野苺を供えて

 

爽生ハム

 

 

お墓の手前まではうねり道で、
蛇はそこでしか
のたうちまわる事をしない。
砂利がつっかけ側にはいかず、
足の裏をつつく
痛さ比べをよくしたもんだ。
足の裏がふたつかみっつ、宙に浮いた。足の指で威嚇しあってあたためあう。
ここに蛇が噛みついたと思うと
ぞっとする、たぶん誰かが噛まれるんだろう。
誰かが先に怪我をして、誰かがあとで介抱する。そして泣きわめく事もするだろう。
先祖は冷や汗をかきながら、凝視してると思う。
確か、確かな事は、たぶん僕らは
野苺に助けられたんだろう。
いつも野苺がなっていたし、いつも野苺に見惚れていた。
いつもその先へ行かなかった。
墓石という言葉も、蛇の抜け殻も知らないまま、あの頃を過ごしていた。たぶん僕らは野苺に助けられたんだろう。

 

 

 

詩を書くって定年後十年の詩人志郎康にとっちゃなんじゃらほい

 

鈴木志郎康

 

 

やばいよ。
詩人を自称する
わたしこと、
鈴木志郎康さん
あなたにとって、
詩を書くって、
何ですか。
やばいんですよ。
そんなことを自問しちゃあいけません。
ウッ、ウ、ウ、ウ、ウ、
メッ、メ、メ、メ、メ、
ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ、
パチンッ。

生きてるから
詩を書く。
ウッ、ウ、ウ、ウ、ウ、
パチンッ。

一週間ってはやいねえと言って、
ヘルパーさんが
頭からシャワーの湯をかけて、
わたしのからだをゴシゴシっと、
素早く洗ってくれたっす。
わー、気持ちいい。
ありがとうさん。
毎週月曜日に、
ヘルパーさんはわたしのからだにシャワーの湯を浴びせてくれるっす。
一週間はたちまち過ぎて、
その間に、
わたしはいったい何をしていたのか、
思い出せないってことはないでしょう。
昨日は今日と同じことをしてたじゃんか。
ご飯食べてうんこして、
そのうんこがすんなりいかないっす。
気になりますんでざんすねえ。
うんこのために生きてるって、
まあまあ、それはそれ、
新聞読むのが楽しみ、
そしてあちこちのテレビの刑事物ドラマ見ちゃって、
でも、その「何を」が「何か」って、
つい、つい、反芻しちゃうんですねえ。
記事が、
ドラマの筋が、
昨日今日で忘れちまって、
思い出せないっす。
気にすることではないんっすが、
気にするってことが、
気になるっす。
ウッ、ウ、ウ、ウ、ウ、
メッ、メ、メ、メ、メ、
パチンッ。

たった一つなった庭のみかんの実はまだそのまましてあるっす。
緑が少ない小さな庭に、
灯を灯したようにミカン色を濃くしてポツンとなっているっす。
1月26日っす。
今朝はぬかった泥の坂道を
同乗した車が下って行って、
セーターを着ようと頭を突っ込んで頭が出ない夢から覚めちゃって、
起床して、
餌を待ってニャーしている猫のママニに餌を与えたっす。
これは、
FaceBookなどに書いちゃったから、
言葉として、
それなりに覚えているっす。
ウッ、ウ、ウ、ウ、ウ、
メッ、メ、メ、メ、メ、
ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ、
パチンッ。

年と、
月日は、
毎日毎日、
違うんだよね。
1年を365日としてですね。
80年で、
閏年が20回として、
29220日余りの
違う日が過ぎたっすよ。
何を当たり前のこと言ってるんだい。
でもね、
わたしの過ぎ去った、
その毎日毎日は、
どんどん忘れ去られてしまうっす。
過ぎ去れば空っぽ。
空っぽ、
素敵な空っぽ、
それが無念といえば無念で、
わたしは毎日したことを、
6000円もする外国製の日記帳に、
日記につけているんでざんす。
他人には読めない小さくて汚い字なんでざんす。
書いてるわたしにゃ、文字は文字、
つまり言葉にしているでんざんす。
でも、まあ、
空っぽは空っぽ。
ウッ、ウ、ウ、ウ、ウ、
パチンッ。

家の中には、
時計が、
わたしが座るテーブルの椅子から見えやすく、
ベッドからも見えるように、
置いてあるっす。
台所にもあるっす。
仕事場にもあるっす。
全部で五つはあるっす。
時刻は刻一刻見てるっす。
パチンッ。

麻理が毎日そばにいてくれて、
よかったなあ。
今日のお昼は、
蕎麦だった。
11時半を回っていたでざんす。
パチンッ。
パチンッ。

朝4時起床、
早い時は3時起床、
紅茶、ブルーベリージャムをつけてクラッカー3枚、
本に埋まった仕事場に降りて詩を書いたっす、
世の中が暗いうちの、
密かな遊びでざんす。
明るくなって、
6時過ぎに朝食、
麻理に運んでもらったっす、
甘い蒸しキャベツ、
甘い蒸し人参、
甘い蒸し玉ねぎ、
とろけそうな甘い蒸し蕪、
美味しいっす。
トマトもブロッコリもセロリも
美味しいっす。
焼いたパンにハムとキャベツを挟んで、
紅茶でごくりっす。
テレビの「あさが来た」を見ちゃって、
ヒロインのあささんの明治の活発に続いて、
うちの麻理さんが、
わたしの痛む足をお湯で濡らしたタオルで拭いて、
マッサージしてくれるっす。
朝日と日経の
朝刊を読んじゃって、
アメリカ合衆国の大統領選挙の
トランプ氏って、なんじやい、
甘利明経済再生担当相の辞任って、なんじゃい、
元プロ野球選手の清原和博が覚醒剤所持容疑で逮捕って、ばっかだなあ、
これが安倍晋三首相が改憲に意欲を示した
開会中の国会と重なってるんだぜ、が、
うっすら頭の隅に残ったまんま、
それからトイレに行ってうんこしてっす。
また更に朝刊を読んで、
夏目漱石の「門」って、
暗いなあって、
これで二時間まあまあ生きてですね、
それから、よろけながら庭に出てですね、
クリスマスローズの鉢の花の写真を撮っちゃって、
再び階段の手摺りに掴まって仕事場に降りて、
ですね、Macに向かってですね、
SNSに投稿して見て回るっす。
ウッ、ウ、ウ、ウ、ウ、
メッ、メ、メ、メ、メ、
パチンッ。

晴れた日は
9時を過ぎると、
部屋の中に、
暖かい陽が射してくるっす。
テーブルの上まで射してくるっす。
紅茶茶碗が光ってくるっす。
懐かしいなあ、って、
あてどもなく懐かしいなあ、って、
パチンッ。
月に二度、
前立腺癌と複視で、
病院に行く日以外の、
午前中は、
こんな具合っす。
午後はといえば、
麻理のベッドに並んだベッドで
テレビを見るっす。
うとうとしながら、
「科捜研の女」とか、
「相棒」とか、
再放送番組っす。
もう飽きちゃったなあ。
ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ、
パチンッ。

からだ、
身体が介護認定されてるっす。
わたしのからだっすね。
隔週で月曜日の午前中には、
訪問理学療法士さんが来て、
家の前を百メートルほど歩いて、
脚と背中の筋肉をストレッチしてくれるっす。
この紅茶、美味しいですね、何という紅茶ですかって言ってくれるっす。
薬缶にダージリンとアールグレイのパック、それに
ハニーバニラカモミールのパックを放り込むんですよ。
そうですか、美味しいですね。
と言って、
理学療法士さんは電動自転車で次の訪問先に向かうっす。
毎週の水曜日の午後には女性の訪問マッサージ師さんが来て、
細かく体をマッサージしてくれるっす。
詩集、読みましたよって言ってくれるっす。
訪問マッサージ師さんは詩集を買ってくれたっす。
嬉しい思いでマッサージされるっす。
毎週の金曜日の午後にはまた訪問理学療法士さんが来て、
ほぼ全身のストレッチのリハビリでざんす。
自分でもストレッチしてくださいよって言われちゃうでざんす。
これでも、それでも、
すぐに脚やあちこちの筋肉が固まっちまって、
立ち上がると痛いざんす。
二本の杖ついてよろよろって危ないざんす。
ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ、
パチンッ。

そうそう、忘れちゃいけないのが、
薬を呑むってことでざんす。
薬は2週間分を40分かけて日分けのケースに入れてるっす。
朝食後には8個の錠剤プラス4カプセル
サプリメント14錠、
昼食後に2錠、サプリメント8錠、
夕食後に5錠、サプリメント11錠、
エビオスはカリカリっと、
集団疎開でお菓子代わりに食べたのを思い出すっす。
パチンッ。

夕方には4時回って夕刊、
夕刊は麻理に玄関から取ってきてもらうっす。
階段を下りる脚が痛いっす。
そして夕食、
野菜スープになんかハンバーグとかレトルトのおかずっす。
翌日は残った野菜スープを牛乳入りのカレーにするんでざんす。
19時半にはベッドで、
うとうとしてっす。
日曜のNHK大河ドラマ「真田丸」を見たいって、
思ってっても、
眠ってしまうんでざんす。
22時回って、
トイレに起きて、
炊飯器の釜を洗って、
歯を磨いて、
喉の薬を吸入してっす。
そして眠るんでざんす。
パチンッ。

そうそう、
眠っても、
夜中に三回は、
おしっこに起きるっす。
そんときざんすね。
目を瞑ると、
眠る前に、
頭の中に、
言葉が巡ってくるんでざんすねえ。
芯の深みがほぐれるんでざんすか。
その言葉が、
早朝目覚めて、
覚えていれば、
めっけ物、
それを脳髄で揺らしながら、
仕事場に降りって行くっす。
詩が書けるんでざんす。
嬉しいですでざんす。
わたしは生きてる。
わたしは生きてるんでざんす。
パチンッ。
パチンッ。

1月30日の「浜風文庫」で、
今井義行さんの詩「きぬかづき」を読んだっす。
パチンッ。
きぬかづきの小芋から皮を剥かずに食べたって、
それが、女の人のからだに重ねられて、
今井さんが自分の心を真摯に語る詩なんでざんすが、
そこにですね、
「勤務時間も 詩を書いていました 「詩」が人生の 目的でしたから
しかし 「給料泥棒」に 本当に 「詩」が書けるわけないでしょう
漫然と盗んできた 者に 本当の 「詩」が書けるわけないでしょう」
ってありましたでざんす。
パチンッ。
パチンッ。

鈴木志郎康こと、わたしが、
今井さんの詩 「きぬかづき」の「浜風文庫」のFaceBookへの投稿に、
「ところで、この詩作品は人の人生にとって「詩とは何か」という問いをはらんでいますね。」って、
コメントしたんざんすら、でざんすね。
今井義行さんは、
律儀に、ですね。
「(前略)この詩では、わたし個人の場合の目標を書いているわけですが、それは、会社でも他所でも、昇進や権威の獲得には興味はなく、日々の場と葛藤しながら書くことで、マイノリティが生きづらい社会でも、生きていく力が湧き、前進できるから書いています。読者の方々の置かれている立場は多様だと思いますので、それぞれの立場から「詩とは何だろう、何処を目指すか」という想像へと繋がっていけば良いなと思います。(後略)」
「(前略)わたしは詩作は、自分が楽しいだけでなく、他者の心を震わすこともあるという意味で、十分社会参加であると捉えていますので、他の分野も含めて、保護法があっても良いじゃない、とも思います。(後略)」
って、ざんすね。
現在の詩作の意味合いと、
詩人の生き方をしっかりと、
返信してくれたんでざんすね。
パチンッ。
そういう考えもあるなあって、
思いましたでざんすが、
パチンッ。
パチンッ。
わたしは、
「詩人保護法」には反対って、
コメントしちゃいましたでざんす。
他人さんのことはいざ知らず、
わたしの詩を書くって遊びが、
国の保護になるなんざ、御免でざんす。
パチンッ。
パチンッ。
わたしにゃ、
詩を書くって、
ごくごく、
極々、
密かな行いで、
誰にも邪魔されない
一人遊びなんでざんすねえ。
読んでくれる人がいれば、
めっけもん、
嬉しいって、ですね。
詩人を自覚してる
わたしこと
鈴木志郎康にとちゃあ、
それだけのことでざんす。
詩を発表するところの、
さとう三千魚さんの
「浜風文庫」に甘えているんでざんす。
やばいんでざんす。
ホント、やばいんでざんす。
ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ、
パチンッ。
パチンッ。

きょうは日曜日、
あした月曜日、
ヘルパーさんがやって来て、
一週間ってはやいねえと言って、
わたしの全身を頭からゴシゴシって、
洗ってくれるっす。
パチンッ、
パチンッ、
パチンッ。
フウー。

この詩を書いて、
読み返したら、
わたしゃ、
急激に不機嫌なったでざんす。
ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ。
パチンッ、

 

 

 

朝の歌

音楽の慰め 第1回

 
 

佐々木 眞

 

 

DSCF0883

 

空0これから時折、音楽にまつわる超個人的な思い出話、私の敬愛する詩人鈴木志郎康さんの素敵な用語を勝手に拝借しますと、「極私的」な話柄、を書き残してまいりたいと思います。

空0ひとくちに音楽と申しましても、おのずから私の下手の横好きのクラシックについてのあれやこれやになってしまいますが、その点はどうかご容赦願いたいと存じます。

空0まあ云うたらなんやけど、唐人の寝言、国内亡命者の口三味線、のようなもの、ですな。

空空空空空空空空空空空空0*

空0第一回のお題はとりあえず「朝の歌」にしてみました。
「朝の歌」といえば、まずはいまNHKの朝ドラでやっている「あさが来た」の主題歌でしょうか。

空0AKB48が歌う「365日の紙飛行機」は、副田高行さんのお洒落でシックなタイトルデザインとあいまって、「あたしなんざあ、もうとりたてて夢も希望もないけれど、今日もまた朝が来てしまった。でもとにかく全国的にアサー!なんやから、谷岡ヤスジみたいになんとか元気にぐあんばっていこうかなあ」という気持ちにさせてくれるようです。

空0AKB48は、皆さまがよくご存知のように、けっして歌が上手とはいえないやさぐれおねえちゃん集団なのですが、そのやさぐれ風の素人っぽさが、かえって日常の中の朝という時間の到来に、びっくらぽん、自然に寄り添っているような効果をもたらしているのかも知れませんね。

空0ところで「朝の歌」ということで思い出すのは、私の大好きな詩人、中原中也の大好きな詩「朝の歌」です。注1)

空空0天井に 朱きいろいで
空空空空空空戸の隙を 洩れ入る光、
空空0鄙びたる 軍樂の憶ひ
空空空空空空手にてなす なにごともなし。

空0という4行で始まるこのソネットは、

空空0ひろごりて たひらかの空、
空空空空空空土手づたひ きえてゆくかな
空空0うつくしき さまざまの夢。

空0という具合に嫋々たる余韻を残しつつ消えていくのですが、この最後の第4連の3行には、冒頭の代々木練兵場の軍樂の物憂い響きではなく、詩人の心の奥底でいつも鳴り響いていたうらがなしい滅びの歌が聞こえてくるようです。注2)

空0さて私事ながら、私の生家は丹波の下駄屋でしたので、町内の他の家の子供たちと比べて音楽的な環境に恵まれていたとはお世辞にもいえませんでしたが、なぜか祖父が熱心なプロテスタントであったために、小学生の時から強制的に教会に通わせられました。

空0私はそれが厭で厭でたまらず、その所為で却ってキリスト教に反発を覚えるようになり、現在に至るも無信仰無宗教の哀れな人間ですが、それでも教会で歌わせられる讃美歌の歌詞やオルガンの伴奏が、当時の田舎の少年の音楽心をまったく刺激しなかったと書けば嘘になるでしょう。

空0例えば讃美歌23番の「来る朝毎に朝日と共に」の出だしを聴くと、さきほどの中原中也の詩の冒頭にも似た、おごそかにして心温まる気持ちに包まれたものでした。注3)

空0後に成人した私が、LPレコードでモーツアルトのピアノ協奏曲第24番の第2楽章をはじめて聴いたとき、(それは確かクララ・ハスキルというルーマニア生まれの臈長けた女流ピアニストが、65歳で急死する直前に録音した曰くつきの演奏でしたが)、はしなくも思い出したのが、この讃美歌23番の奏楽でした。注4)

空0楽器もメロディも調性も異なってはいるものの、暗闇から突如一筋の光が地上に現われて、私のようにどうしようもなく愚かな人間にもかすかな希望を与えてくれる、無理に言葉にすると、天使が私を私を見つめながらゆるやかに翼をはばたかせているような、そんな有難い気持ちにしてくれた楽の音でありました。

 

空空空空空空空空空空空空0*

 

注1)中原中也の詩「朝の歌」は講談社文芸文庫吉田 煕生編「中原中也全詩歌集上巻」より引用。

注2)中原中也の芸術の記念碑的な出発点となったこのハイドンのピアノ曲を思わせる素晴らしい詩は、前掲書吉田 煕生の解説によれば、1926年(昭和元年)に初稿、1928年に定稿が完成し、諸井三郎の作曲で同年5月4日の音楽団体「スルヤ」第2回発表会で長井維理によって歌われた。なお本作が構想された当時、詩人の友人の下宿から陸軍練兵場(現在の代々木公園)の演習の「軍樂」が聞こえたことについては大岡昇平の証言がある。

注3)讃美歌23番(あるいは27番、あるいは210番)の「来る朝毎に朝日と共に」の第1番の歌詞は「来る朝毎に朝日と共に 神の光を心に受けて 愛の御旨を新たに悟る」。作詞は英国国教会司祭のジョン・キンブル、作詞は独教会音楽家のコンラート・コッヒャーと伝えられる。

注4)クララ・ハスキル独奏、イーゴリ・マルケヴィッチ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団(2011年まで佐渡裕が首席指揮者を務めた)のモーツアルトのピアノ協奏曲24番は、録音は1960年と古いが、昔からフィリップス(最近デッカに買収された)の名曲の名演奏盤として夙に知られている。(20番も併録)

 

 

 

幼馴染

 

みわ はるか

 
 

同じ繰り返しの毎日の中で、ふとしたとき人は何を考えるのだろう。
これからの明るい、しかし、それ以上に不安で満たされた未来なのか、もう二度とは戻れない楽しくもあり苦い思い出もたくさんした過去なのだろうか。
わたしは後者のほうが実は多いのではないかと思う。
予期せぬ事態に遭遇するよりは、たとえ苦しかったことであろうとも、一度コンプリートしたものを思い返すほうがずっと安心感が得られるから。
それはまるで結果がわかった対戦型のスポーツを録画したDVDで見るのとなんだか似ているようなきがする。
自分の中にある何かをそっと思い出してその時間に浸る。
そしてまたそっと蓋をする。
丁寧に丁寧に蓋をする。

そんな時間の中で思い出したある友人の話。

うっそうと茂った山々や、どこまでも果てしなく続く田んぼばかりが広がる町。
町と言うよりは村といったほうが適しているかもしれないが・・・。
人口は当時で約6300人。
人口密度の値はとても小さく、子供の人数も少ない。
会う人会う人がどこの誰かがわかるような地域。

小学校は4つあったがどこも1クラスが当り前だった。
それでも教室はすかすかだった。
男子も女子も性別という垣根を越えて一緒に遊ぶのが当然でそれが普通だった。
田んぼに水が張れば、バケツを抱えてオタマジャクシ採りに夢中になり、夏休みになれば朝早くからクヌギの木に蜜を塗りクワガタやカブトムシが来るのを今か今かと待ち望んだ。
水泳の授業では誰か泳げない人がいればみんなで励まし練習に付き添った。
その子が25m泳げるようになったときはクラス中で飛び上がって喜んだ。
そのとき担任の先生がこっそりみんなの分買ってきてくれたオレンジジュースは格別においしかった。
秋の大運動会は「大」がつくのが今ではなんだか恥ずかしいようなこじんまりしたものだった。
人数が少ないのだから仕方がない。
それでも時間をかけて創り上げた組み体操は達成感があったし、みんなが選手のリレーは盛り上がった。
赤と白の2色にわかれて競い合った応援合戦はどちらが勝ってもすがすがしい気持ちになれた。
冬はこれでもかという量の雪が降った。
朝まだ日が出ていないころから起こされ、スキーに行く人みたいな格好を強いられ、手には雪かき用のシャベルを持ち、寒い寒い外に出る。
家の敷地や道路の雪かきをするというのはものすごく体力がいる。
しんしんと降り続ける雪に心の中で舌打ちをした。
今までウインタースポーツにまるで興味がないのもこんな経験があるからなのだろう。
教室の中央におかれたストーブは360度どこにいても温まれるようなつくりになっていた。
そのストーブの周りの床に赤いサージカルテープを貼った。
正方形になるように貼って、ここから中には危ないから入らないようにという印にした。
みんなでストーブに手を近付けて暖まった。
なんだかほっこりした気分になれた。
こんな1年間を当然だけれど6回も過ごした。
その中で彼とはうまが合うというか、わりと仲が良かった。
当時小学生の同級生だった彼は豆みたいなかんじの人だった。
本人に言ったらきっと怒るだろうけど、顔の輪郭というかなんというか、ころんとした感じのかわいらしいタイプ。
かわいいと言われるとあんまり嬉しくないという男子がいるというけれど、きっと彼もそう言うようなちょっとクールな性格の人。
算数がよくできて、バスケットボールが大好きで、通っていたそろばん塾が同じだった。
初めてバレンタインのチョコレートをあげたのも彼だった。
今よく考えるとそれがわたしの初恋だった。
なんとなくいいなと感じる淡いものだった。
ただ、これから先の話になるけれど、この感情はそんなに長くは続かず、中学校にあがったあたりからはいい友人という印象に変わった。
何かあったわけではないけれど、人の感情というのは勝手きままな部分がある。
もちろん今も。
そしてこれから先もきっと。

中学校は4つの小学校の生徒が一緒になった。
初めて経験したクラス分けというものに当時はものすごく感動した。
こんなどきどきという感情を味わったのは初めてだった。
彼とは3年間同じクラスだった。
相も変わらずなクールな性格だった。
成績は優秀で、大好きなバスケットボールを本格的に始めなんだか輝いて見えた。
わたしも負けずに頑張れた時期だった。
何か特別に会話を交わしたことはないけれど、お互いがお互いを認め合って過ごした3年間だった気がする。
ある時、同じ高校を目指していることを知り、相手のテストの点数を少し気にしながら、同じ関門を突破できるようにただただ黙々と勉強した。
わたしたちは無事2人とも希望の高校に進学することが決まった。
一緒に合格できたことが心の底から嬉しかった。
卒業アルバムの彼からのメッセージはたった一言。
わたしを鼓舞する内容だった。
今でもその言葉はわたしにとって大切な一言として心の奥に眠っている。

高校からは別々のクラスになった。
彼がいない教室を初めて味わった。
そして、このころから自然な流れで彼とはそんなに顔を合わせなくなり関係も希薄になっていった。
2年に進級するときには、理系のわたしと文系の彼とで進む方向が全く反対のこともあってもっと疎遠になっていった。
ただ、彼は意外にもアクティブで彼の名前は色々なところから聞こえてきた。
大好きなバスケットボールはキャプテンとして最後まで続けていたし、成績優秀者だけ名前を貼り出される紙には彼は常連だった。
そんな中で彼と出会う機会があった。
それは駅のホームや電車の中だった。
わたしたちの町からその高校に通うには電車は必須で、本数も限られていたためたまに顔を合わせることがあった。
挨拶のあとの会話がなんだかそんなにはずまなかった。
だからといってきまずかったわけではなかったけれど、彼には彼の人生があるんだなと少し悲しくもなった。
そんなとき、学部こそ違うものの同じ大学を目指していることがわかった。
あー本当に腐れ縁なんだなと感じた。
こうやってまた同じ目標にむかっていけることが嬉しかった。
推薦入試の合格を知った次の日、たまたま、また駅のホームで彼に会った。
そのことを報告すると彼は微笑して喜んでくれた。
次は自分の番だと、必ず合格すると意気込んでいた。
わたしも深くうなずいて微笑み返した。
この次に彼に会うことになった場所は喜ばしいことに大学の入学式となったのだ。

大学生になると学部の異なる彼と会うのは奇跡に近かった。
学食で一緒になるとか、道ですれちがうとか、図書館で会うとか、その程度。
けれども、今わたしがいるこの大学に彼もいるんだと思うだけで心強かったし不思議とパワーが出てきた。
3年生の前期の試験が終わって夏休みがやってきた。
図書館で会った彼とどれくらいぶりだろう、夜ごはんを食べに行く約束をした。
わりと都会の大学に通っていたので、界隈にはお洒落なお店がたくさんあった。
その中でもTHEお洒落なお店を選択した。
お酒の種類が多かったのもそこを選んだ理由だった。
そう、わたしたちはお酒を酌み交わせる年にもなっていたのだ。
わたしたちはそれぞれ好きなアルコールを注文してお互いの近況を報告した。
そのあとに口から出てくるのは昔の思い出話ばかりだった。
ひざ小僧に傷口をつくりながら田んぼや運動場を駆け回っていたわたしたちが、今こうしてここにいられることを誰が想像しただろう。
2人そろってあんな小さな町からこんな都会の大学に通えるように成長できたことが不思議で不思議でたまらなかった。
世間のことなんてこれっぽっちも知らなかった。
井の中の蛙だって驚くほど無知だったのではないかと思う。
わたしたちは少しだけ自分たちを褒めた。
お酒がこんなにも人を饒舌にしてくれることを知ったのはこのころだ。

その後、わたしは地元の近くに戻って社会人となった。
彼は日本ではない別の国で邁進している。