ったが、あっという間にいなくなってしまった。6/20

「本日にて、貴君への監視を終了する」と刑事と名乗る男が言うたので、私はずっと共謀罪の対象者だったとはじめて知った。6/21

野原で開かれているマル戦の集会で、かわいこちゃんの亜麻色の髪がおいらの鼻先をくすぐるので、いつまでもクンクン嗅いでいたら、マツイ君とテルイ君が、「おれたちの話を真面目に聞け」と怒り出した。6/22

ようやっと立ち上げた託児所で、預かった子供たちの昼食を作ろうと、ガスの火を点けたら、なにかに引火して、あっという間に家もろとも燃え尽きてしまった。6/23

私は45歳と46歳の元祇園芸者が経営するスナックに入り浸りになり、骨抜き状態になっているところを、「週刊新潮」にフォーカスされたが、別に誰からもなにも言われなかった。6/24

朝な夕なに海水が氾濫するこの街に、観光客を呼び込もうと、新任広報担当のマエダ嬢が「日本のヴェニスへどうぞ!」と懸命にPRしたが、いつまでたっても誰もやってこなかった。6/25

足元を流れている溝を覗くと、生まれたばかりの子犬が流されていたので、素早く拾い上げて抱いてやると、うれしそうに尻尾を振った。6/26

私は、最近友達になったばかりの馬と犬を連れて、街中をゆったり散歩した。6/27

私は、なぜだかモンシロチョウの雌になっていて、イタドリの葉っぱの上で羽根を広げ、下肢をピンと立てて、上空から雄が降りてくるのを待っていた。6/28

シュア製のカートリッジが暗闇に転がっていたので、何気なく拾い上げて右ポケットに入れ、速やかにその場を立ち去ろうとしたら、店主らしく男が睨みつけるので、さりげなくそこらへんに置いて、すたこらさっさと立ち去ったが、盗人にならなくて良かった。6/29

私はパエリア国の日本大使館のシェフに任命されたので、NYの世界各国の代表部の大使たちに、魚と野菜を主体とした北欧料理を、日本料理風味にアレンジして供したら、大好評だった。6/30

私は金曜の夜、会社のエレベーターの扉にもたれて不貞腐れているヤマちゃんを誘って、パエリア国大使館に向い、かの国の美女たちに囲まれて、極上の北欧料理と性的サービスの饗宴に満腹満足しつつ、うまし夢路を辿った。6/30

 
 

夢は第2の人生である 第56回

西暦2017年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

最後は私とマムシの決闘だったが、私は彼奴に噛まれないように後ろに回って尻尾をつかみ、石の上に何度も叩きつけたので、とうとう彼奴は私の軍門に下った。7/1

アシダ君はレリアン担当を命じられたが、苦手の婦人服分野なので、どのように取り組んだらいいのか、日夜悩んでいた。7/2

朝の5時だというのに、ごしごしと木を切っているやつがいる。「神様、私を助けてください」という少女の叫びも聞こえる。すると突然蝉が鳴き、ピアノがポロンと鳴った。7/3

悪者に追いかけられてたので「さあ困った、どうしよう?」と検索に打ち込んだら、いきなりイタリアの高級車アルファロメオが、目の前に現れたので、これ幸いと乗り込んで、窮地を脱することができた。7/4

阪神の源五郎丸に似た名投手と仮契約するために、今すぐ130万円が必要なので、すべての財布とポケットを探しまくったのだが、たったの1円すら持ち合わせがなかった。7/5

玄関に人の気配がするので覗いてみると、生協の配達のお兄さんが、しょんぼりと立ち尽くしているので、「どうしたの?」と尋ねると、「このシャケの切り身を注文されましたか?」というので、「いいや」と答えると、がっくりうなだれてしまった。7/6

私は式守伊之助だが、知らない間に土俵の外の砂に大きな足跡がついている。しかしいつ誰が踏み出したのか、さっぱり記憶がないので、頭の中が真っ白になった。7/7

「ホテルにしますか? 旅館にしますか?」と聞かれたので、「朝晩食事はついてるし、畳の上の布団で寝られるし、旅館にきまっとるがな」と答えて、その日は小西屋に泊った。7/8

そのうちに私らのオケは、だんだん地力がついてきたので、オペラ座がガルニエ宮で「トリスタンとイゾルデ」をやる同じ日時に、シャンゼリゼ劇場での公演をぶっつけ、乾坤一擲の勝負に出た。7/9

我が党ではつねに新鮮な新人候補者がプールされているので、選挙のたびに、大量の新人を繰り出すことができました。7/10

どういう訳だか、私はW社に二重採用されていたので、ある時は営業、またある時は企画の席を行ったり来たりして、都合が悪くなると、有休代休を取りまくって、給料も2倍もらっていた。7/11

鎌倉市長になった元ミス鎌倉のヤマモトヨシコは、自分の華麗な恋の遍歴を、市の広報に総天然色24ページで特集して、5万部増刷したので、一部の市民の顰蹙を買った。7/12

昨日ネットで買ったばかりの扇風機が、朝から怒涛のように押し寄せてくるので、甚だ迷惑だ。同じ扇風機を、こんなにたくさん購入した記憶はないのに。7/13

この新聞は、誰かが記事を読んだ途端に消えてしまうので、非常に困る。私は真っ白になったタブロイド紙を持ったまま、あちこち駆けずり回って、読んだ人からその内容を聞き取ろうと試みたのだが、空しかった。7/13

その男は、私がヤマダ電機で予約したレコーダーを勝手に使って、いろいろな番組を予約したり、かと思えば解除したりするので、私はひどく困惑してしまった。7/14

川上から下ってきたその男は、汀の生き倒れ人を見ながら、「誰でも人世にはこういう時がある。きっとあそこから落っこちたのだろう」と、橋の欄干を指差した。7/15

「自閉症は遺伝です」と、そのフランス人は熱く語ってやまないんだが、我が家の自閉症の長男は「なにをいまさら川端やなぎ、なにいううとるねん、ぱあでんねん」と笑い飛ばすだけだった。7/17

20代の私なら、一撃のもとに退治できた夏の蚊であったが、いまでは冬の蚊でさえ叩き潰すことができず、何度も掌が虚しく柏手を打った。7/18

西部戦線で異状があった。私と共に敵情視察に出向いた少年兵のハンスが、敵の狙撃手の1弾を喰らって、即死したのだ。7/19

私はダリル・ハンナの桃色の太腿で、細い首をぎゅうぎゅう絞めあげられ、あまつさえその首を、左右にぎゅぎゅっと捻られたので、思わず「もう勘弁してくらさいな」と泣きを入れたが、ハンナ嬢は知らん顔してる。7/20

私は平家の領地や源氏の領地に居ると、いろいろトラブルが起こるので、そのいずれにも属さない領分を見つけては、そこでぶらぶら遊んでいた。7/21

極寒の地で、人も鳥も犬も飢えていた。私がカメラを上空に向けていると、名も知れぬ黒い鳥が、私のすぐそばに、嘴を下に、ジャックナイフのように突き刺さった。飢えた彼奴は、私の生温かい肉を狙ったのだ。7/22

腰まで積った雪を、切り裂くようにして、家から出てきた女をみつめながら、狼は牙をむいた。私が彼奴にカメラを向けると、彼奴は、私を襲おうか、それとも女を襲おうか迷っていたが、そのまま息絶えた。7/22

昔から非常にださくて凡庸な企画ばかり提出して、物笑いの種になっていた男が、世界を代表する美術展のプロヂューサーに成りあがっているので、私はびっくり仰天した。7/23

半世紀ぶりに訪れたウッドストックは、地球上の他の場所と同じように、草木も土も生物もみかけない、荒れ果てた不毛の地、デッドストックと化していた。7/26

「冒険倶楽部」創刊記念3千号は、記念パーティが既に3回も開かれたにもかかわらず、まだ世に送られず、その代りに「浮草マガジン」や「おろぬき少女」という新雑誌が創刊された。7/27

私は、私に残された人生の末路を知るべく、最新鋭の「人世先取り録画機」を5倍速で早回ししてみたが、灰白色のノイズが忙しく点滅するのみで、その詳細は杳として知れなかった。7/28

私はどういう訳だか、知らない間に友人のブログを乗っ取ってしまい、友人になりすまして、多種多彩な情報を各方面にばらまいていたようだ。7/29

「お前の誕生から死まで、すべての経歴を、この全自動洗濯機に放り込んでおいたのさ」と神様は宣わった。良く見ると、私は、シャツやパンツに混じって溺れかかっていた。7/30

待望の幻の稀覯書を書架に見出し、欣喜雀躍せし余は、その時早く、かの時遅く、そを鷲攫みにして、レジに赴きたりしが、懐中に一銭の持ち合わせなきことを見出したり。7/31

 
 

夢は第2の人生である 第57回

西暦2017年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

おない年の古い友人、井出隆夫死去の知らせを受けた私は、いたずらに長生きしても仕方がないと、全財産を投じて、かねて買いたいと思っていた格安CDセットを、アマゾンで衝動買いした。8/1

私が喉を腫らして往生していると、あまり付き合いのなかった営業部の顔の大きな男がやってきて、「佐々木さん、これをすぐに飲みなさい、すぐに効きますよ」と言うて、白い錠剤をくれたが、はてさて飲んでいいのやら悪いのやら。8/1

全身身動きできない病気でベッドに縛りつけられている真夜中に、突然自地震がやってきた。ああ怖や怖や。8/2

一刀両断された巨大な鯉の半身の上に、跳躍した別の半身がぴたりと覆いかぶさると、元の見事な鯉の全身像が復元され、たちまち池の底に消えてしまった。8/3

私の留守中に奥村氏が訪問されたというので、私はすぐに家を飛び出してあとを追った。するとビルの壁面いっぱいに「拝啓佐々木眞殿、奥村土牛参上」と大書された横断幕が張られていたので驚いた。8/4

生まれ育った神田鎌倉河岸で、百坪の土地を手に入れた私は、その地で、ささやかな繊維会社を始めることにした。8/5

「地元民に限って、原爆の被害を見せてやる」と言うので、勇んで現地に駆けつけたものの、その眼を覆いたくなる惨状に言葉を失った。8/6

「海底と湖底のそれぞれに沈めてある私の玉の身に異常がないよう、くれぐれも注意してくれ」と言い置いて、私は牢屋に入った。8/7

40年間働いた御礼に貰ったキンコン船に乗って、港の外へ出て行こうとすると、部落の人々が、小舟に乗って別れを惜しんでくれた。8/7

朝カトウさんから「このたびわたくしウトウの君とケッコンいたします」というメモが来たので驚いた。なんでも、信号待ちの車で隣同志だったウトウが、窓からカトウの車に乗り込んできたのがなれそめだとか。8/8

ベテラン役者と称された私だったが、敵の首をちょん切ることだけは苦手で、いつも失敗していたので、汚名を挽回しようと、毎晩ひそかに練習を続けていた。8/9

ケンちゃんと一緒に電車に乗って、降りたところは、風がビュービュー吹き付ける賽の河原だった。仕方なくまた電車に乗って、次の駅で降りると、地下街で超マイナー作家の文庫本フェアを開催していたので、2冊買って、そこで藝大へ行くケンちゃんと別れた。8/10

激しい川の流れの中から引き揚げられたのは、2つのこんもりとした黒くて小さな塊で、私はその中のひとつが、自分の子供ではないか、とおののいた。8/11

私は人気の超高齢者番組に呼ばれて特別ゲストになったのだが、一言もコメントできなかったので、あっさり首になってしまった。8/12

賽ノ河原を歩いていると、「ササキマコト」と書かれた卒塔婆を見つけ、ずいぶん手回しが早いことだと驚いた。8/13

イソムラ氏は、さすが元NHKのアナウンサーらしく、私が持っていたレシーバーの4つのボタンを、最適のポジションにセットしてくれたのだが、その間に、本日のゲストの紹介が着々と進行していた。8/14

デパートの屋上にいる耕君のジャケットが、1階のエスカレーターの傍にあったので、私はそれをつかんで屋上まで昇ると、誰もいない。行き違いになったのだ。焦った私は、猛烈な勢いで、エスカレータを駆け降りた。8/15

大災害に遭った我が家に、いち早く駆けつけてくれた小人が呉れた竹筒の中には、おにぎりと小さな打ち出の小槌が入っていて、小槌を振るたびに、大判小判がザクザクと降ってくるのだった。8/17

ネットで私の名前を検索してみたら、生年と死亡年月日が記載されていたので驚いた。私は、もはやこの世の人ではなかったのだ。8/18

理事長は、いつも私の顔を見ると、私が講義している「春夏秋冬論」の中で、いろいろな年中行事の話を加味してほしい、と懇望するのだが、その都度私は無視して、聞き流してきた。8/19

私は「自分を語る」という番組に出ることになったのだが、キャメラが回り始めると、本当に自分が存在したのか、いまも存在しているのかよく分からなくなったので、スタジオから逃げ出して、満員電車に乗った。8/20

代々木駅で荷物を引っ張り出しているうちに、電車は新宿に向って発車してしまったので、私は、知人に挨拶もできずに別れてしまった。8/20

その高山鉄道は、麓の生誕駅からはじまって、少年少女、成人、恋愛、同棲、結婚、離婚、病気、老人、頂上の死別駅まで、10の名前がつけられていた。8/21

万博会場の跡地の最高塔がついに竣工したので、私はようやく、やすらかに永眠することができた。

サイトー君が、大枚を投じてカンヌで買い付けた映像は、映画祭の議事進行や、歴代の来賓の挨拶などを収録したもので、肝心要の映画とは、なんの関係もなかった。

私は暴漢に、何度も何度も刺されたようだが、その直前に友人のブログを乗っ取って、その友人になりすましていたたので、事なきを得た。

私は親類縁者のすべてに頭を下げて、港の外海に狭い漁場を確保していたのだが、新しい権力者が登場すると、そのささやかな利権は奪われてしまった。

イケダノブオの新ブランドは、毎年のように誕生したが、それがどこで、どのように販売されているかは、誰も知らないうちに、またしても新しいのが誕生するのだった。8/24

八木駅で山陰線に乗ろうとしていた私は、駅前に蝟集する不気味な黒集団に圧倒されたが、傍らのヤギが何か叫んだので、はっと気づいて、彼らの目の前にキャンバスを据えて、スケッチを始めた。8/25

前の理事長は、精力的に資金運用していたが、新任の理事長ときたら、そんなことにはまったく無関心で、部下に全部任せている。8/25

それにしても、真昼の海のどかな岬だ。しかし、こんなところにもなぜか映画会社があり、映写技師と私しかいない狭い試写会では、おりしもジョン・フォードの「捜索者」が上映されていた。8/26

恋に破れ、やけくそになったその女は、わが社をアポなし訪問して、「10万円を10日寝かせば投資で100万円にしてみせる」と、社員を見境なしに勧誘したが、誰も乗ってこないのだった。8/27

宇宙ロケットからクルーズ船、電車、新幹線、バス、飛行機、なんでも乗れてクレジットで買い物もできるという汎用性カードが送られてきた。ワーイ、ワーイ。8/28

私は五体満足だし、知能もまあ普通だし、いわゆる一人の平均的人間と周囲からは思われていたが、おそらく式亭馬琴が「八犬伝」でいう「仁義礼智忠信孝悌」の仁義八行のうちのどれかが欠落している、と自覚していた。8/29

私がデザインしたキッズ用のシープスキンのジャケットは、企画課長が没にしていたのを、営業課長への直訴が成功して復活したのだが、売り場に並んだ途端、売切れになって、追加生産ができるかという問い合わせが、全国から殺到した。8/29

道場で勝負を所望してきた素浪人と2度立会い、2度とも技ありで退けたのだが、今度は「六条河原で真剣勝負したい」としつこく迫るので、三度目の正直で、首を斬りおとしてやった。8/30

私の目の前で、いかにもそれらしく振る舞ってはいたが、その若い男女は、本当にお互いを熱愛しているとは到底いえない確たる証拠を握っていたので、私はひそかにほくそ笑んだ。8/31

 

 

 

「つむじ風、ここにあります」

音楽の慰め 第22回

 

佐々木 眞

 
 

 

木下龍也著「つむじ風、ここにあります」という短歌の本を読みました。
木下さんは山口市在住のことし29歳、すでに2冊の歌集を出し、2012年には全国短歌大会大会賞を受賞したという、文字通り新進気鋭の歌人です。

どんな短歌を作っている人かというと、これはなかなかいわく言い難い。じつにさまざまな歌を詠んでいる人なので、ページを開いたところにある歌を、行き当たりばったりに紹介しましょうか。

 

あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました

 

機関車トーマスに託された現代人の痛切な孤独と嘆きが伝わってこないでしょうか。
じっと耳を澄ますと、「ああ、いちど貼られたレッテルは二度と変更できず、一度定められた行き先も変更できず、同じ道行きを死ぬまで繰り返すのみである」というような叫びが聞こえてくる。
ユーモラスな外見に秘められた人生の惨劇は、私たちのまわりにいくらでも転がっているようです。

 

数千のおにぎりの死を伝えないローソンで読む朝日新聞

 

その前に「鮭の死を米でくるんでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい」という歌があり、次にこれが来ます。
コンビニに並べられている商品はことごとく死んでいることの発見の歌。私たちの日常を静かに囲繞する「乾いた死の歌」といえるでしょう。

 

後ろから刺された僕のお腹からちょと刃先が見えているなう

 

悲劇を達観し諦観する軽妙なニヒルこそ、われらの時代の唯一の処世術なのでしょう。おのおのがた、なう。

 

つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる

 

これは本書のタイトルにもなった短歌ですが、私はすぐに「誰が風を見たでしょう?」という昔の歌を思い出しました。

英国ヴィクトリア朝時代の女流詩人、クリスティナ・ロセッティの作詞を、西条八十が訳し、草川信が作曲した唱歌です。
けれども、ここでつむじ風が通り過ぎることを教えてくれるのは、もはや木の葉や木立ではなく、無機的な菓子パンの袋に変わっている。
いっそセレナードならぬ、「都市ルンペンプロレタリアートの哀しき叙情」といってもよいかも知れませんね。

今宵はこの懐かしい歌を聴きながら、皆様とお別れしたいと存じます。

 

 

 

 

鈴木志郎康詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』(書肆山田)を読んで その2

 

辻 和人

 
 

志郎康さんの詩には、意味不明な、ナンセンスな事柄をモチーフにしたものが数多くある。
あの有名な「プアプア詩」がそうであるし、1990年刊行の詩集『タセン(躱閃)』などは全編がナンセンスそのものと言っていい。比較的最近の詩では、『ペチャブル詩人』の「キャー」の詩が好例だろう。「キャーの演出」の冒頭部分は次のようなものである。

 

今、部屋の中にいて、
誰もいないのを見定めて、
思いっきり、
キャー、
と叫んでみる。

 

一人っきりの部屋でふざけてバカなまねをしてみるなどということは誰でも経験があるだろうが、この詩はそうした意味ない行為を真正面から取り上げている。しかし、この「意味ない」とはどういうことだろうか? 生活の役に立たず、仕事や学問という見地で価値がない、つまりざっくり言えば、生産性が認められないということだろう。では、「生産性」はどういう風に認められるのか、と言えば、それは他人との関係においてであろう。汚れた衣類を洗濯することは、他人から見て一般的な価値が認められる。衣類を身に着けることは社会性ということと密接な関係があり、どこの誰であろうと、きれいな身なりをする場合にはプラスの社会性が付与され、だらしない身なりの場合はマイナスの社会性が付与される。「プラス/マイナス」で判断できる社会性を、生産性があるとかないとか言い換えることができるだろう。では、「キャー」の場合はどうなのか? キャーと叫んだところで何が起こるわけでもない(せいぜい「猫がびっくり」するくらいだ)。生産性がないという言い方もできるだろうが、正確には生産性という概念と無縁の行為であると言えるだろう。この、生産性とは無縁の行為は、実は、生きる衝動というものと密接に結びついている。生きるということは時間の中に存在するということであり、時間の中で存在する限り、個体は待ったなしで行為し続けなければならない。待ったなしである限り、日常における無数の行為の大半は練られた思考の結果としてではなく、衝動的になされるしかない。「キャー」は、この生産性とは無縁な生きる衝動を、言語化し、可視化させる試みと言えるだろう。

 

詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』には、生産性という概念では測れない、この生きる衝動を端的にテーマにした作品が幾つか収められている。表題作である「とがりんぼう、ウフフっちゃ。」の連作がその典型例である。

 

尖った
尖った
とがりんぼう、
ウフフ。
とがりんぼう、
ウフフっちゃ。
ウフフ。

 

とがりんぼうとは何か。それはわからない。「俺っちの、/禿げてきた/頭のてっぺんってか。」と自問しかけるが、即座に「違う、違う、/違うっちゃ。」と打ち消してしまう。尖ったという特徴を持つ「とがりんぼう」は、どうやら「春の気分」の中から生まれたものであるようだが、それが具体的にどんなものであるのか、生みの親である「俺っち」にもわからない。但し、「ウフフ」という擬態語からわかるように、意味が特定されないままふっと生まれてしまった「とがりんぼう」という存在に、「俺っち」は強い愛着を示している。

「続とがりんぼう、ウフフっちゃ。」は、「とがりんぼう」への更なる執着を描いた詩。

 

急げ、
急げ、
追いかけろ、
摑まえろ、
とがりんぼうを
摑まえろ。
それしかないっちゃ。

 

「夜明け前の/3時を回ったところ」で目が覚めてしまった「俺っち」は、何と「とがりんぼう」の捕獲について考え始める。

 

今や、
とがりんぼうは、
外に出たっちゃ。
ということは、
中に入ったってこっちゃ。
二本杖でも外歩きできない、
ベッドで横になってる
俺っちの
頭の中に、
入っちまったってこっちゃ。

 

奇妙に厳密な論理の展開がおかしい。「俺っち」は「とがりんぼう」が気まぐれな思いつきの産物であることを自覚しており、かつ、自身が不自由な態勢であることを自覚している。身体は不自由だが、脳髄の運動は自由闊達そのものであり、その闊達さをイメージ化させたものが「とがりんぼう」なのである。実体はなく、何かの事象の比喩でもなく、尖っていそうだというぼんやりした印象の他は視覚的な特徴さえ持たない。が、それでも言葉の世界の中では生き生きと存在している。そんな「とがりんぼう」を、ベッドから離れられない「俺っち」は、脳髄をぐいぐいと動かして夢中で追いかける。生産性とは無関係な、純粋に存在するものを愛でる悦びが、ここに横溢している。

「続続とがりんぼう、ウフフっちゃ。」では、「とがりんぼう」に執着することに対する考察が展開されている。高名な数学の教授が弟子たちに、学問に没頭しなければならないということを語った文章を新聞で読み、こんな風に呟く。

 

早速、俺っち、
この言葉をもらったっちゃ。
「朝起きた時にきょうも一日とがりんぼうをひっ捕らえて詩を書くぞと思っているようでは、ものにならない。とがりんぼうを尖らせ詩を考えながらいつの間にか眠り、目覚めた時にはすでに詩の世界に入っていなければならない」
ってね。

 

「俺っち」は教授に同意するかに見えるが、次の瞬間には態度を翻す。

 

ものにならない、
ものになる、
ものにならない、
ものになる。

ものになる数学って、
なんじゃい。

 

教授が口にした「ものにならない」という言葉を捕らえて、「俺っち」は鋭く反論する。

 

とがりんぼうを
摑まえて、
尖らせ、
ものになる
詩って、
なんじゃ。
人類の詩の歴史に傑作を残すってことかいなあああ。
ケッ、アホ臭。

 

とがりんぼうを摑まえる行為はその人の内発性によるからこそ輝くのであり、外部からの評価、つまり生産性という点から価値を認められても空しいだけなのだ。

 

俺っちが、
とがりんぼうの
尖った先で、
言葉を書くと、
その瞬間、
火花散って、
パッと燃え尽き、
灰になっちゃうってこっちゃ。

 

この部分は、志郎康さんのどの文章よりも、「極私」の意味の核心を端的に突いているのではないかと思う。「俺っち」の気まぐれな空想から生まれた頼りない「とがりんぼう」という存在は、ただただ尖らせたいという「俺っち」のなりふみかまわない意志によってのみ「火花」が散るのであり、その後「燃え尽き」「灰になっちゃう」ことはむしろ望むところであり、それによって、

 

そこに、
新しい時間が開くっちゃ。
嬉しいって、
素晴らしいって、
ウフフ、
ウフフっちゃ。

 

という、生きて意志することの深い悦びが生まれる。

私は、こうした発想が、鈴木志郎康という人の詩の心臓部を形作っているのではないかと思う。「ナンセンス」という事態が生じるのは、言葉にならないものが言葉にされ、意味をなさないところに意味が与えられた時である。通常の社会生活において意味を持たない何かが、誰かが意志をもって言葉でもって名指すことにより、突如として存在を与えられる。すると、生産性という点で何の価値も認められなくても、「ナンセンス」は存在としての確かな力を獲得することになる。存在するものは存在するというだけで意味があり、意志は意志するというだけで意味がある。逆に言えば、「ナンセンス」という概念は、生産性という要素を抜きにして、存在すること自体に意味を見出すことにより成立するものなのだと言える。そこには、その存在を強く希求する「人」がいる。「ナンセンス」は一見不条理に見えても、そこには何らかの条理を見出す「人」がいなければ成立しない。志郎康さんは、他の誰にも見えなかったある条理を、強い意志の力でぐいと可視化させる。通常見えないものを見えるようにするには多大なエネルギーがいる。わざわざ可視化させるということは、それがどんなに見慣れないグロテスクな姿であっても、受け止めてくれる「人」がきっといるだろうと期待する気持ちが作者にあるからだ。生産性という回路を通らずに、「人」から「人」へと意志が伝わる。このプロセスを希求する態度が「極私」なのではないだろうか。

浮かない心情を綴った「重い思い」の連作6編にもこうした態度が顔を出す。体が思うように動かないことからくる不安や、右傾化する世の中に対する不満が「重い思い」を生じさせるのだが、言葉はそうした「重さ」に反発するかのように軽やかだ。「その三」には「重い思いが、/俺っちの/心に/覆い被さってくる。」という呟きの後、突如として次のようなフレーズが挿入される。

 

ドラムカン
あれれ、
空のドラムカン。
空のドラムカンが横積みにうず高く積み上げられてる。
空のドラムカンが転がされてる。
ドラムカンが転がされてる。
あれれ。

 

ドラムカンは中に工業用の液体などを詰めて保管することで用をなすものであり、空の状態では何かの役にも立っていない。それなりの重量はあるが、形が円筒なので地面に置けばちょっと力を加えただけでごろごろ転がってしまう。体を自由に動かせない「俺っち」にも少し似ているかもしれない。「俺っち」は、そんなドラムカンと自身を重ね合わせいるのだかいないのだか、とにかく、ドラムカンが転がる光景を想像して束の間楽しむのである。この詩におけるドラムカンは、現実にあるものとして描かれるでもなく、何かの事象の比喩として描かれるでもない。生産的な観点では、「俺っち」とドラムカンの関係は実に微妙である。しかし、言葉によってイメージ化された途端、ドラムカンは強い存在感を漂わせるではないか。散文では説明尽くせない、「俺っち」とドラムカンの微妙な関係の条理が、詩の言葉によって明確に示されていると言えるだろう。

似たようなテーマの詩として「大男がガッツイ手にシャベルを持って」がある。「俺っち、/どうしていいか、/わからんちゃ。/いい加減な大きさの、/軽いボールだっちゃ。」で始まるこの作品では、「俺っち」自身がボールになって坂をコロコロ転がっている。そのうちに、

 

ガッツァ。
鉄のシャベルだっちゃ。
大男だっちゃ。
怒り肩の大男が現れたっちゃ。
大男はガッツイ手でシャベルを掴んで
地面に穴をけっぽじって、
ボールを埋めたっちゃ。
コロコロを、
忘れろっちゃ。

 

何とも不思議な展開の詩である。ボールになって坂を転がっていくうちに大男が現れて穴に埋められてしまう。この詩を試しに散文的に解釈すると、不自由な体のため他人との交流が少なくなってしまった人間が、無為な雑念に囚われる自分を諫める、ということにもなろうか。しかし、この詩から受ける印象は、今書いたような荒っぽい解釈から生まれるであろう印象とは全く異なるものである。第一に、「俺っち」は、無為な行為や思考をしているのではなく、ボールになってコロコロ転がっている。第二に、「どうしていいか、/わからんちゃ。」は、反省をしているのではなく、転がって埋められて、さあどうしましょう、ということである。空想上でのことであっても、具体的な行為、場所、相手が問題になるのであり、意味の生産性は問題にされていない。

「糞詰まりから脱却できて青空や」もナンセンスという観点で読むと極めて面白い。腰を痛めてしまった「俺っち」は、トイレに行くが、「腰が痛くて踏ん張れないから、/糞が出ないっちゃ。」という事態に陥る。そこで訪問看護師さんを呼んで大便を掻き出してもらうという壮絶な体験をすることになる。その様子が詳しく描写された後、

 

ようやくのことで、
詰まった糞が掻き出されたっちゃ。
ふっふう、ふうう、ふう。
気持ちが晴れたっちゃ。
腰はイテテでも、
青空や。
看護師さん、ありがとうっちゃ。
ありがとうっちゃ。

 

この壮絶な体験の後の「気持ちが晴れたっちゃ」という心の呟きが「青空」につながり、俳句のようなタイトルになるのである。この詩を読んで、「大変だったろうなあ、自分はこんな体験はしたくないなあ」と青ざめる人はまずいないだろう。大抵の人は壮絶な体験の後の「青空」の美しさが心に残り、ほっとした気持ちになるだろう。志郎康さんは延々と続く暗がりの果ての晴れやかな青のイメージを念頭に置きながら、大便を他人に掻き出してもらう過程を細密に書き進めている。過程が困難だからこそ、潜り抜けた後に出現する「青空」が眩しく感じられるのだ。「青空や」の「や」は、「気持ちが晴れる=青空」という比喩として単純で効率の良い回路を通じてではなく、俳句として「青空」の自律的な意味合いを味わってもらうために、わざわざ付け加えられたものなのであろう。

志郎康さんの詩には政治的・社会的な問題を扱ったものも多いが、そうしたものも「ナンセンス」という観点で読んでみると新しい発見があるように思う。前に触れた、オバマ元大統領の広島来訪に関する詩でも、来訪の意味を確定させた上で、確定された意味合いを詩の言葉で改めて表現するという手段を志郎康さんは取らない。来訪について、「俺っち」があれこれと考えつつある姿が、詩の言葉によって読者に手渡されるのである。

あることについての考えではなく、考えつつある姿、つまり話者の思考の身体性が、ダイレクトに手渡されるのだ。確定された意味が詩によって再現されるのでなく、意味が瞬時瞬時に生成されていく現場に、読者は立ち会わされる。作者の身体に根差したその現場は、「極私」と呼ぶしかないもので、意味が認められていなかった領域に独自の意味が立ち上がること、つまり「ナンセンス」という概念に裏打ちされている。但し、「ナンセンス」はしっかり可視化する工夫をしなければ他人には何だかわからないものになってしまう。そこで、志郎康さんは、前の稿で書いたような「近さ」を演出する方法を取り、作者の「ナンセンス」に読者を巻き込んでいくのである。志郎康さんの中でこうした考え方が尖鋭化されていったのは、SNSの経験を通じ、読者と、今までになかったような濃密な人間関係を構築したいという欲求が芽生えたからではないだろうか。詩を書くことは新たな人間関係を築いていくこと、『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』を読むと、そんな風に思えてくるのである。

 

 

 

女声コーラスの「赤とんぼ」

音楽の慰め 第21回

 

佐々木 眞

 
 

 

秋晴れの午後、久しぶりに生の音楽に耳を傾けました。
逗子文化プラザなぎさホールで、女声合唱団「ぶどうの会」コンサートを聴いたのです。

じつは私はコーラスというのは苦手でして、高校生や中学生がコンクールで演奏するのをたまにラジオで聴くくらいですが、この日登壇したのは19人のいわゆる後期高齢者のおばんさんばかり。

創立20周年とはいえ「ぶどうの会」はアマチュアのメンバーなのでいったいどうなるのかと心配していたのですが、案ずるより産むがやすし、さながら少女のように純な歌声が流れてきたので、驚くやら安心するやらでした。

プログラムの前半は、はたちよしこ作詞・吉岡弘之作曲「レモンの車輪」、木下牧子作曲の5曲の合唱曲集、中盤は上田眞樹編曲も「日本抒情歌」、後半はみなづきみのり作詞北川昇作曲の組曲「やさしさとさびしさの天使」でしたが、指揮者の杉山範雄、ピアノの石原朋子さんの好サポートもあって、お腹いっぱいのご馳走を頂戴したような気分になりました。

近代から現代曲までさまざまな曲が演奏されましたが、やはり昔から耳に馴染んだ「朧月夜」、「荒城の月」、「夏は来ぬ」、「赤とんぼ」などの日本の歌が心に響きました。
ただしこれらの名曲をあまり調子の乗ってモダンに編曲すると、せっかくの古朴な樂想を傷つけてしまうことがあるので、若い編曲家は気をつけてもらいたいものです。

それにしても、休憩をはさんでおよそ2時間を見事に歌い通した出演者には、拍手喝采を贈りたい。しかも全収益金が沖縄久米島に設立された福島の子供たちの保養施設の活動に寄付されるとあらば、なおさらのことです。

 
 

福島より沖縄に来た子らのため十九の老女声張り歌う 蝶人

 

 

 

日本人としてのフデコさんのためのHerstory

2017年11月バンコクでのパフォーマンスのテキスト部分

 
 

Shinichi Arai
荒井真一

 
 

In that video my mother Fudeko san cried and told me that you must stop your performances.
It was her first time to watch my performance “Happy Japan!.”

She told me that why you show your Chyon Chyon means your penis and sing a holly national anthem nudity and paint holly Japanese flag with your hip?

She told me that you are unpatriotic and not Japanese.
And told me that I am very sorry that we poor your parents supported you who became such bad guy.

She died on 19th September this year.
She was born on 4th May 1927.
So she was 90 years old that day.

My father died in 2002.
I was only one child of them.
My mother broke down on 11th June 2011.
Since then she could not speak nor eat with her mouth nor move her right hand and foot.

She was born one of 8 children.
Her family was a very poor peasant at local village of Toyama prefecture 600km from Tokyo.
She only graduated primary school.
It was very similar as many peasants girl children those day.
In primary school she learned that the Emperor was god, the father of Japanese fathers, so your holly father, national flag and anthem were excellent holly like the Emperor.

After World War 2nd, many young Japanese Emperor armies could not come back to their poor villages.
So she could not marry.
She worked hard for family to take care of her niece and nephew whose mother worked hard at rice fields and do housework like cooking and sewing.

At last she married when she was 31 years old with my father Hisao san.
He was 35 years old and second marry but He lived in rich Toyama city with his rich family.

After their marry his family became very poor and his rich brothers were gone.

My father only got small land for small house from his rich family.

Then my mother understood my father could not write and read Japanese nor calculate simply numbers.

So she was father and mother for me in my childhood.

But I love Fudeko san and Hisao san

 

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2003年正月、ビデオ見ながらわたしの母フデ子さんは泣いて、あなたはパフォーマンスをしてはならないとわたしに言った。
フデ子さんがわたしのパフォーマンス「Happy Japan!」を見るのは初めてのことだった。

フデ子さんはわたしがなぜチョンチョン(チンポ)を出し(ピカチューで隠しているのだが)、神聖な「君が代」をウンコをするかっこうで歌い、神聖な「日の丸」を尻で描くのかと問い詰めた。

彼女は、わたしを非国民と言った。
そして、あなたを東京の大学に行かせるのは大変だった。こういうことをしているのは亡き父久男さんとわたしへの裏切りだと言った。

彼女は2017年9月19日に死亡した。
彼女は1927年5月4日に生まれた。
彼女はその日、90歳だった。

わたしの父は2002年に亡くなった。
わたしは彼らの一人っ子だった。

わたしの母は2011年6月11日に突然倒れた。
それ以来、彼女は話すことも、口で食べたり、左腕と左脚を動かすこともできなかった。

フデ子さんは8人兄弟だった。
彼女の家族は富山県の宇奈月町で、非常に貧しい農家だった。
彼女は小学校のみを卒業した。
それは当時の多くの農民の女子たちでは当たり前のことだった。
小学校では、天皇は神であると教えられた。あなたの父親たちの父であり、あなたがたの神であり神聖な父であると。
国旗、国歌は天皇のように神聖だと。

第二次世界大戦後、多くの若い日本の農民の兵士は貧しい村に戻ってこなかった。
そして彼女は結婚できなかった。
彼女は田んぼ仕事で忙しい義姉の代わりに姪と甥の世話をし、調理や縫製のような家事をして家族を助けた。

彼女はついに31歳の時にわたしの父久男さんと結婚した。
久男さんは35歳で二度目の結婚だったが、都会の富山市で金持ちの家族ととも暮らしていた。

彼らの結婚後、久男さんの家族は没落し、父の金持ちの兄弟は死んでしまった。

久男さんは家族から邸内の小さな土地をもらっただけだった。

そして私の母は久男さんが文盲であり、簡単なたし算もできないと理解していった。

だからフデ子さんは子供のころ、わたしの父であり母だった。

しかし、わたしは今でもフデ子さんと久男さんが大好きです。

 

 

 

フルトヴェングラーの「ドン・ジョヴァンニ」

音楽の慰め 第20回

 

佐々木 眞

 
 

 

クラシックの再現芸術の世界における代表選手のひとりは、イタリア人のトスカニーニ(1867-1957)、そしてもう一人がドイツ人のフルトヴェングラー(1886-1954)であることは、クラシック音楽の世界ではいわば常識となっています。

この宿命のライヴァル指揮者を巡って、多くの人々が、「おいらはフルヴェン派、いやあたいはトスカニーニ派」と、その応援合戦にしのぎを削って参りました。

前回はトスカニーニをご紹介しましたので、今回の主役はフルトヴェングラーです。

フルトヴェングラーといえば、なんといってもお国物のベートーヴェン、そしてワーグナーの音楽を得意としていましたが、モーツァルトも同じような重厚な演奏を聴かせてくれます。

今宵は1954年8月、フルトヴェングラーが亡くなる直前にザルツブルク音楽祭で上演された歴史的演奏で、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を聴いてみることにいたしましょう。これはCDでも構わないのですが、パウル・ツィンナー監督の手で収録されたカラー映像を、最新のハイヴィジョン・マスター版で鑑賞することができます。

なんといっても冒頭の序曲を、まるで福禄寿のような顔をしたフルヴェンご本人が指揮する有り難いお姿を拝見出来るのが、この映像の最大の特色です。

右手でリズムを取りながら、時々左手で指示を送るのは、他の指揮者と同じですが、最初の拍の振り出しを「わざと曖昧に」振っているのが印象的。きっとベートーヴェンの「運命」だって、ああいう感じでアバウトに振り下ろすのでしょう。

オーケストラは当然アインザッツ(出だし)が不揃いになるのですが、音楽的にはむしろそのほうが即時的感興に富み、収穫されるべき果実が多い、というのがフルトヴェングラー選手一流の考え方だったのでしょう。

テンポは遅い。というよりも遅すぎるように感ぜられますが、このことがアリアの言葉の意味を際だたせ、普通なら聴き飛ばす箇所に、重い意味を持たせます。

例えばオットー・エーデルマンが歌う有名な「カタログの歌」のリフレインが、これほど意味深く当時の、(そして今の観衆の耳にも)届けられたことはなかったでしょうし、アントン・デルモータが歌うドン・オッターヴィオのアリアにも、それと同じことが言えるでしょう。

しかしこの悠長とも思える遅く、重々しいテンポは、最後の幕のドン・ジョヴァンニの有名な「地獄落ち」の場面で、最高最大の効果を発揮することを、フルトヴェングラーは熟知していました。

不世出のドン・ジョヴァンニ役者チエザーレ・シェピは、「悔い改めよ!」と迫る騎士長に、「ノン、ノン、ノン!」と3度4度と断固拒否を貫くのですが、双方の対決を支援する管弦楽の圧倒的な遅さと、圧倒的な咆哮の兇暴さは、ヘルベルト・グラーフの絶妙な演出とあいまって、前代未聞の凄まじさで、私たちの脳天を震撼します。

モーツアルトのスコアには、この「地獄落ち」で終わる版と、その後で6人が揃って「めでたしめでたし」と終曲を歌うロングバージョンの2種がありますが、フルトヴェングラーは後者を演奏しつつも、このオペラの本質は「地獄落ち」の迫真性そのものにあることを見定め、だからこの遅いテンポをあえて設定したのだということが、オペラの肝心かなめのキーポイントを聴いてはじめて分かるのです。

 

えんやこらしょっとバイロイトに響き渡るウィーンフィルの咆哮 蝶人

 

 

 

 

鈴木志郎康詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』(書肆山田)を読んで その1

 

辻 和人

 
 

鈴木志郎康さんはこのところ毎年のように詩集を出している。『ペチャブル詩人』(2013)『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』(2015)『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』(2016)というペースである。その前の詩集は『声の生地』(2008)だから(初期の詩を集成した『攻勢の姿勢』(2009)がある)、詩を書くことに対する意気込みがこの数年で異様に高まっているのが感じられて、志郎康さんの詩を愛するものとして嬉しい限りだ。これらの詩は、更新頻度の高いさとう三千魚さんのブログ「浜風文庫」に掲載されており、FACEBOOKやTWITTERを通じて拡散されている。詩をSNSで発表すると、「いいね!」がついたり感想が寄せられたりリツィートされたり、読者のリアクションがある。つまり、詩の言葉の先に「人」がいるのが実感できる。ここ数年の志郎康さんの詩は、人に語りかけるスタイルで書かれているが、ここには恐らくSNSという発表媒体が影響している。志郎康さんはFACEBOOKに、詩の他にも庭に咲いた花の写真なども投稿されているが、こういうことも含め、読者は「志郎康さん」という人のイメージを頭に置きつつ詩を読むことになるだろう。
詩が人から生まれて人に届くものであるという単純な事実をリアルタイムで噛みしめられるのが、SNSで発表する際の面白さだ。活字媒体ではこうはいかない。

本詩集において、志郎康さんはこの読者との「近さ」の感覚を演出するために「俺っち」という一人称を使う。私は個人的に志郎康さんと何度もお会いしたことがあるが、自分のことを「俺っち」と言ったことを聞いたことがない(当たり前だが)。日常的に「俺っち」を主語にして話す人はほとんどいないだろうが、あえて使う時は、自分を茶目っ気のある存在としてアピールしたい時だろう。「俺っち」という一人称を使うことによって、「カッコつけず本音を包み隠さず喋りかける庶民」として発話していることを、抜け目なくアピールしていると言える。

しかし、この「近さ」は、SNSの読者の頭にある漠然とした「志郎康さん」のイメージに素直に沿うものではなく、むしろそれを攪乱するものである。「俺っち」は、読者に共感を期待することはあっても同調を求めようとしない。

「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」は「俺っち、/ここ三年続けて、/詩集を出すっちゃ。/八十を過ぎても、/いっぱい/詩が書けたっちゃ。/俺っち/嬉しいっちゃ。」という何やら「うる星やつら」のラムちゃんのような弾むような口調で軽快に始まるが、

 

詩集って、
詩が印刷された
紙の束だっちゃ。
書物だっちゃ、
物だっちゃ。
物体だっちゃ。
欲望を掻き立てるっちゃ。

 

のように、詩集のモノ性(それは詩の言葉自体とは性質の異なるものだ)について言及し、

 

この詩集ちう物体は、
人の手に渡るっちゃ。
肝心要のこっちゃ。
詩を書いたご当人が
詩人と呼ばれる、
世の中の
主人公になるってこっちゃ。

 

詩集の流通が詩人のヒロイックな気分の形成につながることを指摘し、しかし、

 

せいぜい、
認めてくれるのは、
知人か友人か家族だけだっちゃ。
それでも、
いいっちゃ。

 

と、開き直った上で、

 

この世には、
物体だけが、
残るっちゃ。
ウォッ、ホッホ、
ホッホ、ホッホ。

 

詩を生み出す意識は肉体とともに滅びるが、詩集という物体は残るという身も蓋もない事実を告げ、不気味(?)な笑いとともに終わる。

新詩集ができたという単純な喜びがみるみるうちに形を変えていき、読者は出発点からは想像もできない地点に運ばれてぽとんと落とされる。「俺っち」は、読者の前で一人漫才をするかのようにボケとツッコミを繰り広げるが、ここに浮かび上がってくるのは、詩と詩集、詩を書くことと詩人として認知されること、の微妙な関係である。この詩集には「俺っちは良い夢を見たっす」という作品が掲載されている。一人の女性が木を削りながら、どうしたら一つ一つの木片を生かすことができるか悩んでいる、という夢を見たことを書いたものだが、女性の意識は木片に集中しており、結果としてできあがった何かをどうこうしようというところまでは考えない。芸術作品の創作は、内側から沸き起こってくる衝動に忠実な、純粋な態度で行われるのが理想であろう。しかし、その衝動が完成した作品となり、更に発表されると、世間との複雑な関係が生まれ、最初の純粋な気持ちとは違うものが生まれてきてしまう。表現には、内から溢れる衝動を誰かと共有し、共感してもらいたいという願望が内包されているが、それを越えて、虚栄心や功名心が芽生えることもある。その線引きは難しい。「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」は、詩集の完成を喜びながらも、その詩集を「物体」として敢えて突き放すことによって、表現が辿る複雑な道筋を、ボケとツッコミを一人で繰り返しながら繊細に可視化させていると言える。

このボケとツッコミ話法は、志郎康さんの作品にはよく見られるものであったが、本詩集ではこれまで以上に凝った使い方がなされている。

「ピカピカの薬缶の横っ腹に俺っちの姿が映ったっすよね」は「トイレの帰り、/ガスコンロに乗った薬缶の横腹に、/俺っちの上半身裸の体が映ってたっすね。」というきっかけから、原爆投下時の広島において爆死した人の影が周囲の物に残ったことを連想し、更にそこからアメリカのオバマ元大統領の平和公園での献花の様子に想いを馳せる。演説を聞いた「俺っち」は、

 

原子爆弾を落として、
広島市民に死をもたらしたのは、
米国のB29エノラゲイじゃなかったのかいなって、
ぐっときたっす

 

のように、オバマ元大統領の「死が降ってきた」発言に疑念を示すが、直後に、

 

米国が持ってる数千発の核兵器を
即座には捨てられないんだなっちゃ。
思いとかけはなれてて、
結構、辛いのかもしれんっちゃ。

 

政治家としての立場と個人としての想いに引き裂かれるオバマ元大統領に同情を示した上で、

 

核攻撃の承認の機密装置を
傍らに、理想を語る
大統領という役職の
男の存在に、
あの目を瞑った顔のアップに、
俺っち、
ちょっとばかり、
ぐっときちゃったね。
ウウン、グッグ。
ウウン、グッグ。

 

と元大統領来訪の感想を締める。「俺っち」は「ぐっと」とくるが、それは「ちょっとばかり」であり、「ウウン、グッグ」というふざけた調子の音が後に続く。立場と想いの間で揺れる元大統領に対し、「俺っち」も反発と同情の間で揺れている。対象を突き放すのでも入れ込むのでもなく、近づいたり離れたり。読者は、「俺っち」の脳髄の柔らかな運動にリアルタイムでつきあうことになる。元大統領も「俺っち」も、「薬缶の横っ腹」に姿が映るような(それはいつか掻き消えることを暗示する)物理的に不安定でかよわい存在であり、同時に強い感情を備え、時には冗談も口にする、「人」という存在だということが実感される。その実感は、読者自身にも跳ね返ってくることだろう。

「雑草詩って、俺っちの感想なん」と「昨年六月の詩『雑草詩って俺っちの感想なん』を書き換える」は対となる作品だが、連作というには何ともユニークな造りをしている。「雑草詩って、俺っちの感想なん」は前の詩集『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は』の校正刷りを手にした時のことを書いた詩である。

 

日頃のことが
ごじょごじょっと書かれた
俺っちの
詩の行が縦に並んでるじゃん、
こりゃ、
雑草が生えてるじゃん、

 

という新鮮な発見が基になっている。まず、前詩集について書くのに、その内容ではなく、縦に文字が並んでいるという外観に着目するのが面白い。「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」と同様、自分の詩集を自分から手が離れた一個のモノとして眺めるという態度がここでも示されている。その発見について「俺っち」は、

 

いいぞ、
雑草詩。
こりゃ、
俺っちにしては
すっ晴らしい思いつきだぜ。

 

と自らを茶化すように、しかし浮き立った調子で書くのだ。だが、「いいじゃん、/いいじゃん、」と盛り上がっていた気分は時間がたつにつれトーンダウンしていく。

 

雑草詩なんちゃって、
かっこつけ過ぎじゃん。
なんか悩ましいじゃん、
なんか悔しいじゃん、
なんかこん畜生じゃん、

 

詩の始まりと逆の地点に流れていって、読者はおやおやっと肩透かしを食ってしまう。思いついた当初は盛り上がっていたのに翌日にはアイディアの欠点を見つけてシュンとしまうなどということは、日常よくあるだが、詩のテーマになることは少ない。この詩は、詩の言葉というものは、本来他人に管理されるものではなく、各々の自己の欲求のままにたくましく生え出てくるものだという主張から始まっている。この主張自体は決して間違っていないだろう。が、ここで「雑草」という比喩を使ってしまったことに、「俺っち」は気が咎めている。「雑草のようにたくましい」というような比喩の通俗性が、詩を書く意識に余計なヒロイズムを付与することに、嫌悪の情を示しているのだろうなあと思う。
十分ひねりのある詩に見えるが、志郎康さんは更にこの詩を素材にしてもう一編の詩を書く。それが「昨年六月の詩『雑草詩って俺っちの感想なん』を書き換える」である。

 

俺っち、
自分が去年の六月に書いた詩を、
書き換えたっちゃ。
書いた詩を書き換えるっちゃ、
初めてのこっちゃ。
雑草詩って比喩の
使い方が気に入らないっちゃ。

 

こんな調子で始まり、何とこの後、書き換えた詩がまるまる挿入されるのである。

 

俺っちは
雑草って呼ばれる草の
ひとつひとつの名前を
ろくに知らないっちゃ。
いい気なもんだっちゃ。

 

そもそも雑草とは何かということを問う方向に「俺っち」の思考は動いていき、

 

雑草って比喩は、
有用な栽培植物に向き合ってるってこっちゃ。
有用が片方にあるってこっちゃ。
有用な詩ってなんじゃい。

 

雑草という概念が「無用/有用」の枠に囚われたものであることに気づいて、そこから詩作とは何かを問い直していく。行きついた先は、

 

詩を書くって、
ひとりで書くってこっちゃ。
ひとりよがりになりがちだっちゃ。
でもね、
誰かが読んでくれると、
嬉しいじゃん。
共感が欲しいじゃん。
読んだら、
話そうじゃん
話そうじゃん。
じゃん、
じゃん、
ぽん。

 

何とも素直でシンプル。でもこれは、詩を書き始め、熱中していく過程で誰しも思うことだろう。気になって仕方がないが普段口に出して言うことが難しいことでも、一生懸命詩の言葉という形で表に出せば、誰かにわかってもらえるかもしれない。このわかってもらいたいという気持ちは、詩人として評価されたいというようなこととは別の、人間として自然な感情だ。「俺っち」はこの自然な感情を大事にしたいのだろう。それが「話そうじゃん」と具体的な行為への呼びかけに結びつく。さて、この素朴な結論は、「雑草詩」という概念の提出、疑問、否定という過程を得て導きだされたものである。結論は素直でシンプルだが、ここに至る過程は素直でなく、曲がりくねっていて複雑である。「俺っち」は読者にこの過程をじっくり見せてくれる。詩を丸々一編書き換えてまで。コロコロと身を翻し、ボケとツッコミを繰り広げながら、生きている人間ならではの凸凹した思考の道筋をじっくり見せてくれるのである。

こうした方法によって、話者と読者との緊張感ある「近い」関係がしっかりと形作られる。額縁にはまらない、一筋縄ではいかない「俺っち」の動きある思考の活写が、読者に時間の共有を促すのである。「俺っちは今こう考えているが、次にどう変化するかわからない。その変化の様子は逐一伝えるから、あなたはそれを捕まえて、あなたも変化して欲しい」とでも言いたげだ。志郎康さんは、読者に違和感を突きつけ続けることにより、作品を挟んで、作者と読者が並走するような関係を築き上げようと試みているように思える。

 
 

*その2に続きます。

 

 

 

夢は第2の人生である 第54回

西暦2017年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

私は貧乏人だったのにもっと貧乏そうな人に車とお金を上げてしまった。その車の中には「探せば車内に50万円あります」という置手紙をしておいたので、彼は今頃大捜索をしているに違いない。5/1

「お客様、まずはこのモデルさんのお顔をよくご覧ください。そしてこう、このようにお顔のお手入れをなさってください」と、その化粧品メーカーのマヌカンは熱弁をふるった。5/2

突然編集部に闖入してきたその男は、私らの作っている雑誌の値段が高すぎるのは、私らの月給が高すぎるからだ。その分を価格値下げに回せと叫んで、その場に座り込み、いっかな動こうとしなかった。5/3

「自然界にはさまざまな情熱と無邪気が存在しています。それでは只今からその不可思議をこの手に取り出してみましょう」と、その女性は言うのであった。5/4

大阪湾付近で右側の島を削って左側に持ってくるという大工事が行われていたことを、私はケート台風がやって来るまで、ちっとも知らなかった。5/5

晴の結婚式の当日、婚約者に逃げられてしまった私がガックリしていると、婚約者の父親が恐縮して平身低頭した後で、「うちのあんなバカ娘より、こっちの方が遥かにいいですよ」と、同席していた親戚の妙齢の美女を薦められたので、「ま、いいか」と思って式を挙げた。5/6

グラグラになった奥歯が、なにかの拍子にポロリと取れてしまった。驚いて驚きついでに隣の歯に力を入れると、これもポロッと取れる。その隣も、そのまたまた隣も次々に取れて、私はあっという間に歯抜け爺になってしまった。5/6

突然歯が痛くなって、会社を休む。今日あたり今期の宣伝費が決まっているから、早く営業と打ち合わせをしないとヤバイのだが、と思いながら、今日も会社を休んでいる。5/7

エレベーターは、阪神百貨店のある5階に到着したが、5人の女たちは誰一人降りようとせず、8階の阪急百貨店を目指していた。5/8

その蓆の上では、50年代から現代までの各種の雑誌が叩き売られていたが、それでも雑誌の値段は、古いものほど値が高かったので、いたく感心したことだった。5/10

私は、猛烈な歯の痛みを鎮静剤が押さえている間に、消化を促進しようと、自分の胃をトクホの巨大な胃腸に取り替えようと提案したのだが、上層部では、てんで評価してくれなかった。5/11

僕の座席の列をまっすぐにしようと、「えいやっ!」と動かしたのだが、右側の座席に激突してしまった。どうやらこの劇場では、対立する2つの流れが存在しているようだ。5/12

私が乗り組んだ国内初の原潜の内部では、熾烈な権力闘争が起こり、多数の死傷者が出たが、けっきょく艦長派が副長派を制圧して、母港のある横須賀湾に帰着した。5/13

講習会が終ったあとで、テキストと答案を回収する必要があったので、出口での受け取り方を考えていると、コバヤシ君が「ああそれはねえ、こおこうこうすればいいんだよ」と親切に要領よく教えてくれたので助かったが、彼はもうだいぶ前に死んでいる人なのだ。5/14

デモやテロが激発したために大学入試が中止になったために、我々学生の他に一般人も大勢押し寄せて、職員や機動隊と乱闘になったために、「凶暴罪」が発動されて、大勢の民衆が逮捕された。5/15

「そんなにいうなら投げてみろ」と私が挑発したら、彼奴は時速200キロ相当の猛スピードボールを投げたので、私はそいつを右方向に打ち返して、ランニングホーマーにしてやったら、彼奴はガックリうなだれていた。5/16

この仕舞屋では、冬だというのに使用人たちは、店の土間の藁の上で、ガタガタ震えていたので、その家の息子たる私は、畳の上で安眠できる特権と贅沢を、身に沁みて感じた。5/17

どういう風の吹きまわしか、出張先で女性の上司とホテルの同室に泊まる羽目に陥った私は、これから朝までどういう風にふるまっていいのか、おおいに悩んでいた。5/19

我らが決起集会の出席者は、300名だった。私は一刻も早く決起せねばと焦ったが、出席者の大半は落ち着き払って、いつまでも地面に腰を下ろしたままだった。5/20

コンサート会場では、3種類の座布団が販売されていて、その売り上げが財団に報告されていなかった。おそらく事務局の誰かがくすねているのだろうが、まだ誰もそのことを言いだそうとはしない。5/21

私たちの羊を彼らに送ると、彼らはその見返りに、よく肥えた牛を送ってくれたので、私らは非常な好感を抱いた。5/22

その漫才師は、2つの青い風船のエピソードなどをうまく即興で取り込みながら、異常に長い噺を物語った。5/23

私は稀代の女殺しになって、並みいる美女たちを片っ端からナンパしてはナニしていったが、誰からも文句は言われなかった。5/24

「電車に乗って、微動だにしなければ無料、ちょっとでも前後左右に揺れ動いたら、有料になるのよ」と、ヤスナガさんいわれた。

イケダノブオの評判が悪いので、ベビー子供部隊では、担当MDとデザイナー、営業のなり手がなくなり、マネージャーの私は、往生していた。5/24

ナベショーが、ゴルフのできない私を勝手にゴルフコンペに招待したので、こいつなにを考えているのか、と不審に思って出かけてみると、ナベショーは、自分が開発したゴルフグッズを、だれかれなしに売りつけようとしているのだった。5/25

カナカ人のおばさんを、子供たちの算数の先生として雇ったのだが、彼女は3ケタの引き算すら出来ないことがすぐに判明したので、首にせざるを得なかった。5/26

この国では、突然小文字の使用が許されなくなったので、あらゆる出版物の小文字を大文字に換えることになった。すると、つぶれかかっていた印刷屋に大量の仕事が舞い込んだので、大喜びしているそうだ。5/27

「やすらぎの郷」という死にかけ老人ドラマがヒットしたので、立木義浩カメラマン撮影の浅丘ルリ子さんのヘアヌード写真集が発売されたが、ほとんど売れなかったそうだ。半世紀前ならベストセラーになっただろうに。5/27

「上野駅マラソン大会」のゴールに、大勢の選手たちが飛び込んでくるが、タイム判定員はたった一人しかおらず、その時計はちょっと遅れているので、現地は大混乱だった。5/28

オグロ氏は、おらっちの書いた拙い脚本を映画にしてやると公言し、有名監督やトップスターを世界中から召集して、製作発表記者会見とパーティを開いたので、私はとうとう彼を裏切れない舎弟となってしまった。5/29

せっかく景勝地にやって来たというのに、岩の上の親たちは、幼い子供が岩から落ちて渓流に流されていることも知らずに、釣りに夢中になっている。5/30

夜の演奏会を前に、港までクルーザーで乗り付けたアンタル・ドラティ一家だったが、ドラティ老夫婦は、会場付近を悠然と散策していた。5/30

天上から「お前が死んだら迎えに来てやる」と言う声がした。じつはその前に、天の声が別の人に「百歳になったら迎えに来てやる」と言うのが聞こえていたのだが、私に対しては「百歳」という言葉は遣われなかった。いつ迎えが来るのか、楽しいようでもあり、怖いようでもある。5/31