都内の花見ドライブはあたしの青春回顧ドライブに変わっちまった。

鈴木志郎康

 

親友の戸田桂太さんから電話があった。
都内の桜の名所を巡る花見ドライブに行かないか、っていう。
足腰不自由のわたしを花見に誘ってくれたというわけ。
戸田桂太さんは親友だ。
呼び捨てでいいや、
戸田は
早大時代に『ナジャ』をフランス語で輪読した一人、
その後同じNHKで同僚のカメラマンになって、
そこで二人でこっそり、
過激を装った匿名映画批評誌『眼光戦線』を作って遊び、
歩きながら編集する散歩誌『徒歩新聞』を作って遊び、
それから「日刊ナンダイ」なんかのパロディ新聞を作って遊んだ
得難い相棒だった。
ここんところ暫く行き来が少なくなっていたけど、
去年ドライブに誘ってにくれて、
その他の事情もあって話が弾んだ。
親しみが復活してきたんだ。
戸田桂太は親友だ、
なんていうと、彼は照れるだろうな。
この関係が花見ドライブの気分を作ったんだ。
戸田桂太のことを詩に書けるなんて
なんか、嬉しい。
思ってもみなかったことだよ。

さて、4月2日の午後、
プジョー207(PEUGEOT207)が
あたしの家の前に来た。
戸田桂太の車だ。
あたしは前の座席の戸田の隣に、
戸田夫人の紀子さんと志郎康夫人の麻理が後ろに乗った。
さあ、出発だ。
待てよ、今日は暖かいから上着を脱ぐ、
ってことで、またドアを開けて半身を乗り出し、
麻理の手伝いでやっと脱ぐ。
利かない身体で一苦労、年取るって嫌だね。
シートベルトを締めるのも一苦労。

先ずは井の頭通りに出て代々木公園を横切る。
車の左に桜が満開。
右にはNHK放送センターの建物。
あたしらは昔あそこに勤めていたんだ。
五階の食堂の転勤噂のだべりが懐かしい。
と、もう原宿駅前。
若者の行列と人出でごった返してる。
昔は静かな住宅街だった。
変わっちまったねえ、まるっきり違う街だよ。
変わっちまった。
あたしの頭の中では時間が巻き返えし始める。
変わっちまった表参道から青山通りへ左折して、
暫く行って、右折して青山墓地の
桜並木に車は進んだ。
さくら吹雪の中を車は進む。
後ろの席のノンちゃんと麻理が声を上げる。
綺麗ねえ、
綺麗だ。
あたしはこの青山墓地の桜並木は今にして初めてだった。
東京に七十年住んでてこんなところがあるなんて知らなかった。
知らなかったといやー、
青山墓地を出て潜った乃木坂トンネルも
七十八歳で生まれて初めてくぐったんだね。
今にして初めてっていうところもあるんだ。
いや、今日のドライブが今にして初めてじゃんか。

トンネルを出れば乃木神社前、
ここらあたりは学生時代によく散歩した。
カナダ大使館脇の公園から昔のTBSの裏に出る道だ。
建物で見えなくなった丘の稜線を歩くという道だった。
TBSの前の通りに出て一軒きりの古本屋を覗いて、
赤坂見附から地下鉄で新宿に出るというのが散歩コースだった。
昔のTBSのあの建物はもう無く、
高層ビルになっちまってすっかり変わってしまった。
変わっちまった、変わっちまった。
この辺りで変わらないのは、
外堀通りと赤坂離宮と東宮御所。
昔、ベルサイユ宮殿を真似た赤坂離宮の左翼に国会図書館があってさ、
フランスかぶれの浪人生だったあたしは、
受験勉強をするという口実で毎日通って、
バルザックの小説を読みふけった。
『ゴリオ爺さん』に『従妹ベット』、
中身はすっかり忘れてしまいましたが、
ブルジョアと対決する純情と情熱が心に残った。
毎朝144席の一般閲覧室の椅子を確保するために、
四谷駅から赤坂離宮の玄関まで走ったものだったよ。
大理石の赤坂離宮の便所は珍しくて凄かったね。
ドアを押して入ると2メートルほどの奥の
二段のひな壇の上に便器があるのだ。
ひな壇の上では落ちついてできるものではなかったね。

あたしの呟きを載せて戸田のプジョー207は
四谷駅を右折して半蔵門を左折して、
イギリス大使館の満開のソメイヨシノを横に見て、
千鳥ヶ淵へと右折した。
この辺りは変わっていないなあ。
千鳥ヶ淵の山桜に、
戸田桂太は山桜が好きだと言った。
戸田の蝶を育てて羽化させる知性からして、
桜音痴のあたしは戸田の山桜に納得する。
お堀端から大手町、新装の東京駅の前を通過して、
小伝馬町馬喰町と白い花咲くこぶし並木の江戸通りを、
おもちゃや花火の問屋街の浅草橋に向った。

実は先日お彼岸に亀戸の実家に行くとき、
タクシーでお茶の水から蔵前通りに出る道を間違えちゃってさ、
あたしゃ、東京育ちの自信が揺らいだのだった。
オレも変わっちまったのか。
変わっちまったのよ。
隅田川を厩橋で渡って清澄通りを左折して、
清澄通りと浅草通りに挟まれた三角地帯の家並みに入る。
このあたりにあった天ぷら「ひさご」こそ、
高校で同人誌「ふらここ」をやった親友だった北澤の家だ。
横網町の日大一高の帰りに都電で彼の家に行き、
ほとんど一日おきに浅草六区街の映画館に足を伸ばし、
「ひさご」のお客の映画館の呼び込みのおじさんに、
毎回毎回只で映画を見せて貰った。
浅草日本館の暗闇で十七歳は三益愛子の母ものに涙した。
映画館通いの闇の中でオレはちょっと変わったってこと。
あれから何十年ぶりですよ。もう「ひさご」が何処か分からない。
あたしは車の四角い箱から出ることもなかった。
家並みはすっかり変わっちまってた。

戸田が運転するプジョー207は信号待ちの車列に割り込んで、
高速道路の下を隅田公園に向かう。
ウンコビルと呼ばれるアサヒビールの建物の脇を過ぎて、
東武線の高架トンネルをくぐると隅田公園の中だ。
この辺りも変わっちまったねえ。
変わっちまった。
川っぷちの桜並木を大勢の人が歩いている。
あそこに行って、
隅田川の川風を受けて桜の下を歩かなければ、
ここで花見をしたとは言えないんだろうな。
ちょっと残念。車はもう言問団子の前を通って、
向島の家並みに入った。
右に行って左に行ってまた右に行って。
東京スカイツリーの真下に出た。
そこで、あたしがテレビで見た運河の両岸の満開の桜並木、
あれは北十間川だったんじゃないかと先ずは押上駅を目指す。
ところがわたしは左折すべきを右折と言ってしまって、
業平橋を渡ってしまい、間違えた。
また、間違えた。
子どもの頃、歩いたり都電に乗ったりのこの道を間違えるなんて、
あたしとしてはあってはいけないことなんだ。
引き返すのに左折左折とまた橋を渡って四つ目通りを目指した。
その四つ目通りも家並みの姿を忘れちゃってて、
標識を見なければ確かめられない。
東京スカイツリー下の押上駅付近は変わり果ててる。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
わたしの記憶の街はもう存在しない。
何だ、あたしが育った東京はもう無いじゃん。
今の東京はあたしには初めての街ってことだ。
北十間川には満開の桜並木は無かった。
存在って、こんなにも不確か。

此処まで来たら、桜は無いけど、
あたしが生まれ育った亀戸に行こう。
浅草通りを真っ直ぐに走れば今はない昔の都電柳島車庫前を過ぎて、
明治通りの副神橋だ。
そこを右に曲がれば
高校生の頃、神主さんと万葉集を読んだ香取神社の横を通って、
十三間通りの商店街だ。
三菱銀行を過ぎて天盛堂レコード店、モスバーガーの隣りの
ドラッグストア・マツモトキヨシが元は「鈴木せともの店」!!
現在は、マツモトキヨシの二階に兄夫婦は住んでいて、
「鈴木せともの店」はもう無い。
せともの店は親父が戦後開いた店なんだ。
明治には江戸郊外の亀戸にはまだ田んぼがあって、
親父はその米作り農家の長男で若い頃は米を作った。
田んぼが町工場に変わって工員たちの家が建ち並び、
親父は花作り農家から炭屋になって、
提灯行列から大東亜戦争に突入して、焼夷弾が降りしきる戦災で、
太い大黒柱のあるあの家はB29に焼き払われた。
そしてそして焼け跡の十三間通りで敗戦の翌年せともの屋になった。
お堅い鈴木さんにはぴったりの商売というわけ。
「五円(ご縁)があったらまた来てね」とにっこりする親父さん。
戦前からコンクリートで舗装された十三間通り。
子どもの頃には蝋石で陣地を描いて陣取りをやったのよ。
自動車なんか時々しか通らなかったからね。
でも、朝鮮戦争の時には習志野の演習場に行く米軍の戦車が、
毎晩、轟音で走り抜けた。
ああ、十三間通り。
街も変わっちまったけど、
オレも変わったよ。
今のこの時、親友戸田のプジョー207に乗ってる。
この十三間通り、日曜日には
歩行者天国で家族連れが車道をお闊歩している。

あたしがそんな思いに浸っているうちに、
プジョー207は実家の前を通り過ぎ亀戸駅のガードをくぐって、
もう千葉街道に出ている。
千葉街道は京葉道路、両国橋を渡って靖国通り。
錦糸町の元江東楽天地の脇を通り過ぎると、
昔の都電錦糸堀の車庫跡は丸井のビルになっていた。
うわー、変わっちまったね。
変わっちまった。
芥川龍之介や堀辰雄が卒業した府立三中は今は両国高校。
その両国高校前を過ぎて江東橋を渡れば緑町だ。
高校時代の大雪の日に国電が止まっちゃって、
横網町の日大一高から雪が積もった緑町を歩いて帰ったことがあった。
そして両国、昔の国技館跡は今はシアターカイという劇場だ。
此処には教授だった多摩美の卒業公演で毎年来ていた。
両国橋を渡るのはこれで今年は二度目だよ。
三十年も渡ったことがなかったのに、今年はこれで二度目だよ。
再び韓国製ワンピースが安く売られている江戸通りに出て東京駅へ。
この五月には『ペチャブル詩人』の丸山豊記念現代詩賞の授賞式に、
電動車椅子で新幹線に乗って九州に行くから、
麻理が車椅子待合室を確かめに行った。
その間、車から降りて、
ベックスコーヒーショップ丸の内北口店で、
戸田と紀子さんとあたしはしばらく休憩。
そこで、オフィス勤めの人たちを間近に見たのは、
あたしには、何とも言えないリアリティだった。
そう、何とも言えないリアリティだった。

東京駅からは皇居に向かって進んで、
右折して宮城前広場の手入れが行き届いた松を眺めて、
白山通りに出ると左の歩道にフォーマルな服装の
女子大生が数人たむろしていた。入学式だったんだ。
共立女子大といえば昔よく演劇の公演を見た共立講堂だ。
フランコフォリのあたしはその共立講堂かその隣の一橋講堂かで、
劇団四季のジャン・アヌイ作の『アンチゴーヌ』を見て興奮した。
これだとばかりに、雨の日に、
石神井の浅利慶太氏の家を訪ねて劇団に入りたいと言ったのだ。
それにしても浅利さんはよく会ってくたよな。
しかし、君は先ずは大学に入って勉強すべきだと断られた。
窓の外に降る雨を覚えている。
プジョー207は白山通りを北に進む。
神保町の交差点を越えて西神田だ。
二十一歳のわたしにとって西神田は予備校の研数。
浪人三年、今度落ちたら働けと親に言われて、
後がないと悦子さんとのデートもしないでしゃかりきのしゃかりき。
秋口にはビリに近かった国語の点が
年末にはトップクラスに入って何とか早稲田の文学部に入れた。
水道橋駅のガードを潜って後楽園を左折する。
そして飯田橋、此処で降りて都電に乗って早稲田に通った。
通う都電であたしは確かに変わったのだ。

プジョー207は神楽坂下から
外堀通りの満開の桜を左に四谷に向かって走って行く。
此処の桜はJR中央線の窓から見た方が絵になる。
とは言っても、あたしゃこの五年余り電車に乗ったことがない。
またまた四谷駅から迎賓館と東宮御所の脇を過ぎて、
権田原から明治神宮外苑に入り日本青年館を右に曲がる。
ざわつく記憶が残る1960年代、
日本青年館では吊され揺れる大きな真鍮板と交わって踊る
土方巽のダンスパフォーマンスに驚いちゃった。
仙寿院の墓の下をくぐって原宿に向かうこの道は、
あたしが脊椎手術で入院の慶應義塾大学病院に通ってもう何十回も、
タクシーの運転手さんに「外苑西通りをビクターのスタジオを
左に曲がって」と告げた道路だ。
この五月には前立腺癌の治療で泌尿器科に行くのでまた此処を通る。
そしてまた原宿、若者たちでごった返す原宿。
駅前のそば屋はもう無くなったのか。
女の子男の子の行列で見えない。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
明治神宮を右に代々木公園を抜けて山手通りに出る。
そして麻理が見たいと言った東大駒場キャンパスの
桜を裏門越しに見て上原のあたしんちに戻った。
戸田桂太が運転するプジョー207は、
現実の東京の市街をめぐり走ったが、
あたしゃあ脳内の存在しない市街をめぐり走ってたってわけ。
戸田桂太よ、ありがとう。
オレも変わっちまってさ、
今じゃ、老い耄れ詩人になっちゃった。
年を取って今を取りこぼして生きてるって、
やだね。
どんどん詩を書こう。
それにしても、長い詩になった。
こんな長い詩を書いたのは初めてだよ。