赤と黒のボールペンドローイング

 

今井義行

 

 

神田の川面のとがった金属線のゆくえに
和泉橋は架かっている 中古カメラ店はもう開いている
靖国通りを右折して、
「おはようございまあす」と迎える
白衣を引き摺る石黒ダノン
作業療法士というより歳のわかい探偵のようだ
なぜわたしが彼女を石黒ダノンと呼ぶかといえば
朝8:30にわたしが必ず食べる
発酵乳プチダノンと重なるからだ

この五月に入所したばかりだという

太陽の燃えがらを思いうかべながら
きせつのかわりめに着る服にはいつもまようんだ
──と わたしは・・・・
リハビリルームの賑わいの中で
苦笑して それから少し微笑ってみた

都合の良い丘からは相手の内面など読めはしない

大きな大きなボールを両腕に挟んで膨らんで膨らんでいくイメージ、
それから吸って吸って吸って吐いて、はあ───

かつて入院してベッドで血中の毒素を抜く
初期点滴治療を受けたとき
わたしは「詩人としての精神まで解毒されてたまるか」
とあらがったものだった
けれど いまはそういうところからは解かれている
≪一日は遠い
むかしのことのようだ≫という
さとう三千魚さんの詩句にうなずきながら

詩は たましいのミルフィーユのようですね
と思う

よく晴れた午後。
ゆるやかに蛇行する旧中川の河川敷に沿ってのんびりと歩いていった日曜日があった
そこでは名も知らぬ魚がぴしゃんと跳ねたり
名も知らぬ小さな薄紫の花がひっそり咲いたりしていた
鉄橋をくぐるとき
水面に鷺が立っていてこつこつと藻草をつついていた
吸って吸って吸って吐いて、はあ───
深い呼吸や筋肉をぐっと伸ばすことが楽しみになった

作業療法士を子どもあつかいしちゃあいけないな
と顧みて 子どもについてふと考える
子ども 子ども 子ども 子どもたち・・・・

子どもたちは 無論 天使たちではなかった
子どもたちは 人類の 素人たちだった
まだ はじまったばっかりの
何もかもが 途中の生物であるから
ときどきに 図らずして
宇宙の奥が ぎらっと顔をのぞかせるような
色彩の嵐を 広告の裏に描きなぐったり
身体に入ったばかりの ことばを
霧吹きのように 吐きだして
部屋中を 新鮮なことばの森林に変える
森林浴のなかへ差し込む 夏陽のかがやき

子どもたちは 多分 新星などではなかった

年齢を重ねると 拙いなりに学習をして

図らずして 人間のプロになってしまう
そんな喜びと悲しみを自覚できてるか
わたしたちは 生きてあることの慣れと
競走しなければ こころなど伝わらない

昼休みリハビリルームのテーブルでわたしは詩を書いた

「赤と黒のボールペンドローイング」

壁に飾られた大きな額の中に
きっちりとした横長の長方形があって
そこに・・・・・どしゃぶりの黑い針金が降りしきっている
その図柄は 参加者のアッキオが
数回の入院と度重なる自殺思念を経て
手先がたどり着いた「ボールペンドローイング」なのだという
極細のボールペンの切っ先で垂直に下ろされた
フリーラインは緻密に描き重ねられていて
その姿は至近距離で見ると真黒な霧の塊にしか感じ取れないのだが
数mほど離れた自分の座席から眺めてみると
真黒な霧の塊の間から深紅のあかい柱が等間隔に浮かび上がってきて
わたしは そのとき深紅の格子窓の向こうに広がる黑い庭に
臨んでいるような心地になったのだった───
何度かしか隣り合わせたことのない
アッキオの「赤と黒のボールペンドローイング」
わたしは格子窓の向こうの黑い庭を一緒に歩きながら
アッキオともっと話してみたいなと思った

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わたしには 地面を見ながら
歩く 癖があるのです
哀しいわけではないけれど
姿勢が 俯き気味なのでした

地面には地面の話し声がする
硝子の欠片や蟻の姿が
よく見えて うれしい

オールド・ブラック・ジョーが聞こえる
(フォスターはminorityに共振したひとなんだ)

あ、この小石は光っているから
家に持って返ろう

散歩をしているとき地面に
八つ手の影が はっきり見えた

八つ手のグレイの影は
ひとつひとつの
指の先を大きく開いて
手を振り続けていた

わたしの靴底は 八つ手の影と
楽しく話しているみたいだった

アッキオのA4の古いノートには書きかけたことばの断片や
草むらのようなスケッチがめぐらされていた

指紋もあちらこちらに付いていた・・・・・

歌わなくなってしまったひとたちを知っている
歌わなくなってしまったおんなはひとみで歌う
なぜ歌わなくなってしまったのかはききません

音楽が奏でられると ひとみは
うれしそうに 時にさびしそうに運動している

まつげはどうしてあるのだろう
おんなは泣かない もしもの受け皿か

でも まつげとまつげのあいだには
こまやかな すきまがあるから
泣いたとしても すきまから零れます
名を知らぬ紙のはなびらの端が
花のように折れています───

下町では沢山のインドのひとと
行きかう機会もときにはあった
彼等は日本語で
逞しく生きてる 笑いながら

インドのひとと 近い空間に
居合わせるおりに
気づくことがある
インドのひとのからだの香りは
燻った シナモンの香りなのだ

老若男女問わず シナモンだ

水無月の香木──六月の薫香
それは 古代から続いている
スピリチュアルな癒しの香り
なのだろうか・・・・・

終礼の時間に司会の席で石黒ダノンが
満面の笑みで
「お酒って、とても偉大なものですね!」といった
断酒のリハビリルームでなぜそういうことばが出てくるか
参加者にも不思議すぎるし
おそらく本人にも分かっていないのではないか
でも天真爛漫すぎるのでそれはそれでいいのか
それにしても・・・・・
作業療法士というより歳のわかい探偵のようだな

「今井さん、また月曜日にね」
そういって、
66歳のアッキオは二階の階段をおりていった