盆踊り大会

 

みわ はるか

 
 

「久しぶりに地元の盆踊り大会に行かない?花火もあるって!」
数年ぶりに幼馴染から来たメールだ。
「いいね。うん行くよ。確か変わってなければ役場からシャトルバスが出てるはずだからそれで行こう。」
わたしはすぐに返信した。
送信ボタンを押し終えると数年ぶりに会う彼女のことを考えた。
どんな人になっているだろう。
そして自分はどんな風に見られるのだろう。
色んなことを想像しながら、さて、自分は何を着ていこうかなとクローゼットの中の服を思い浮かべた。

8月15日はわたしの故郷の盆踊り大会が開かれる日だ。
雨が降ろうが風が吹こうが必ずこの日だ。
よっぽどのことのがない限り最後の花火まで強行突破される。
延期はない。
ドーム状の形をした舞台では遠方から招待した少し有名な人たちが踊ったり歌ったりする。
メイン会場の中央ではみんなが輪になっててぬぐいを持ちながら踊る。
屋台もたくさん出るけれどわたしの一番のお気に入りはきらきら光るブレスレットやイヤリングを売っていたお店。
それを身に着けると不思議と心はうきうきしてその日だけ特別なお姫様になったような気分だった。
その魔法は残念ながら次の日には消えてしまうのだけれど・・・。
もともとコテージが周りにはたくさんあったので遠方からの人もそこそこ来ていた。
湖が売りだったため山々に囲まれたそこはとても静かで落ち着いた場所だった。
打ち上げる花火が空だけでなく湖にも映って鏡のようになる瞬間、それは本当に美しかった。
今まで何ヵ所かで花火を見たことがあるけれど、今でも故郷の花火が一番きれいだと信じている。

急いで車を走らせて役場に着くともうその友人は到着していた。
栗色に染めたきれいな髪の毛に少しパーマをあてポニーテールでまとめていた。
白い無地のワンピースは彼女の肌の白さを際立たせていたしとてもよく似合っていた。
眼鏡屋さんのショーケースに入っているようなものすごくおしゃれな丸眼鏡には思わず「それ度は入ってるの?」と突っ込んでしまった。
「入ってる、入ってる!ボーナスで思い切って買ったんだ!」
聞いた値段に本当に驚いたけれど、ケラケラケラケラ笑う彼女は昔となにも変わっていなくてほっとした。
シャトルバスの中でも会場でも色んな話をした。
仕事のこと、両親のこと、兄弟のこと、友人のこと・・・・・・。
話す内容は子供のころとはまるで違ったけれど(当たり前なのかもしれないけれど・・・)彼女は前向きだった。
確か大人になって久しぶりに会ったのは共通の友人の葬儀だったと記憶している。
同級生を若くして亡くした、
一緒に校庭を駆け回ったやんちゃな子が今では2児の母になった、
上京して見上げると首が痛くなるほど上の方のビルの中で仕事をしている元生徒会長、
農家の長男として大根やにんにく、じゃがいも、白菜、人参と丁寧に丁寧に育てている人、
東京で少しは名の通るイラストレーターになった人(アニメの最後のエンディングでその子の名前を見つけた)、
一度は遠い土地に嫁いだけれど出戻った人。
わたしたちの間で時は過ぎた。
なんだか少しさみしかった。

無事に最後の花火まで滞りなく終わった。
昔見た花火と変わりなくきれいだった。
あの短くもなく長くもない時間がちょうどいい。
最後にうちわの抽選会がある。
これは事前に番号が書かれたうちわが各家に配られていて、会場でそれを見せると登録される。
最後にその登録された番号の中から抽選で数十人に景品が配られるといった仕組みだ。
今年は5等ティッシュボックス、4等洗剤、3等正方形の箱だったけれど中はよく分からなかった、2等扇風機、1等バーベキューセットであった。
1等が当たったらやっかいだなどうやって持って帰ろうと考えていたが当たるはずもなく杞憂に終わり、本当に欲しかった扇風機にもかすりもせず、
5等のティッシュボックスさえもらうことができなかった。
「まあ、こんなもんだよ~。」
ケラケラケラケラと洗剤の箱をかかえた彼女は笑っていた。
最後売れ残りを防ぐために1パック100円になった屋台のから揚げを買いに彼女は一目散に走って行った。
明日の昼ごはんのお弁当のおかずにするそうだ。
にこにこと戻ってきた彼女は満足そうだった。

帰りのシャトルバスを降りる直前彼女は言った
「少しゆっくりしようと思う。尾道から今治にサイクリングロードがあってさ一人で旅しようと思う。」
それは相談ではなく報告だった。
決意表明にもとれた。
彼女は近い未来にきっと実現するだろう。
無責任なことは言えないけれど応援している。
彼女なら大丈夫、なんだって大丈夫。
わたしが出会った中でも5本の指には入るスーパーポジティブな人だから。

 

 

 

待ち合わせ

 

みわ はるか

 
 

人と待ち合わせをしているとき、たいていはどちらかが先に着くのだけれど、相手がその人に気づいたときの表情が好きです。
ほっとしたような、嬉しいような、ほころんだ顔。
その人めがけて小走りになるそんな瞬間が好きです。
必死に遅れた言い訳をする姿は愛らしいです。

様々な待ち合わせ現場を見るのも好きです。
駅の改札でそわそわ待っている男の人のところには、たいてい可愛らしく着飾った、お化粧ばっちりの女の人が合流する。
喫茶店でおしぼりで手を拭きつつぼーっとしながら待っている年配の女性のところには、やっぱり同じくらいの年の気心知れたであろう年配の女性がどかどかやってくる。
中学生ともなると部活仲間だろうか、バス停にぞろぞろと集団で集まってきてがやがやと会話が止まらない。
会社の上司と部下なのか、待たせてしまった上司にわびながら急いで汗をふきながら頭を下げている現場も見た。
みんな誰かに会うという目的を持って待ち合わせ場所へ行く。
色んな待ち合わせがあって楽しい。

この人に会うから(たいていは異性になるのかもしれないけれど)、新しいワンピースを買おうとか、少し高いナイトクリームを使おうとか、きちんとマニュキアを爪に塗ろうとか・・・・・。
そういう人がいるのはきっと人生を豊かにしてくれるんだろうなと思う。
テストで100点を取りたいとか、この映画を劇場で見たいとか、これを食べたいとか・・・・・。
自分一人で達成できるものではなくて。
誰かがいて完結できるもの。
ただただ、自分のためだけではない人生が選択肢にはあるんだなと。

自分のためだけに生きることに疲れることが最近結構あるような気がします。
自分が思うのと同じように自分のことを思ってくれることはなかなか難しいです。
たくさんの藁の中からたった1本の針を見つけるくらい難しいです。

何のために生きているのか自問したときに、具体的な誰かのために自分は存在したいと言えるのであれば、それはとても美しいと思います。

 

 

 

わたしの大好きな叔母

 

みわ はるか

 
 

わたしの叔母は40代半ばで人生に幕を閉じた。
女性特有の悪性腫瘍、心の病、そういうもろもろを抱えて遠い空へ旅立った。
叔母は絵に書いたようないい人で、わたしはそんな叔母が大好きだった。
お墓に掘られた叔母の享年があまりにも若い数字なのでそれを見るといつも悲しくなる。
丁寧に丁寧に水をかける、できるだけ明るい花を供える、草を取る。
今のわたしにできることはこれくらいなんだと思うと涙が頬をつたう。
会いたい、ただもう一度でいいから会いたい。
いつも思う。

生まれは兵庫県尼崎市。
関西弁はきついと思われがちだが叔母の言葉は温かみがあった。
長身で肌が白く、長い栗色の髪の毛をきれいに整えていた。
瞳は大きく口元はいつも微笑んでいた。
来るもの拒まずという感じで誰に対しても優しかった。
当時大阪に叔母夫婦が住んでいたころ、わたしはまだ小学生だった。
子供に恵まれなかったためわたしのことを大層かわいがってくれて、色んなところへ連れて行ってくれた。
海遊館、ひらかたパーク、太陽の塔、通天閣、難波、梅田・・・・。
記憶はおぼろけだけれど嫌な思い出はなかったように記憶している。
後で聞いた話だけれど、大阪から少し遠くに住んでいたわたしが来ることを何週間も前から心待ちにしていてくれたようだ。
いつもにこにこ笑顔を絶やさなかった叔母は輝いて見えた。

わたしの知る叔母は専業主婦だった。
以前就職していた会社での人間関係に悩んだ時期があったとだいぶ後になってから聞いた。
人がいい叔母はそんな環境におそらくどうしても耐えられなかったのだと思う。
心はしぼみ、前へ進めなくなってしまったのではないかと思う。
退社後もその時の後遺症は残ってしまい心は完全には元気にならなかった。
わたしはみじんもそんなことを感じたことがなかったので、この話を聞いたときは心底驚いた。
きっと毎日何物でもない何かに苦しんでいたんだと思う。

病気が見つかったのはそんな時でもあった。
わたしは叔父からどうか時々でいいからメールの相手をしてあげてほしいと頼まれた。
仕事が忙しかった叔父が帰宅が遅く、叔母はいつも一人だったからだ。
小学生だったわたしは深く考えることなく了承した。
学校であったこと、給食のこと、クラブ活動のこと、つらつらと書きたいことを記した。
叔母からの返信は早かった。
それもいつもかわいいグリーティングカードで送られてきた。
わたしはそれを見るのが楽しみだったし、開く前はどきどきわくわくしていた。
けれど、しばらくすると少しメールのやりとりがめんどうに思えてきた。
友達ともめいっぱい遊びたい盛りだったし、クラブ活動もわりと忙しかった。
だんだんと返信が遅くなり途絶えていった。
叔母が亡くなったと聞いたのはそれから数か月後のことだった。
ものすごく驚いた。
葬儀や告別式はそんな意に反してあっという間に終わってしまった。
大人たちは深刻そうに深夜まで話していたし、ただ事ではないことはわたしにもわかった。
わたしは自分がメールの返信をさぼったことをものすごく後悔した。
メールの中身はいつもキラキラした文だった。
そんな思い詰めていたなんて全然知らなかった。
皮肉にも、最後の叔母からのメールを見ようとしたのだけれど、どうしてもパスワードが思い出せなかった。
大人になった今も叔母からの最後のメールは何だったのだろうと考える時がある。
こんなにも後悔したことは今までなかったし、これからもこれを超えるようなことは滅多にない気がする。

大人になった今、似たようなことがあった。
ある知人に数年間誤解をしていて、たまにするメールも絵文字なしだったりと淡白な文章を送り続けていた。
あるきっかけがあって、最近電話をする機会がありその誤解がするっと解けた瞬間があった。
その人はいつも丁寧なかわいい絵文字をつけてメッセージを送ってくれていたのに・・・・。
また後悔した。
メールだけではどうしても相手の表情や気持ちが読み取れないときがある。
たまには声を聞いたり、会ったりしなければいけない。
そんなふうに感じた。

もうすぐお盆が来る。
今年も叔母に会いに行こうと思う。

 

 

 

海遊館

 

みわ はるか

 
 

先日、NHKスペシャルで「プルーアース・海の生き物たち」という特集を見た。
大海原は広大で美しいけれど、実は栄養分が貧しいためそこに生きる生物たちは餌を確保するのに苦労している。
一度餌となる標的を見つけるとまたとないチャンスにこぞって群がる。
それを嗅ぎ付けた他の生物もまた寄ってくる。
みんな生きるのに必死なのだ。
太陽の光がほとんど届かない深海にも生物がいる。
ここはもっと餌が少ないので一度見つけた標的は貴重だ。
体力をなるべく消耗しないようにゆっくりゆっくり泳ぐ。
そのためか、1年に1度しか食べ物にありつけなくても平気な魚もいる。
イワシの群れ、シャチの機敏な動き、サメの鋭い顔つき、大きな体の鯨が垂直に眠る姿・・・・。
広い広い海に住む生き物に圧倒され魅了された。

そこでわたしは友人を誘い大阪、海遊館へ行くことにした。
短絡的な思考だなとあとで思った。

調べると大阪まで電車と新幹線で2時間程だということが分かった。
行きの新幹線の中で、仲のいい友人と並んで食べる駅弁はなんだかとてもおいしかった。
あんまり好きではない魚の煮つけがするすると喉を通っていった。
車窓から見えるビルやマンションの多さは新鮮だった。
一体この窓の奥にはどんな人がどんな風に生きているのだろうと想像した。
だけどいまいち浮かばなかった。
そんなことをぐるぐる考えているとあっという間に海遊館の最寄駅についた。
そこから少し歩いただけで目的地にすんなり到着した。

大海原とまではいかなかったけれど、その水族館はわたしの心を充分に満たしてくれた。
大きな水槽に無数の魚たち。
気持ちよさそうにゆっくり泳いでいた。
ジンベイザメは想像以上に大きかったし、ヒトデやタコたちは期待通りのべっとしてけっして動こうとしなかった。
エイはつるっとしていて体を大きく見せながらふわりふわりと動いていた。
きらきらした水槽の中には、踊るように上へ上へと進むクラゲたちが驚くほどいた。
小さな熱帯魚はきれいな蛍光色をした体を見せつけるように優雅に時を過ごしていた。
どれもこれも普段は決して身近に感じることができない光景ばかりでいい時間だった。
水族館は大人になってからでも充分楽しめる場所なんだと知った。
最後の「順路→」を超えたあたりからなんだか少しさみしい気持ちになった。
いつもそうだけれど、楽しみにしていたものの「最後」は辛い。

最後、友人と2人で近くの観覧車に乗った。
すぐ横のテーマパークが見えた。
どこまでも続く高速道路が見えた。
きらきら光る海が見えた。
そこらじゅうに建つマンションが見えた。
今話題のあべのはるかすが見えた。
前を向くとあまりの高さに驚いている友人の顔が見えた。
これからのことをぼーっと考えた。
20代後半もだいぶたった。
どうやって生きていくのが正解なのか考えた。
蟻のように小さくなった人を真上からのぞいた。
長袖の人もいれば半袖の人もいた。
ふと、今日が雲一つない晴天でよかったなと思った。
色々考えたけれど答えは出てこなかった。
観覧車はスタート地点に戻った。
それは同時にゴールでもあった。

興味をもったものを追い求めて外に出ることはいいことだなと思う。
出来る限り自分の目で確認する作業をこれからも続けていけたらなと思う。
きっと何か得るものがあると思う。
あるはずだと自分を納得させることにする。

 

 

 

NICE

 

みわ はるか

 
 

NICEという団体をご存じでしょうか?

特定非営利活動法人という組織で、国内・国際ボランティアを推奨している。
わたしが大学生だったころ、数年ではあるがこの組織に所属していた時期がある。
この経験はわたしにとってとても大きなものとなった。

大学1年生のときとった英語の先生はとても厳しくテストで単位をとるのが大変だった。
そんな経験から、2年生のとき英語の授業をシラバスから選択する際、レポートで単位をとれるものを選んだ。
ただし、その先生は毎年人気だったため抽選でもれる心配があった。
運を天に任せて履修登録をしたのだが、ラッキーなことにその授業を受講する権利を得た。
いざ授業の初日を迎えると想像通り緩かった。
本当に緩かった。
まだ30代半ばの色白の男の先生だった。
チャイムがなってから「あ-ごめんごめん、少し遅れたね。」と急ぎ足で教室に入ってくるようなかんじ。
1限でありわたしもぎりぎりだったのでそこはありがたかった。
実力は相当で、TOEICは990点満点、話す英語はとても流暢だった。
その先生は英語の授業はもちろんしてくれたが、それ以上に課外活動の紹介をスライドを使って教えてくれた。
外国人と触れ合う場、留学のこと、就職のこと・・・・。
その内容はとても新鮮で興味をひかれるものだった。
その中で出会ったのがNICEという活動だった。
国内は北は北海道、南は九州、外国もアジア・ヨーロッパ・アメリカ・アフリカ大陸までと幅広くボランティアをしている組織だった。
スライドから流れてくるボランティアスタッフの顔はどれもみんな充実感にあふれていた。
わたしも挑戦してみたい。
そんな気持ちから年間登録をしていざやってみることにしたのだ。

わたしは初めてのボランティアの場を東京の奥多摩に決めた。
東京にもこんな田舎があるのだと本当に驚いた。
2週間、知的障害者施設の横の武家屋敷と呼ばれる古民家に世界から来る人たちと寝食をともにしながらボランティアをすることとなった。
それは新鮮でありやや辛くもあった日々の始まりだった。
日本人、韓国人、台湾人、フランス人、ロシア人、ウクライナ人・・・言葉も文化も違う国々の人たちとの共同生活がスタートした。
わたしは英語が堪能ではないのでいろんな人に助けてもらいながらなんとが過ごした。
知的障害者の方と農業や工芸品を作ったり、側の保育園に1日実習に行ったり、山に登り竹を切り流しそうめんをしたりした。
みんなが初めましての状態ではあったけれど、目的は同じだったので作業はわりとスムーズにいったような気がする。
あのスライドでみた風景を少しは体験できたのではないかと思う。
ただ、2週間も一緒にいると様々な問題もでてきた。
部屋の荷物が出しっぱなしの人、音楽を大音量でかける人、洗面所やお風呂の使い方が汚い人、ゴミは誰が出しに行くのか・・・。
みんながみんなストレスをかかえていた。
言いたいことだけ言って残念ながら最後まで解決できなかった事案もたくさんある。
集団で文化の違う人たちと生活を共にする難しさを知った。
問題を短時間では解決できないもどかしさも知った。
みんなを一生懸命束ねようとしてくれた日本人大学生リーダー、武家屋敷の主でいつもにこにこと見守ってくれたおじいちゃん、
快く迎えてくれた施設のスタッフの方々、一緒に2週間活動を共にした仲間。
自分の記憶のなかでそこだけが浮き出てくるような不思議な時間だった。
最後の日、みんなでぞろぞろと新宿のお寿司屋さんに足を運んだ。
きらきら輝くお魚のお寿司はとてもおいしかった。
プリクラも撮った。
空港へと続く電車の改札でさよならを言った。
さみしかった。

その後わたしは何度か東京へ足を運び1日単位のボランティアに参加した。
今ではすっかり疎遠になってしまったのでたまにふっとまたみんなに会いたいなを思う。
嵐が好きだと言っていて大きなつばの麦わら帽子をかぶっていたソウル出身の子はSEとなり結婚もした。
日本語が堪能だった釜山出身の子は日本と韓国を往復する旅行会社の添乗員となった。
映画監督になりたいと語っていたウクライナの子はどうしているだろう。
みんなきっとそれぞれの地で元気でやっているといいな。

そう思わずにはいられないのです。

 

 

 

学び続ける力

 

みわ はるか

 
 

時々足を運ぶパン屋さんがある。
小さなところなのでお会計をしている人はいつも同じお姉さんだ。
30代前半くらいだろうか。
すらりと背の高いお姉さんは色白で美人だ。
初めて見たときは、髪をきれいな栗色に染めていて、くるくるとパーマがかかった髪をおろしていた。
背中の半分くらいまであったような気がする。
久しぶりにまたパンが食べたくてそこに出向くと、パンを並べるのに忙しそうな同じお姉さんの姿があった。
髪は黒色になっていて、高い位置で1つに結んでまとめられていた。
桜の形をした可愛らしいバレッタで上から留めてあった。
振り向いたお姉さんの顔は前見たときと同じだったけれど、ほんのり頬に添えられたチークは赤色だったのが柔らかいピンク色に変わっていた。
時は人を変えるんだな。
人は何かしら物事に飽きるんだな。
色んなものに触発されるんだな。
何かを吸収したり学んだりすることはとても有意義だと思う。

わたしは山や川に囲まれた、よく言えば大自然に見守られて育った。
コンビニやスーパーは近くにないし、商業施設や娯楽施設もない。
ないないづくしの町だ。
そんな中で母親はよく図書館へ連れていってくれた。
1度に15冊まで借りられたので、絵本や小説、紙芝居、歴史本など目一杯借りていた。
カラフルな絵で書かれた本はわたしをわくわくした気分にしてくれたし、小説の中の世界はわたしに外界の世界を教えてくれた。
でもそれはあくまで本の中の世界だと思っていたので、現実世界にも色んなものがあって色んな体験ができると知るのはまだずっと後の話だ。
東京で長い間暮らしていた父は家で作られたご飯を食べることを好んでいたので家族で外食に行った記憶はほとんどない。
必然的にそういうお店があることを知らなかったし、なんとなくは分かってもそれがどういうものなのか想像するしかなかった。
旅行もあまり好きでなかった父の考えでみんなでどこかへ行って、何か有名なものの前でピースサインをする写真もほぼない。
ただ、ほったらかしにされていたわけでもなくて、学校のイベントや成長した姿の小さい頃の写真はたくさんアルバムに収められている。
人を家に呼ぶのが好きだった父は、よくみんなでバーベーキューをしたり、鍋をつついたりした。
店屋物をよくとっていた記憶がある。
夏にはカブトムシや蛍を見に河原に連れていってくれたし、夏休みのラジオ体操やプールをずる休みしようとするとものすごい勢いで怒られた。

わたし自身の話となると、大人になった今は某有名化粧品が大好きで、服や靴のショッピングも好む。
ただ高校生まではそういうものに一切興味がなくて、朝、顔を洗うのに使うのは水だけだったし、服も制服とジャージがあれば十分だった。
困ったことは高校の修学旅行だった。3泊4日沖縄へ行くことに決まったのだけれど私服でというのが条件だった。ほとんど何もないクローゼットのどこを探しても着ていけるような服は見つからなかった。
その時は幼馴染みでお洒落な高校生活を満喫していた友達に一緒にショッピングモールを巡ってもらい事なきを得たのだけれど、その時間は苦痛だった。
その次の壁は大学入学前の時だった。
さすがに大学生ともなれば女の子は化粧がほぼ当たり前、毎日の生活も私服、鞄や靴も自由。
わたしにとっては大きな大きな環境の変化だった。
このときもあの例の幼馴染みに頭を下げてお願いして服やら靴やら全部助言してもらった。
化粧の仕方も一から教えてもらって感謝はしているが、彼女は少し濃すぎるのでその後自分でアレンジした。
この頃からきちんと洗顔や化粧水、乳液、美容クリームなど基礎的なお手入れを始めた。
美容院でしか売っていない少し高くて髪のキューティクルにいいシャンプーやトリートメントを買い始めたのもこの頃だ。
慣れないわたしの格好や化粧はのちのち人前に出てもまあましだと思われるようになったとは思うけれど、大学入学当初はものすごくださかったと思う。
それを大学の友人に確かめるのは怖いので今でも聞けずにいる。

大学入学後はまさに本の中の世界を見ているような気分だった。
少し都会に位置していたので、食べるところや着るものが売っているお店、お洒落なインテリアショップなど本当に何でもあった。
人の多さに圧倒されたし、女の人はきれいな人が多かった。
焼肉、イタリア料理、ワイン、和食、商業施設と複合してある温泉、髪を奇抜に染めた店員さんで構成される美容院…。
驚きの連続だった。
世界の入り口にやっとたどり着いたような気分だった。
もちろん勉学もそうだけれど多くのことを学んで吸収して取り組んだ時期の1つだった。
こんな田舎から出てきたわたしに懇切丁寧に様々なことを教えてくれた周りの人には感謝している。

何かを学ぶことをやめたらきっと人生はものすごくつまらない。
そんな気がする。

 

 

 

電車

 

みわ はるか

 
 

真冬の夜中、寒いので体を縮こめて布団の中で丸まっていた。
世間では梅の花が開花したところがあるとニュースで言っていたけれど、とても同じ日本とは思えなかった。あー明日の朝も布団から出るのが億劫なんだろうなと思って眠りに落ちようとしていた。
そんな時、遠く駅の方から軽快な音が聞こえてきた。
どこかで聞いたことあるなとよくよく考えていると、踏切で遮断機が降りているときのメロディーだった。
夜中、静かだと家の中まで聞こえてくるんだと驚いた。
その音が聞こえなくなるまでわたしは布団の中でずっと耳をそばだてていた。

高校、大学と合わせて7年間、わたしはJRにお世話になった。
朝は通勤ラッシュで車内は混んでいたし、それが夏なら汗臭く、雨なら濡れた傘の置き場に困ったものだ。
たいてい、通学の学生や通勤の社会人と一緒になった。
新聞を読んでいる人、ガムを噛んでいる人、マナー違反だが化粧をしている人、英単語帳を開けている人。
みんながみんな眠い目を擦りながら電車に乗っていた。
同じ時間の車両に乗れば大体顔ぶれは同じで、その人の着ている服から季節が感じとれたりもした。
ニットのセーターにコート、マフラーで完全に防寒対策されていた服装が、麻の白いワンピースを着てくるようになった社会人らしき女性を見て、冬から夏の到来を肌で感じた。
人身事故や機械的トラブルで電車が急に止まることが多々あった。
どこからともなく舌打ちする音や、無意識に腕時計を確認する人、会社や友達へ遅れるという連絡をする人へと雰囲気が変わった。
みんなイライラしていた。
中には耐えきれなくなって車掌に罵声を浴びせる人もいた。
誰も悪くないのに、悲しいけれどそれはよく目にする光景だった。

夜はこれまた学校帰りの学生や、会社終わりの社会人と一緒だった。
朝と違うのは疲れてはいるけれどどこかみんなほっとした顔で椅子に座ったり、吊り輪につかまっていたところ。
1日の終わり、真っ暗になった景色を窓から見ながら安堵しているように見えた。
金曜の夜は特にお酒に酔った人をよく見かけた。
頬を赤らめ、同僚や後輩だろうか、肩を借りて立っているのがやっとというような感じだった。
肩を貸している方はなんだか大変そうだったけど、決して嫌な顔ではなくてむしろ嬉しそうに見えた。
きっとものすごく気心知れているんだろうなと思った。
そんな人と金曜の夜にお酒を飲みに行けるなんて、なんて素敵なんだと羨ましかった。
一生のうちでそんな人に出会える確率は思っている以上に低いはずだ。
気のせいだとは思うけれど、電車がホームに入っていく音が朝よりも夜の方が静かなような気がした。
疲れた乗客に気を使うように遠慮がちにそっと停車しているかのようだった。

電車の中の人を観察するのが好きだった。
そこには一人一人小さなドラマを抱えている。

 

 

 

大学の恩師の話

 

みわ はるか

 
 

「古希になりました。吹き矢始めました。」
すでに退職された大学の恩師である教授から送られてきた今年の年賀状の一文だ。
大学を卒業して丸5年。
毎年1年に1回葉書でやり取りしている。
去年は「仏料理、中華料理始めました。一度いらしてください。」
その前の年は「町内自治会長に勤しんでいます。そちらはいかがですか!?」
などといった感じた。
筆ペンで書かれた達筆な字はとても美しい。
流れるような字面を何度も読み返す。
元旦の郵便受けはわたしの心をわくわくさせてくれる。

男性にしては小柄で色白、だいたいいつもスーツの上に黄土色の体型より少し大きめのサイズだと思われる上着を着ていた。
話すことが大好きで、いつも学生に柔和な笑顔で接し人気だった。
そんなわたしも教授のことは大好きで友達とよく教授の研究室を訪ねた。
分厚くて埃っぽい本が山積み、学生のレポートが端の方へおいやられ、わずかな隙間にt-falの電気ケトルが置かれていた。
お世辞にもきれいとは言えないけれどなんだか落ち着いた。
訪ねていくといつも歓迎してくれた。
勉強の悩みから、将来への不安。
どんなときもうんうんと包み込むように聞いてくれた。
少年のような遊び心を持った教授は、自分の学生時代の苦悩、教授になってからの留学先での慌ただしさや言語が上手く伝わらないことから生まれたストレス、定年を迎えたあとへの希望をにこにこと話してくれた。
若いのだから何だってできる。
若いということほど強靭な武器はない。
辛いことももちろんあるだろうけど困難は分割して考えていけばいい。
そんなようなことを教えてくれた。
どうしてかと言われるとよくわからないけれど、あの研究室を出るときはいつも清々しい気持ちになった。

わたしが在学中、ご好意に甘えて友達5人程で教授の自宅に遊びに行ったことがあった。
町からは外れに位置しておりほどよい田舎。
子供はすでに自立しており奥さんと仲良く一軒家に住んでいた。
古来から存在する日本家屋できれいにリホームされていた。
奥さんはよく笑い、これまたよく話す人だった。
テーブルにはあふれるほどの料理とお菓子が彩りよく並んでいた。
それが全部手作りと言うから驚きだ。
愛犬2匹とゆっくりゆっくり生活しているのだなと感じた。
それほどまでに穏やかな時間だった。
素敵だった。

帰り際、奥さんがこっそり教えてくれたこと。
「初めてのデートはどこだったと思う!?はははは、なんと山に自然薯掘りだったのよ~。はははは。」
教授らしいなぁと思ってみんなで笑った。

アクティブで前向きな性格にはいつもいつも驚かされる。
そして、案外自分が思っている以上に未来は拓けているのだと感じさせてくれる、そんな恩師の話。

 

 

 

お正月

 

みわ はるか

 
 

2018年明けましておめでとうございます。

新しい年になりました。
元日は冷たい風やたまに降るしとしとした雨を家の窓から眺めていました。
近くに有名な神社があるためか、朝も早くからぞろぞろと人が同じ方向へ歩いていました。
わたしはというと、あいにく体調をくずしてしまったので、初詣や初売りにも行かず暖かい部屋でぬくぬくと過ごしておりました。
お正月、みなさんはどのように過ごしたのでしょうか。
わたしが思い出すお正月はまだおじいちゃんもおばあちゃんも元気だった頃のお正月。
それを少しここに書き留めておきたいと思います。

父親と祖父は人を呼ぶのが好きでした。
12月の末には必ずお餅つきをしていました。
従兄弟家族はもちろんのこと、その友達、近所の人もたくさん来ていました。
機械ではなく本物の杵と臼でつくのです。
それは想像以上に大変で特に男の人がメインでつきます。
20臼くらいを1日がかりでつくのです。
つきたてのおもちはやわらかく、きな粉、あんこ、大根おろしのいずれかにつけて食べます。
保存用のお餅はお鏡さん用の丸いもの、きれいに角を作った四角のものをそれぞれ上手に作ります。
お餅とお餅がくっつかないように専用の粉を端にはつけます。
それを各家庭で焼き餅やお雑煮にするのですがそのおいしいこと。
市販のものはもう食べられません。

正月三ヶ日のいずれかには従兄弟家族たちと家ですき焼きをしました。
お正月だからと特別に買った少し豪華な牛肉。
ネギや椎茸、豆腐とともにぐつぐつと煮込みます。
キラキラしている溶いた卵につけて口に運ぶまでのどきどきした時間は幸福な瞬間でした。
生卵はあまり好きではなかったけれどすき焼きだけは特別でした。
最後に手伝わされる洗い物でさえもあまり嫌だとは感じなかったのはすき焼きの魔力でしょうか。

今はもうこの行事はなくなってしまいました。
あの頃から考えれば驚くほどみんな年を重ねました。
戦隊ものごっこで遊んでくれた従兄弟のお兄ちゃんは結婚して子供が産まれ家を建てています。
あんなにパワフルだった叔母さんと叔父さんは今では家にある小さな畑で家庭菜園をしながら静かに生きています。
妹は仕事の関係で遠くに住んでいます。
年に2、3回しか帰ってきません。
弟はインターンシップや就職活動でとても忙しそうです。
あのころ飼っていた犬は2代目の犬になりました。
みんなで一緒に食事をするためのあの大きなテーブルは部屋の端で寂しそうに収まっています。
きっともうこのテーブルが活躍する日はないでしょう。
いつかゴミとして処分される日が来るのかもしれません。

みんなあのころよりも随分年を重ねて自由に生きています。
今まで続いていたことがなくなることに違和感は感じたけれど、不思議と寂しさは感じませんでした。
自然と疎遠になること、自然とあったものが消えていくこと、それは悪いことではないような気がします。

今年もどうかいい一年でありますように。

 

 

 

2017 師走

 

みわ はるか

 
 

15年ほど前に欠けてしまった前歯に詰め物をしている。
先っぽだけなので見た目にはそんなに目立たないのだけれど、やっぱり気になるので詰め物をしている。
その詰め物が定期的に取れてしまうので、歯医者にその都度行っている。
先日、生まれた時からずっと通っていた歯医者さんが引退してしまった。
仕方なく新しい歯医者を探してそこに行くようになったのだが、未知の空間へ足を踏み込むのは勇気がいる。
椅子の上でわたしのまぬけな顔をのぞかれる。
知らない人にまじまじと見られる。
こんな恥ずかしいことはない。
年配の歯科衛生士さんにライトで照らされた口の中をすみからすみまでチェックされる。
あーーー帰りたい。
そんなわたしの歯医者デビューはなんとか無事に終わった。
慣れるまでには時間がかかりそうだけれど、当分ここに通うつもりだ。

社会福祉協議会という組織がある。
そこが募集している勉強を教えるボランティアに参加している。
月に数回程度、小学生や中学生の子と学校の宿題や参考書の問題を一緒に解いている。
自分も学生に戻ったような気がして思った以上に楽しい。
それにやっぱり人の役にたてるのはうれしい。
自分のことより誰かの笑顔を見るために生きていけたらなと思うようになったのはいつからだろう。
そんなに遠い昔ではないような気がする。
にこにこと笑顔でわたしの参加を受け入れてくれたスタッフの方に感謝している。
あるとき、いろんな種類の果物のジュースが差し入れにと置かれていた。
そこには「お一人様3缶までどうぞ」ときれいな字で書かれていた。
わたしは甘いものがそんなに得意ではないので、できるだけ甘そうでないものを3缶とも選んだ。
子供たちも思い思いのものを選んでいた。
その中に「お姉ちゃんが桃が好きだから桃にしよう。」と言って桃の缶を手にしている子がいた。
はっとさせられた。
その年で誰かのために無意識に物事を考える姿に脱帽した。
彼女のえくぼができたその笑顔はきらきらと輝いていた。

これといった趣味のないわたしだけれど、唯一保育園のころからずっと好きなものがある。
それは活字をおうことだ。
読書が大好きなのだ。
学生のころ、テスト明けは友達と買い物に行くことと同じくらい図書館にこもることが約束になっていた。
読みたい本がありすぎて時間が足りない。
その中で最近興味をもっているのが作家綿矢りささんの作品だ。
史上最年少で芥川賞をとった作品「蹴りたい背中」は圧巻だ。
生きにくい中学校のクラスの様子が丁寧に描かれている。
出過ぎる杭は打たれてしまうのか。
そんなこと気にせず一匹狼で生きている人間は負けなのか。
ただなんとなく過ぎていく毎日に妥協して過ごすのか。
自分が誰かのターゲットにならないようにただびくびくして生きていくのか。
何が正しいのか今でもわからないけれど、そんな世界を視覚化させてくれるこの作品が純粋に好きだ。
闇の中からすくいあげたような文章を書く人が好き。
ただ生きているだけでは表面に出てこない感情や行動を文字にしてくれる人が好き。
メールで文章の最後に必ず「。」をつけてくれる人が好き。
一人称が「僕」の人が好き。

文学に救われてきました。
これからもきっとそうです。