嘘のような

 

根石吉久

 

たごさくえーご宣言
たごさくえーご宣言

 
免許証を調べたら、昭和43年5月30日に二輪免許を取っている。ネットで昭和43年を調べたら1968年だが、月日が誕生日以前だから16歳の時だ。高校の山岳部に入っていたので、山道具を買う金を作るためにバイクで新聞配達を始めたことを思い出した。一年ほど無免許で配達していたら、親父が心配して免許をとれと言った。そうか、あの頃の俺は朝を知っていたのか、と思う。もう何十年も昼頃に起きているので、朝を知らない体になってしまっている。
無免許で乗っていたのはバイクだけで、昭和60年7月23日に普通免許を取っている。今の免許証に「中型」と印字されているのがそれだろう。昭和60年は1985年で、計算機で計算すると33歳の時だ。免許を取った直後に、ロンドンに行ったことをなぜか一緒に覚えている。ロンドンには 一ヶ月半いただけだが、帰ってきてすぐ車に乗り始めたのなら、33歳の時だし、もう少し時間がたってからなら34歳の時だろう。すぐ乗り始めたか どうかを覚えていない。

そうか、「たごさくえーご宣言」を調べればいい。書類の山を引っかき回して「たごさくえーご宣言」をみつけ、奥付を見たら1986年2月20日に発行されている。それでいくと、ロンドンにいたのは1985年の夏だ。
「たごさくえーご宣言」は、ロンドン滞在のために用意されたお金が少し余ったので、ロンドンにいる間に書いておいたメモみたいなものを見なが ら、当時発売されたばかりのワープロ専用機を使って版下を作り、知り合いの印刷屋さんに頼んで冊子にしてもらったものだ。「田子作英語宣言」のつ もりでつけたタイトルだったが、「たごさく、えー、御宣言」だと読んだ人がいた。「えー」というのは、御宣言をするにあたって、偉ぶって、咳払い なんかをしながらの「えー」だろう。そんなつもりじゃなかったのだぞよ。

ロンドンに行くことになったのは、自分の意思からではなかった。借家の隣のサダオサンが、ある日「飲みに来い」と私に言った。酒を飲み始めたら、サダオサンがロンドンへ行けと私に言ったのだ。いや正確にはロンドンへ、ではなく、「俺の息子に英語を教えているやつがアメリカにもイギリス にも行ったことがないようじゃいけない。だから行って来い。どっちでもいいからとにかく行って来い」とサダオサンは言った。「じゃあ、イギリスが いいかな」と迷ってから私は言った。「金は俺が集めてやる」とサダオサンが言った。「行くのなら、全額を塾生の父兄に負担してもらうのではなく、半分は自分の金で行きたい」と私は言い、サダオサンは承知してくれた。
その後、サダオサンは塾生の親に手紙を書いてくれ、親達に集まってもらい、「素読舎のオッシャンに外国に行かせたいので、いくらでもいいので無 理のないように少しずつお金を出してもらえないか」という話をしてくれた。お金はサダオサンから、まとめて受け取ったので、誰がどれだけ出してく れたかなどの内訳はわからない。後から推測したのだが、あの時、サダオサンはかなりの部分を一人で負担してくれたのではなかったか。サダオサン一人が「金は俺が出してやる」と言えば、私が負担に感じると思って、塾生の親たちに声をかけてくれ、みんなが出し合ったようにしてくれたのではな かったか。サダオサンは何も言わなかったし、私もお礼の他は何も言わなかった。今でも内訳は知らない。

サダオサンは私をオッシャンと呼んだ。長野のこのあたりでは、オッシャンは、中年の男を呼ぶときの呼び方で、およそ三十を過ぎたあたりの男に使 うことが多い。早くても、二十代後半くらいにならないとオッシャンと呼ばれることはない。それまではアンシャンであり、それ未満ならコドモあるい はガキだ。
私は二十代後半でオッシャンと呼ばれた。今では大人の生徒の方が多いくらいだが、英語塾をやり始めた頃の生徒は中学生ばかりで、彼らからすれ ば、二十代だろうが十分に歳は離れており、私は十分にオッシャンだったのだ。
オッシャンはたいてい年上の男を呼ぶのに使うが、サダオサンは私より10歳以上も年上だった。サダオサンは自分の息子(コウスケ)が私を呼ぶ呼 び方を真似て、私をオッシャンと呼び、可愛がってくれた。
塾をやっていた部屋の入口に下駄箱がなく、塾生の靴が脱ぎ散らかしてあるのを見た時、サダオサンは下駄箱を買ってやると言ったが、そういうとき に私はかたくなに固辞した。その気性を知っているので、ロンドン行きに際しては、塾生の親たちに声をかけて、みんなが出し合った金の形を作ってくれたのではないだろうか。サダオサンは口は悪かったが、なぜか私を可愛がってくれた。

書きだした時、免許証を見て免許取得の年を調べたのは、近頃、軽トラの中が喫茶室だということを書こうとして、そういえば俺はいつから車に乗っているのだろうと思ったからだった。免許を取った直後くらいにロンドンに行ったような記憶があるので、「たごさくえーご宣言」の発行年月日を調 べ、中身をちょっと読んだら、サダオサンを思い出したのだ。

ミッドナイト・プレスが出してくれた「根石吉久の暮らしの手帳」にサダオサンが出てくるので、少し引用する。と書いて、「買いなさいと私は言っ た」というタイトルのやつを全部引用しちまうかと思った。サダオサンは、このエッセイでは、初めの方に出てくる「近所の旦那さん」だ。

買いなさいと私は言った

車に乗り始めてから七年になる。その間に五台に乗った。思えば屑屋のような七年だった。しょっぱかった。
最初の軽自動車は八千円だった。これは非常にでこぼこしていたが、よく走った。
次の普通車は友達からもらった。穴だらけで、錆びていた。八丈島を走ってた車で、潮風にやられていた。穴にガムテープを貼って、ペンキを塗っていたら、近所の旦那さんが来た。車を見るなり、だめだあ、と言った。こんなものだめだあ、こんなものに何したってだめだあ、腐ってるじゃねえ か、と旦那さんは言うのだった。
車に乗っている人にはなんとなく、いくつかの派がある。ヨンク派とか、ス
ピード派とかいうのがなんとなくある。ヨンク派には、さらにドロミチ派 とシティ派があり、スピード派にはオンゾウシ派やボーソー派がある。私はデコボコ派とガムテープ派をひとりでやってきた。
次のニッサンキャラバンもデコボコ派だった。よく悪路で砂をほじってタイヤを空回りさせた。それを私は蹴とばした。キャラバンを蹴とばす悲しさ は、私をついにヨンク派にしたと思う。
だから次はジープだった。これもまたよく錆びていた。川原の石ころだらけのところを走り回る。顎ががくがくする。子供がすごいと声をあげる。
私は言った。「これがジープだ」
子供が言った。「これがジープか」
泥にはまってカメノコになり、抜けられなくなったことがあった。子供が言った。「もう乗らない」路肩が崩れて車体が千曲川本流の上に傾いたことがあった。奥様が言った。
「もう乗らない」
ヨンク派もひとりでやらなくてはならないらしかった。
ヨンクを過信してはならないのである。沼にずぶずぶともぐりこんだり、仰向けになって空に腹を見せている場合は、四輪駆動車はしっかりと駆動のかかった四輪で空回りするようである。
去年、奥様が勤めに出るためにアルトを買った。これは駄目だった。通勤の途中で止まってしまうのだ。奥様はこんなのはいやだと言った。それに、 スパイクタイヤが禁止になるから、乗り換えるならヨンクがいいと言った。
奥様は土佐の生まれなので、信州の雪道を非常にこわがる。雪道で少しくらい車がお尻を振って走っても、うふん、少し色っぽいかしらと思っていれ ばいいのだが、奥様は少しでもお尻を振るのはいやだと言うのである。そんなことはとんでもないことだと言うのである。ヨンクがいい、ヨンクなら大 丈夫と奥様は言った。四輪駆動の車なら雪道も滑らないとどこかで聞いてきたものらしかった。
私の顔がほころびそうになる。顔の筋肉をたてなおして私は言う。ヨンクだってつるつるのところでブレーキを踏めば滑るぜ。
え、嘘!と、奥様が言う。四輪駆動の車は絶対に滑らないと思っていたらしい。滑るんなら、ヨンクを買っても仕方がないかと奥様が迷った。いやい や待て待て、早合点してはいけない。そりゃあヨンクでも滑るとはいうものの、二輪駆動とは断然違う。発進の空回りはないし、尻の振り方も小さい。 雪の坂道発進にはうんと強いのだ。通勤の万葉橋の土手は、信号の手前が坂道ではないか。
しかも川風が吹いて道がかちんかちんに凍るところだ。ヨンクか、そうだ、ヨンクがいいだろう。ヨンクの軽ならジムニーだな、うんうん、と私は言った。実は四駆の軽で、乗用車タイプがいくらでもあるが、ヨ ンクの軽を買うなら何が何でもジムニーがよいのである。それはもう誰に聞いたところで、私に聞いてみればジムニーである。私に聞きなさい。
大切な奥様が出勤にお使いになるヨンクである。ちゃんとしたヨンクでなければいけない。そして今度はしょっぱい車でなくて、程度のいいのを買うことがよいのである。そうではないだろうか。その通りである。
またしても中古車ではあるが、ターボ付きで八十万円のがみつかった。これまでの五台分を合計しても、まだ三十万円もおつりのくる額だ。奥様の半 年分の給料である。しかし奥様は勤めて十ヵ月になる。買ってよいのである。買うべきだ。買いなさいと私は言った。
そして、ジムニーが来た。
ターボがはたらくと、軽とは思えない。坂に強い。小さいから細い林道や農道へどんどんはいって行ける。こういう車を朝と夕方だけ通勤に走らせる だけではやはりよくない。ジムニーの軽くワイルドなフットワークをきちんと評価してあげなければいけない。悪路走行の能力を認めてあげなければい けない。だから夜には私がお借りする。
うふふふとエンジンが回る。むふふふとターボが回る。乗り心地は乗用車というわけにはいかない。しかしちゃんとしたヨンクだからそれは仕方がな いことである。
うがががが、跳ねる、跳ねる。
(midnight press 11. 1992.5.31)

ジムニーは三台乗ったが、どうやら最初に買ったジムニーがこの80万円のものだったらしい。私が最初にツーサイクルのジムニーに乗り、妻に フォーサイクルのジムニーを奨めたのだと思っていたが、記憶違いらしい。このエッセイにはツーサイクルのジムニーは出てこない。妻が買ったジムニーについては、サダオサンも「こんなもの何したって駄目だあ」とは言わなかった。待てよ。サダオサンが亡くなってから、もう何年になるのだ?
あの頃は、まだサダオサンも元気でいたというふうに覚えているのだが、コウスケに今度確認してみなければならない。免許証で免許取得の年月日を調べたり、「たごさくえーご宣言」の発行年月日を調べたりしているうちに、サダオサンの面影が切れ切れに浮かび、その胴間声を思い出していた。

軽トラのことを書こうと思い、「軽トラが喫茶室」というタイトルを最初に考えたのだが、まるで違うことを書いてしまった。もう締め切りを過ぎてしまったので、軽トラのことはまた今度ということにさせてもらう。
サダオサンはずいぶん前に亡くなった。今の私はサダオサンが亡くなった歳より上になるのだろうか、今でも下なのだろうか。やっぱり亡くなったんだなと、今はようやく納得している。私は人が亡くなったことを納得するのに時間がかかる。そのことに気付いたのは、私が中学1年の時に祖母が亡く なったときだった。頭は「バアヤンは死んだ」と知っているのだが、気持ちが納得しなくて、バアヤンはまだその辺にいるような気がしていた。それが 続いた。
最近のことで言えば、奥村真さんの死と中村登さんの死だ。奥村さんの方は納得しかけてきた感じだが、中村さんのことはまだ納得できていない。昨日だったか、中村さんは死んだのかと、軽トラを運転しながら思っていた。「季刊パンティ」の同人で、生き残っているのが私だけだということになるのが、どうも嘘のような気がしてならない。

 

 

そういうふうになっている?

 

根石吉久

 

ファミリーマートの駐車場
ファミリーマートの駐車場

 

千曲川にかかる平和橋を渡ると、八幡というさびれた町がある。稲荷山という別のさびれた町まで行く途中にガソリンスタンドがあったがつぶれた。 給油機がひとつだけのごく小さな個人経営のスタンドだった。八幡は山の裾の町なので、車で山に登る日などに、軽トラのメーターを見て、ガソリンが 少ないと1000円分追加してから登るような使い方をしてきた。そんなケチな客ばかりが寄ったからというわけでもないだろうが、つぶれてしまっ た。一方、国道18号では篠ノ井橋に近いところでひとつ、戸倉でひとつつぶれ、埴生小学校に近いところで新しくひとつ開店した。つぶれたのも開店 したのも、それほど小さな店ではないが、つぶれていくのは個人経営、開店するのはチェーン化された店という流れはあるようだ。

チェーン化されたものの代表格はコンビニだろう。ガソリンスタンドは減っていくが、コンビニは増えている。家から車で5分くらいのところに、7 軒もある。開店したりつぶれたりするが、少しずつ増えている。つぶれた店はセブンイレブンが多い。本部からの締め付けがきついのだと噂に聞いた。 つぶれたセブンイレブンから車で1分くらいのところに別のセブンイレブンができたりしているが、ローソン、ファミリーマートなど他のチェーンの店 が増えているので、チェーンとチェーンの競争が激しくなり、セブンイレブン本部からの各店舗への締め付けが多少弱まったのだろうか。最近はコンビ ニはつぶれなくなってきている。

コンビニはよく使う。かっぱ寿司で放射能寿司を食った後、国道18号をはさんだ向かいのセブンイレブンで100円のコーヒーを飲む。驚いたな あ、あんな小さい子供にロシアンルーレットの回転寿司を食わせている、などと思いながらコーヒーを飲む。放射能寿司の後のひと休みだが、戸倉の キャロルというスナックで昼飯を食べた日は、ファミリーマートで120円のコーヒーを淹れてから、車で千曲川の土手を越え、川原に近いところで川 原を眺めて飲む。ここしばらく出水がなく、川原は夏まで草に覆われていて、川原石が見えなかった。さきごろの台風で、川原が洗われ、また川原石が 広がっている。
セブンイレブンのコーヒーは「放射能寿司のコーヒー」であり、ファミリーマートのコーヒーは、「川原のコーヒー」であるが、その他にも畑の行き 帰りに寄るローソンのコーヒー、つまり「野良仕事コーヒー」がある。静岡茶から放射能が検出されたと聞いた時から、ペットボトルのお茶を一人で飲 むことはあるが、家では飲まなくなった。家には孫がいる。

お茶を飲まないわけではないが、コーヒーが多くなった。

毎日、ほぼ昼頃起きる。起きて30分くらいしたら第一食目を食いに出て、食べた後、コンビニの駐車場や千曲川の川原で食休みするというのがほぼ 習慣になっている。そのコーヒーに煙草が伴う。コーヒーと煙草は相性がよく、両方あるとうれしい。30分くらいぼんやりする。
その後、車のエンジンをかけて、「仕事」で使う道具や材料を買いに綿半(ホームセンター)に寄ったりする。今は、煉瓦で窯を作っているので、煉 瓦やセメントを買ったりする。「仕事」というように括弧をつけるのは、お金にならない仕事だからだ。なるべくお金が出ていかないようにすることに は役にたっているが、お金が入って来るわけではない。塾以外でお金を得ようとする試みはいくつかやったが、すべて失敗した。借金をしなかったか ら、破産もしなかっただけだ。今度の窯で焼き芋を焼いて売るという計画で、私の生涯における賭けは最後だろう。
家を自作したのも、収入が不安定だったからだが、なるべくお金が出ていかないように暮らしたかったこともある。家の自作は13年もかかったが、 借金はしないで済んだ。収入が少なくても、出て行くお金が少なければ暮らしていける。この考えは根本的なところで妻の考えと合わず、よく喧嘩の元 になった。妻はお金に不自由しない家に育ったのだ。お互いにいちいち言い返すので、仲が悪い。ついでだから言うが、妻は土佐の女だ。金に不自由しなかったのでも、ハチキンはハチキンだ。

脳梗塞をやったので、煙草はやめなければいけないと医者に言われているが、やめられない。英語の仕事をやめればやめられるかもしれないが、その 仕事を続けている限りはやめられない。自分一人で英語をやっているのであればやめられるかもしれない。相手(生徒)がいて英語を扱う時、一時的に 強度のストレスが襲うことがあり、そこが乗り越えられない。襲ったストレスに身をまかせれば、相手をどなることになり、生徒は激減する。だからやめられない。
ビールは毎日飲む。ビールに関しては、医者のいいつけを守っている。医者は量を減らせと言うのである。やめろとまでは言わない。
ビールもコンビニで買うことが多い。冷蔵庫に買いだめしておくと、短期間にみんな飲んでしまうので、値段が高くても一本ずつコンビニまででかけ て買う。わざわざ不便にしておかないと、あるだけ飲んでしまう傾向がはっきりとあるので、わざわざ不便にしておくのである。
ビールと煙草とコーヒー。これがコンビニで買うもののほとんどである。このうち、ビールか煙草を買うと、レジに置いてある液晶画面に「20歳以 上ですか」というような意味の疑問文が出て、「はい」という文字を客がタッチするように言われる。初めて見たときは、なんだこれ?と思いながら、 つい押してしまった。ビールや煙草を買うたびに、「20歳以上ですか?」「はい」をやっていたら、だんだん不快感が強くなってきた。私は62歳に なっており、どこからどう見てもじいさんである。自分では、じじいと言っている。
ある日、「俺がじじいだってのは、見りゃすぐわかることだろ?」とローソンの店員に言った。「お客様にタッチしていただくようになっております」と店員は言った。「一目でじじいだとわかるこんなじじいが、自分で自分の年齢を確認しなきゃならないってどういうことなんだ」とじじいの私は 言った。つべこべ言うと、必ずつべこべ言い返す店員だと、「じゃあ要らねえよ」と言い、品物をレジのテーブルに置いたまま店を出てくることが続い た。その頃から、液晶画面の「はい」ボタンを押すことを一切やめた。
「俺が19歳だとか20歳だとか言い張ったら、おまえさん、俺を信用するのか。俺がどこからどう見たってじじいだってことは、見てすぐわかるよな。19と言おうがハタチだと言おうが21だと言おうが、俺が嘘を言ってることはすぐわかることだ。60過ぎのじじいがハタチを過ぎてるってこと も世界の常識だ。わかりきったことじゃないか。双方でわかりきっているのに、なんでじじいが自分で自分の年齢を確認しなきゃならないんだ。歳は毎 年変わるから、俺もときどき忘れる。だけど、俺が61のじじいなのか62のじじいなのかを思い出そうとしたって、この店にも警察にも何の関係もな い。俺の年齢確認はコンビニじゃ何の役にも立たねえんだよ。客だって、財布の中の小銭を数えたり、カードで支払うか小銭で間に合うか迷ったり、間 違えて病院のカードを出しかけて戻して、ポンタカードを引っ張っり出そうとしたり、カードが財布の角にひっかかってすぐ出てこなかったり、カード を差し出したり受け取ったり、5ポイント獲得したのかと思ったり、ポンタカードを財布に入れてすぐまた楽天カードを出したり、やることはいっぱい あるんだ。このくそ忙しいときに、どう見たってじじいだってはっきりしている俺が、「20歳以上ですか」「はい」なんてやってられるか。前はハタ チ前で年齢を詐称している疑いがある客には、免許証とか出させて確認していたんだろう? それでいいじゃないか。その手間を省いて、こんな馬鹿な ことを客にやらせるんなら、酒も煙草も売ることをやめちまえ。客がいやがっていると本部にちゃんと伝えろよ。」
それだけくどくど言われて、むっとした顔をして、やりにくそうに腕を伸ばし、「馬鹿はいボタン」を押す店員もいた。
今では、近所のコンビニのほとんどが、何も言わなくても、店員が黙って「馬鹿はいボタン」を押すようになったが、私がつべこべ言うと、つべこべ 言い返す店員もまだ生き残っている。「あのじじいはボタン押さねえぜ」ということが、アルバイトの間で伝承されないのだろう。
つべこべ言い返す連中が言うことは決まっている。「そういうふうになっている」である。そんなことはこっちもわかっている。本部が「そういうふ うになっている」のだ。「馬鹿はいボタン」を考えた本部が、「馬鹿はい本部」なのだということくらいはわかっている。この店のせいじゃない。しか し、「馬鹿はい本部」が決めたことに、「そういうふうになっている」と従うだけでなく、「馬鹿はいボタン」を押さない俺に、「変わったやつ」「変 なやつ」という視線を向けてよこすのは、「馬鹿はい本部」の馬鹿がしっかり感染してしまった馬鹿以外のものではない。高校生くらいの若いアルバイ トに感染馬鹿が多いことがわかり、暗い気持ちになったことが何度もある。若いやつらが、ものごとはもう決まったことでできているのだと思っているのだ。
「そういうふうになっている」なのである。

感染馬鹿はテレビに出てくる東京電力の社員に多くいた。「馬鹿はい本部」の言いなりであるだけでなく、その「はい」がくだらないことを疑うこと がないのだ。「馬鹿はい」どもの集合体である東京電力に、事故収拾の能力はない。東京電力だけではない。日本の役所の中には国家公務員だろうが、 地方公務員だろうが、「馬鹿はい」に感染した痴呆コームインがうじゃうじゃいる。「頭のいい馬鹿」は、今や量産されている。頭がいいと言ったとこ ろで、テストで点がとれるというだけのことなのだ。元のところは、コンビニのアルバイトの高校生の感染馬鹿と変わりはない。

昨日の夜、亀の湯に行き、帰りにファミリーマートに寄って煙草を買った。少し前から気付いていたのだが、ファミリーマートは「20歳以上です か」「はい」をやらなくてもよくなった。徳間にファミリーマートが開店したばかりの頃は、画面にタッチしろと言われたことがあった。こちらから 「年齢確認は店の側がやってください」と言ったことが二度ほどあったが、そのうちに何も言われなくなった。
昨日、「この店は、煙草を買うのに客が自分で年齢確認をするってことはしなくてもよくなったんですね」と訊いてみた。
「こちら側(店員が押すキーボード)に、店員が押すボタンがあるんです。お客様の画面タッチは意味がないです。19歳の人が「はい」のボタンを押せば、店は売ってしまいますから」
コンビニの店員から「あれは意味がない」という言葉を初めて聞いた。そうだ。意味がないのだ。60を過ぎて脳梗塞をやったじじいが、意味がない ことをやれと言われ続けたのだ。「20歳以上ですか」「はい」。馬鹿みたいだ。

「セブンイレブンやローソンはいまだにやってますが」
「もうじきあのシステムはなくなります」
そうか。なくなるのか。なんでそこまで知っているのか訊くのを忘れたので、今日、ローソンで訊いてみた。そしたら、ローソンの機械にも店員のい る側に店員が押せるボタンがあることがわかった。
「店員が20歳以上だとわかってボタンを押しているんなら、客が画面にタッチする必要がどこにあるんですか」
「店員とお客様と両方で押して、二重に確認をとっているわけです」
そんなもの二重にしたところで、19歳の老けたやつが「20歳以上ですか」に「はい」とタッチしたら、一発破れる。馬鹿みたいだ。
「このシステムは終わるとファミリーマートで聞いたんですが」
「運転免許にICチップが埋め込まれていますが、免許証をかざせば年齢確認ができるようなシステムがまもなくできあがります」

おい。60過ぎたじじいが運転免許をかざして、自分がハタチ過ぎだと相変わらず証明しなくちゃならないってのか? 一目見ればわかるってことを 馬鹿にしてないか。自明性ってことを馬鹿にしてないか。そういうことを馬鹿にするローソンは、自分の馬鹿確認をしてるのか?
店員やってるのは人間だろうと思う。それなのにロボットみたいに、客に画面にタッチしろと言い続けたのだ。システムが変わったら、運転免許を機械にかざせと言うと言うのか。

20歳未満に煙草が買えないようにするのは、青少年の健康のためだというのが建前だというのはわかっている。しかし、自分が「馬鹿はい」になっていることを疑うことを知らない青少年が結構多くいる。よほどそのことの方が問題だ。馬鹿みたいだ。

「馬鹿はい」を作り出すのは、支配側にとっては利益があるのだろう。
政治が「戦争やるぞ」と言い出せば、「はい」だもんな。「自衛隊はアメリカ軍に合流するぞ」と言えば、「はい」だもんな。「そういうふうになっている」だもんな。
日本が「馬鹿はい」だらけになったら、みんな死んじまうのも、それはそれでいい。それもオツなもんだろう。

 

焼き芋屋になりたい

根石吉久

 

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佐藤さんから、夕方、フェイスブックのメッセージ経由で、原稿を書くようにとのお言葉があった。それはほんとに「お言葉」なのであり、いまどき俺に原稿を書けなんて言ってくれる人はいねえやと思って生きてきたので、佐藤さんが毎月書くようにと言ってくれたのがうれしく、神棚があれば神棚にあげるべき「お言葉」だったのである。神棚はない。神棚がないからといって、仏壇にあげるわけにもいかない。そもそもその仏壇も、実はないのだ。どうにかしなければいけない。

佐藤さんの言葉が「お言葉」であるのは、私に原稿を書けと言ってくれたから「お言葉」であるだけではない。もともと、佐藤さんの言葉は「お言葉」だったのである。

フェイスブックやツイッターで読む佐藤さんの言葉が、ときどき、なんでだろうと思うくらい透明感がある。これはどこからくるものかわからない。一般には資質という言葉で済ませられるものだろうし、そうだろうが、その資質がどこから来たものかがわからない。
ヒヒョーの言葉が苦手なので、ただ短く断言することしかできないが、佐藤三千魚の言葉はとても透明なのである。透きとおっているのである。我が家は乱雑なので、どこに誰の本があるのかわからないが、私の好きな本は我が家のどこかにある。山本かずこの本、奥村眞の本、佐藤三千魚の本、中村登の本、松岡祥男の本。
脳梗塞をやったが、余命いくばくもないほどではなく、もうちょっとあると思っている。が、それはわからず、好きな本は乱雑な不透明な部屋の中から掘り出して並べた方がいい。並べてみたこともあるが、並べても、妻や娘は、またこんなところに本を出して、と言って、片付けてしまう。私から言わせれば、彼女らは本を再び乱雑の中に埋めてしまうのである。

佐藤三千魚の本は詩集だった。その詩集を読んだ頃から、なんでこんなに言葉が透き通っているんだろうと感じてはいたのだ。
日立の洗濯機ではなかったと思う。冷蔵庫だったのか、エアコンだったのか、何か空気をひんやりさせる製品だったと思う。ヒーターや足温器ではなかったと思う。なにかひんやりさせる日立の製品の製品名が詩集の中にあった記憶がある。こんな製品名でさえ、この詩集の中ではひんやりと透明だ、と感じていた。詩集の言葉だけではなく、フェイスブックやツイッターに佐藤さんが書く言葉もそうだ。(日立はヒタチと書かれていたような…ひんやりさせる製品ではなく、電気こたつだったかもしれない…だが、ひんやりと透きとおるという言葉の印象については訂正する必要はない。)
だから、何も足さない、何も引かない、のサントリー(?)のコマーシャルの言葉通り、佐藤さんからの原稿依頼は私には光栄なのである。私の好きな本を書いた人からの光る「お言葉」なのである。

生活雑記みたいのしか書けないなあと、佐藤さんから原稿を書くように言われた時に携帯電話で話したのを覚えている。メディアの種類はネットだということなので、それなら「枚数」はあんまり気にしなくていいのかなと思った。「枚数(字数)」を気にしなくていい生活雑記みたいのなら、フェイスブックにも書いているし、その延長でいいなら、緊張しなくてもいいのかなとも思った。
原稿、という言葉にわりと緊張する。それがうまくはたらいて、まあまあのものが書けることもあるし、ぎくしゃくしたままでおもしろくないままになることもある。どうせどっちかになるのだが、知ったこっちゃねえという太い根性が私にはある。その時書けるものしか書けやしない。
最近、フィリピンの大学生や若い人のアルバイトで、エーカイワができるネット上のレッスン(?)がある。私が使っているのは、一回30分、月に5回で月額2000円の Sralie とかいうやつである。 フリートーキングの太い根性の生徒である私は、毎回ビール片手にエーカイワの練習をしている。講師に「あなたはとてもスポンティニアスだ」と言われた。エーカイワは下手だから、口から出任せになってしまう。
原稿という言葉に緊張することは嫌いではないのだが、そういえば、エーカイワだけじゃなくて、ゲンコーを書くときも、割と出任せだ。昔から出任せだったのだ。出任せというと語弊があるのかないのか、語弊がある場合は誰に語弊があるのかもよくわからないが、スポンティニアスと言っとこう。

英語の塾をやって生活費をかせいできた。最近になって、負けたんだなと思う。今でも、塾はやっているし、ネット上でスカイプという電話みたいなものを使うレッスンもやっているが、負けたんだなと思う。ついに、人々の幾重にも重なった幻は破れなかった。今、生徒として私のレッスンを使ってくれている人たちは、わずかな人数だ。その人たちは、私が書いてきた語学論に何ごとかを感じてくれたから、私の生徒になってくれた。
大勢の人たちが着込んでしまっている幻想は、どうにもできなかった。まあ、しかし、語学論は少しずつ整理して、ネット上に置いておくべきだろうと思っている。

これもスポンティニアスだが、焼き芋屋をやろうかとピザ窯の作り方を特集した雑誌を読んでいて思った。ピザ窯で焼き芋は焼けないのかとネットで調べたが、ピザを焼く温度より焼き芋を焼く温度の方が低い。だったらできる。焼き芋兼用のピザ窯の設計図を何枚か描き、何度か描きなおした。兼用にしたのは、夏だったらピザも焼くからである。トウモロコシなども焼けたらいい。
実際に煉瓦を積み始めたら、設計図はまるで見ない。すべてが頭の中に入っていて、何も見なくても煉瓦が積めるのである、というのではなく、設計図を見ないのは、設計図とはまるで違うものを作ってしまっているからだ。
久しぶりにブロックや煉瓦を積んでいたら、自宅を自作していた頃の勘が戻ってきて、ああそうそう、こんなふうにやったなと思い出すことがいくつもあった。さすがに家は設計図を無視しなかったが、窯を築く段になったら無視に継ぐ無視。しかし、設計図を描いたのは無駄ではないのだ。ピザ窯というものは基本的にこういう構造なんだなというのは把握したのだ。
屋根をおっぱいみたいに丸くして「おっぱい窯」と命名しようかとか、キノコ状にしようかとか、男根型にしようかとか、お尻がいいなとか、桃みたいな割れ目を入れようかなとか、セメントを捏ねながら、あるいはグラインダーで煉瓦を切りながら、もうもうと煉瓦の赤い粉をあげながら、妄想することすること。
まあ、なんにせよ、エロチックでなくちゃいけないと思い込み始めている。なぜだかわからない。

焼き芋、売れるかなあ。ずぼらなので、庭で焼いて、庭先で売るつもりなのである。売れるかなあ。

英語屋を縮小して、焼き芋屋として終わる。いいんじゃないかと思っている、と書いていたら、急にステンレス板を使った釜の構造を思いついた。描いておかないとすぐに忘れるので、ちょっとそっちに取りかかります。
では、次回。