NICE

 

みわ はるか

 
 

NICEという団体をご存じでしょうか?

特定非営利活動法人という組織で、国内・国際ボランティアを推奨している。
わたしが大学生だったころ、数年ではあるがこの組織に所属していた時期がある。
この経験はわたしにとってとても大きなものとなった。

大学1年生のときとった英語の先生はとても厳しくテストで単位をとるのが大変だった。
そんな経験から、2年生のとき英語の授業をシラバスから選択する際、レポートで単位をとれるものを選んだ。
ただし、その先生は毎年人気だったため抽選でもれる心配があった。
運を天に任せて履修登録をしたのだが、ラッキーなことにその授業を受講する権利を得た。
いざ授業の初日を迎えると想像通り緩かった。
本当に緩かった。
まだ30代半ばの色白の男の先生だった。
チャイムがなってから「あ-ごめんごめん、少し遅れたね。」と急ぎ足で教室に入ってくるようなかんじ。
1限でありわたしもぎりぎりだったのでそこはありがたかった。
実力は相当で、TOEICは990点満点、話す英語はとても流暢だった。
その先生は英語の授業はもちろんしてくれたが、それ以上に課外活動の紹介をスライドを使って教えてくれた。
外国人と触れ合う場、留学のこと、就職のこと・・・・。
その内容はとても新鮮で興味をひかれるものだった。
その中で出会ったのがNICEという活動だった。
国内は北は北海道、南は九州、外国もアジア・ヨーロッパ・アメリカ・アフリカ大陸までと幅広くボランティアをしている組織だった。
スライドから流れてくるボランティアスタッフの顔はどれもみんな充実感にあふれていた。
わたしも挑戦してみたい。
そんな気持ちから年間登録をしていざやってみることにしたのだ。

わたしは初めてのボランティアの場を東京の奥多摩に決めた。
東京にもこんな田舎があるのだと本当に驚いた。
2週間、知的障害者施設の横の武家屋敷と呼ばれる古民家に世界から来る人たちと寝食をともにしながらボランティアをすることとなった。
それは新鮮でありやや辛くもあった日々の始まりだった。
日本人、韓国人、台湾人、フランス人、ロシア人、ウクライナ人・・・言葉も文化も違う国々の人たちとの共同生活がスタートした。
わたしは英語が堪能ではないのでいろんな人に助けてもらいながらなんとが過ごした。
知的障害者の方と農業や工芸品を作ったり、側の保育園に1日実習に行ったり、山に登り竹を切り流しそうめんをしたりした。
みんなが初めましての状態ではあったけれど、目的は同じだったので作業はわりとスムーズにいったような気がする。
あのスライドでみた風景を少しは体験できたのではないかと思う。
ただ、2週間も一緒にいると様々な問題もでてきた。
部屋の荷物が出しっぱなしの人、音楽を大音量でかける人、洗面所やお風呂の使い方が汚い人、ゴミは誰が出しに行くのか・・・。
みんながみんなストレスをかかえていた。
言いたいことだけ言って残念ながら最後まで解決できなかった事案もたくさんある。
集団で文化の違う人たちと生活を共にする難しさを知った。
問題を短時間では解決できないもどかしさも知った。
みんなを一生懸命束ねようとしてくれた日本人大学生リーダー、武家屋敷の主でいつもにこにこと見守ってくれたおじいちゃん、
快く迎えてくれた施設のスタッフの方々、一緒に2週間活動を共にした仲間。
自分の記憶のなかでそこだけが浮き出てくるような不思議な時間だった。
最後の日、みんなでぞろぞろと新宿のお寿司屋さんに足を運んだ。
きらきら輝くお魚のお寿司はとてもおいしかった。
プリクラも撮った。
空港へと続く電車の改札でさよならを言った。
さみしかった。

その後わたしは何度か東京へ足を運び1日単位のボランティアに参加した。
今ではすっかり疎遠になってしまったのでたまにふっとまたみんなに会いたいなを思う。
嵐が好きだと言っていて大きなつばの麦わら帽子をかぶっていたソウル出身の子はSEとなり結婚もした。
日本語が堪能だった釜山出身の子は日本と韓国を往復する旅行会社の添乗員となった。
映画監督になりたいと語っていたウクライナの子はどうしているだろう。
みんなきっとそれぞれの地で元気でやっているといいな。

そう思わずにはいられないのです。