世界を見る目

さとう三千魚詩集『浜辺にて』(らんか社刊)を読んで

 

長田典子

 

 

この詩集は、2013年6月9日から2016年10月10日まで、さとうさんご自身が主催するWeb詩誌『浜風文庫』に毎日のように公開された532編が日付順に収められている。日付が飛んでいるのは、予算上やむを得ず削った詩が多かったとのこと。画家の桑原正彦さんの可憐な装画によるこの詩集は628ページという分厚い本でありながら、ペーパーバック風の造りによって、見た目を裏切って手にするととても軽い。それぞれの詩のタイトルは、毎日ツイッターの「楽しい基礎英語から」引用したとのことで、すべて英単語だ。だからといって、小難しいものではなく、寧ろ軽やかさのようなものが本全体から感じられる。そして、さとう三千魚さんならではの独特で非凡な「世界を見る目」を通して書かれた詩が収められている。
一読した後、少年のようにみずみずしい著者の感性が行間からじわじわと滲み出てきて胸を捕まれた。具体的なそれぞれの日々の出来事よりも、さとうさんの感情そのものの束がうわーっと押し寄せてきたようで、この詩集はさとうさんの感情のドキュメンタリーなのだと思った。比喩をつかわず自然な発語で記されているため、それぞれの詩がとてもフレッシュなものとして受け取ることができる。
さとうさんの詩作へ動機、世界への視線は、「living 生きている」(p.546)という詩に表されているように思うので、まずその全文を紹介したい。

 

living 生きている
2016年5月19日

朝になる

ピと
鳴いた

ピピと
鳴いた

と思ったら
ピピピピピピピピと鳴いた

それで
もう鳴きやんでいる

小鳥たちの

朝の
挨拶だったのだろう

ピといい
ピピピという

喜びがあるのか

わからない
此の世に驚いてピといった

どきどきして

 

鳥の鳴く声を細やかに聞くことができる人なのだ。日常の、普通はあまり気づくことのない細やかな事象に対して、さとうさんは繊細にキャッチし、その心の動きこそが、日常から詩へと移行する際の動機となっているようだ。物事に対面したとき、イノセントな心の動きを逃さずとらえて詩にされているのである。『浜辺にて』は、さとうさん独特のイノセントさで貫かれている。
「hot 暑い 熱い」(2016年2月3日)はタイトルに反して真冬の詩だ。真冬にコートを着て電車に乗る男は、詩人の田村隆一などの名前を挙げてから「ダンディになれない/神田で飲んでる」と最後に正直に告白する。そこがいい。そこが清潔だと感じる。
では、『浜辺にて』の詩群は抒情詩かと思いきや、実はドキュメンタリータッチでページが進んでいき、日々の些細な出来事をツイッターの「楽しい基礎英語」からとらえたタイトルと絡め、さらに実際にあった肉親や友人の死や生きた人々との出会い、人の生死なども、さりげなく絡めて書いているので、叙事詩ということもでき、ゆえにねじれ、そこから独特の深みを醸し出している。
そういうこともあってか、一読後は、さとうさんの感情の束を感じ、確かめようと二読目に入ると、今度は、一行一行がストレートに胸に響いてきたので驚いた。サラリーマンであるさとうさんは、会社のある東京と実家の静岡を新幹線で往復し車窓から風景を見ながら、あるいは、平日に住んでいる寮のある川崎から会社までの通勤途中に音楽を聴きながら、過去や家族や愛犬や音楽や詩友のことを想う…それが、言葉少ない詩になると、不思議な広がりが出てくる。できたら、新幹線や通勤電車の車窓から、毎日、繰り返し見る風景の写真や、休日に一緒に過ごす愛犬の写真や、愛犬と散歩に出かける海の写真なんかが入っていたら、(実際、さとうさんはフェイスブックで毎日のように写真を公開している)きっと、さらに不思議なリアリティが生じたのではないかな、と日々フェイスブックでさとうさんと交流しているわたしとしては、惜しい気持ちもする。
毎日出会う様々な人々・言葉のなかで生活者であるさとうさんは暮らしている。しかし、詩人であるさとうさんが追及するのは、「ないコトバ」「ないヒト」なのである。「ことばの先のことばでないもの」(「dear親愛なる 2014年3月14日」より」である。そして日常の裂け目の、特別に非日常な瞬間である。「Poet 詩人」、「Strong 強い 濃い」の二編を紹介したい。

 

poet 詩人
2013年12月7日

こどものとき
ことばをうしなった

すでにうしなっていた

軒下の暗やみで
小石を積んで遊んだ

そこに真実があった

コトバをうしない
ないコトバに出会う

詩は
ないコトバに出会うことだろう

詩人は

ないだろう
ないヒトだろう

 

strong  強い 濃い
2013年 10月18日

夕方
神田の空を写真に撮りました

仕事を終えて
長い電車に乗りました

深夜の東横線でスーツを着た男が叫んでいました

ヒャー

何度も叫びました
悪夢のなかでもがくように叫んでいました

愛しいと思いました
その男にも夕方の空はあったのだと思います

 

電車の中で同じ車両に「ヒャー」と叫ぶ男がいたら、ふつうは怖いのだ。疎外したくなるのだ。だが、さとうさんは、「愛しい」と言う。「その男にも夕方の空はあったのだと思います」と、その男の存在を自分と同じ場所でとらえる優しさを感じる。「夕方の空」はわたしたちが生きている「社会」という場所だ。そこからはみだしてしまっている男はさとうさんご自身であるかもしれず、わたしたちでもあるかもしれないと気付かせられる。
「bad  悪い ひどい 劣った」(2014年11月15日)では「醜いものを見た目だった/世界を見るには/この目玉がいる」と書かれている。「醜いものをみた目玉」を通して、さとうさんは、実に「イノセント」にみずみずしい視線で世界を見る。相反するものを抱え込んだ深い視線……これは、なかなか真似ができない。この詩集は、さとうさんの、このすごい目玉を通して書かれている。
醜いものを見た目玉によって濾過された非日常、またイノセントなものをイノセントなものとして書かれている真似のできないある種のストレートな視線…だからこそ、さとうさんの詩から、わたしは少年のようなみずみずしさを受け取ったのだろう。そして二読目に「醜いものを見た目玉」を感じ、一行一行が強く心に沁み入ってきたのだろう。
「angel 天使」という詩を紹介したい。

 

angel 天使
2015年10月6日

今朝
満員の

山手線のなかで
泣いてた

赤ちゃんの
泣く声がした

かぼそく

目を
瞑って

聴いた

このまえの日曜日
きみに

会わなかった

声も
聞かなかった

浜辺には
風が渡っていった

きみの
声を

探した

いないきみの声を
探していた

 

「赤ちゃん」の「泣く声」は悲しい。そこから「会わなかった」きみに想いが連鎖する。この繊細さ、ストレートさ……胸がきゅん、とした。
他にも「sorry 気の毒で すまなく思って」にも注目してほしい。

 

sorry 気の毒で すまなく思って
2013年12月2日

朝露の中で
閉じた花がひらくのをみていた

小さなラッパのように
閉じた白い花がひらくのをみていた

朝日にあたって
白い花はひらいていった

小さな命がひかりの中で振動していた

ひらいていった
ひらいていった

振動するものをみていた

 

花が開くのを見ながら、さとうさんはsorryとすまなく思うのである。自然豊かな東北で生まれ育ったというさとうさんは、自然への敬意、畏怖をもって世界に接していることがわかる。そして、自然が「振動する」、そこを、きちんと見ている。
『浜辺にて』に収められた532編のなかの5編を紹介させていただいた。難しいことばはどこにもなく、ほとんど、小学生にもわかる言葉で書かれている。この詩集から、きっと誰にも、好きな詩、大切にしたい詩、を見つけることができると思う。
ちなみに、この詩集の最後には索引があり、初心者用の英語の辞書のようにもなっている。
日曜日以外は毎日更新されるWeb詩誌『浜風文庫』を運営しながら、これだけの厚い詩集を編むのはさぞ大変な労作だったろうと思うのに、さとうさんは、どんどん新しいテーマを見つけて詩を公開し続けている。目が離せないなぁと思う。