with 〜と一緒に

西の山が
青くかすんで

小川の傍にすんで
蝉しぐれをあびている

マリア・コゾルポヴァの
ヴァイオリンソナタ第3番を聴いている

西の
山の
青いいただきが

白い雲にかくれている

今朝モコと浜辺を歩きました
わたしは今朝モコと浜辺を歩きました

 

 

loudly 大声で

芝生の
さきに突堤があり

その向こうに
灰色の空と海がひろがっていた

灰色の
胸のなかに

マリア・コゾルポヴァの
ヴァイオリンソナタ第3番が聴こえた

悲しみ
だった

普遍的な悲しみだった

ウォーと叫んでいた
ウォーと叫んでいた

 

 

schedule 予定 予定表

もう
7時になってしまった

仕事にでかけなきゃいけない

シャワーをあびて
下着をかえて

しろいワイシャツをきて
黒いソックスをはいて

灰色のスーツをきて
電車にのって

電車から多摩川をみて
そして空をみて

そしてわたしは生きていつか死ぬだろう

 

 

 

receive 受け取る

雨があがって
ノコギリ草の白い花がゆれていた

雨の庭をみつめて

そのヒトは
切れない持続が空っぽになるといった

空っぽの
皿をさしだして受ける

空っぽの皿をさしだして受ける

ノコギリ草の白い花がゆれていた
ノコギリ草の白い花がゆれていた

 

 

ザビーネ・マイヤー

 

加藤 閑

 

20130715_閑さん_3つの貝殻と5つの人形(途中)4

 

吉田秀和の『私の好きな曲』の三番目には、モーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調K622がとりあげられている。その書き出しは、ブラームスの調べ物をするうちにクラリネット五重奏曲にぶつかったら、モーツァルトの同じ編成の室内楽がひびいてきたというもので、それに続けて次のように書いている。

「両者の違いは、もう、どうしようもない。ブラームスの曲の、あの晩秋の憂愁と諦念の趣きは実に感動的で、作者一代の傑作の一つであるばかりでなく、十九世紀後半の室内楽の白眉に数えられるのにふさわしい。けれども、そのあとで、モーツァルトの五重奏曲を想うと、『神のようなモーツァルト』という言葉が、つい、口許まで出かかってしまう。」

こう書かれると、たしかにそうかも知れないと思ってしまう。だが、神とは何だろう。人知を超越した作曲の才能をモーツァルトが有していたということか、あるいは一種宗教に近い高潔さをこの曲に感じるということなのか、いま一つはっきりしない。吉田秀和はしばしばこういう書き方をする。彼は、豊かな音楽の知識と教養に裏打ちされた評論家であると同時に、いや、もしかしたらそれ以上に、言葉による表現を実践する文学者なのだ。彼が、みずから表現の素地を形成するにあたって影響を受けたとする交遊録に登場するのが、中原中也であり、大岡昇平であり、富永太郎といった、詩人や小説家であるのも頷ける。

文章を読み進むと、「神のようなモーツァルト」という言い方は、この章の主題であるクラリネット協奏曲が、モーツァルト最晩年の作品であり、洗練されたかなしみともいうべき精神性を獲得している曲であることを語るための伏線だったことが分かってくる。ピアノ協奏曲第27番ロ長調K-595と並んで、しばしば「天上の音楽」と称される曲であれば、それをつくった人が「神のよう」であるのは当然のことである。

吉田秀和が、常に読者を意識しながら文章を書いているのも、彼がいわゆる「音楽評論」ではなく、「読み物」を目指していたからではないかと思うことがある。いつぞやは、グレン・グールドがシューベルトの最後のソナタ(第21番ロ短調、D-960)を弾いている夢で目が覚めたという文章を書いていた。クラシック音楽の愛好家でグールドに関心を持っている人なら絶対に考えずにはいられないこと(それこそ夢のまた夢)を寝覚めの夢として書くことで、音楽評論の立場から一歩退いてみせるのは、心憎いばかりだ。

わたしもはじめはモーツァルトの曲に惹かれた。クラリネットに弦楽四重奏という編成が同じであるため、この二曲は1枚のCDにカップリングされることが多い。最初よく聴いていたのはアルフレート・プリンツの演奏したディスクで、その頃はモーツァルトが終わるとブラームスは聴かずにプレーヤーを止めていた。しかし、何度か続けて聴くうちに、ブラームスの曲に心を奪われるようになった。神の高みよりも人間の猥雑さの方が面白いと思ったのだろうか。

ふたつの五重奏曲の楽譜を開いて見ると、「神」と「人間」の違いがよくわかる。モーツァルトの方はどのページを開いても見た目に大きな違いはなく、音符も適度に散らばっていてすっきりそしている。(わたしは音楽の勉強をしたわけではないので、ここでは純粋に視覚的な意味で楽譜を見た印象を言っているにすぎない)そして、クラリネットと弦楽四重奏があたかも会話をするように、旋律を交互に演奏するようなかたちが全編にわたって続いている。

一方、ブラームスの方はというと、音符の密度の薄いばらけた感じのページや、やたらと細かな音符が絡み合っているページが順不同に出てくる感じで、なるほど人間の世界とはこういうものだと改めて実感させられる。クラリネットと弦楽器も、対話をするかと思えば一緒に同じ旋律を奏でたり、あるいは喧嘩をしたりといった塩梅で、モーツァルトよりよほど落ち着かない。しかし音楽を耳で聞いてみると、楽譜を見較べたときほど違う性質のものだとは思えないから不思議だ。そういう意味では、あの単純に見える楽譜でこれほど深みのある音楽を聞かせるモーツァルトは、やはり神に近いのかもしれない。

吉田秀和の『私の好きな曲』のせいでわたしはあまりに「神」と言いすぎてしまった。実際、「神のようなモーツァルト」という言葉は、あの本の中でもっとも印象深い忘れられない文句だった。しかし、ふたつの五重奏曲を繰り返し聴いたり、楽譜を眺めたりしていると、やはり二曲の間に横たわる時間というものを考えないわけにはいかない。モーツァルトのクラリネット五重奏曲の成立が1789年。ブラームスのそれは1891年。わずか100年あまりと言うこともできるが、産業革命が起こって世界の変化の車輪がにわかに加速していく時代の100年である。精神や表現の世界にも大きな変化が生じることに何の不思議もない。二つの楽譜の印象の違いは多分この100年に起因している。

ブラームスのクラリネット五重奏曲は、ザビーネ・マイヤーとアルバン・ベルク弦楽四重奏団のCDを聴くことが多い。有名曲だから録音は多いが、演奏はこれが傑出していると思う。ザビーネ・マイヤーは、カラヤンがベルリン・フィルの首席奏者にしようとしたが、楽員の総スカンをくって実現しなかったことで一躍有名になった人。美人だけれど唇が薄く(クラリネットやオーボエの奏者で唇の厚い人というのはあまりイメージできない)、ちょっと酷薄な印象を与える顔立ちだ。

一緒に演奏しているアルバン・ベルク弦楽四重奏団がまた上手い。ウラッハはもちろん、ライスターなどかつての名人のディスクでは、クラリネットが強すぎると感じることがあったが、この録音では、(当たり前のことだが)5人でひとつの曲をつくっているという印象に終始する。強音も弱音も、その移り変わりも、あくまで自然に流れる。それでいて聞き終わった後の充足感は他のどの録音にも負けない。この曲に関する限り、当分わたしにとってのベスト盤は動かないような気がする。

実は、わたしはザビーネ・マイヤーについては、これ以上のことはほとんど知らない。たくさん出ているディスクも、聴いたのは数点にすぎない。その中にはアルバン・ベルクとの共演盤の8年前に録音されたウィーン弦楽六重奏団とのブラームスの演奏が含まれている。そしてそのディスクには、ブラームスのクラリネット五重奏曲からさらに100年近くの歳月を経て書かれたもう一つのクラリネット五重奏曲収められている。

作曲者はユン・イサン(尹伊桑)。彼は生涯に二曲クラリネット五重奏曲を作っているが、これは1984年に書かれた最初の方。昔「オーボエ協奏曲」を聴いたときもそうだったけれど、彼の曲は聴き手に「耳を澄ませ」と命じるかのようにはじまる。しかし聴いてみると、わたしの感覚では、ブラームスよりもモーツァルトに近い。近いけれど、多分、神はもういない。

クラリネット五重奏曲はブラームス最晩年の作品のひとつだ。遺書まで書いて生涯の店仕舞いをしようとしていた彼の前に、ミュールフェルトというクラリネットの名人があらわれた。ブラームスは彼の演奏に触発されて、二曲のクラリネット・ソナタと、ピアノとチェロによるクラリネット三重奏曲と、そしてこの五重奏曲を書いたのだった。いずれ劣らぬ名曲揃いだが、やはり五重奏曲が素晴らしい。ブラームスの音楽に対して、よく哀愁とか諦観とかといった評言がつかわれるけれど、この曲はそうした彩りに満ちている。

何日か前、わたしはたまたま一人だった。夏の夕暮れの芝生が眼の前にあった。ふと子供じみたことがしたくなって、芝生のうえに仰向けに寝転んで空を見上げた。暗みかけた空を雲や鳥たちが横切って行った。そのときわたしは、青い空に無数の黒い線や影が広がっていることに気がついた。ちょうど傷だらけのガラスを顔の前に置いて空を見上げているような感覚だった。それが自分の眼についた傷だとわかったとき、こんなに眼を傷めるほどの時間をもう生きてしまったのだという思いが急にこみあげてきて、すぐには立ち上がることができなかった。眼は空いたままなのに、空はどんどん暗さを増していくのだった。

 

 

叫び声をあげてみる 鈴木志郎康 新詩集「ペチャブル詩人」について

 

写真 2013-07-15 10 37 51

 

書肆山田から出版された鈴木志郎康さんの新詩集「ペチャブル詩人」を読んだ。

詩人はこの詩集の場所に至って大きな自由を手に入れたと思えた。
とても寂しく大きな自由を手に入れたと思えた。

詩集のタイトルにも使われている「蒟蒻のペチャブルル」から一部を引用してみます。

瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
ペチャブルル。
夕方のペチャブルル。
わたしの手を滑らせた、
スルリと落下、
手加減が狂って、
75センチ下の床に
コンニャクが落ちた。
ただそれだけのこと。

(中略)

それからひと月余り経って、
今夜、晩秋の雨の夜、
庭の枯れ葉が雨滴に濡れて揺れ、
窓からの光に照らされ、
雨水が光っているのをしばらくの間、見ていた。
闇の中に植物の葉がが光っている。
小さな光に見とれる人、
わたしこと、一個の詩人。

(中略)

葉を揺らす雨滴はスヌヌッーと無音の
極極の小さな衝撃と振動。
光の震える。

だから、どうだっていうの。
じれったいね。一個の詩人さん。

年老いた一人の詩人の現在の境涯が語られている。
「じれったいね。一個の詩人さん。」なんて茶化しているが、ここには大きな空白がありそのなかに自由があるように思われる。

晩秋の庭の雨にぬれた枯れ葉や植物の葉が光っていて詩人はそこになにものかをじっと見入っているのだった。

詩集の「あとがき」に詩人の空白についての説明があり、また引用させていただきます。

つまりわたしの空っぽ感は社会的な身の上のあり方と身体的なあり方が重なって生じているものと思えます。そういう心身のあり方の状況でこの『ペチャブル詩人』に纏められた詩は書かれたんですよ。始めの方の三分の一の詩は2008年から2010年までに書かれていずれかの雑誌に発表され、あとの三分の二は空っぽ感が強くなった2012年から今年の春までの一年間で書かれました。

この空白感の実質は「一人で階段を、もう一つ杖の詩」という、「二本の杖」「一人で階段を」という二つの作品で構成された作品に詩人の現在の場所がしめされていると思われ、「一人で階段を」という作品の全文を引用します。

一人で階段を

一人で
杖をついて、
階段を
降りるのは、
寂しい。

この子どもが書いたような素朴な印象の詩を読んだときわたしは詩人の自由な戦いと到達をみた思いがしました。

2011年に出版された詩人のエッセイ集「結局、極私的ラディカリズムなんだ」(書肆山田)のなかの「詩の実質(極私的詩ノート)」が思い出されました。以下、一部引用させていただきます。

・・・・・詩集を開くと、そこに並んでいる活字の言葉がわたしに真っ直ぐに向かってこないで、わたしを掠めて別の方向に向かっていってしまう。「ああ、この人は詩を書いてしまった」という思いが浮かぶ。その詩を書く寸前に彼の頭に渦巻いていた筈のクオリアが、郵便物として運ばれているうちにすっぽりと落ちていて、それを掴まえようがない。詩を書いちゃだめなんだって、変なことになっているわけです。先日「読詩困難症」になっていると言ったら、笑われた。ところが詩を書いている当人が目の前にいると、その詩が頭の中で渦巻いていた実感の滴となってしたたり落ちたものとして受け止められるんですね。どうしても、書いた方は書いたときの気持ちとか意図とか、あるいは隠していた意味とか話したくなる。そこです。言葉の生活、それが人間というものじゃないですか。詩を取り戻すというのは、言葉の生活を共有することですよ。

ここで詩人が語っている「詩」は、文化的な「作品」としてとらえることから、「詩を書く」という継続する行為のなかに「人として一つの個体であることを極点に据える」ことでかろうじて「詩」を捉え直すことの可能性が目指されているのでした。

例えば、「ウォー、で詩を書け」と「キャーの演出」という詩があります。

ウォー、で詩を書け

ウォー、
ウォー、
叫んで詩を書け、
ウォー、
大声で怒鳴れば、
頭は空っぽになる。
ウォー、
そこで詩を書け
思うな、
考えるな、
ウォー、
ほら、跳んだ。

さてと、叫んだら、
言葉が引っ込んじまった。
言葉って、
浮かんでくるのを待つのかい。
引っ張り出すのかい。
詩の言葉は用向きじゃないから、
身辺を遮断する。
向かう気持ち。
向かう気持ち。
いいなあ。

 

「ウォー、で詩を書け」全文です。

「キャーの演出」も全文引用したいのですが、「キャーの演出」は詩集で読んでみてください。

このような詩をわたしが70歳代後半で書けるだろうかと考えたとき困難に思えるのです。ここには意図された言葉についての考えがあると思われるのです。

「人として一つの個体であることを極点に据える」ことでかろうじて「詩」を捉え直すことの可能性が目指されているのだと思われるのです。

わたしは以前から鈴木志郎康さんの詩を読むと画家のフランシス・ベーコンを思い出してしまうのです。

戦艦ポチョムキンのなかの叫びのように「法王が叫んでいる」フランシス・ベーコンの絵を思い出してしまうのです。

あの絵には魂の叫びがある。

作品をさまざまな文化的なコンテクストから仮構することではなく、フランシス・ベーコンの絵には彼の生と密接な逃れられなさがあるのです。

「人として一つの個体であることを極点に据えて」世界と対峙するとき頭の中に渦巻くリアリティを現前させることの先に何ものかをみつけだすこと。

「人生って、寂しいことか」

「三つの短い詩」

「時間の極私的な哲学」

「表現の裸形」

「風が激しく吹いている」

などなど、この詩集にはまだまだ語りたい詩がたくさんあります。

「時間の極私的な哲学」という作品のなかに詩人が庭の草の葉の先に見ているものがあるのだと思われます。

時間ってことを言葉で言ってみると、
持続と切れない切断って言える。
充ちていく持続が、
切れない切断に遭って、
空っぽになる。
空っぽの持続が、
切れない切断に遭って、
充ちていく持続が生まれる。
そしてまた、切れない持続が空っぽになる。

 

ここにこの詩人が発見した場所があるのだと思われます。

ここが出発点であり到達点があるように思われてもくるのですが、まだまだ詩人の空白はこれからも続くのです。

わたしも、まずは、ウォー、キャーと叫び声をあげてみることから、初めてみることにしたいと思います。

 

 

 

smell においがする においを嗅ぐ

深夜

人口呼吸器のパイプがやぶれ
リーク警告音が鳴り響いた

警告音のさきに母の死が
あった

肺に酸素が送られない事態に
生と死をじっとみていた

母の人差し指がかすかに
左右にゆれていた

そのとき

母の匂いがした
母の匂いがした