空の一行

 

萩原健次郎

 
 

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あかがね、錆びている。湿った扇状地に、伏したあなた
のベルトの金具なのかなあと手ですくったらぼろぼろと
砕けて、粒状になって池塘に溶けた。砂糖のようでもあ
り、発酵させた飲料のようでもあり、白濁して、元の金
属の面影もない。元の身の、あなたの欠片のどの部分も
判別できない。怒った貌、嘆いた口元、諦めた胴、手の
ひらで招く仕草、唄う胸。書記の手。手から面に傷つけ
られた痕跡、文字、単語、何かを訴えている信号。愛玩
していた道具、いつもそばにいた動物。

書棚に並べられた誰かの全集の、途切れている巻が少し
ずつはっきりしてきて、その途切れにこの扇状地を歩き、
ぶつぶつと呟きながら、詩行を硬直させてただ凍らせた
だけだった。朝は零下の、その凍えた空気のまま、氷室
となった山の芯の底深く、蟻の巣状の道をひたすら遭難
しているだけだった。書簡集、小品一、小品二、俳句、
日記。それらは、紙であったことはなく、ただ、服を腰
にとどめるための器具として、ぼろぼろに粒となるあか
がねだった。

肌の思い出という巻があったはずだと、もう他界してか
らあなたはどこかの隠れ場所で回想している。金属の刃
で指先の面を裂いたこととか、知っている人の知ってい
る肌が、他人の指で撫でられたときに幽かに漏れてくる
音だとか。そういう記述であったようだと、像をさがそ
うとするが、像はどの点でも線でも結ばれず、ただの音
楽となって宙に消えていく。他界をしたら蒸発してしま
うのかなあなどと、それは暢気に考えていた。臨終の瞬
間に、あらゆる点も線も消えていく。肌の音も。

生きてもいない人の遭難している様子を眺めている人な
んていないだろうと思っていたら、どうやらいるようだ。
朝の鳥に化けている。群れとなって朝、山の池の巣に帰
る、その中の一羽の、その鳥の眼の中の、水晶玉。正し
くは、映っているだけなのだが、自動的に記録されてい
る。わたしの、かつてあったベルトのあかがねの、水に
溶ける寸前の、感嘆は、見えないだろう。だから無防備
な、鳥の眼の水晶体を攻撃する。朝陽のハレーション、
ぷしゅん。かすかなぷしゅんが、鳥の群れに網をかける。

この一帯の、湿潤した、あきらめの扇状は、かつて肌を
合わせた人の胸のひろがりだった。わたしはね。わたし
は今は、ぼろぼろのあかがねの粒だけど、わたしのね、
肉は、まだ湿潤していないよと、抜けた巻に文字を記し
て棚に戻した。音の羽の川は、水と土の境をあいまいに
して、肌の記憶をぴったりに重ねた。ふたりのひとがた
ではなく、ひとつのひとがたとなって、池塘は滅ばない
でいつも鳥の道標を奏でていた。どこまでが、抜けた巻
の詩行であったかは、もうわからない。

 
空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白連作「音の羽」のうち

 

 

 

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