蜜柑の器

 

萩原健次郎

 
 

 

空0楊柳の布に、水玉の模様。蜜柑に着せられた、ドレ
スのままに不明になった。そのまえに、やわらかな人
型は、強く手でこねられて球になった。不思議に思う。
蜜柑型があり、微妙な、赤か黄か判然としない器に人
がとじこめられたこと。球形の、完全な球には、針で
刺して空けられた穴があって、そこから甘い弦を擦る
音が漏れて、石垣の上に置かれて、鳴っている。あの
声は、糸の細さで球の外を望んでいるのがわかる。知
っている人の声のようで、ただ近隣で不明になった幼
児のようでもある。穴から、覗いてみる。一人ではな
いようで、穴ごとに無数のつぶやきが蠢いている。生
の木片か、それとも堅い化学的に組まれた樹脂で球は
こしらえたのだろうか。ちいさな虫のような、幼女の
無数が漏れている。

空0喩えであっても、蜜柑は蜜柑であって人ではない。
名づけられた器で、中に収容されている無数のことは
関わりがない。石垣のあたりを私はただ黙って通り過
ぎていく。私は、弦楽にはこだわるが、いびつな穴に
恋するが、楊柳のドット柄は大好きだが、無数の不明
の、極小の無数の人間などには興味がない。

「葬式百回やらないと」と言う。「四十九日の法要は
千回」だとも言う。私は、まったく関心がない。蜜柑
の器の前を私という樹脂の、眼が過ぎた。傷ついてい
るのは、蜜柑ではない。器に穴があいている。

 

「不明の里」連作より