暗譜の谷

 

萩原健次郎

 

 

1604浜風 写真

 

溺れる感覚を覚えようと、寒冷の水泳をする。
そうすれば、空気も水も切れる音が聴こえてくる。

寂しいとか、哀れだとか、
水中の震える波となるだけで波動が眼を撫でる。
耳と鼻を洗う。

それでも、意識が明滅し
ているわけではなく、

こころなしに、
わたしの皮という皮の、
おもてをひらいている。

こころなさ*の演奏を
はてもなく溺れるまでに、
胸位のあたりにまで満たして

それからむしろ恐怖するのは、
往ったら還ってこられること。

くるいたいのに、
散りたいのに
咲いてしまう。

皮が裂けてしまう。
あるいは、わたしが皮を裂いてしまう。

ショパンの皮面はやわらかく
その感触は、反吐。

胸に満ちたものを地にもどしてしまう。

溺れていると、こころなしに唄っている。
ぶるぶると震えるままに
往きも還りもしない。

晴天の川面には、
ただ緑であるだけの、草花の根が
無数に流れている。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空(連作のうち)

*ル・クレジオの『物質的恍惚』より豊崎光一の訳語を引用。

 

 

 

横万力に頭が挟まれて動けない。

 

鈴木志郎康

 

 

ヘラ、
ヘラ、
ヘラ、
ヘラっちょ。
万力って、
知ってるかい。
大きい横万力、
鉄の塊で挟んで、
太いネジで締め付けて、
挟んだ木片なんかに、
ヤスリを掛けるって道具。
その横万力に、
頭が挟まれちまって、
動かない。
もっと締め付けられたら、
頭蓋骨が砕けちゃうよおって、
感じでざんす。
いや、
いや、
頭が痛いってんじゃない。
首が回らないってじゃない。
空想、
空想ざんす。
万力の空想ざんす。
ヘラ、
ヘラ、
ヘラ、
ヘラァ、ア、ア、ア。

30年前に、
横万力を買ってきて、
木材を挟んで、
切ったり、ヤスリを掛けたり、
三角の小テーブルを作ったでざんす。
あの万力は何処に行っちゃたかなあ。
ヘラ、
ヘラァ、ア、ア、ア。

 

 

 

2016 春

 

みわ はるか

 
 

ニュースで見る桜はもう散り桜だが、
久しぶりに帰った田舎の桜は今が見頃だ。
ソメイヨシノが全国的に最も多いらしいが、
わが家に咲く桜は八重桜だ。
田舎に帰ると時間の流れを感じさせない環境に驚く。
着実に時は過ぎていっているのに。

スピッツが好きだ。
特に春の歌という曲が好きだ。
耳障りがいい。
心に一時の安らぎを与えてくれる。
何度も何度も聴く。

ずっと親しいと思っていた人が、
特に何かあったわけでもないのに、
不機嫌になったり、すぐ怒ったり、泣いたり
心のずっーとずーっと奥では何を考えているのだろう。
ぐるぐるぐるぐる考える。
そして、ぷしゅーと空気が抜けた自転車のタイヤのようになる。
苦手なものは…人間…なのかもしれない。

暖かい風がふわっとわたしの長く黒い髪をすり抜けた。