マザー

 

塔島ひろみ

 
 

軽薄な服装の若い女が、うつむいて、青ざめて、よろめきながら、蛇行して、日曜日の、人が溢れた区役所通りの、歩道を歩く体じゅうからアルコールのにおいをプンプンさせて、ガードレールに、カップルに、蕎麦屋前にたむろする集団に、突っ込みかけ、ぶつかりかけ、倒れかけながら、暮れ方の渋谷の歩道を歩く
「あんた赤ちゃん殺すよ!」
肩をつかまれてようやく止まった
「それじゃ子供、死ぬよ」
大人の女が静かに、もう一度言う
女はふらつきながら、声もなくその場で項垂れる
両手にベビーカーの把手をつかんだまま項垂れる

暑すぎて家にいられなかった
赤んぼ連れで出かけ、公園のイベントで、ラテンアメリカのお酒を飲んだ
ベビーカーの把手を持って、立ったまま、焼けつくようなそのお酒を、浴びるように何杯も飲んだ、そして、
ぐでんぐでんに渋谷の路上で酔い潰れた
無責任無自覚、自分勝手、救いようもない最低の母親と、陽気なカリブ海のBGM

彼女を止めた女性は赤ん坊が心配で、
母親にミネラルウォーターを飲ませ、様子を窺う
ベビーカーにちょこんとすわったその男の子は、手に持ったマグを口に運んでいる
マグには水が入っている
30℃を越える暑さの中、この酔いどれマザーが彼に掴ませていた、命の水だ

子供はこの水をしっかりと握り持ち、
そして母はベビーカーのグリップを決して放さず、
今も右手でぎゅっと掴んで、左手でミネラルウォーターを飲んでいた

親切な女性はタクシーを止めた
おとなしいその子を、抱きかかえてベビーカーから移動させる
赤ん坊はそのとき、初めて泣いた
ギャアギャアと、恐ろしい泣き声で泣いた

87歳になる母が、よろよろと階段を上がってきた。3階から路地裏を見たいそうだ。
ネコがごはんを食べなくなった。誰かにもらっているようなので、突き止めるのだと言って。
ベランダで母と並んで見下ろすと、スレート葺の屋根の下で、平野さんのおばさんが裏庭の物干し台に洗濯物を吊るしている。(カシャカシャと音が聞こえ、手だけが見える)
その先の狭い一角にはツツジが咲いていて、斉藤さん(爺さん)が葉っぱを触りながら何かを確かめている。平野さんと斉藤さんがボソボソと、何か、会話を交わす。
老人ばかりが取り残された、下町の静かで平穏な風景を、ネコを探して、母はしばらく眺めていた。
そして、やっぱりダメね、と言って、またよろよろと手摺に掴まり、階段を一段一段降りていく。

命の水。
それに生かされて、今私がここにこうして立っている。
母はそれを知っているから、
手を離したら、その水がこぼれてしまうことを知っているから、
母それ自身が命の水だと知っているから、
慎重に、慎重に、滑らないように、落ちないように、
階段をゆっくりと降りていく、87歳の、酔いどれマザー。

 
 

(5月26日、渋谷区役所付近の路上で)

 

 

 

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