DAYS/スパイス

 

長田典子

 

寒い冬の夜遅く
メキシコ料理屋でホモセクシャルやゲイやトランスジェンダーの人たちが
集まるパーティがあるから行かない?
とてもいい人たちなの、
メキシコ系の女友達に誘われてユニオンスクエア近くの店までついて行った
女友達もわたしもレズビアンではないしふつうにストレートな女で
ファフィータやタコライス、チリコンカンを
老舗のメキシコ料理屋で食べられるなんてまたとないチャンスというわけだ
大きな丸テーブルを囲んで男や女が10人以上いたメキシコ系が多かった
ホモだろうがレズだろうがゲイだろうがトランスジェンダーだろうが
わたしにはどうでもよいことだ
遠いニホンからやって来て英語の勉強を始めたばかりの
言葉の不自由な女にも
親切にしてくれればそれで十分だ
予想通りどの人も穏やかな笑顔でずっと前から知り合いだったみたいに話しかけてくれたゆっくりとした口調で
みんな色とりどりの光る三角形の帽子をかぶって楽しそうに話していたけど途中から
ほとんどスペイン語になったから音楽を聴くようにしながらわたしは黙々と
メキシコ料理を食べていたんだ
さほど辛くもない適度な量のスパイスの味はわたしの好みだった
アボガドやトマトや大豆がたっぷり入っているところもうれしかった
アメリカは野菜が高くてここのところあまり食べていないのだ
料理が終わると女友達に誘われて二階のダンスホールに行った
階段を上がり終わったら急にアップテンポの曲が始まり
もともとダンサーの彼女はカクテルを頼むのもそこそこに
めまぐるしく交差する赤や黄色や青や白のライトの下で
ここぞとばかりに気持ちよさそうに全身を躍動させて踊り始め
わたしはあっという間に彼女を見失った
鋭い線状のライトは暗闇の中を高速でくるくる回り交差して
人の姿がいっしゅん部分的に照らし出されるだけだから
わたしは彼女を探すのはやめて
窓際のテーブルでマルガリータをストローでちびちび吸い上げていた
スパイスの味が口の中にまだ残っていて
もう一杯頼もうと小さなランプの下がったカウンターの前に佇んでいると
音楽が急にスローになり肩幅が広くて胸の厚い男の腕に肘を引っぱられた
ちらっと見えた大柄の男の横顔は浅黒いメキシコ系だった
顔を見たのはそのときだけだった
手をとって一緒に踊ろうというしぐさをしたかと思うと
すでにわたしの身体は男の分厚い胸や太い腕に抱きすくめられ
マリオネットのように男と一緒に踊っていた
赤や黄色や青や白の線状のライトも音楽のテンポに合わせてスローな動きになっていた
悪い気分ではなかったボタンの留められていない男の上着が
大きな翼のようにわたしの細い身体をくるみむしろすっかり安堵していた
留学生活はまるで薄氷の上を歩くみたいに冷や汗の連続だから
スパイシーな体臭さえも心地良くわたしの鼻を満足させた
男がとても自然にわたしをリードしたのでわたしはダンスなんかしたことはないのに
導かれるまま赤や黄色や青や白の線状のライトがくるくる回り交差する中でてきとうに足を動かしてさえいればよかった
傍から見たら果たしてそれがダンスのような動きになっていたのかどうかもあやしいが
この暗闇のなか誰からもわたしたちのことなんて見えやしないからなんとも思わなかった
わたしは細い指先を男のセーターの下から背中にすべり込ませ掌を広げて
身体が動くたびに男の背中を上から引っ掻くように移動させた
ちょうど小鳥が雪道に足跡をつけていくように
男はしばらくわたしの黒髪の上にざらざらした頬をくっつけたままだった
わたしは指先に弛んだ男の贅肉を見つけてちょっとだけ摘んでみた衝動的に
いつのまにか目を閉じていたはじめから目は閉じていたのだろう
それから男はわたしの唇に唇を押しあててきた
すごく柔らかい唇だった厚くて少し湿った唇はわたしの唇のうえを蠕動し
何年も前からわたしたちは恋人同士だったかのように自然に口づけをしながら男の大きな懐に自分の身体をまかせていた
両方の掌を男の肌にぴったりあてたたまま
男がそっとわたしの口の中に舌をすべり込ませてきても自然に受け入れた
男はわたしの舌をも尊重かのするような人格のある舌をゆっくりとからませ舌と舌はうっとりと絡み合いつづけ時がたつことなんかすっかり忘れていた
男はそれ以上のことはしなかったしわたしもそれだけでよかった
音楽のボリュームがだんだん小さくなりホールに薄明かりがつくと
わたしたちは何事もなかったかのように身体をひき離した
男の顔も見ずにわたしは黙って窓側のテーブルに戻った
ななめ横を見るとさっきの男らしいメキシコ系の大柄で肩幅の広い男が
ソファに腰を沈めて座っていた
おそらくあの男だ朝焼け色のカクテルを手にしている
薄明かりの下で見ると男は恰幅がよく上等なブレザーの前ボタンを留めないで着ている
髪は薄く少なくともわたしよりは20歳か30歳は年上のように見えた
妻と思われる白髪で頬に筋がたくさん入った高齢の女性と並んで座っていた
彼女の大きなターコイズのイヤリングが白髪の間からつるんと丸く出ていた
ふたりは言葉も交わさずにただ並んで座っているだけだった
わたしはぼんやりふたりを眺めていたがなんの感情もわかなかった
ねぇ、キスしていたでしょ?
ふいに女友達に聞かれて
うん、
と答え
でも知らない人なの、
と言ってからわたしはまた赤くて濃いマルガリータを一杯飲んだ
今度はストローなしで
男とわたしは互いの渇きを潤し合っただけなのだ
音楽がまたスローになる前にわたしたちは帰ることにしたホールが真っ暗になる前に
店を出てタクシーに乗るころには
わたしは男のこともメキシコ料理の味もすっかり忘れていた
柔らかく蠕動する唇と人格をもったような舌の動きだけは覚えていた
あの背中はわたしの指先の感触を覚えているだろうか小鳥の足跡のような
忘れてもまったくかまやしないのだけど
タクシーの窓から線香花火のように過ぎる雪交じりの景色を眺めていた