さとう三千魚詩集『貨幣について』を読んで

 

辻 和人

 
 

さとう三千魚さんの新詩集のタイトルは『貨幣について』である。前の詩集が『浜辺にて』という淡々としたものだったので、論文かと誤解させるような観念的なタイトルにはぎょっとさせられてしまう。

このタイトルの秘密は「あとがき」で明かされる。「この詩集の詩は、私の友人で画家の桑原正彦から提示された桑原正彦のエスキースに触発され、二〇一六年一〇月一五日に書き始めて私が運営するWEBサイト『浜風文庫』に連載し、二〇一七年七月八日に完結したものを詩集としてまとまたものです」「桑原正彦から提示されたエスキースの主題は『貨幣』なのでした」「貨幣は私たち人間が生み出した強力な物語なのだと思います」「貨幣は私たち人間が生み出したものであるのに私たちを支配しているように思われます」。

本詩集の外見は白い紙にタイトルと著者名だけを入れたシンプルなものだが、中を開くと、本文の前に数ページにわたって桑原正彦の絵が挿入されている。実はとても贅沢な造りの本なのである。前詩集『浜辺にて』は、移動の最中の何気ない光景を描くことに主眼が置かれていた。スナップショットのように切り取られたそれら「何気なさ」の集積は、人がただ生きている時間があったという事実を端的に伝えるが故に、読者に生きている時間の「かけがえのなさ」を意識させるものだった。今回の詩集は、思い切ったテーマ設定により、生活の中から、「何気なく、かけがえのないもの」に対立する概念を抽出する狙いがあるようだ。

詩集は見開きで完結する40編から成っている。「01」を全編引用してみよう。

 

空白空どこから
空白空はじめるべきか

空白空知らない

空白空どこで終わるべきか
空白空知らない

空白空何処にいるの

空白空きみは
空白空どの部屋にいるの

空白空すべてのものが売れるようになり
空白空すべてのものが買えるようになる

空白空きみの

 

何が始まったり終わったりするのか、「きみ」とは誰か、すべてのものが売れたり買えたりする事態とはどういうことか。肝心なところが省略されており、読者は謎めいた、思わせぶりな問いかけを受け取ることになる。文意を曖昧にするこうした省略や飛躍は詩集のところどころに出てくる。正体はわからないけれど、何かしら薄黒い不気味なものが暮らしの中を横切っているな、と感じさせる。普段は意識されないが、生活の隅々まで支配している貨幣という存在に対する不安感を語っているようでもある。

「03」は、「フラワードリーム」とか「ヘヴンリーピーチ」といった、カタカナの名詞が並んだ後、唐突に、

 

空白空きみは、

空白空すぐにさびついてしまう金属のかけらであったり
空白空いまにも破れそうな紙切れだったり

 

という詩句で締めくくられる。最後の2行は岩井克人著『貨幣論』からの引用であるそうだ。カタカナの名詞は商業空間を象徴するものだ。購買意欲をそそる夢のようなモノたちが、物体としては夢の欠片もないような金属(=硬貨)や紙切れ(=紙幣)と交換されることのギャップを描いているのだろう。

金銭取引について象徴的に描くのでなく、具体的なモノの値段を記した詩も幾つかある。

 

空白空かめやで
空白空冷やし天玉蕎麦を食べた

空白空四百二十円だった
空白空白空白空白空白(「05」より)

空白空それから浅草水口で荒井真一くんと飲んだ
空白空二人で五六〇〇円
空白空白空白空白空白(「09」より)

空白空枝のこだ割唐辛子 一五〇円
空白空うす皮付落花生 一九八円
空白空亀甲宮焼酎金宮 六一八円
空白空白空白空白空白(「12」より)

 

短い一編一編の中で、具体的な数字が記されるとインパクトがある。飲食に関わるものが多いが、生命を維持したり大切な人との交流を深めるといった行為と、支払いという行為は、本質からすれば別々のことであるが、商業空間の中では「対価」という名前で、等しいものとして強引に結びつけられてしまう。おいしい食べ物を前に親しい人と談笑することがどうして「すぐにさびついてしまう金属のかけら」や「いまにも破れそうな紙切れ」と同じなのか。改めて考えると、不思議というか不気味な感じさえしてくるではないか。

お金が関わらないケースを描いた詩もある。「14」は、東京駅のホームで、後ろに並んでいた「猫を籠に入れた婦人」とのひとときを描いた詩。

 

空白空覗き込むと
空白空猫がひとりいた

 

まず、一匹でなく「ひとり」と書くところに、単純に数値に置き換えないぞ、と生き物の命の重さに対する配慮が見られる。そして次のような最終行。

 

空白空婦人は七糯子という煎餅をくれた

 

無償で菓子が手渡される。この一行だけを見ると何ということはないが、値段の数字の羅列の後に目にすると、無償で手渡すという行為が、いかに人間の情愛の本質に根差したものであるかがわかる。

「17」では更に踏み込んだ見解が示される。日曜日に海辺を歩いた

 

空白空磯ヒヨドリは弾丸のように飛ぶ
空白空カモメは群れて遊ぶように飛んでいる

空白空彼らは貨幣を持たない
空白空彼らは貨幣を持たない

 

言語を持たない動物には、貨幣を介したつきあいという考えがない。作者は鳥たちの行動の直截性に打たれる。「彼らは貨幣を持たない」のリフレインは、作者が貨幣に縛られない彼らの自由な飛翔を歌のように感じていることを示している。

「貨幣も/焦げるんだろう」で始まる「19」は、新幹線に乗りながら、ふと貨幣を燃やすことを思いつくという詩。

 

空白空駅のホームで
空白空過ぎていく貨物列車を見ていた

空白空貨幣は
空白空通過するだろう

空白空貨幣は通過する幻影だろう

 

貨幣は具体的なモノやサービスのメタレベルにある、交換の媒介をするだけの存在であり、貨幣経済を信じている者が多いからこそ、つまり幻影だからこそ力を発揮する。そうしたことは論理としてはわかっているが、列車やホームが通過する移ろうような光景を目の当たりにしていると、力はあっても結局それは幻影なのだ、という感慨が深く湧いてくるのだろう。

詩集の後半になると、買えないものについて言及した詩が幾つか登場する。

 

空白空貨幣は亡き者たちを買うことができない
空白空白空白空白空白(「21」より)

空白空萎れた花をヒトは買わない
空白空白空白空白空白(「24」より)

 

この辺りには、現実の人や事物の本質を無視してひたすら利益獲得に精を出す、貨幣の働きに対する作者の苛立ちを感じる。その苛立ちは「29」での

 

空白空貨幣に
空白空外はあるのか

空白空世界は自己利益で回っている。

 

の箇所で極まる。そして「33」の

 

空白空閃光は

空白空言葉の外部にあった
空白空貨幣の外部にあった

空白空閃光は

空白空理性ではないもの
空白空ばかげているもの

 

のような、抽象的で神秘主義的とも取れる、箴言のような表現に行きつく。考えが巡回した末に、一気に突き抜けたところに出たくなったのかもしれない。理性を否定してしまえば、確かに貨幣という概念は消失するが、それは貨幣経済という約束事で動く生活世界を否定することにもつながる。「35」は引っ越しして部屋を引き払うシーンを描いている。

 

空白空絵が架かっていた壁に四角い影が残っていた

空白空影はわたしの債務のようだ
空白空債務はわたしの欲望の裏側にある影絵だ

 

絵があった場所に跡がついただけなのだが、意識が過敏になった作者はそこに「債務」を読み取る。欲しい絵をお金と交換したという欲望の結果が影として残っているというわけだ。意識は更に尖鋭化する。ギターデュオ、ゴンチチが奏でる「ロミオとジュリエット」のテーマを聞きながら、賃労働者として働いてきた「三十五年」を「生を売る」という言葉で総括した作者は、「36」から最後の「40」までの詩で、

 

空白空ロミオは毒を飲んだ
空白空ジュリエットは短剣を刺した

 

と繰り返す。その間に、熱海駅で倒れて病院に運ばれたことも書かれている。ロミオとジュリエットは、自分の死を相手の死と交換したと言える。言わば究極の物々交換だ。そこに貨幣は介在しない。倒れた原因は脳の疾患によるものだ。知性を持つ限り、人間は貨幣という概念から逃れられない。貨幣から逃れるためには、生を終わらせるか(=心中)、思考を停止させるか(=脳疾患)させるしかないのか。最後の作品「40」にはそれに対する返答のような詩句がある。

 

空白空エバは林檎を齧り
空白空柔らかい赤ちゃんを産み育てた

 

林檎を齧ること(=知性、貨幣概念の獲得)と子どもを産み育てること(=知性によらない動物的な生きる力)。人間とは、相容れないように見えるこの2つを共存させ、両立させている、矛盾に満ちた存在ではないか、と作者は問いかけてるように思える。

さとうさんは「あとがき」で「詩は貨幣の対極にあるものなのです」と断言している。貨幣は利益を追求するために生み出された、モノの上にあるメタレベルのモノである。モノとモノとの関係を数値化し、力の関係に置き換える貨幣は、権力という概念と分かち難く結びつき、人間を間接的に支配するものであろう。さとうさんが考える、「貨幣の対極」にある詩は、人とモノ・人と人との直接的な触れ合いを志向するものなのだろう。それは利益という見返りを求めない、その場その時の体験を大事にするものだ。さとうさんが詩作において多用する省略や飛躍、空行の挿入は、詩の言葉をいわゆる「文意」に還元させないようにする効果がある。書かれた言葉を言葉自体として受け止めることを促すことによって、他の何物にも還元できない絶対的な体験・出会いの大切さを噛みしめて欲しいという願いが込められているように思える。その結果、一編一編は謎を孕みながら、全体としては強いメッセージ性を備えた、太い流れを作ることに成功したと言えるだろう。

但し、2つの点で若干不満も覚えた。1つは、お金の使い方として、現金での支払いの例しか描かれていないこと。お金には投資という面があり、それは貨幣のまさに貨幣たる所以を鮮烈に表している。株価や為替の上がり下がりも描いたら面白い詩ができたのではないかと思う。更に仮想通貨や電子マネーをテーマとして取り上げた詩があれば、現代の貨幣の状況がよりリアルに浮かび上がったことだろう。もう1つは、貨幣を「悪者」として決めつけているかのように見えること。確かに、貨幣には支配というベクトルが強く働くが、それによって社会が円滑に回るという面は否定できないだろう。私たちがこれほど豊かな生活を営むことができるのは貨幣のおかげである。寄付金や見舞金で助かる人もいるだろう。本詩集にも定価がついていることだし、お金を使ってこんな素敵な体験ができた、ということを素直に喜ぶシーンがあったら、お金の世界の多様性というか一筋縄でいかない感じを、より幅をもって表現できたのではないかと思った。

さきほど本になった詩集には定価がついている、と書いたが、ここに収められた詩はさとうさんご自身が運営するブログ「浜風文庫」に発表されたものであり、現在もそこで読むことができる。詩集は有料だが詩は無料なのである。発表された作品はツイッターやフェイスブックで紹介され、読者からの感想が寄せられることがある。詩人と読者との関係は、直接的で、対等だ。詩を挟んだ作者と読者の触れ合いは、さとうさんの生きる活力につながっていることだろう。それは「貨幣の対極」にあると言える。この純粋な関係を維持するために、関係を阻害する余計なものを客体視しておく必要があり、詩集『貨幣について』はそのために編まれたのではないかと、私は思うのである。