神の代理人

 

長尾高弘

 

 

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス(第1条)
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス(第3条)
明治憲法体制では、
天皇以外はすべて臣民だったわけよ。
天皇が主で臣民は奴隷、全然平等ではないのよね。
憲法にはちょっと自由を認めてやるよってことが書いてあるけど、
天皇の命令でどんな自由もいつでも奪えるようになっていたわけ。
でもさ、天皇はたったひとりで、
「臣民」は何千万人もいたわけで、
どうやってひとりが何千万を抑えつけていたんだろうね?
たぶんこういうことなんじゃないかと思うんだけど、
軍人やら政治家やら役人やら教師やらといった連中がいたでしょ。
そいつらが身近な天皇の代わりになったんじゃないかな。
最初は神の言葉を代弁していた神主が、
そのうちに神そのものに成り上がるって、
民俗学にたしかそんな説があったと思うんだけど、
まさにそういう関係よね。
天皇の代理人は、
天皇に対しては臣民かもしれないけど、
一般臣民に対してはまるで天皇のようにふるまうわけ。
すると、一般臣民に対しては主なんだよね。
一般臣民はそいつらの奴隷さ。
一段上に立って、一般臣民の批判を許さないわけ。
戦前の体制に戻したい連中って、
そうやって自分にとっての天国を作りたいんじゃないかと思うよ。
ゲスだな。

 

 

 

神の代理人」への2件のフィードバック

  1. 臣民イコール奴隷とは言えないのでは。一般臣民の下に部落民などと言われていた下層の人たちがいて、彼がまさに奴隷だったのではないかと思うのです。また、臣民の中にも特権階級への道があって、階級制があって、その特権階級が逆に天皇を利用していたのではないでしょうか。最下層の役人や教員が天皇の名を使って自分の欲望を満足させていたように思いますよ。

  2. コメントありがとうございます。

    憲法としても、役人や軍人の行動規範としても、天皇と臣民は扱いが天と地ほど違い、教育勅語という命令(これは道徳について書かれた文章ではなく、教育に名を借りた命令だと思うのですが)によれば、臣民は天皇のために生命を投げ出せとされているわけですから、臣民は天皇の奴隷であると言っても大きな間違いはないだろうと思います。奴隷に奴隷であると感じさせないのも統治テクニックのひとつでしょう。

    ただ、ひとりの天皇で当時としても数千万いた全臣民を抑えつけるのは難しいはずだ、どういう仕組みで抑えたのだろう、というところから、代理人、代弁者の存在に注目したというのがこの「これでも詩かよ」の着眼点でして、「役人や教員が天皇の名を使って」一般臣民を縛り付けていたというところでは、言葉の選び方に違いがあり、その分ニュアンスにも違いがあると思いますが、基本線では志郎康さんが言われていることと、この「これでも詩かよ」が言っていることは同じだと思います。

    神主が神そのものに成り上がるというダイナミクスが鍵だと思います。神主が神そのものに成り上がると、かえって新たな神の新たな代理人の方が力を持ってしまう。復古派の皆さんは、だいたいそういうお山の大将タイプ(しかし、コンプレックスも強い)ではないでしょうか。平等に耐えられないのですよ。まあ、そこまで書いてありませんけど。

    昔、『縁起でもない』に収録した「人から聞いた話」という「これでも詩かよ」に次のようなことを書きました。

    日本人のまわりに日系人がいて、
    日系人のまわりにただのガイジンがいる。
    そういう考え方をするから嫌われるんだ。
    日本人はその人のまわりにいるんだろ?
    その人の誕生日パーティが狙われたのは象徴的だね。
    何重にも赤く塗り重ねられた日の丸。

    戦後日本に一貫して戦前体制が相変わらず生き残っているという側面もあると思います。

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