鈴木志郎康 新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んで、ブオーッ、ブオーッ。

 

さとう三千魚

 

 

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鈴木志郎康さんの新しい詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んだ。

それで、わたしの受けとった詩人の声は、「新しい詩が成立する場所に立ち会い新しい詩を生きるためには、何でもありだぜ。」という声です。

この八十歳を過ぎた、痛い腰や足を引きづり杖をついたり車椅子に乗ったりしている詩人は自身の詩を生きるために何度でも自身の詩を捨てて新しい詩を生きることを実践しているのだということが伝わってきます。

そして、この詩集から不思議な声が漏れ出し、沁みでてくるのをわたしは聴くのです。

ほとんどの詩が「浜風文庫」で読んでいた詩でしたが、詩集となってあらためて一連の詩を読み通してみるとこの声が不思議に思えるのです。

 

ホイチャッポ、
チャッポリ。
何が、
言葉で、
出てくるかなっす。
チャッポリ。
チャッポリ。

 

「びっくり仰天、ありがとうっす。」という詩の冒頭部分です。

この「ホイチャッポ、チャッポリ。」は何をあらわにしているのでしょうか?
擬音語でもなく、擬声語でもなく、擬態語でもなく、擬情語でもないように思われます。

いわば言葉にならないものでしょう。
言葉にならないでわたしの身体から漏れ出し、沁みでてくるもの。
かぎりなくわたしの身体に近いもの。

 

ヒィ、
ヒィ、
ヒィ、
ピーと鳴らない
口笛吹いて、
土手を歩いていたら、
川面に、
ボロ服着た人が浮かんでいたっす。
女の水死体が浮かんでたっす。
そこいらの草の花を取って、
その上に投げたら、
一つだけ、
当たったっすね。
ヒイ、
ヒイ。

 

「女の土左衛門さんにそこいらの花を投げたっす」という詩から冒頭を引用しました。
ここには鈴木志郎康さんが子どものころに見た水死体のことが書かれているでしょう。この子どもは女の水死体を見て、びっくしして可哀想に思ってか草花を投げつけたのでしょう。

そのことを思い出しているこの詩人から「ヒィ、ヒイ。」と声が漏れ出し沁みでてきたのです。

 

ぐだぐだ書いたけど、
書いてもしょうがないことですね。
身体って、
当人だけのものなんだからね。
病気のことを言葉にすると、
「お大事に」
と、言葉が返ってくる。
身体の中に
突き上げてくる鋭角があるって言ったって、
当人じゃないからどうしようもないものね。
でも、そこで、
鋭角が身体の内側を削った果てに、
身体は温かいものになるんですね。
身体が当人だけのものでもなくなってくるんだ。
つまり、その先に身体の消失ってこと。
そこに、
名前と言葉と写真とか、
身体なき存在が残ってくる。
また、記憶の中の存在になる。
温かい存在ってこと。

 

「鋭角って言葉から始まって身体を通り越してしまった」という詩から一部引用しました。

「突き上げてくる鋭角」って痛みのことでしょうか、その先に身体の消失があり、身体は他者の記憶となる、と書かれています。
人は逃れ難く誰でもそのように死を迎えるでしょう。

その近くに「温かい存在」があり、そこから声は漏れ出し沁みだすでしょう。
「温かい存在」は大切なものであり愛しいものでもありましょう。
「温かい存在」とは人を根底から支えるものでしょう。

わたしは詩は詩人自身を支えることができるものだと思います。
鈴木志郎康さんの詩は鈴木志郎康さんを支えれば良いのだと思います。
そして鈴木志郎康さんの詩が鈴木志郎康さんを支えられるのであれば、その詩は鈴木志郎康さんが大切に思っているものたちを支えることもできるのだと思います。

大切のものたちは奥さんの麻理さんだったり、猫のママニだったり、子供たちであったり、友人たちであったり、庭の草花だったり、子供のころにみた女の土左衛門さんだったり、詩の読者さんだったりするだろうと思います。

鈴木志郎康さんの新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」は、詩はけっこう素敵なものなんだぜ、ということを示してくれていると思います。

 

 

⬛️「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」

2016年8月28日初版第一刷 発行
菊変(214×140) 258ページ

※購入方法は書肆山田サイトでご確認ください。

 

 

 

存在の秋

母の傘寿に

 

尾内達也

 
 

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母も傘寿で
もういつ亡くなっても
おかしくない
わたしを産むつもりのなかった

がいなくなる
それは
二重の喪失のような
気がする
わたしを強くこの世へ呼んだ

はすでにない
家も売ってしまって
わたしを根拠づける
存在は むずかしい家族のほかには
なにもない

二十五年前の
空白空白空白空白空「堕胎するはずだった」
という母のしづかな言葉は
衝撃
というより
足元を
突然
掬われた
感じで
ふわっと 浮いて
ふしぎな
青空を見た

母の生涯の愛に
不満など毛頭ないが
その若い日の愛には
微妙に青いものが
一筋
交じっていたかもしれない

たしかに
シオランが言うように
ある
ことは あっけない 偶然

ある
空白空白のと
ない
空白空白のの
ちがいは
ほんの小さじ一杯 ひとは
危うい
ところを渡って
この世を旅している

母が亡くなれば
子どものわたしも
いなくなる


存在の秋
空白空0ああ
面白かった

やがて
わたしも
さようなら
ほんの
小さじ一杯の
違いを
のこして

 

 

 

秋風

 

尾内達也

 
 

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南無妙法蓮 華経
南無妙法蓮 華経
南無妙法蓮 華経


遥かなところから聞こえてくる
衆議院第二別館の
蚊の多い塀にもたれて
しばらく聞いていた
すぐそこにゐる
二人の僧侶が歌っているのに
その二重唱は遥かなのである
空白空白空白空白空白空白聲は
二人のものではない
遥かな歴史の臥所から届く聲なのである
さまざまな民衆が
さまざまな人生のときに発した
空白空白空白空白空白空白空白空白空白0南無妙法蓮華経
その聲なのである

秋風が心地いい
金曜日の官邸前デモがはじまる少し前
機動隊車両の西日
茱萸坂
秋の風

日も風も坂も
いまはもう
存在しないもの

存在させる
聲である

秋風は 南無妙法蓮 華経




遙かな 遙かな
懐かしさ

狂って自殺した叔父も
癌で死んだ父も
生まれる前のわたしも
理屈など
もうどうでもよくなって
笑いながら
秋風のひかりの中で 一緒に
南無妙法蓮華経

歌っている

 

 

 

ファミちゃんが1番

 

辻 和人

 

ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん
ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん

「かずとん、かずと-ん。
んもぉ、またぶつぶつ言ってる。
自分で気がついてるの? 会社とかでも口に出してるんじゃないでしょうね?」

ついついつい
掃除機かけながら
ついついつい
いやあ、困った、困った
困ったちゃん
ファミちゃん
レドちゃん

一人暮らしが長かったせいで
すっかり独り言が多くなっちゃった
「どれ、コーヒーでも飲むか。」
「さて、風呂にでも入るか。」
聞かれてもいないのに
相手もいないのに
言葉が出てきちゃう
壁や机やカーテンに向かって
いくらでも話しかけちゃう
どう思う?
「ヘンダァー、オカシィヨォー、アリエナィー。」
薄っぺらい体を電球にクルクル巻きつけたり解いたりしながら光線君が答える
だよなー、だよなー
困ったちゃん
「また何か独り言。もおぅー。」

外では大丈夫なんだが
一人になると
ついついつい
口を突いて出てくる
その代表格が
「ファミちゃん、レドちゃん」
これ
声に出すのを我慢する方が難しい
実は会社でもトイレに立つ時とかに小声で
ついついつい
困ったちゃんしてるんですよ

ではでは
そっと声に出してみましょう
「ファミちゃん、ファミちゃん、偉いねえ。」
「レドちゃん、レドちゃん、かわいいねえ。」
ぽっ
声に出した途端に
ぽっ
ほら
ぽっ
ほら
出現したでしょ?
ぽっ
では
撫でる仕草をしてみますよ
手首をひねって、5本の指を柔らかく柔らかく動かして
ふわっふわっ
もふっもふっ
ツーッと鼻筋を撫でると
目を細くしてうっとりする
顎に手を伸ばすと
首筋をぐっと伸ばしてもっともっとと促す
光線君も触ってみたら?
ぼくが指し示した場所を
薄い四角い体の先を紐のように細くして恐る恐る突っつく光線君
チョン・・・・・・チョン
ほら
ふわっもふっ
「ホントー、ホントー。」
光線君、体を扇子状にパタパタさせて驚いてる
だよねー、だよねー
いる、みたいな、感触
声に出しただけで
ふわっもふっな姿が
空中にしっかりちゃん

このマンションでは猫は飼えないし
第一、実家に馴染みきった彼らを今更他の場所に移すのは酷なこと
ファミ、レドとは離れて暮らさざるを得ないけど
ついついつい
名前を呼べば
現れる
ついついつい
名前を呼べば
賑やかになる
名前、名前
名前っていいなあ
「ナマエワァー、
ヨブヒトノォー、
ココロモチヲォ-、
アラワスナーリィー、
コエニダセバァー、
スガタモアラワレルナーリィー。」
光線君、よく言った!
その通りなりぃ

食後のお茶を飲んでると
ミヤミヤが不意に湯呑みを置いてぽろり
「かずとんはいつでもファミちゃん、レドちゃんなのね。
ファミちゃんが1番、
レドちゃんが2番、
ミヤミヤが3番。」

えーっ、困ったちゃん
「そんなことあるわけないよ。」ってすぐ返したけど
ぼくに向ける視線にどことなく不満が宿ってる
本当にそんなことないんだよ
だいたいレドはファミと同じくらいかわいがってるし
あ、そういう問題じゃないか
そりゃさ
新婚旅行にスペインに行った時
地下鉄の行き先を確認しようとしてミヤミヤに
「ねえ、ファミちゃん」って話しかけちゃったことはあるさ
「昔の彼女の名前を呼ばれるよりもショック」と睨まれたさ
でもそれはね
ミヤミヤなら
何を聞かれても大丈夫
ってことなのさ
かずとんとミヤミヤは一緒に住み始めて6ヶ月
オナラの音を聞かれても「ま、いっか」って感じになりつつある今
ミヤミヤが傍にいても
一人でくつろいでいるのと同じなのさ
「オナジィー、オナジィー。」
裾をきらきら翻しながら光線君がぼくとミヤミヤの間をさぁーっと走り抜ける
「ミヤミヤが1番に決まってるじゃない。
それより今度の日曜日、小金井公園にウォーキングに行こうよ。」

ウォーキングに行っても
周りに誰もいなくなれば
ついついつい
傍にミヤミヤがいても
ついついつい
ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん
ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん
名前を呼べば
困ったちゃん
みんな一緒に暮らしてるのと
「オナジィー、オナジィー。」

 

 

 

最後の4つの歌~リヒャルト・シュトラウスの「白鳥の歌」

音楽の慰め 第7回

 

佐々木 眞

 
 

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誰もがシューベルトのように「白鳥の歌」を歌います。

松尾芭蕉の生前最後の句は、「旅に病で夢は枯野を駆け廻る」でした。
与謝蕪村は「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」と歌って死にました。
子規の絶筆3句は、「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「 痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
「 をとゝひのへちまの水も取らざりき」でした。

また時代を大きく遡って、「古事記」で大活躍するヤマトケケルノミコトの最後の4つの歌は次のようなものでした。

○倭(やまと)は国の真秀(まほろ)ば たたなづく青垣 山籠れる 倭し麗し

○命の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うづ)に挿せ その子

○愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も

○嬢子(をとめご)の 床(とこ)の辺(べ)に 我が置きし 剣(つるき)の大刀(たち) その大刀はや

そして今宵わたくしが皆様にご紹介したいのは、リヒャルト・シュトラウスの「白鳥の歌」です。

リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss1864~1949)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家で、リストの交響詩やワグナーの楽劇を華やかな技法をもって発展させましたが、戦後は第3帝国の音楽院総裁を務めるなどナチスとの悪い噂も取り沙汰され、あまり幸福な晩年とはいえなかったようです。

彼が死の前年の1948年に作曲した「最後の4つの歌」は「春」「9月」「眠りにつく前に」「夕映えの中で」の4曲からなっていますが、とりわけ私の心に迫って来るのは廃墟となった故国と老人の絶望を身を捩るようにして呟く「夕映えの中で」という昏い暗い歌曲です。

ヨーゼフ・フォン・アイヒェヘンドルフという詩人の言葉に、シュトラウスが曲をつけたのですが、これを吉田秀和氏の最晩年の邦訳でご紹介しましょう。

私たち、困苦と喜悦を切り抜け
手に手をとって やってきた
そのさすらいから 休もう
今こそ 静かな国の上で

あたり一面、谷は身を傾け
大気はもう暗くなってきた
ただ雲雀が二羽上へ上へとのぼってゆく
夢からさめやらぬまま 靄の中へ。

こちらにおいで、鳥たちには勝手に囀らせておけ
もうじき眠りにつく刻になる、
私たち、お互いはぐれないよう
この人気の全くないところで。

おゝ、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
(吉田秀和「永遠の夜」より引用)

さあ、それではこの名曲中の名曲を、ドイツの名歌手シュワルツコップの独唱で聴いてみましょう。
伴奏はアッカーマン指揮フィルハーモニア管弦楽団、あるいはジョージ・セル指揮ベルリン放送交響楽団の演奏がお薦めです。

「最後の4つの歌」の最後の曲の最後の言葉「Ist dies etwa der Tod?」の問いかけが響きわたるとき、私たちの心もまた、地球最後の日の夕闇に沈んでいくような悲哀を覚えるのです。

 
 

 

 

 

まるで

 

尾内達也

 
 

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しろいワイシャツ

地味な
ネクタイ

夏帽
をかぶると
へんな
気分

ひと
じゃ
ないみたい

話まで
しづかで
まるで

わたしの葬式


の高いところは

仕事
をやめると

は早い

月の道
ひとつの
誤解

夏帽の影
は大きくなつて
昼間より
頭

が

重い

 

 

 

吉増剛造著「怪物君」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

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この世に、果てしなく外部へ拡散していく詩と、限りなく内部へと沈潜していく詩と、永久にその場所に佇む詩の三つの詩があるとすれば、吉増選手のこのたびのLineは、1番線からの衝動的発車だろう。

駅には電光表示板に「アリス、アイリス、赤馬、赤城、イシス、イシ、リス、石狩乃香、兎!巨大ナ静カサ、乃、宇!」という行先が電光表示され、怪物君は自家製のドローンかスペースシャトルのようなものに跨って、全世界から全宇宙の隅々までも軽やかに飛翔する。

ウッ、ウッ、ウッ! ワッ、ワッ、ワッ!

怪物君は、怪物くんかもしれないし、最シン・ゴジラかもしれない。
怪物君は、あの手この手の禁じ業、とっておきの奥の手を使って、喚きに喚く。
私たちは、怪物君から放射される無慮無数のLine攻勢を全身に浴びて、至る所で棒立ちになるだろう。

しかし孤独な怪物君は、私たちにいちいち応答を求めているのではない。
虚空に向かって彷徨しながら、ただラアラアと咆哮しているだけなのだ。

ウッ、ウッ、ウッ! ワッ、ワッ、ワッ!

これはいったい何なんだ?
タダのダダの言葉遊びか? 時代遅れのシュルシュルレアリスム?
それとも全地球詩緊急一時回想録?

東北の被災地に生きる人々やその記憶、オリーヴと白桃、阿弥陀仏と孝標女の対話などがアラエッサアサアとばかりに繰りだされてくるが、だからといって怪物君はそこに長く滞在する訳ではない。

ウッ、ウッ、ウッ! ワッ、ワッ、ワッ!

蜜を求めて花から花へと移る気まぐれな蝶のように、あちらこちらにフラフラ立ち寄りながら、限りなく自らを他物と他者に憑依する寄生虫怪物君!

ウッ、ウッ、ウッ! ワッ、ワッ、ワッ!

怪物君は、ひとたびは個我を放棄することによって、世界を無意味に彩る装飾の一部と化し、またしても壁画から飛び出して全世界を遊覧し、随所でコブラがえって痙攣し、股股情動しつつ、スペースシャトルのようにGo!Go!いくたびも発射台に立ち戻る。

「ひーひやら、何ぞ馬鹿囃子!」*
そう、「詩人は考ヘルまへに、歌ッていた」*
これが「おまえの一生ノ音楽だッた」*
それらは全部、詩人の寝息であったのかもしれないネ。

ウッ、ウッ、ウッ! ワッ、ワッ、ワッ!

「手を翳しているだけで、それでよい」*
「手を翳しているだけで、それでよい」*

ウッ、ウッ、ウッ! ワッ、ワッ、ワッ!

 

空白空白空白*は詩集からの引用です。

 

 

 

お盆

 

みわ はるか

 

 

久しぶりに履いたヒールは思っていたより自分を大きく見せる。
数十分もすればそんな自分にも慣れてくる。
足の日頃あまり使っていない筋肉だろうか、ピリピリと痛くなる。
それでもヒールがかっこよく履きこなせるのは若いうちだけだろうと思って頑張って歩く。
コツコツと歩く。

久しぶりにお盆休みを使って帰省していた高校の部活の先輩と会うことになった。
3年ぶりぐらいだろうか。
地元では少し名の通ったカフェで待ち合わせをしていた。
自動扉をくぐると、あー本当に懐かしい、当時妹のように可愛がってくれた小柄な先輩の姿が目に入った。
あのときと何も変わらない優しさが滲み出ている笑顔でわたしを待っていてくれていた。
黒い長い髪をきれいめなシュシュでまとめ、化粧も丁寧に仕上げ、まさに都会のOLさんといった風貌だ。
その先輩は見た目からは想像できない行動派で、大学時代には一人で南米を横断している。
お土産でもらったいかにも南米ですと言わんばかりのポシェットを今でも大事に使っている。
音楽も大好きで、今は社会人で結成されたバンドのギター弾きをやっているという。
そんな趣味や仕事でいっぱいの先輩は、数か月前にその時付き合っていた人とはお別れをして今は恋愛には興味がわかないという。

色んな興味がわくことがあることがとっても羨ましい。
そして、失敗してもいいからそういうものすべてに挑戦し続けている先輩がかっこいい。
わたしが高校1年生で出会った先輩はやっぱり今でも先輩だった。
年齢からくる上下関係だけではなくて、なんかいいな、人として尊敬できるな、話を聞いてほしいな、なんだかそんな気持ちが勝手に出てくる。
お姉ちゃんがいたらこんな感じだったのかな。
ぐるぐると想像する。

たった1時間の短い時間の再会だったけれどとてもいい時間だった。
高校の制服姿しか知らなかった先輩のあか抜けた私服姿は新鮮だった。

お酒が強いとわかった先輩と今度は飲みに行く約束をして別れた。
スタスタスタスタと駅に向かっていく先輩の後ろ姿はやっぱりまぶしかった。