霧のダブリンで I was sleeping と唄う

 

夜中に
目が覚めた

起こさないようにベットから
そっと起きた

女は
俯せに寝ていた

本の部屋で
窓をあけたら

西の山の上に月がいた

チェット・ベーカーの最晩年の歌を聴いた
almost blue

若い頃の美しい顔と声は

しわがれて
いた

歯も抜け落ちていただろう

工藤冬里は昨日
詩に

“歌は自然に二部に分かれ その厚みの中で”
“テカる瓢箪”

と書いていた

晩年になれば
誰も

二部に分かれその厚みの中でテカるだろう

ふたつに引き裂かれている
ふたつに引き裂かれている

誰もが
最晩年には

テカる

almost blue は1982年に
エルヴィス・コステロがチェット・ベーカーに捧げた歌だ

 

 

 

あきれて物も言えない 01

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

このまえの夜、
高円寺のバー鳥渡で飲んでいたら、
離れた席からピコ・大東洋ミランドラ画伯が隣の席に座って、
わたしの似顔絵を描いてくれた。

なんだか下ぶくれしたメガネをかけたおじさんが描かれている。
わたしなのである。

あきれた。

似顔絵なのにこんなに正直に現在のわたしを描くのであるか!
この画伯には礼儀というものがないのか!
もうちょっとロマンスグレーの素敵おじさんに描いてよと内心では思った。

だが、もう生涯ない。
否、しょうがない。

安い東名高速バスで港町から出かけて来て、
深夜に高円寺の飲み屋でクダを巻いて新宿のカプセルホテルに泊まろうとしている、
ダメダメなおじさんなのだ。
酒を嫌と言うほど飲んで安い焼き鳥を食って知らず知らずに下ぶくれのおじさんになったのだ。

さて、隣に座った画伯は、
なんだかにんまりとしてチャーミングである。

可愛いというのかな、憎めないというのか、
バカな奴というのか、
どこか少年のままというのかな、
そんな画伯なのだとわたしは睨んだのだった。

それでなにか一緒にやろうよとわたし、言った。
セクスとかじゃなくて、
も少し、疲れない、楽しい、なにかを画伯とやろうと思った。

で、
画伯に「あきれて物も言えない」というタイトルで絵を連載で頂戴して、
わたしが絵の解説を書いて、
浜風文庫に連載かなと思いました。

「あきれて物も言えない」という状態にはわたしは日頃あまりならず、
だいたい「ふ〜ん、そう」と思ってしまうタチですが、
「あきれて物も言えない」苦手意識を克服しようと思いました。

ですので、
意外と、
当たり前の当然について「あきれてしまう」ことになってしまうのではないかと心配しています。

最近では、
福島の除染で集めた汚染土を農地造成に再利用するとか、
廃炉に外国人を使うとか、
厚労省の年金運用が昨年の10月、11月、12月の三ヶ月で14.8兆円の運用損を出したとか、
この国の副総理・金融相が都合が悪い審議会指針を受け取らないとか、
その本人が自分の年金の受け取りがどうなっているか知らないとか、
米国の大統領は根拠ないがタンカーを攻撃したのはイランだと決めつけたとか、
普通にあきれてしまうこともたくさん聞こえて来て困ります。

世の中、狂ってると、思います。

狂った大人たちがやってることを子どもたちは見ていると思います。
それで子どもたちも、あきれていると思います。

さて、話をもとに戻します。

昨日の深夜、
荒井くんと長電話したのでした。
荒井くんは、三十年来の、わたしの数少ない友人の一人です。

世間のこととか、美術のこととか、友だちのこと、などを話したのでした。
で、作家の話になり、
小川国夫さんのことに話が至ったときに、
いい男は信用できないと、荒井くんは言いだしました。

静岡だったら小川国夫じゃなくてブ男の藤枝静男だろう!と荒井くんはわたしに言いました。

ほう!
と思いました。

荒井くんは固く信じて言っているのです。
小川国夫ではなく藤枝静男なのだ!
ブ男の藤枝静男を激しく推挙する根拠がどこにあるんだろうか?

わたしは、ほう!と、
絶句し、
あきれたまま別れの言葉もおぼつかなく電話を切ったのでした。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

私はἐγὼ [egō]

 

工藤冬里

 
 

自然に二部に分かれた厚みの中で
蛍光燈の映る瓢箪
三年居た町に
書き送る 管理
話しかけられてはいけないことになっている男が座っているのだが
数段上に思える
何人居たかを考えるだけで 地表から深まる理解
霧のダブリンで I was sleeping と唄う
歌は
自然に二部の厚みとなって
蛍光燈の映り込む陽焼けした瓢箪が
三年居た町に
書き送る 管理/家政の運営 οἰκονομίαν [oikonomian]
という言葉
何人居たかを考えるだけで 地面から深まる
低くない 管理
管理 は低くない
地面から深まる
*    *
自然には分かれない合唱の中では
週末の時計は考える以上に終わりを差す
きざしは常に単数形である
戦死者はたった一億人
地震はハイチ22万人の方がひどかったのに
黴が生えたと文句を言う
流行が病で不法
背中のアヒル口の中が黒い
複数系は普通以上に早く溶ける
あと二分の体制
黒を構成するいくつかの減法混合原色が
眼球の周りで分かれ
文字の止め撥ねや頬の曲線の端で顕わにされる

歌は自然に二部に分かれ その厚みの中で
テカる瓢箪
話しかけてはいけない数段上の
スーダン上の
場面は地表から深まり
オイコノミアンの中で言わしめるだろう
私は世を征服したἐγὼ νενίκηκα τὸν κόσμον.
[egō nenikēka ton kosmon]
I conquered the world.
「私は」って「エゴ」っていうんだ
エゴラッピン ていたね
蛍光管が映り込む日に焼けた瓢箪
歌は
自然に二部の厚みとなって

 

 

 

また旅だより 10

 

尾仲浩二

 
 

写真展で韓国に行ってきた。
市場を歩くのは楽しい。
ヨーロッパや東南アジアの市場も楽しいけれど
日本とほんの少し違うこの国の市場を
子供の頃に戻ったような眼で歩いた。

2019年6月7日 韓国 蔚山にて

 

 

尾仲浩二 個展
「Sleeping cat」
6月23日まで
神保町 スーパーラボ東京

 
尾仲浩二 出展グループ展

『韓国ウルサンスナップ展』
6月22.23.29.30日
中野 ギャラリー街道

「平成・東京・スナップLOVE」
6月21日~7月10日
六本木 FUJI FILM SQUARE

 

 

 

包丁

 

長尾高弘

 
 

目の前に包丁があるんだけどさ、
つい今さっき洗ったところなんだけどさ、
昼めしのときに、
キャベツを切るために使ったんだよね、
水を拭いてないから、
水がついててさ、
電球の光を反射して、
キラキラ光っちゃってるけどさ、
落っこってきたら怖いな、
足にブスッと刺さったりして、
いや、
この柄をしっかり握って、
心臓にグサッと刺せば、
おれは今日死んじゃうんだよな、
ここにはほかに誰もいないから、
そんなことするやつは、
おれしかいないけどさ、
おれがここで死んじゃっても、
当分誰も気づかないんだろうな、
おれしかいないんだもんな。

 

 

 

人とそのお椀 04

 

山岡さ希子

 
 

 

横座り 椀が手から離れて背後にある 左手をひねって掴もうとしている あるいは掴んでいたが 離れてしまったのかも 
椀の方を見ようと 頭を傾げて 俯いている
右手足は不明 右手はたぶん床につき 体を支えている 右足は投げ出されているだろう 苦しい体勢

 
 
 

内職

 

道 ケージ

 
 

コオロギの頭をそっと撫でて
足のギザギザに触れてあげる
そんな面倒な内職だけど
丁寧に時間をかける

透明な羽根だけは触わらない
思い込みの露をためた
虹の足の泉で
緑線を洗うらしい

選り分けるだけでないことを
理解せねばならない
付け加える必要はない

生き様が奏でる
甘い気持ちは見透かされ
たちまち弾かれる

イカズチを操る金髪の男
太り過ぎだよ
踏むなよ

一瞬では
どうしても遠くに行けない俺ら
愚かさだけ晒す

とびっきりの錐で
頭頂を撫でてあげよう

 

 

 

しじみの花が咲いた

 

村岡由梨

 
 

体が腐らないように
小さな氷嚢を抱いたしじみは、笑っているみたいだった。

その日の朝、入院先の病院から
しじみちゃんの心臓が停止しました、どうしますか
と連絡が入ると、
野々歩さんは身をよじらせて、声をあげて泣いた。
慟哭、という言葉では到底表しきれない
言葉にできない何かが
何度も何度も私たちを責めるように揺さぶった。

やがて静寂が訪れて
私たちは、しじみの周りにたくさんの花を飾った。
優しい花の色に埋もれて
小さなヒナギクで作った花冠をかぶったしじみは、
やっぱり笑っているみたいだった。

しじみの体が燃やされた日は控えめな曇り空で、
時折ささやかな光が射したり、
遠慮がちにパラパラと雨粒が落ちてきたり、
素朴であどけない、しじみのような空だった。

移動式の小さな焼却炉の重低音が止み
重くて熱い鉄板が、竃から出されたのを見て、
私は言葉を失った。
小さくて痩せていたしじみの体はほとんど灰になり、
ほんの一握りの骨しか残らなかった。

やわらかくて温かだったしじみは、もういなくなってしまった。

空っぽのひと月が過ぎた頃、
庭に植えた黄色いヒナギクが一輪、花を咲かせた。
しじみの花だ。
その花を見て、
「言葉にできない気持ちを言葉にするのが詩なのだとしたら、
もう一度、言葉に向き合ってみよう。」
空っぽだった心に、そんな気持ちが芽生えてきた。

毎日水をやりながら、撮影をした。
しじみの花が、風に吹かれて気持ち良さそうに震えているのを見て
嬉しくて涙がこぼれた。

それから暫くして、花は萎れ、やがて枯れていった。

わかっていたはずだった。
生きて咲き、萎れ、枯れていくこと。
その後は?
その後は、一体どうなるんだろうか。

今日もレンズ越しに、言葉を探している。
今どこにいる?
寒い思いはしていない?
ひもじい思いはしていない?
答えのない問いを、何度も繰り返しながら。