しじみ と りんご

 

村岡由梨

 
 

およそ一年前の夜、夫が突然保護してきた猫に
“しじみ”という名前をつけたのは私だった。
「クレヨン王国の赤トンボ」という本に出てくる
トンボの名前“ふじみ(不死身)”にちなんだ名前。
十年以上昔に、可愛がっていた犬を亡くした私は、
もう二度と、そんな辛くて悲しい思いをしたくなかった。

小さくて、やせっぽちのメスのサバトラ。
前のキバが片方無くて、尻尾の先が折れている。
とても臆病なのに、大胆なところもあって、
一見すると、子猫のようにも年寄り猫のようにも見える。
一言で言うと“ちんちくりん”。
獣医さんの
「よほどのことが無いと、こんな風に歯は折れません」という言葉や、
いつも何かに怯えている様子を見て、
しじみには何かとても辛い過去があるんだな、ということは
私たち家族にもわかった。

それから1年余り。
しじみはすっかり私の人生を変えてしまった。

朝、目を覚ますと、しじみはいつも私のそばにいて、
「ごはん」なのか「なでて」なのか
多分その両方なんだろうけれども、
グリーンの目をまん丸にして期待に満ちた様子で見ているものだから、
とりあえず、私は、しじみの白くてやわらかい胸毛からお腹の毛を
優しく撫でてあげるのです。
それが、あまりにも温かくてやわらかくて、
私は時々、「ああ、しじみの赤ちゃんになって、しじみのお腹に抱かれたいなあ」
とまで思ってしまう。

おかあさんしじみのお腹に抱かれて、
小さくて何だか心もとない、心臓の音に耳を澄ます。
「腫瘍がほら、心臓にすっかりへばりついてる」
「いつ亡くなってもおかしくありませんね」
ふっ…と夜中に不安で目が覚める。それでも、
夫がしじみを家に連れて帰ってくれて本当に良かった、
しじみには、もう二度と、寒い思いや、ひもじい思いをさせたくないなあ、と思う。
そんな毎日だ。

大きくて真っ赤なりんごを母からもらって帰ってきて、
しじみの横に置いて、写真を撮った。
しじみとりんごの静物画ごっこ。
黒目が、丸くて大きい時は、かわいいね。
細い時は、美人さんだね。
しじみ と りんご。
しじみの体の中で、小さな心臓が真っ赤に命を燃やしている。

死なないで、しじみ。
これ以上大切なものを失いたくない。
ただそれだけなのに、なぜ
小さな赤い心臓も、グリーンの目も、白くてやわらかな胸毛も、
いつか燃えて灰になってしまう。
後に残るのは、始めたばかりの拙い詩だけだ。

それでも、私が言葉を書き留めたいのは、
決して忘れたくない光景が、
今、ここにあるから。
もう二度と触れることが出来ない悲しみでどうしようもなくなった時、
私は何度もこの詩を読み返すんだろう、と思う。