甘栗の窪み

 

萩原健次郎

 

 

空0泡吹くか。驚いた。眼前の幼い老女が泡吹いた。幼
いと書いたのは、正しい。まるで子どもだ。ニッキ水
が欲しいと泣き喚き、手足を両生類のようにばたつか
せた。それは赦せる。ひととき瞬時、逝っていたのだ
ろう。身の部分、半身が彼岸へと入神し、昇天し、半
身だけが、目に見えてぷよぷよし、あとの半身は、硬
直していた。
空0体内から滲み出た液体は、泡小僧となって、微小な
天使となり、飛び交っている。蝿だ。よろしい、蝿
だ。数ミリの体長だが、緑金のハレーションは、綺麗
やなあと、そのときかたわらの爺が呟いた。爺も昇天
していた。全身、昇っていた。

空0数世紀前のことが、水で書かれている。透明な文字
は見えない。柔らかな和紙の、筆が辿った後が皺にな
っている。皺の谷筋を追えば、文字は判読できる。

空0わたしは さびてしまった ありの いしゅだ
空0せいかくには、あしの なえた あしゅだ

空0はりつけだ ころがりおちたものは
空0くりだ

空0た(せ)かい とおい そらに きのみをなげろ

空0甘栗に群がる、蟻の亜種。彼(あ)の世のことだとして
も、蠱惑。亜種とはどんな形をしているのだろうか。
灰色の体躯。金属の尖端を鋭く磨き上げた、脚。
空0嫌だ嫌だと言う、蟻の亜種を岩の窪みにできた、雨

水溜りに捕獲しようとする。らららと言いながら。そ
こで泳いでいなさいと。匕首のような脚は、遊泳に適
さないだろうなどと思いながら、放つ。栗、空から還
ってきた。甘栗、溶ける。蝿の緑金溶ける。雨は、清
浄ではない。有害物質も混ざっている。寂々、降る。溜
まる。
空0文書の体裁を思い出す。

空0恋ふひとの死んだ半身甘辛く

空空空空空空空空空空神の艶書の水茎の皺

空0と付ける。

空0わたしも、幼稚園に通っていた。そのころの恋心を
眼中で反芻していた。
空0遠泳していた。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空連作「音の羽」のうち