a holster

 

爽生ハム

 

 

なにも生まれない
全員
牛丼を食べた
ほどほどに
私は
尻を追う
社内にいない
のぼせあがる

府中あたりに住む
けれど感染する
看板をどかし
輪から外れた
風景をデッサンする

頭の悪い逸脱は永遠に
ホルスタインに近づけない

選挙と煽動
今夜あたり飲みたい
野苺と毒苺
それより
平成と次の年号

携帯繋がらない
円弧を描く
もしもし

 

 

 

渡辺洋 新詩集「最後の恋 まなざしとして」について

 

渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」(書肆山田 2014年10月)を鞄にいれて持ち歩いていた。

小さな本なのですぐに読んでしまえると思っていた。
そして、この詩集について、何かしら感想のようなものを書けるだろうと思っていた。

それが、随分と厳しい本なのだということに行きあたった。

「最後の恋」を「最後の恋 まなざしとして」としてしまうあたりが、渡辺洋さんは知識人だなあと思ってしまっていた。わたしだったら「最後の恋」とするだろうし、実際に「最後の恋」を体験し「最後の恋」に「まなざしとして」という装飾はしないだろうと思っていた。

だが、渡辺洋さんの「最後の恋」は、すでに失われた恋なのだ。
しかも徹底的に失われた恋なのだった。

 

美しいものが目をとじている街を
心の底が抜けそうになっても歩きまわって
この世界に生まれて生きる違和感を手ばなさずに
ラブレターのような詩を書こう

(美しさって
思い出せるかぎりの世界の向こうから不意にやって来る
心には思い出せない何かなんじゃない?

笑い声が聞こえた気がして
ふり返っても誰もいない四月

一人はにかんでいない人に向かって微笑む

 

「最後の恋 まなざしとして」の部分を引用してみました。
「美しさ」も「恋」も「世界の向こうから不意にやって来る」ものなのでしょう。
そのことにあらためて気付いて詩人はモノクロームの世界で微笑むでしょう。

そのように一人で淋しく微笑んでいる人を見たことがあります。
自分もそうだったかもしれない。
すでに失われた恋を語るのはとても苦しいし厳しいなあと思ってしまいます。

「何度でもはじまる歌」という詩を全文を引用してみます。

 

何度でもはじまる歌

僕を何物でもない物にしてしまう言葉で書かれた街で
(それとも僕を書き終わってしまった?
からからになった心の地面で
からだをふるわせながら響きはじめる
三十年、四十年前の歌に感謝しよう
小学生のときから何度も読むたびに涙してしまう
けなげな子どもたちとやわらかい心を失わなかった大人たちが
心をかわしあうケストナーさんの小説『飛ぶ教室』にも
愛することでここまで来れたのだから
何度でも僕を書きはじめるために
僕と世界を呼ぶように
誰もいなくなった世界に向かって微笑もう
からっぽの光くずになっても

 

 

ここに書かれる「僕」は渡辺洋さんなのでしょうか?

「最後の恋 まなざしとして」にも書かれていましたが、
「心の底が抜けそうになっても歩きまわって」いる「僕」がいて、「からからになった心の地面」の「僕」がいる。その「僕」からみられた世界は「僕と世界を呼ぶように/誰もいなくなった世界に向かって微笑もう/からっぽの光くずになっても」と歌われている。「世界」は誰もいなくなった「僕」でしょう。そして微笑むでしょう。

とてもナイーブな「僕」がいて「世界」がある。

 

 

ナイーブさ

積み重ねてきた噓の重さで
世界の底が抜けそうになっても
僕は急がない
もっとこわれなければ
この世界をおおう透明で巨大な暴力を
批判できる言葉を
僕のなかに呼びおこすために

何かに強く引かれたりきれいだと思ったりする
心にはやさしさのはじまりがある
そのやさしさの間違いを
(たとえば誰かを傷つけたり排除したり
見つめながら心をきたえていく
何度ふみにじられても
種をまいて咲く花のような
まなざしに少しでも近づこうと

詩は古くて細い道
きみという一人に辿りつくための
何度も間違えては
身をよじるように曲がりくねって上っていく

 

 

「ナイーブさ」という詩の部分を引用してみました。

「何かに強く引かれたりきれいだと思ったりする/心にはやさしさのはじまりがある」「僕」がいて、「種をまいて咲く花のような/まなざしに少しでも近づこうと」するナイーブな「僕」がいます。

渡辺洋さんにとって「詩」は「古くて細い道」を「身をよじるように曲がりくねって上っていく」その先に、「きみ」として現れるものなのでしょう?

わたしもかつて渡辺洋さんのように「詩」を遠くにあるものと思っていました。
絶対的な到達できない場所にあるものと思っていました。

でも、本当にそうなのかなとも思えるようになってきました。
「詩」はそのように曲がりくねって上っていった先の遠くにあるものとは思えなくなってきました。

「詩」はもっと身近に既にあるのではないでしょうか?
「詩」は既にあり、わたしたちが「詩」を見るか、見ないかだけなのではないでしょうか?

詩をそのように「既にあるもの」と感じますと、
例えば、渡辺洋さんの「Sketches #8」に登場するマリーを詩は支えられるようにも思えるのです。

 

 

#8

マリーがこわれていくのを誰もとめられなかった
救いを求めていない相手を人は救えないのさ
何かができるんじゃないかと思っていた僕も
意表をつくネガティブでつよい反応に
心の病気がぶり返しそうになって近づけなかった

地震のあとマスクをかけてはずさなくなったマリー
当たりちらすようにキーボードをたたくマリー
他人のちょっとしたミスに声をあらげるマリー
歩道でかたまったように立ちつづけていたマリー

 

 

渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」を深夜に読みはじめて朝となりました。

朝には、遠く西の山が空に浮かび小鳥たちが鳴きはじめます。
今朝も、小鳥たちが鳴いていました。

最後に渡辺洋さんの「贈りうた ー 画家のNさんに」という小さな詩をひとつ引用して終わりたいとおもいます。

 

絵を描いていると静かさが
私のなかに浮かんでくる
何かが沈黙するのではなく
生まれてくる静かさが
私のなかにはりつめて
私を絵のなかに誘い込もうとする
描きおわりたくない
色と線のなかに溶け込んでしまいたい
気がつくと私は絵を通り抜けて
生まれた家の前に立っていた

 

 

 

※詩は全て渡辺洋さんの新詩集「最後の恋 まなざしとして」(書肆山田 2014年10月30日初版発行)から引用させていただきました。