ちゃったちゃったちゃったで八月十五日に詩を書いちゃった

 

鈴木志郎康

 

 

日本語で
詩を
書いちゃった。
ちゃった ちゃった ちゃった。

日本語っていうことを
自覚しなかったなあ、
ずっと ずっと
詩を書けば、
母語の
日本語ってことで
自覚してこなかったんですね。

この2週間
麻理は
スイカが大好きって、
セブンイレブンで
丸ごと一個
ごろごろ買ってきちゃってね。
毎日、スイカを
食べちゃった。
ちゃった ちゃった ちゃった。

ここんところ
朝日新聞じゃ、
連日の戦後70年の
特集記事を
読んじゃった。
じゃった じゃった じゃった。

現代詩手帖も、
八月号は
特集「戦後70年、痛みのアーカイヴ いまを生きるために」
と来ましたね。
詩もエッセイも
全部読みましたよ。
その中の「一九四五年詩集」の、
高村光太郎の詩の
「一億の號泣」は
強烈だったですね。
「綸言一たび出でて一億號泣す
昭和二十年八月十五日正午」で始まって、
「玉音の低きとどろきに五体うたる
五体わななきとどめあへず」と受け止めてちゃってる。
すごい。
「五体わななき」ですよ。
そして
「鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
真と美の至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの號泣を母胎として其の形相を孕まん」で終わっちゃってる。
ちゃってるね。
二日後の8月17日の朝日新聞に掲載されたんですね。
鋼鉄の武器から
精神の武器への
素早い転換には、
びっくりです。
びっくり くり くり。

「綸言一たび出でて一億號泣す
昭和二十年八月十五日正午」
それから一年後に
「日本国憲法が誕生し、
大元帥だった昭和天皇は
軍服から一転、
背広姿の
象徴天皇に変わった」(注)
変わっちゃったんですよ。
天皇は現人神じゃなくなちゃった。
ちゃった ちゃった。
国民の象徴になちゃって、
国民は神国日本の臣民じゃなくなちゃった。
ちゃった ちゃった。
その背広姿の天皇の言葉に、
「五体わななきとどめあへず」
なんてことはわたしにはないっすね。
いやいや、あなたの、
そばに来られて話しかけられたら、
どうしますか。
わかんないっすよ。
勲章をくれるって言ったらどうしますか。
わたしゃ
断るね。
やっぱり、
そういう国家的序列っていうのが、
嫌なんですね。
嫌なんですね。

だって、
日本国憲法じゃ、
すべて国民は、個人として尊重され、
「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、最大の尊重」されるってことで、
自由と平等が保証されてんですよ。
俺って、
戦後育ち、
子どもの時から、
自由、自由って、
親にも、先生にも
反抗して、
民主主義が実現された世の中で、
80歳になっちゃったわたしゃ、
80年も生きてきちゃったんですね。
なんとかお金を稼いで、
詩を書いて、
映画を作って、
生きてきちゃっんですよ。
ちゃったんですよ。
ちゃったんですよ。
ちゃった ちゃった ちゃった。

昨日も、
麻理と
スイカを
食べちゃった。
ちゃった。
種が多かったけど、
甘かったね。
そしたら麻理は
近くの
セブンイレブンに、
電池を買いに行ったついでに、
スイカを丸ごと
また買ってきちゃった。
また買ってきちゃった。
1個880円は安いからって、
また一個買ってきちゃった。
もう、8個目ですよ。

そんな夏の日に、
ちゃったちゃったで、
わたしは
日本語で、
詩を
書いちゃった。
書いちゃった。

自覚しないで
日本語で
詩を書いちゃった。
ヤバいっすよ。

七十年経った今年、
二〇一五年の
八月十五日の
1日前に、
内閣総理大臣安倍晋三が、
「戦後70年首相談話」ってのを
発表しちゃった。
ちゃった ちゃった。
テレビの前で、
スイカを食べながら
聞いてたんだけど、
先ずは、
中学生向け歴史教科書みたいだなあ、
と思っていたら、
出てきましたよ。
積極的平和主義とかなんとか、
旗を高く掲げようって、
積極的ってなんじゃい。
じゃい じゃい。
よその国に
自衛隊を送り込もうってことか。
よその国に
自衛隊を送り込もうってことか。
武器を持った人間を
送り込むのはやめてくれ。
そのよその国に
70年以前には、
日本人は武器を持って入って行って、
そのよその国の、
朝鮮半島の
人々の母語を奪った日本語だったんですね。
女の人たちを陵辱したって言われてる。
中国大陸の
人々を苦しめた日本語だったんですね。
東南アジアの国々にも、
ずかずかと入っていった。
日本人は、
と言ってもお父さんやお兄ちゃんなんだけども、
日本語の至上の命令に、
自分を押し殺して、
もう、訳が分からなくなっちゃったんでしょうね。
日本語はおそろしいものなっちゃってた。
なちゃってた。
今では、
その日本語を、
よその国の若い人たちが
学んでいるっていう。

日本語は学ぶのが難しいっていう。
麻理は病気になる前には、
そのよその国の若い人たちに、
日本語を教えていたんですよ。
わたしが詩を書いっている日本語を、
麻理は教えていたんですね。
それなのに、
わたしゃ
自分の書く詩と、
そのよその国の若者たちが
重ならかったんですね。
彼らが
わたしの詩を
読むかもしれない。
そう思うと、
わっー、
なんか、かあーっと、
来ちゃうね。
想像力がない
バカ詩人って、
麻理によく言われるけど、
あはは、
ほんと、
バカ詩人だったですね。
バカ詩人
バカ詩人
日本語は難しい、
現代詩は難しい。

八月十五日を過ぎて、
もう一週間経って、
五体不調ですが、
あんまり力を入れないで、
優しい気持ちで
わたしなりに
力を込めて、
日本語で
詩を書いちゃった。
ちゃった ちゃった ちゃった。

この夏、
丸ごと
八個目の
スイカ。
台所で、
包丁の刃を入れると、
パリッと二つに割れた。
半分をラップして
冷蔵庫に入れる。
残りの半分を
二つに切って、
その四分の一をラップして
冷蔵庫に入れる。
その残りの四分の一を
また二つに切って、
その八分の一をラップして
冷蔵庫に入れる。
そして残った、
丸ごとの
八分の一を四つに切って、
麻理と
食べちゃった、
食べちゃった。
ちゃった ちゃった ちゃった。

 

 

(注)朝日新聞2015年8月21日夕刊
「この人をたどって 戦後70年10」