鈴木志郎康 新詩集「とがりんぼう、ウフフっちゃ。」を読んで、な。な。おおい、おおい。

 

さとう三千魚

 

 

鈴木志郎康さんの新詩集「とがりんぼう、ウフフっちゃ。」を読んだ。

80歳を過ぎた詩人の最新詩集だ。

浜風文庫に書いていただいた詩が殆どですから既に読んでいる詩ばかりなのですが、
詩集が準備される時、おそらく詩人によって詩集に掲載される詩が選ばれ、詩の順番が決定される。
そこに新たに詩集独自の時間が形成されるのでしょう、詩集のなかの詩のかずかずは新たに生まれなおされたなと思われます。

わたしは鈴木志郎康さんを思い浮かべる時、画家ベーコンの絵を思い出してしまいます。
なぜなんでしょうか?
裸の詩人が苦痛に歪んだ顔で大口をあけて叫ぼうとしているのが見えます。
大口をあけて叫ぼうとしているのに声が聴こえない。
時間が止まってしまったのでしょうか。
この詩集を読んだ印象もベーコンなのでした。

明るいリビングに二本杖で佇つ老詩人がいるのが見えます。
詩人にはもはや何も残っていない。
猫のママニもいない。
傍らに妻の麻理さんがいるだけだ。
老詩人を麻理さんと詩が支えている、そう思えます。

 

自分の書いた詩が
物になるっちゃ。
空気の振動が立ち昇ってくる
物体になるってこっちゃ。

(中略)

この世に、
言葉が立ち昇る、
詩集ちう物体を、
残せるっちゃ。
この世には、
物体だけが、
残るっちゃ。

 

「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」という詩から引用してみました。

ここで、詩人は詩を空気を振動させるものとして捉えています。
そして詩集は空気を振動させる詩を集めた物体であり詩人が消失しても物体としての詩集は残ると詩人は語っています。

 

テレビを見てた、
息子の草多に
抱き起こされたっすね。
怪我はなかった。
麻理が脚をさすってくれたよ。
よかったですっす。
ホイチョッポ。
明るくなって、
庭に、
五月の風が流れ込んで、
若緑の葉が、
さわさわ揺れたよ。

 

「これって俺っちの最後の姿かって」という詩から一部を引用してみました。

キッチンのリノリウムの床に倒れた詩人は、
「これって俺っちの最後の姿」と思ったのでしょう。
これで最後かと間近に死を感じ、その場所から世界をみつめています。

 

庭に、
五月の風が流れ込んで、
若緑の葉が、
さわさわ揺れたよ。

 

ここに世界が顕現しています。
振動する詩が顕現していると思えるのです。

 

いやああ、あらゆる事物に、
俺っちは、
姿を映して、
影を残して、
生きて来たんだって、
ことですっすっすっす。

(中略)

俺っち、薬缶をピカピカに、
ピカピカに、
磨いたっす。
毎朝、紅茶を沸かしてる
ピカピカの
薬缶の横っ腹に、
キッチンに立ってる
俺っちの
姿が映ったっすっすっす。

 

これは「ピカピカの薬缶の横っ腹に俺っちの姿が映ったすよね」という詩の一部です。

この詩はオバマ大統領が広島の記念式典で行った演説をテレビ映像などで見て書かれた詩です。
爆心地から260メートル離れた住友銀行広島支店の入り口の階段に原爆により残された人影を詩人が見たことを思い出し書かれた詩です。

ここにも詩人が苦痛に歪んだ顔で大口をあけて叫ぼうとしているのが見えます。

その苦痛は詩人一人の苦痛ではなく世界を引き受けることによる痛苦に思えるのです。
そして、ピカピカの薬缶の横っ腹に映った自身の姿を冷徹に受けとめて世界を見つめているのです。

これらの詩を書き写していて、あらためて日本語が壊れているのを知りました。

 

影を残して、
生きて来たんだって、
ことですっすっすっす。

キッチンに立ってる
俺っちの
姿が映ったっすっすっす。

 

詩を書き写していて実に書き写し難い吃音の日本語となっていることに気付きます。
この詩集のなかで繰り返されるこれらの日本語が壊れるような行為こそ、この詩人がいまを生きるための詩行為なのでしょう。
ここにこの詩人の言葉の生命があると思われるのです。

そしてこれらの詩行為は「重い思い」という詩の連作に連繋されてゆくのです。

 

「重い思い  その一」

 

重い
思い。

重い思いが、
俺っちの
心に
覆い被さって来る。

晩秋の陽射しが
部屋の奥まで射し込んでいる。
な。

脳髄の中に、
からだがゆっくりと沈んで行く。
な。

な。

おおい、
おおい。

 

「重い思い」という「その一」から「その六」まで連作された詩の「その一」全文を引用させていただきました。

ここに連なる言葉の行為とはどのような行為でしょうか?
ここには老いた詩人が直面する生の危機への実感と言葉が世界を照射する行為があると思います。
これをヒトは詩(無い言葉)と呼べばよいのではないかと思うのです。

 

春だなあ、
四月も半ば、
夕方の日差しがながーく、
キッチンの床に射し込んでるっちゃ。
こんな一日もあるっちゃ。
とがりんぼう、
ウフフ。

 

詩集のタイトルとのなった「とがりんぼう、ウフフっちゃ」から一部を引用しました。
ここには世界を受容した詩人の世界を照射する視線があると思います。
鈴木志郎康の詩は世界を照射することで、この詩人自身を支える行為なのだと思われます。

 

言葉を書くと、
言葉の形が出てきちゃう、
形と意味のぶつかり合い、
そこんところで、
言葉をぶっ壊す力が
要るんだっちゃ。
「外に出ろ」
ぶっ壊す力、
ぶっ壊す力、
それが、
俺っちの心掛けっちゃ。
ウフフ、
ハハハ。

 

とこの詩人は「引っ越しで生まれた情景のズレっちゃ何てこっちゃ」という詩で書いています。

詩人は生き抜くために何度でも自身の詩の形を「ぶっ壊す」でしょう。
鈴木志郎康は日本語をぶっ壊して何度でも自身の詩を生きるでしょう。

 

な。

な。

おおい、
おおい。