わたしは今年八十歳、敗戦後七〇年の日本の変わり目だって、アッジャー

 

鈴木志郎康

 

 

二〇一五年今年の五月の誕生日で
わたしは八十歳。
まあ、五月まで生きていたらの話だけどね。
(この詩を書いている今は一月だ。)

元旦に、
麻理には小声で素速くおめでとうを言ったけど、
彼女の難病の進行を思えば、
おめでとうが重い。
正月の会話はどちらが先かしらねだったね。
その先のところを思って、
麻理はすごく活発だ。
家のガレージを改造して、
人が集まる場にして、難病の身で
なんとか楽しく過ごして行こうというのだ。
それを分かち合いたい。
そんなこと思ってもみなかった八十歳の
年の始まりだ。

新聞には、今年が
日本の敗戦後七〇年の節目の年だと書かれていた。
オレって
その七〇年の日本の現実とどう関って来たのか。
どう生きてきたのか。
一九六〇年,七〇年の三十歳代には、
現実の変革ってことも、
ちょっとは意識したけど、
積極的に活動したことはなかった。
オレって、
人のため世のためってのが駄目なんだ。
先ずは何よりも自分に拘って、
ゴリゴリって、
それを表現という、
自己の表現による実現と思い込み、
「極私」っていう
個人の立場を現実に向き合わせる考え方に到ったってわけ。
それは、戦後の復興から、
経済優先の世の中に合わさった
マスメディアの膨張の、
有名人が目白押し世の中で、
どうやったら自分を保つことができるかってことだった。
表現だから自分の名前を目立たせたいが、
ヒロイックな存在になるのイヤだっていう
矛盾を生きてきた。
やっぱり、
素直じゃないね。
兎に角、わたしは
戦後教育を受けて、
競争社会に、まあ投げ込まれたってことから始まる。
教室じゃ、いつもトップとかビリとか決められ、
そこを縦には泳がないで、
勝手に詩を書いたり、
勝手に一人で映画を創ったり、
まあ、それで、
なんとか
自分の椅子を取って、
若い連中と
詩を書く心を共にして、
映像作品を創ろうという心を励まして、
教場では、
連中の一人一人の名前を覚えることに努力した。
で、まあなんとか友人たちに恵まれてきた。
そんなことで、
若い、
と言っても、今では
三〇代から四〇代の
詩人さんや
映像作家さんが
訪ねて来てくれる。
それが、うれしい。
今日だって、
ガレージ改造工事前の片付けに、
今井さんと薦田さんと
辻さんと長田さんが
来てくれて、
本棚を整理してくれて、
脊柱管狭窄の杖老人の
年金生活者のわたしにとって、
大助かりだったんだ。

そうそう、
この「浜風文庫」の
さとう三千魚さんも、
亡くなった中村登さんと
二人が若い時に、
詩について、
ごちゃごちゃ
言い合ったのだった。

大震災が二つあって、
絆、絆と叫ばれた世の中。
亡くなったり
親しい人を亡くした人には、
申し訳ないが、
どうもわたしはその世の中の波に乗れない。
オレって
へそ曲がりなんだなあ。
平和憲法の元で、
オレとしてへそ曲がりを通してきたわたしには、
今更、
「憲法を変えていくのは自然なことだ。私たち自身の手で憲法を書いていくことが新しい時代を切り開くことにつながる」
なんて言ったという安倍晋三首相の言葉には乗れない。
「日本を取り戻す」
なんて止めてくれ。
これが、
敗戦後七〇年日本の変わり目って言うんじゃ、
わたしとしては、
アッジャー、だ、
ゴリゴリって
区切りをつけて、
若い連中と、
詩と、
映像とを
語り合って、
友愛を深めたい、
と思っている八十歳っていうわけざんすね。

ここまで書いてきて、
老人っぽく年齢を語るのは、
やはり、
空しいね。
生まれたばかりの
赤ちゃんにこそ、
そのゼロ歳の年齢を語って欲しい、
ってなものです。